まっしろな闇












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バハロにて
Page 18 : バハロ
 まだ太陽が出たばかりの早朝の時刻。遠くの景色は霞がかっており、どこまでも広がる草原にて足元に視線を寄せれば、きんと冷えた朝露がきらめいていた。焚火はとっくの昔に消え、煙も立たず何事も無かったかのように寂れた枝の残骸だけが佇んでいる。音も風もない静寂。一晩を超える間に世界が洗い流されたかのようだった。
 ラーナーは心地よい寝息をたてていた。青い寝袋のすぐ傍にはポニータもいる。両者とも些細な物音では一切動じず、ぐっすりと寝ているようだ。
 そんなラーナー達とはやや離れたところに立つ一本の木に寄り添って、クロは一人顔を俯かせていた。視線の先には、手に握られた黒いボディのポケギアがあった。
『何やってるんだか。あれだけ言ったってのに』
 溜息の混じった声がポケギアのスピーカーから発せられる。電話をしているようだ。
 相手は男の声だ。若々しく、はきはきと早い口調をしている。
「仕方ないだろ。そうでもしなきゃ耐えられなかったんだ」
『はいはい言い訳お疲れ様っす。でも分かってるだろ服用のしすぎは体に毒。中毒症状になっても俺は知らないから』
「そんなのにはならない」
『どうかな。というか普通の人間ならもうすでにぶっ倒れてるレベルだろうからそんなんじゃすまないかもな』
 電話の向こうで喉の奥を鳴らすように笑う声がする。
『でどうすんの。そんな調子じゃもうすぐ切れるだろ』
「今バハロに向かってるから、近いうちに向かうことになると思う」
『まあそれならいいよ。死んでもらっちゃ折角の金づるが消えちまうからな』
「……お前、一応俺は客だって分かってる?」
『なんだよ今更だろ。兄弟みたいなもんなんだから気にすんなって』
 クロは息を吐く。
 柔らかな風が吹き、頭上に茂る葉が大きく揺れる。優しい色合いをした木漏れ日に誘われるように頭上に視線を投げかけ、目を細める。若々しい緑の色だ。夏を感じさせる鮮やかな緑。一枚一枚の葉っぱの動きを見ていると、沈黙が続いていることを忘れそうになる。
「……で、何か分かったことはあるか」
 クロが言った後もしばらく沈黙は続いたままだったが、スピーカーの向こうで僅かに何かを探るような音がする。やがて均衡を打ち破る何らかの重い物が一気に雪崩れ落ちたような音が耳に突き刺さり、クロは口元を歪ませた。相手が何をしているのか具体的に目で見ることはできないが、大凡の予想がついていた。相手は整理整頓が頗る出来ない男だった。
『……いんや、悪いな。何も情報はないよ』
 根気強く待ち続けた結果は、芳しいものではない。
 その言葉を聞いた後、クロは唇を少しだけ噛みながら、乾いた笑みを浮かべた。
「そうか。じゃあいいよ。引き続きよろしく。そろそろ切らないと、ポニータが起きそうだ」
 少し遠くのラーナーとポニータが寝ている場所をちらりと見ながら彼は言った。
 悪いな、ともう一度小さく言う声が彼の耳に届いた。こういう返事だろうなと内心予想できていたから、今更ショックなど受けてはいない。
『クロ』
「ん?」
 また沈黙が訪れる。電話では相手の表情が見えないから、何を思っているのかが全く読めない。だからクロにはただ、電話の向こうの彼が口を開き言葉を待つしかやることはないのだ。
 数秒してから声が聞こえた。
『頑張れよ』
 クロは思わず息を呑んでしまう。突然どうしたんだよ、と苦笑しながら言おうとしてやめた。その声に真剣な重みがあったからだ。それを笑うことなどできない、許されない。
「ああ」
 低い声だった。顔が少し俯いていたせいで前髪が大きく顔にかかり、彼の表情はよく見えない。
 電話の通信を切った。暫くポケギアの小さな画面を見つめる。アラン、という文字がその視線の先にある。考え込むように静止していたが、やがてポケギアを腰に付けている黒い小さな鞄に突っ込む。火閃なども入ったそれは、彼が手元に留めておきたいと選ばれた道具が入っている。
 木の陰から出ると、木の葉の遮りの無くなった太陽の光が異様に眩しく感じられた。クロは一つ軽い咳をして、ゆっくりと草原を踏みながらラーナー達の場所へ向かう。
 ラーナーとポニータが起き次第出発しよう、そう思いながらクロは小さく欠伸をした。


 *


「あ、何か家が見えてきたよ!」
 ラーナーはいきいきとした声で言う。指差した先には、古びた町があった。
 バハロ。
 ウォルタを西へと進んだところにある小さな町だ。
 観光ができるといえる場所はほぼ無いに等しく、観光客は年中を通してほぼ皆無。かつては比較的栄えていた商店街も、今ではシャッター街という心沈む切なさを感じざるを得ない風景になってしまっている。
 古びた建物が身を寄せ合うように固まっている住宅街。若者はウォルタを始め様々な街へ移っていき、住むのは残された年寄りが大半である。利便さは欠けるが静かという点では住む人々に優しく、故郷を離れられない住民達は住宅街の外れに作った畑などで老後の生活を営んでいる。
 都会の華やかさとは大きくかけ離れたその町では、黒の団のような裏の人間も住んではいない。そこをクロは知っていて、バハロを次の目的地に選んだのだ。
 先程まで疲れが表情にありありと出ていたラーナーだが、ここに来て元気を取り戻したようだ。広い草原の道から家が点々と出てきた程度の道になっただけでは、風景も大して変わらないし精神的にも体力的にも苦痛だったのだろう。
 ラーナーは髪を軽く手で揺する。帽子をしているクロとは違い、長時間日光はラーナーの頭に直射している。
 町にだんだんと近づき、ひたすらに歩を進めているといつの間にか集落の目の前へと来ていた。
 バハロと書かれた小さな看板の前に来るとクロは立ち止まる。それに合わせてラーナーとポニータも静止した。
 クロはラーナーの方を見ると、口を開いた。
「多分安全だとは思うけど、一応様子を見てくる。ポニータは置いていくから、ここで待っててくれ」
「え、あ、うん」
 急に話を振られ、流されるように生返事をするラーナー。
「ポニータ、よろしくな」
 一声かけると帽子を一度被り直し、バハロの中へと歩を進めていった。



