Page 32 : 出発
朝市から戻ってから時間は経ち、今は昼食を済ませたところだ。少ない荷物を整えて、ラーナーとエリアは男性陣より一足先に家の外に出た。裏玄関口の扉を閉めてからエリアは溜息をつく。
「まったく突然な話よ。もう出ていくなんて!」
エリアは腰に手を当て呆れたように言い放つ。その言葉にラーナーは思わず苦笑する。
でも慣れた事よねとエリアは呟いた。
硬質な足音が後ろから聞こえてきてラーナーは振り向くと、鮮やかな炎を絶えず身体に燃やし続けるポニータの姿があった。穏やかな表情でラーナーに近付くとその頭をラーナーの頬に擦り寄せる。ラーナーは笑みを漏らし、素直にそれを受け入れて自身もポニータの頭部をそっと撫でる。美しい毛並みに触れるだけで心地良い。
エリアもポニータの背を撫でる。ポニータがいかに人懐っこい性格であるかを物語る。クロに対しては厳しいこともラーナーは知っているけれど、それも一つの彼を支える形だということも理解している。
扉が再び開くと、先にアランが登場して、後にクロ、ガストンと続けざまに出てきた。大きく固い図体をしたガストンには扉が狭く窮屈なものに見える。
「クロ、本当にもう大丈夫か?」
ガストンは不安そうにクロを見下ろす。クロはその言葉に深く頷き、これ見よがしにとわざと両腕を大きく振って見せる。と、その腕がアランの背中に勢いよくぶつかる。途端アランの顔色は変わり反射的な仕返しか、クロの頭目がけて右手を横へと尖らせた。が、その攻撃をクロはしゃがんであっさりと避ける。
悔しそうにアランが舌打ちを鳴らす横で、クロは肩を落とした。
「悪気は無いんだから、そう怒るな」
「ったく、お前のは時々洒落になんねえくらい痛いんだから周りには気をつけろよ」
アランは口を尖らせながら手に持っていた小さな茶色い紙袋をクロに差し出す。それはオーバン家の薬屋が薬を包装するのに使っているのと同じものである。掌ほどのサイズのそれをクロはごく当たり前のように受け取ると、中身を確認した後にそれをポケットに無造作に突っ込む。
「何度も言うようだが、服用のしすぎは厳禁だ。ブショウの葉はクロの身体に効く反面、副作用は勿論、服用を誤ればその代償がある。身体の一時的な麻痺や熱、中毒症状の報告もあるし」
くどくどと説明を始めるガストンを制するようにクロは何度も頷いて手を前に出す。
「もう何度も聞きました。大丈夫です」
面倒臭げなクロにアランは顔をしかめると、クロの肩に手を置いて不機嫌な表情を近付ける。
「前もそう言ってたよな。今回長期間ぶっ倒れたのは短期間で服用し過ぎたのも原因の一つだってことは分かってんだよ。ちゃんと肝に銘じとけ。そんでもって無くなりそうになったら無くなる前にここに来い。分かったな」
「なんでそんな偉そうなんだよ……分かってるから、もういいだろ」
肩に置かれた手を振り払い、ラーナーやポニータの元へと足先を向けた。
クロもラーナーもここにやってきた頃と同じ服装をしている。服に沁みついていた身も震えるような夥しい血痕はエリアの努力によって見事に跡形も無く消え去り、使い古した草臥れたような雰囲気だけを残している。それが妙に懐かしく感じられ、ラーナーは目を細めた。
秋の気配を少し感じられるようになった涼しげな風が通り過ぎていく。空は晴れ、いつもより高く感じられる。季節がまたゆっくりと時間をかけて移り替わろうとしていた。
いつの間にか時は随分と過ぎていたのだ。彼等がここに留まっていた間も。そして彼等はまた再び歩もうとしている。終わりの見えない旅の続きを始めようとしている。
「今度はどこへ行こうとしているんだ?」
ガストンが尋ねると、クロは背負っていたリュックを回してすぐに中から使い古されたアーレイスの地図を出した。平たく広げるとその場にいる全員がその紙上を覗き込む。
「まずトレアスから鉄道に乗って首都に向かって、そこで乗り継いで更に西へ向かってトローナへ行きます。そこから出ているバスを使って、最終的にはリコリスへ向かうつもりです」
「リコリス? また随分田舎というか、山の方に行くのねえ」
エリアは目を丸くする。クロは頷いてから地図を畳みリュックへ戻す。
「乗り物を使うなんて珍しいな。確かにリコリスはここから遠いけど余程急いでいるのか?」
アランが尋ねるとクロはまあなと適当に返す。
その時ラーナーは朝市を出る直前のクロの表情を思い出した。固く決心したような視線は目に映る全てを掴んで離さないような強さを持っていた。あの時の答えが今度の向かう町にあるのだろうか。
