まっしろな闇











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トレアスにて
Page 27 : 再会
 アランを見送りシャワーを浴びた後、気怠く髪を濡らしたまま、ラーナーはリビングルームにある木の椅子に腰かけ、疲れたように溜息をつく。部屋には彼女以外誰もいない。壁掛時計に目をやると午後十時を丁度回った所だった。
 余程疲労が溜まっているのかラーナーは椅子から滑る様に降りると傍のローテーブルに顔を伏せる。そしてテーブルの上に置いてある、二つの小さくなったモンスターボールを見つめる。
 時計の秒針の音が部屋に響き、遠くで足音が鳴っている。それがガストンのものかエリアのものかはラーナーには分からない事で、無意識に確定しているのはそれはクロのものではないということだ。
 彼女の瞳は虚ろでそのまま眠りに落ちてしまいそうなほど瞼は重かった。
 頭を傾けリビングルームの窓を見やると、外は暗くよく見えないが、細やかな水音が雨の到来を伝えている。そういえば、とラーナーはアランが傘を持ち出ていったのを思い出す。天気予報もよく当たるものだ、昼は日向ぼっこが楽しめるほどに晴れていたというのに。
 服装は彼女には大きなサイズの白いTシャツと柔らかい素材の短パンに変わっていた。シャワーを浴びた身、いつでも眠りにつける格好である。
 ゆっくりとラーナーはその場を立ち上がり二つのモンスターボールを拾うとそれをポケットにしまい、部屋を後にする。彼女の顔には影が入り、重い足取りで階段を上がっていく。
 二階に足を踏み入れる。ラーナーが眠っている部屋は廊下の奥の方なのだが、それよりもかなり手前の方でラーナーは足を止める。
 微かに聞こえる雨の音を背景に、立ちすくむラーナー。目の前のドアの向こうにいるのは、ベッドに眠り続けているクロだ。
 ラーナーは右手をドアに傾けるがノックをする直前で固まってしまう。ドアの向こう側を見つめるように目の光は虚ろに揺らいでいた。
 唇を軽く噛むと小さくドアを叩く。固い音が響き、その瞬間ラーナーは心臓の鼓動が大きくなったのが分かった。少しだけ後悔の混じったような複雑な心境のまま、このまま引き下がることはできないためにノブに手をかけた。なるべく音をたてまいと慎重にドアを開くと、中は真っ暗である。廊下の光で部屋の様子がうかがうことができ、部屋の床にラーナーの影が大きく落とされた。
 小さな部屋の奥、正面のベッドに横たわっているクロの姿を見つめると、部屋に入りドアを閉める。窓が放たれたままで雨の音が今までより一段と大きく聞こえ、冷たい静寂が一層濃厚に浮き彫りになるようだった。
 外からの僅かな薄明しか頼りにならないが、足元は殆ど見えず、いくつかの物を蹴ったり踏んだりしながらラーナーはベッドへと近づいていった。
 暗闇に目が慣れてきて、ラーナーは何とか認知できるクロの顔を見下ろす。雨音の中で耳をすましてみれば、静かに聞こえる呼吸音が彼女の心を辛うじて安堵へと導く。
 ラーナーは今度は窓に近づくと、その固さに苦戦しつつ閉める。外の音はこもったような質感に変わる。ラーナーはガラスに手を当て外を眺める。雨粒は小さくそう酷い雨ではないが、長くしとしとと降り続ける気配があった。
 暫くしてからその場を離れ、ベッドの傍に置かれたままになっている椅子に腰を下ろす。閉じられた瞼のクロは無表情で、それはずっとラーナーが見続けてきた表情。何ら変化も無く、ただ彼は眠っている。
「クロ」
 小さく掠れた声でラーナーは呟いた。長い空白ばかりが空気を支配した。
 ラーナーは目を閉じて俯き、慣れたはずの沈黙を噛みしめた。
「……ラーナー?」
