Page 28 : 衝撃
クロが目を覚ましてから三日目の朝。それぞれ朝食を済ませ薬屋を開ける準備を進めていた。
ラーナーはいつものように店の前の掃除を済ませた後に中へ戻り、息をつく。カウンターではガストンがアランと共に新しく仕入れた市販薬を棚に並べていた。手伝いを申し出たもののやんわりと断られ、暇を持て余していた。
開店前の朝はどことなく家の中がそわそわと忙しない雰囲気が漂っている。その中で手持ち無沙汰になっていると、胸が浮くような心苦しさがあった。
座って黙っている気にもならず廊下をうろうろとしていると、二階からゆっくりとした足音が響き、顔を上げる。そしてその音の主を見つけた途端ラーナーはぎょっと目を丸くする。
「ク、クロ」
「……ああ」
降りようとする先でたじろぐラーナーに気付き、クロは気を緩めると、突然足の力が無くなったようにその場に崩れ一気に大きな音を立てて転がり落ちた。ラーナーが悲鳴をあげる間もなく床に叩きつけられる。
幸い大した高さではなかったが、クロは全身に受けた打撃に声にならない悲鳴をあげた。
ラーナーが駆け寄るが、クロは痛みを堪えて起きあがろうとするので慌てて制止しようと身を乗り出した。
「クロ、だめだよ無理しちゃ!」
「なんの騒ぎだ」
大きな音を聞きつけてアランがやってくる。やや遅れてからガストンも来るが、二人ともクロの姿を見ると驚きを隠せず口をあんぐりと開けた。
「クロ。お前まだ大して動けねえくせに何やってんだ! お前は馬鹿かいや大馬鹿だろ!」
「とにかく大丈夫か、階段から落ちたのか」
ガストンは溜息を吐きながらクロの隣にしゃがみ込みクロが押さえている腰をさすってやる。
「いつもより長く寝ているかと思えば、いつもより随分と早く動けるようになったもんだな。だけど無理はするな」
「別に、無理してるつもりはないです。多分今日一日で普通に歩けるようになる」
「なんだその根拠の無い推論は。階段から転がり落ちておいてどの口が言うんだかまじ意味わかんねえよ」
毒づくアランをクロは睨む。それに負けじとアランは睨みかえす。
二人の間に流れる一触即発の緊迫した空気の中、呆れたようにガストンの大きな溜息をついた。
「アラン、俺は戻る。もう準備を済ませなきゃならん。お前はクロが無理しないように見てやってろ」
「えぇ……はい」
一瞬不満を漏らしたアランだったが、ガストンの大きな威圧感に負け渋々了承する。温厚な性格ではあるが芯の強さがあり、体格の大きさも手伝って無言の威圧には迫力があるのだ。こうなってしまえば口が達者であっても弟子は逆らえない。
アランは立ち上がったガストンに代わってクロの傍に寄り彼に肩を貸す。
雑な背負われ方にクロは呻き声をあげたが、ゆっくりと支えられながら立ち上がる。その額にはじんわりと汗が滲んでいるのを間近で目撃し、アランは怒りを通り越して呆れたくなる。
「全然駄目じゃねえか馬鹿じゃねえの」
「うるさい」
罵倒に反抗し突き放したかったが、殆ど寄りかかっているような状態では具合が悪い。
ガストンは様子を伺うようにしばらくクロを観察していたが、再び溜息をついて身を翻す。後ろ髪を引かれるような心持ちではあったが、早い足取りで仕事場へと戻っていった。
痛々しげに若干顔を歪ませるクロに、ラーナーは唇を横にきつく締める。
「何が今日一日で歩けるようになるとかなんとかだ。寝過ぎたからって寝言もいい加減にしろ」
「うるさいな、ちょっと転んで身体が痺れただけだ」
「そんなに言うか。そうだなお前はちょっと無理するくらいがちょうどいいリハビリだなそうだったなはいはいはいでもな俺にとっちゃそんなんどうでもいいわけで病人ってのは寝てるのが基本なんだよ無理ってのはした方がいい時と悪いときがあるんだわかるかおい」
口早に一息で言い切ったが、返事の代わりにクロはげんなりとした表情を浮かべた。
「いっつも思うけどよくそんなべらべらと一気に喋れるな」
「滑舌の良さには定評があるけどそんなことよりちゃんと俺の話を聴け」
「聴く気が失せる」
