Page 20 : 走
カウンターテーブルにつき、クロは暫く思考に耽っていた。崩れた計画を立て直すことについてだ。だが、何もせずただここに居座るわけにもいかない。黒の団がいると判明した以上悠長に構えてもいられない。
そうだ。クロは顔を歪める。今まで彼一人で続けてきた旅とは違い、これからはラーナーという無力な一般人がいる。それも全くの無関係というわけではなく、まさに黒の団に狙われている存在だ。ならば、一刻も早くバハロから出ていく必要がある。
勢いよく椅子を降りると古びた音があがり、老人は顔を上げた。
「行くのかい」
「はい。もたもたしていられないんで」
「なんだ……少しはゆっくりしていけばいいだろうに」
「そういうわけにはいかないんだ」
苛立ちを露わに、椅子から降りる。
「ありがとうございました。失礼します」
クロは老人に素早く礼をする。はいはい、と少し適当な返事を背中に、クロは乱暴に洋酒の並ぶ棚の間を抜けていく。
「君はいつも忙しないね」
老人は目を細めてクロの姿を見届ける。
その背中は小さい。まだ大きくなっていく途上だろう。彼のような子供が強がり生き急ごうとするその足は、いつ安寧を得ることができるのだろうか。
グラスを拭いていた手を止める。少年はまだあまりに若く、長き人生を歩いている彼から見ればまるで幼子のようだ。故に、焦り、走るのだろう。老人はその様子を垣間見ては、しかししるべを示すでもなく、この先を案じるのみ。
クロはドアに手をかける。鈴の音が鳴った。
外の暑い空気が、冷たくひんやりとした部屋の中へと入ってくる。思い出したように振り返り軽く頭を下げれば、まだ青い少年に向け老人は柔和な微笑みを浮かべた。
ドアを音を立てないように閉めて外に待ちかまえていたのは、蒸されているような重い空気だ。照りつける太陽が目映く、対照的に全ての影の色は真っ黒に塗りつぶされている。
厭な予感が過ぎり、耳を傾けた。
扉に触れていた手をゆっくりと離す。踏み出す足が日向へと出る。風は止んでいる。人の話声はない。店の正面の家の、白く色褪せたポストから手紙が一つ、落ちる。溢れてしまっていたその一枚が、音を立てて地面に重なる。
空気を切り裂く気配を感じたのは直後だ。
正面へ。素早く地面を蹴りその場を離れ、素早く振り向けば、クロが先程いた場所に小さなナイフが音を立てて刺さる。明らかに上から降ってきたもの。クロは弾かれるように見上げたが、強い日光が瞳を突き刺し、眩んだ。咄嗟に頭に付けたゴーグルをかける。陰のかかった視界では、太陽の光はさほど邪魔をしない。洋酒店は三階に伸びているが、その屋上。ほぼ直上だ。
太陽の下にいる遠くのその人と、ぶつかる様に目が合う。
目を凝らせば相手の容姿が窺えた。黒いフードが髪を隠しているが、はみ出た髪は輝く金色。瞳もまた金色、先程邂逅した黒の団の少年だった。
歯を食いしばるが、距離は十分にある。入り組んだ道に入って走れば余裕で逃げられるはず。
クロは踵を返し元来た路地裏へと跳び込む。金髪の少年も上からすぐに追う。隣家の平らな屋根へ跳び、クロの逃げていった暗く細い道を覗き込む。が、既にその姿はなかった。
金髪の少年は顔を歪める。が、すぐに気持ちを切り替えて、建物と建物の屋上を軽々と渡っていく。軽快な足取りは、目には見えなくともクロの行き先が分かっているように動きに迷いがない。
「やっぱり」
呟いた声はまだ幼い。
クロはひたすらに走る。先程走ってきたルートと少し変えている。が、湿った雰囲気はどこも変わらない。戦うにしてもここは狭い上に住宅街だ。ポニータもいない。火閃は、現状、出来るだけ使いたくない。