 目を瞑っていたラーナーの見る暗闇の中で名を呼ばれた。
 ラーナーははっと慌てるようにクロの顔を見た。
 先程まで閉じられていた深緑の瞳は薄く顔を出し、真っ直ぐに少し驚いたようにラーナーを見つめてきていた。二人の視線が絡み、ラーナーは息をとめる。
「クロ?」
 呆然とした声を漏らす。決して視線を逸らそうとはせずに、椅子から立ち上がろうとしたが足がふらつき床にしゃがみ込んでしまう。
 その様子に思わずクロは身体を動かそうとしたが痛みが走り一人悶絶する。
 ラーナーはすぐに立ち上がりもう一度確かめるようにクロを見た。
「クロ……クロ、クロ!」
 何度もその名前を呼ぶ。自身に言い聞かせるように、確かめるように。
 今にも泣き出しそうな表情でラーナーはベッドに両手をつき、首を振ったり唇をかんだり忙しなく動くけれど、額に寄せられた皺は濃く刻まれたままぐっと熱を堪えていた。
 穏やかな日々の中でじっと胸の底につかえていた泥濘が、もやもやとした霧が、一挙に晴れていく。この時をどれだけ待ち望んだことだろう。強い日差しの照りつけるあの川岸で、突然倒れ動かなくなったあの日から、じっと願い続けてきたのだ。
「そんな何回も呼ばなくても、聞こえてる」
 クロは呆れたようにぎこちない苦笑いをした。その表情はどこか柔らかく、そしてその何気ない言葉にラーナーは更にこみ上げるものがあった。
 唇を固く横に締めて、ラーナーは何度も頷いた。それから、口を開いた途端に遂に瞳から涙が零れ落ちた。
「クロ、よかっ……良かった! ほんとに、良かった」
 うまく声も出せず、詰まらせながらラーナーは息を震わせた。
 ひどく感情的な彼女の様子にクロはかける言葉が見つからず、沈黙を守る。目を覚まして激情をぶつけられるのは、どれだけ久しぶりのことか、わからなかった。
 暫くすれば落ち着いたのか、ラーナーは安堵しきった表情で深々と息をついた。
「本当……こんなことを言っちゃだめだと思うんだけど、本当にクロが死んじゃうんじゃないかって不安になった」
 素直な後ろめたさを感じながら、ラーナーは視線を落とす。
「あの倒れた日、クロは凄い熱で……血も吐いていて、それを見て咄嗟に思い出したのは、セルドのことだった……それで」
「うん」
 それから数十秒間沈黙が続く。クロは急かすこともなく次の言葉を待った。
「何を言ったらいいのかわからないね」
 こみ上げるものが多すぎた。ラーナーは顔を緩ませ、肩の力を抜く。
「一人になっちゃうような気がして、また目の前で死んでしまう可能性が、怖かった。本当に、起きてくれて良かった。すごく、安心した」
「……別に、俺はあんたの家族でもなんでもないし、会ってからそんなに時間も経っていない」
「そうだね……確かに、全然時間経ってない。一ヶ月くらいか……でも、問題は時間じゃないと思うんだ、クロ」
 少し冷たいクロの言葉を難なく受け流したラーナーは、無意識にはねつけるような彼の言動に慣れてきたのだろうか。
 ラーナーは幸せそうに笑った。ずっと聞けずにいた声と、会話をしていることに自然と笑みがこぼれるのだ。
「クロが大切ってこと」
「なんだそれ」
「なんだろうね」面白そうに、小さくはにかんだ。「私だけじゃない、ポニータ達も、アラン君達も、皆クロのことが大切なんだよ」
 クロは不思議そうに首を傾げながらも、つられてしまってそっと微笑みが漏れた。
 その顔は今までラーナーが見た事の無い、彼の穏やかな表情だった。


 *


 数時間後、夜のトレアスの町を歩き続けたアランは溜息をしきりに吐きながら、雨の中オーバン家へと戻ってくる。全身に疲労の塊が圧し掛かっていて、傘を閉じ鍵を開けて中に入るという一つ一つの動作すら億劫に感じられた。