反射的に投げ飛ばしたい衝動がアランに襲いかかったが、理性で以て辛うじて抑え込んだ。
そう話しながらアランは無理矢理身体を捻ると階段へと足先を向ける。それにクロは気付いていないわけがなく、抵抗するように身体を引く。手負いであるにも関わらずアランの力に勝り、引っ張られたアランは思わずよろめいてしまう。
「クロお前なあ! 俺より力があるからってパワー勝負に出るなんて卑怯な」
「クロ!!」
突然の強く張りあげた声に男子二名は思わず身体を固まらせた。
声の出所のラーナーは身体を小刻みに震わせ、鋭くクロを睨みつけた。いつになく栗色の視線は強く、矛先の少年は口を噤んだ。
「アランくん、アランくんもお店の準備しないといけないでしょ。クロは私が見とくから」
「え」
「いいから。肩貸す」
「ちょっとまっ……」
クロが突然慌てたように動こうとする。痛みを我慢しながらも揺らいだ身体を支えようとラーナーが身体を寄せたが、クロは大きく身体を震わせ、次の瞬間には彼女の手を鋭く弾いていた。
その音が廊下中に響き、一瞬で空気が凍りついた。
叩かれた白い肌に赤色が滲む。
彼女が手を弾かれたのは二度目だ。両親の墓参りに行った朝、彼に殺されると宣告を受けた直後に引き留めようとして、激しく拒絶された。同系統の雰囲気だったが、一つ異なるとすれば、まるで解っていたかのようにラーナーの表情は平然としている点だった。むしろ、憐れんでいるかのような気配すら漂わせている。
アランが歯を食いしばり何かを叫ぼうと口を開けたが、ラーナーは制するように首を素早く横に振った。それからラーナーはクロに視線を向ける。クロはその少し悲しげな瞳に気圧されたように息を止めた。
「知ってるよ」
ラーナーがはっきりと言い切ると、クロは目を丸くした。
「知ってるって何を」
クロは低い声で尋ねる。その声は恐る恐ると言ったようだが、表情は睨みをきかせているせいで迫力がある。
ラーナーは一旦口ごもり、居たたまれないかのように視線を逸らした。。
「クロが、肌を隠してる理由」
*
ラーナーはクロの肩を持ち外に出た。玄関を抜けたらすぐさまクロはラーナーの腕を払うようにして潜り抜け、よろめきながら壁にもたれかかる。まだ痛むのだろう、動きはぎこちないが、全身から溢れる、一指も触れてくれるなと赤裸々な拒絶をこじあけるほどの勇気は出ず、彼女は無闇に追おうとしなかった。
階段下での騒動の後、クロは一言もラーナーと口をきこうとしなかった。表情も暗く濁り、二人の間に流れる雰囲気は最悪である。
気温は徐々に上がりつつあるが、太陽はまだ高く昇っておらず、玄関先は大きな日陰となっていた。涼しい風が流れるがそれを心地良く楽しめるほど二人に余裕は無い。
「さっきの」先に開口したのはクロの方である。「言葉の意味、どういうこと」
相変わらず眉間に皺を寄せたままのクロの問いに対し、ラーナーは唇を噛み唐突にクロの左腕を取った。
突然の行動にクロは驚きが隠せなかったが、全身に痺れるような痛みが走り拒むことができなかった。ラーナーはもう片方の手でクロの袖を無理矢理まくりあげた。
「な」
クロはその腕を咄嗟に引こうとしたが、ラーナーはぐっと掴んで離さなかった。
露出した肌をラーナーはしかしすぐに目を背ける。彼女がずっと目に当てていられるものじゃないのだ。
陽の下に晒された正体は酷く生々しい。
姿を見せた彼の腕は、手首を境にはっきりと色が分かれていた。手首の奥は赤黒く、そして青黒く爛れていた。滑らかではなく全体に隆起しており、焦げたように乾燥している部分もある。隠されている袖の中まで続いているのは、厳しく激しい痛みを彷彿させる広範囲の熱傷だった。
視界にも焼け付くような暴力的な身体だが、他でもなく自らであるクロの胸では乾ききった動悸が走り始めた。
沈黙が流れる。クロは何かを言おうとして口の開閉を続けていたが、遂にラーナーの手から無理矢理自らの腕を引き剥がす。
「……なんで」
震えた声でクロは問う。冷静に怒りを押し殺しているような声音だった。
「いつ知ったんだ」
「クロが倒れた日に」