クロはポニータの頭を撫でると、トレアス中心街へと向かう道を辿る様に視線を移した。少し狭い下り坂のこの道を抜ければすぐに車通りも人通りも多い中心街に出る。そこにある駅からいくつか鉄道が出ていて、乗ってしまえば後は座って目的地へと向かうだけ。自分で歩き続けるよりもずっと楽である。欠点を述べるとすればポニータをボールに戻さなければならないことだ。
気が沈むような沈黙が流れる。誰もが惜しむように言葉を発することができないでいた。それはクロも同じで、先程から止まることなくポニータの身体を撫で続けていた。
その静寂を一気に破ったのは、アランだった。時間が経つにつれてその顔に不快感が広がり、突然クロの背中を力の限り叩きけたたましい音が跳び上がった。クロはそれに驚いて心臓が飛び出そうになる。
「さっさと行けよ、うじうじしてたってしょうがねえだろうが! ぼやぼやしてっと今日の鉄道全部出ちまうぞ!」
突き放すような言葉にクロは打たれたように唖然とした。
続いてアランはラーナーの方を向く。ラーナーは顔を引き締める。が、彼女が恐れていたのとはまるで反対に、アランは打って変わって優しく微笑んだ。
「こいつは何かと無茶すること多いしこの間みたいに突然倒れたりすることもまたあると思うけど、今度はラナちゃんがいるから、いつもより俺は安心して送り出せる」
「……」
「こいつめんどくせえし訳の分からんことばっかりするけど、変な方向に行こうとしたらちゃんと止めてやってくれ。ポニータもな」
ちらっとアランはポニータに視線を移すと、ポニータは即座に頷いた。アランも深く頷いて手を伸ばしてその頭を撫でる。
ラーナーは噛みしめるようにアランの言葉を呑みこむと、ゆっくりと了解する。
きっと大丈夫だとアランは思った。全く心配しなくなったわけではないけれど。ぎくしゃくとした関係ではあるけれどポニータが二人を繋げる。人付き合いを苦手とするクロが、何らかの理由はあれど他人と旅をしていること自体が奇跡であり、そして何かがクロの中で変わっていることの象徴であるとアランは勘付いている。なんとか支え合っていけるようなそんな気がして、安堵の表情を浮かべた。
「よしじゃあさっさと行けよ。そんでしばらくは帰ってくんな」
「言われなくても行く」
クロは少し淋しげに笑うとゆっくりと重い足を踏み出した。続くようにポニータも歩き始める。ラーナーは慌てるようにアラン達にお辞儀をした。
「短い間でしたけど、ありがとうございました!」
ラーナーは頭を上げてぱっと光るような笑顔を見せた。
「いいんだよ、あたし達も十分楽しかったから。またおいで、いつでも待ってるから」
エリアは心温かい微笑みを浮かべてラーナーの左肩をぽんと優しく叩く。ラーナーは深く頷いてその場に背を向け、クロやポニータの背中を急いで追った。
「クロ! ここはお前の家だと思ってまた帰ってこいよ!」
ガストンは遠ざかる背中に向かって声を張り上げた。その言葉にクロは振り向きそうになるが敢えて止め、右手だけを高く振った。別れのサインを送ると、高く上がる手首の下に痛々しい火傷の跡がちらりと顔を覗かせた。
爽やかな青い空の元、彼等を挿む距離はどんどん遠くなる。空気がしんと静まった頃、クロ達の姿はアラン達の視界からゆっくりと時間かけた末に姿を消した。
オーバン家からの距離は少しずつ伸びていき、しばらく二人の間に会話が行われることはなかった。お互い無言のまま緩い下り道を辿っていく。
また旅が始まろうとしている。
そうしているうちにラーナーは自然とトレアスに来た日の事を思い返していた。思い出すうちに更に過去へとさかのぼっていき、脳裏にクロが吐血した映像が映し出される。そして同時に出てきたのは、黒い服装をした金髪の少年の姿。その時ラーナーは眉を潜め記憶を探る。当時の音声を引っ張り出した時、自身に頼まれていた伝言の存在にようやく思い至った。
「あっ」
しんみりとした空気の中であがった声にクロとポニータはついラーナーに視線を向けた。
「忘れてた」
「何を? 忘れ物なら今帰れば間に合うけど」
クロが足を一旦止めると慌てるようにラーナーは首を横に振る。
「そうじゃなくて、クロに言うの忘れてたこと思い出した。……ほら、クロが倒れた日に会った黒の団の男の子がいたでしょ」
その瞬間クロの顔つきが一変し、警戒するように目を鋭く光らせる。ラーナーは突然の変化ぶりに怖気づきそうになるがそこを踏ん張る。いつまでも彼に対して引いているわけにはいかないと彼女の中でも決心がついていた。