 扉を開き傘を壁に立てかけると、床に敷かれた汚れきったタオルを踏み靴の泥や水分を取る。その後吸い込まれるように二階へと向かった。
「あら、アランおかえり」
 階段を上がりきったところでアランはエリアとはち合わせる。エリアは丁度クロのいる部屋、つまりアランの部屋を出たところだった。
「あ、ただいまっす。こんな時間まで起きてるなんて珍しいですね。師匠じゃあるまいし」
「ははは、ちょっとね。ほら、見て見て」
 そう言って手でアランを寄せる動作をするエリア。それに従うようにアランは近付くと、エリアは扉を音を立てないように慎重に開ける。
 小さな隙間から中を覗き込むと、アランは息を呑んだ。
 床に座り込み、クロのベッドに腕を折りそこに頭を埋めてラーナーが気持ちよさそうに眠っていた。その身体には毛布が一つかけられている。
 今までラーナーがクロの様子を見に来たことは何度もあるが、今回はいつもと違う。恐らくクロが起きたのに気付いたのだろうとアランは直感した。
 エリアは満足そうに笑う。
「遅かれ早かれこうなるわ。それにラーナー、ずっと辛そうだったからこれで良かったのよ」
「でもおばさん、クロは」
「アランの言いたい事も分かる。でも、きっといつかは分かること」
 そう言って遠い景色を見るようにエリアはクロとラーナーに視線を投げかける。思わずアランは口を紡いだ。
「ラーナーがこれからもクロの傍にいるというなら、知るべき時が来る。それがいつかは分からないけど」
「……それは、そうですけど、でも少なくともクロはまだ知ってほしくないんじゃないんですか、自分の身体のこととか。ラナちゃんはけっこうクロに近づこうとしてますけど、クロはそう簡単に心を開くような奴じゃないんですよ」
「分かんないわよお」
 エリアはにやにやと笑窪を作る。
「だってラーナーってなんだか安心できるじゃない。クロも案外さっと心を緩くするかも」
「そう、ですかね」
「私たちだってクロのことを全て知っているわけじゃないでしょう」
 釘を差すような言葉に、アランは口を閉じた。
「クロだって私達と初めて会った時より大分柔らかくなったんだから。まあ、何とかなるわよ」
 ぽん、とエリアはアランの肩を叩く。その後おやすみと声をかけ階段へ向かっていく。おやすみなさいと返し、彼女が一階へと吸い込まれていく背中を見つめた。
 一人廊下に残されたアランは呆然と立ちすくしていたが、ゆっくりと自室へと入る。
 机のランプを付ける。柔らかな光が部屋を照らし、安眠の世界へと潜っている二人の姿をアランは見た。
 まるで絵を見ているかのような情景だった。
 なんとも形容しがたい、安堵にも困惑にも似た、浮ついた熱のこもった感情がこみ上げてくる。
 出会った頃から現在まで、脳裏に様々な映像が映っては消え、記憶が走り抜けていく。それを振り払うようにアランは首を横に軽く振った。
「俺は、俺がやらなきゃいけないことをやるんだ」
 呟き、持っていた鞄を床に放り投げるとと、机の中に積まれている本の山を探る。その中から一つ青いノートを出しすぐにページをめくる。様々な文字の羅列が並べられており、それは紛れもなくアランの字である。
 真ん中のあたりでめくる手を止めると、そのページを凝視する。そのページは何度も消しゴムで消しては鉛筆で書いた跡が残されており、皺が大きく寄せられている。
「オシの葉は確かある。けどブショウは……」
 独り言を並べながら別の小さなメモ帳に鉛筆で滅茶苦茶に文字を書き殴っていく。鉛筆の走り抜ける音とささやかな雨音、それに小さな寝息が混ざって、しんと静まった真夜中に佇む。
 その部屋の電灯が落ちたのは、それからまた数時間経ってからのことだった。

( 2012/03/16(金) 11:56 )