とにかく今は金髪の少年から少しでも離れラーナーとポニータと合流することが先決だ。
黒の団は他に三人居ると情報屋である老人は告げた。万が一出会っていれば既にどちらも逃げている可能性もあるが、それはそれで大丈夫だろう。ポニータがいる分、遠くまで逃げられる。自分は一人でも、なんとかなる。
途中で足を転がっていた空き缶に少しとられ、体勢を崩す。スピードが落ちる。が、すぐにまた走る。足は動く。何度か曲がりつつ後ろは振り返らない。追ってきていることは確認せずとも分かっていた。敵も執着心は強いらしい、なかなか引き剥がせない。
路地裏から出た。光の中へ身体が包まれる。初めの場所だ。見知らぬ老女に出会い、金髪の少年を見かけた。まったく、休まる暇も与えてはくれない。足を止めることなくまっすぐにバハロの外へと向かう。足を蹴るそばから砂塵が狂うように散っていく。
バハロと書かれた簡素な看板。それを通り過ぎる。右方向に目をやると、ポニータが目に入り次にラーナーに目をやる。
「クロ、遅いよー」
不満げに声をあげるラーナーにクロは苛立ちを感じずにいられなかった。が、文句を言う余裕すら寸分もない。
「早くポニータに乗れ!」
怒った表情で叫ぶと、ラーナーは目を丸くした。
「へ」
「逃げるぞ、早く!」
ポニータはラーナーの頭を軽く突く。ラーナーは動揺を隠せずにいたが、渋々ポニータの首に手をかける。
が、まだポニータに乗り慣れていないためにうまく乗ることができない。クロはそれを見て我慢できず、手早くラーナーの傍に寄り両手を組んでラーナーの前で膝を立てる。
「ここ足場にして、早く乗れ」
「え、でもっ」
「いいから!」
クロの必死な形相に押されたラーナーは戸惑いながらも手をポニータにかけたまま、恐る恐る左足をクロの腕に乗せる。服に隠された腕は力強く、びくともしない。十分足場になる。そこに体重を思いっきりかけて、右足をポニータの背中の向こうに放り上げる。急く思いでクロは腕を上げ補助をしたが、かえって足場が揺れてラーナーの胸がひるんだ。が、無事火馬の背に乗り、ラーナーは鞄を背中に回す。
盛る炎の中にいるのに熱くはない、矛盾めいた感覚は奇妙である。
その後クロは手早くリュックサックを正面に回しファスナーを開け、中の一番上にあった簡易な手綱を乱暴に出す。手綱の先は簡易な轡に繋がっており、クロが促すとポニータは自ら口を填めた。手綱をぐっと引き締めると、ラーナーに手渡す。
「これを持って、振り落とされないように気をつけろ。ポニータ、行くぞ!」
ポニータは声をあげた。先にクロは走りだす。スタートダッシュで力強く地面を蹴り、バハロの街を横目に木々の中へと潜っていく。続いてポニータの足が上がる。途端にラーナーの上半身が激しく反り、バランスが取れなくなる。乗馬経験が無いラーナーは手綱程度では簡単に振り落とされてしまいそうだった。たまらずポニータの首にしがみつく。まだこの方が安堵させた。ポニータの足がリズム良く地を蹴り、あっという間に加速していった。
ポニータはクロの隣に並ぶ。そこでやや速度は落ちたもののまだ速い。木々の中を潜り抜けていく。蝉の声が彼等の耳の中を激しく暴れまわる。今どこへ向かって走っているのか、ラーナーには皆目見当がつかなかったが、枝葉にぶつかりながら、風で乾燥する眼を細くした。最中、移ろう木漏れ日の下で、ラーナーは先導するクロを見た。
クロは真っ直ぐに前を見つめている。彼の速さをラーナーは信じることができなかった。