「あの子からクロに伝言を言付かってたのに忘れてた。……ブレット・クラークが今の疾風です、だったかな? どういう意味かあたしにはよく分からないけど、クロは分かる?」
クロの厳しい視線が弱まり、絶句する。僅かに開いた口からしばらく声が出てくることは無い。何か言葉を選んでいるようにも、何も考えられずただ呆然としているようにも見える。いずれにせよ、戸惑いを見せていることは確かだ。
「さあな」
時間を置いてようやく言葉が出てきたが、ラーナーは眉をひそめた。
クロは遠くの彼方の方を見つめる。過ぎ去る風が髪を揺らし、瞳がそれによって完全に見えなくなるほど覆われる。帽子の上のゴーグルが鈍く光った。その反射具合も夏の頃に比べると気のせいか、弱く静かなものになった。
「少なくとも、俺には関係のないことだよ」
ぼそりと呟いただけでラーナーはそれをうまく聞き取ることが出来なかった。が、聞き返すのも躊躇ってしまうほどクロの表情に影が差していた。周りの雰囲気さえ緊張させて、全身でこれ以上の介入を拒否しているようである。
何故そうも拒絶するのか、ラーナーは想像できなかった。代わりに、そういえばあの男の子は今頃どうしているだろうかと思いを馳せた。黒の団は敵だ、けれどもあの金髪の少年はクロやラーナーを襲うどころかクロを助けてくれた恩人でもある。逃げる際に追ってきたピジョットと敵対して戦っただろうか、それとも彼も逃げただろうか、いずれにせよ無事でいてほしいと願ってしまっていた。
一方のクロは別の記憶を思い返していた。色褪せることの無い過去は彼に留まったまま、離さない。
止まっていた足が再び動き始める。ぼーっと考えごとをしていたラーナーはクロが歩き出したことにしばらく気付かず、数秒後慌ててすぐに追いかけた。
トレアス中心街はもうすぐそこだ。
*
そこはトレアスから少遠く離れた場所だ。少し広めの部屋に窓は一つも見当たらない。その部屋の奥に大きめのテーブルが置かれ、その奥にある黒いソファに深く腰掛けている人物がいた。まだ若い黒毛の男性で、黒ぶちの眼鏡をかけており、長めの少し汚れた白衣に身を包んでいる。白に染みついている中で特別目を引くのは、赤黒い鮮やかなもの。既に乾いてしまった血である。
彼の座る前、つまり部屋の手前側に直立しているのは、黒い服装に身を包んだまだ随分と若い青年の姿。黒の団の一員であるバジルだった。他にも、バジルから見てテーブルの左に置いてある木の椅子に、男性と同じく白衣を着た長くてゆるくウェーブのかかった茶毛の若い女性が腰掛けていた。
「納得できません」
バジルから出てきたのは明らかに不満気なトーンの言葉だった。
「この数週間いつでも襲撃できたのに、どうして命令が無かったのですか。トレアスにいたのは分かっていたのに!」
「まあそう声を荒げるな。色々僕も考えていてね、あのウォルタ襲撃の時からずっと」
宥めるように白衣の男性は言うが、バジルの勢いが止まる気配は無い。むしろバジルの心を更に苛立ちへと向かわせる。
「ニノ・クレアライトに情でもあるんですか? だから数年間ラーナー・クレアライトとセルド・クレアライトを生かしていたのですか?」
「落ち着きなさいなバジル。あなたは彼に向かってそう意見言えるような立場じゃない」
テーブルにそっと肘を置いて女性はバジルに向かって言う。途端悔しそうにバジルは顔を歪ませる。沸々と彼の中で湧き上がるのは疑問に対する苛立ち。ダムが今にも決壊してしまいそうなくらいに、それは彼の中では限界に達していた。
男性は小さく溜息をつくとテーブルの上にあるティーカップに入った紅茶を薦めるようにバジルに差し出す。紅茶の心を落ち着かせるような香りが漂っているが、バジルの心中は暴れ続けていて、それを必死に制することでバジルは精一杯だった。ゆっくりと首を振って拒否し、呆れたように男性はソファに背を倒す。
「まあいいか。それより今は君に言いたい事があってここに呼んだんだよ」
「……言いたい事?」
「ブレット・クラークのことよ」
女性は会話に口を出し、その椅子から立ち上がりバジルの元に歩み寄る。少しヒールのある靴の床を叩く音が閉塞的な部屋に響く。その音が一つまた一つと跳ねるたび、バジルは心は急速に冷えていくように感じた。
バジルのすぐ傍まで女性はやってくる。身長はバジルより少し高く、身体つきもふくよかで成熟したものだ。正面に据えれば、言いしれない女性としての迫力がある。
「あなたの報告通りバハロの近くの林に死体を確認しに向かわせたのだけど、残念ながら彼の姿はどこにもなかったのよ」
「なっ」