ラーナーは漸くきちんと声を出した。
「クロが落ちそうになって、身体を掴んだ時に見えた。見てしまった……腕だけじゃない。全身でしょ」
「……」
「そんなひどい火傷、見た事無い」
「だろうな」
「だろうなじゃないよ。この傷、何があったの。あのクロが持ってる火閃っていうやつのせい!?」
「どうだろうな」
「濁さないで。クロが隠してきたのも分かる。分かるけど、知ってしまったのものはしょうがないんだよ!」
「だからなんだ、人の秘密を勝手に晒して仕方ないなんて正当化か!? これ以上知る事なんて無い!」
怒りに任せた荒々しい声にラーナーは身を縮こまらせた。普段冷静で斜に構えた人間から溢れた赤い感情は、一層迫力がある。
クロは袖を戻し、もたれかかっていた背中を壁から離して自身の力だけで立つ。
「知ってどうするんだ。あんたは何も分かっていない。だけど、知らない方が良いことなんて腐るほど世界にはある。殺されたくないだろ、ならそれだけ考えればいい。余計なことに首をつっこむな!」
「余計なことなんかじゃない!」
すかさず言い返すラーナー。二人のボルテージが急上昇していき、最早止まる所が見えない。
怒声が行き交う場所に、ポニータが建物の影からそっと顔を出す。が、その険悪なムードに入っていくことはできなかった。
ラーナーは一歩前に踏み出す。二人の強い視線が反発しあい、烈しい火花が散った。
「私たち、一緒の旅を始めたよね。秘密事ばっかりしていて一緒に生活なんてできっこない! 知らない方が良いこともあるかもしれない、だけどこんな大事なことは私だって知るべきことだよ!」
「ならこれからここに残ればいい!」
クロの声が辺りに突き刺さった。
その言葉の意味が一瞬分からず、ラーナーは声を詰まらせる。
驚愕したのはラーナーだけではない。物陰で行く末を見守っていたポニータもだ。クロがその言葉を叫んだ瞬間に意を決しその場を飛び出し、二人の間に飛び込み驚きの視線を集めた。
諫めようとポニータはクロを見やるが、汗が顔中から噴き出しているクロは、顔を俯かせた。
吐き出した言葉は戻すことが出来ない。
「そうだ、そうすればいい。あんた、ここの生活に満足そうだっただろう。エーフィとブラッキーがいれば、なんとかなる。ここなら奴等の目だって届き辛い。……そうだよ、そうすればいい」
「クロ、なんでそうなる」
「あんたも俺もその方が良いだろ」
その時、ポニータはそのクロの脳天を口で思いっきり殴った。渾身の一撃にクロは地面に倒れ込んだ。ラーナーは思わず駆け寄ろうとしたが、立ち竦んだ足は微動だにしなかった。
痛烈に殴られた箇所を手で押さえながら、徐にクロは立ち上がる。
ポニータの攻撃で漸く頭に上った熱い血が冷めてきたのか、呼吸は少しずつ落ち着いていく。ただ視線は忙しなく僅かに動きまわり、まるで反動を受けているかのように絶句していた。
ラーナーは首をほんの少しだけ横に振る。すくみそうな足で辛うじて立っていることだけで精一杯だった。
日陰が織りなす涼風がいつになく冷たく吹いていき、近くに植えてある木が揺れる。
クロは黙ってラーナーに背を向けた。そのままゆっくりと、道沿いをなぞっていき、やがて建物の角へと曲がり吸い込まれていった。壁伝いに引きずるような足取りはぎこちない。ポニータは二人に目配せをしながら、間を置いて、急ぎ足で主人の元へと駆けていった。
独りその場に残された時、初めてクロに会った時のぽつんと独りになったあの寄る辺のないぽっかりとした記憶が頭を掠った。
ラーナーは壁にもたれかかり、目を伏せた。身体の芯に刻まれたような強いショックが胸の奥で震撼し、呆然と虚空を見る。
力の限り突き放されたことは哀しみよりももっと強い衝撃を与えた。途轍もなく、後戻りのできない決定的な出来事が起こってしまったような気がしてならなかった。
混乱と気だるさに任されるままに壁に沿ってその場に座り込む。
「どうして……」
うまくいかないことだらけだ。
今にも消え入りそうな小さな炎の如く震えた声がほそぼそと漏れていった。