暫く状況は均衡していた。揺れにも少々慣れてきた頃、ラーナーは漸く少しだけ余裕を持ち始めていた。
木々の中から抜け、太陽光がぱっと広がった。木が点在する中、川の傍にやってきていた。流れが速く河原の石は大きい。涼やかで激しい水音が空気を震わせている。
川沿いを進みながらクロは少しずつスピードを落とす。途中でさっと振り向くが、金髪の少年の姿は無い。
遂にクロはその足を止める。ポニータは止まり切れず抜き去ってしまったが、すぐに旋回しゆっくりとクロの隣へ戻る。止まった途端にクロは苦しげに呼吸を荒げた。今まで我慢していたものを一気に放出するかのように汗が噴き出し、頬を伝った。真夏の気温に加えて全力で長い距離を走れば、当然の生理現象だ。
速まる心臓の鼓動が頭に響くのが鬱陶しく、クロは顔を歪ませる。膝に手をつき、しかし顔だけは今まで走ってきた方角に向いていた。
ラーナーは右足を上げて両足を揃える。その時、ポニータがゆっくりと膝を折ると、ラーナーの足が地に着いた。
「ありがとう」
安定した地に立つと、すぐにまた足を伸ばすポニータに、少し草臥れた顔で微笑んだ。
「クロ、どうしたの、突然」
ラーナーの問いかけには答えず、クロは袖で顔の汗を拭う。ラーナーとポニータがやりとりをしている間に呼吸は急速に整い、肩の上下も収まりつつあった。
ポニータはそっとクロの隣に寄る。それに気付いたクロはポニータを見やると、視線を合わせた。数秒の後、びく、とポニータは身体を大きく震わせた。軽く頷いたクロは、腰を伸ばしてずっと遠くの方を見る。
「黒の団だ」
その瞬間ラーナーは身体を凍らせる。
ウォルタでの衝撃からそう簡単に逃れられるはずもない。沈黙を置いた後に、え、と掠れた呟きを漏らした。
「バハロに、理由はわからないが昨日からという話だ。しかももう顔を見られてる。大分離れたが……相手が相手だ。早く行くぞ」
流されるようにラーナーは慌てて頷いた。
河原のすぐ隣の草原の上、クロはバハロに背を向ける。それに続いてラーナーも止まらない震えを抱えたまま、徐に振り返る。唐突に大きな風が吹いた。それはラーナーの髪を激しく揺らす。クロは乱暴に歩んでいた足を不意に止める。ポニータの耳がぴんと立ち、同時に少し近くの方で、砂利を鳴らす音が空気を震わせる。
クロは後方の川の向こう側にゆっくりと目を向ける。帽子の下から漏れた髪が、風によって更に彼の顔を覆い尽くそうとしている。
川の音が沈黙と緊張の中を過ぎていく中で、金髪の少年が、クロの視線の先で立っていた。
ラーナーは始めてその姿を目にした。彼の着用している黒い上着には見覚えがある。頭の中に雪崩れ込むあの夜の記憶。頭を力強く叩いてきて、みるみるうちに表情は青褪めていく。
しかし金髪の少年はそんなラーナーには目も暮れていないようで、睨むようにクロのことを見つめていた。それを真っ向から受け止めるクロは、唇を噛む。
金髪の少年は、一度口を開いたがまた閉じる。何か言おうとして、瞬時に躊躇い引っ込めたかのようだった。一歩その足を踏み出し、その瞬間にラーナーは後ずさる。クロは彼女の前に身体を寄せた。ポニータも同様に彼女の傍に立ち、両者とも今にも相手に跳びかかっていかんとするばかりの一触即発の様子であった。
やがて、金髪の少年は慎重に唇を動かした。
「白さん……ですよね?」
怖々と、しかし芯の通ったその言葉にクロは顔を歪ませる。金髪の少年はその様子を見て、強張っていた表情を瞬時に明るくさせた。
「やっぱりっ」
纏っている黒色の服から連想される人間の姿とはまるで裏腹の、喜びに染まった声が弾んだ。