思わずバジルは大きな声を上げ、動揺を隠せず視線があちらこちらを彷徨う。
女性は困ったように頬に手を当てて小さく溜息をつく。一つ一つの動作が見せつけの演技のようでもあり、絵になるようで威圧的な雰囲気は決して崩れない。
「あなたの力を使った痕跡はあったんだけど、その木の根は切られていて、しかも傍にはこんなものがあったのよ」
女性は白衣の右ポケットから掌サイズほどの透明の袋を出す。チャックで封がされており、中は容易に見て取れた。銀色の細いチェーンのペンダントだ。その持ち主がバジルには一瞬で理解できたが、未だに信じることはできなかった。
あの時確かにすぐにとどめは刺さなかったが、間もなく死ぬとバジルは信じて疑わなかった。強力な毒を打ったのだから。バジルが場を去ったあの時点で動くことすら困難だったはずなのに、事実は彼が思ってもいなかった方向へと進んでいた。
女性は袋の封を開けるとペンダントを取り出す。そうすると、チェーンが切れていることが分かった。誰かの手で切断されているのだ。
「分かるわね。ブレット・クラークが生きている可能性がある。誰かに生かされたかもしれない。残念ながら断言できないのがもどかしいところだけどねえ」
ペンダントを元の右ポケットに入れてから女性は舐めるようにバジルを見る。バジルにあった先程までの激昂は無くなり、代わりに姿を現したのは回るような戸惑いと恐怖だった。突然暗闇が果てしなく続いている穴に突き落とされたような恐怖感が彼を支配する。それは、この後自分にどのような仕打ちが待ち受けているかを理解しているからである。
今は、バジルは獲物をとらえんとする獣を眼前にして逃げる事ができない羊のようなものだった。
「めんどくさいことになっちゃったわねえ。これを切ったということは、黒の団を寝返ったということに等しいわ。そもそも切れた事の方も驚きだけど。それより今は、こうなったからにはあなたには少し反省してもらおうかと思ってるのよね」
バジルの少し縮こまった左肩に女性はそっと右手を置く。その途端バジルの心臓は大きく跳ねた。その手がラインをなぞるようにやがて首へと移動し、ひやりとした感覚が彼を襲う。背筋がすっと冷えるのが分かった。けれどその手を振り払うことはできない。
女性の口元がそっと上がる。
「あなたこそ、彼に情があったんじゃない?」
耳からさっと震える。
ゆっくりと囁いた直後、女性はバジルの肩に置いていた手を離すとバジルの首もと、を地面に平行に立てた手で強く叩く。瞬間、バジルの目が一瞬見開かれ、しかしすぐに力を失ったように前のめりに倒れる。それを女性は自分の身体で受け入れた。バジルの瞼は閉じられ、気を失っていた。
直後、数回の頼りない拍手が部屋に響いた。
「なかなか勇気のいることやるねえ」
男性は感心したように笑う。つられるように女性もにっこりと笑みを浮かべた。
「舐めないでください。手っ取り早いじゃないですか。この子はとりあえず牢に入れておきますわ。どうするかは後でじっくり考えます」
「程々にしておきなよ。彼は重要な人材なんだ、一応」
「身体は強いんですから、多少きつくても耐えますよ」
「おっかないね」
「貴方が言えることではないでしょう」
互いに軽く笑いあっているが表面上のものだ。不気味な雰囲気が部屋に漂う。
小さな笑い声が収まってきた頃、そういえばと女性は思い出したような言葉を口にする。男性はバジルに差し出していた紅茶を自分で軽く飲んでから女性の方を再び見る。
「ラーナー・クレアライトの傍に笹波白がいたという報告はご存じですか?」
「ああ、勿論。驚きだよね、これも運命というやつか」
言葉とは裏腹に男性は随分と落ち着いていた。
「この子の言い分も分からなくもありませんわ。早急に手を打っても良いのでは? 笹波白がいるとなれば、尚更」
進言を受けて男性はふむと身を乗り出して頬杖をつく。彼の眼鏡が蛍光灯の白い光を反射してきらりと光る。そうだねえと独り言として繰り返し呟く。悩んでいるのだろうか、しかしそれほど深く考えているようにも見えない。考えているふりをしているように女性には見えた。
たっぷりと時間を使った後、男性はまたソファに寄り掛かった。
「時が来たらまた動くよ。僕だってこのままにしておくつもりは無いさ。その時には、君にも動いてもらうことになるかもしれないが、いいね」
男性は試すように女性の顔を見上げた。それに臆することなく女性は肯定の返事を述べる。
「何を今更、むしろ楽しみにしています」
いかにも楽しげに、女性は冷たい薄笑いを浮かべた。