 中に入ってから注意深く辺りを鋭い目つきで確認するクロ。耳を傾けつつ歩く。
 寂れた町だと改めて実感する。まるで人に会う気配が無い。皆家の中に入っているのだろうか。クロは道沿いに建っている家に一瞥するが、物音はほとんど聞こえない。
 と、ようやく一人曲がり角から現われる。しわが顔中にある白髪の老女だ。曲がった腰で手を後ろで組みゆっくりと歩きながらクロの目の前に来ると、あらこんにちは、としわがれた挨拶をする。警戒を続けていたクロは身体を震わせると、恐る恐る会釈を返す。皺だらけの顔がにっこりとえくぼが刻まれ、クロの横を通り過ぎていった。
 拍子外れな気分にさせられたクロは溜息をつく。曲がり角に来るとクロはその角の先にある眺望を視界に広げた。そう遠くない地点で住宅街は途切れ、もっと先に視線を持っていくと田圃と畑が混在しているのが見える。そこに点々と農作業に身を揮っている年寄りの姿があった。
 角で立ち止まったままクロは深呼吸をする。空気がどこか澄んでいた。クロは二度ほどバハロを訪れたことがあるが、初めて来たときから何も変わっていない。
 入ってからまだ十分も経っていないが、これ以上警戒したところで馬鹿馬鹿しい。クロは身を翻しラーナー達の元へ戻ろうとした。
 その瞬間。
 目を見開いたクロは思わず角を曲がり、家の陰に背中を張り付け、そっと顔を覗かせる。細めた目を凝らし対象のモノをじっと見つめ焦点を合わせる。そして彼の目にはっきりとその姿が映った。
 見間違いではない。歯を食いしばる。
 視線の先には、まだ年端のいかない金髪の少年がいた。見覚えのある黒い上着に灰色のズボンを履いて、こちら側にゆっくりと歩いてくる。その目は獣のような金色の瞳だった。普通の人間の目ではない。――黒の団だ。
 クロは目を背け足音を立てないよう、神経を張りつめてその場を離れる。数度訪れた経験がある分、バハロの地図は頭の中にある。その脳内の地図を信じ小走り気味に途中で角を右に曲がる。田圃が広がる世界の一歩手前、古びた建物と建物の間の狭い空間を走った。
 足を止めることなく、後ろを振り返ることもなく、いつの間にか本気で走っていた。焦りが彼の中に芽生えていた。路地裏は普段誰も通ることがないのだろう。道に落ちているゴミは埃を被っている。彼の足は速かった。狭いところを走っているとは思えない、障害物を物ともしない身軽な速さである。
 クロは唇を噛む。
 多分安全だと思う。ラーナーにそうは言ったが、彼の中では百パーセント黒の団はいないと踏んでいた。過去二回訪れてその二回ともいなかった。
「しかもアイツ……」
 独り言が漏れた。
 落ち着け。
 走りながらまた曲がり、表通りに出る。明るい日光が目を刺す。が、惑っている場合ではない。辺りを見ながらなおも駆ける。現時点においては追手はなさそうだ。
 やがて、白い寂れた建物の前でクロは足をようやく止める。古く大きな窓からは樽やボトルの並ぶ内装がよく見える。洋酒を売る小さな酒場だ。
 クロが息を切らしながら扉を開ければ、りん、と鈴の音が店内に響いた途端、洋酒由来のアルコールの匂いが一気に鼻につき肺を満たし、思わず顔を顰める。
 明度が抑えられた柔らかな照明に照らされた、濃厚な茶をベースにしたシックな店。広いとは言い難いが、錆び付いたバハロの中では格好の付いた店内だ。壁に沿って設置されている木の棚にはたくさんの洋酒の入った瓶が並んでいる。彼の知らない銘柄ばかりの洋酒だ。それはそうだ。洋酒などクロは口にしたことはないし、興味も湧かない。
「おや、いらっしゃい」
 クロは顔を上げ、声のしたカウンターの方へ向かう。軋む床を通り抜けたカウンターには白いタオルでせっせと机を拭いているひょろりと細長い体躯をした男の老人がいた。
 彼に近付けば近付くほど酒の独特の匂いが強くなる。クロが不満げな表情をしているのに気付いた老人は笑った。老人の手元のタオルは濃い紫色に染まっている。
「悪いね、さっきちょっとだけ零してしまってね。年を取ると手元が余計に覚束なくなっていけない。今ね、拭いてるんだ。小さなお客さん」
「いや、まあいいんですけど」
 クロはカウンターに手を置き、一瞬後ろに目を配るが人の気配はない。ほっとすると黒い椅子に腰かけた。
 額に滲んだ汗を裾で拭う。息は最早安定していて、心臓の鼓動も元の速さに戻っていく。
 老人は改めてクロを見ると、ほぉ、と感嘆しながら目を細めた。
「久しぶりだね。えーっと、クロ、フジナミ……だったか」
「……覚えてるんですね」
「まあねえ。ここに来る若い人なんて、君くらいなもんだからなあ。嫌でも印象に残るものさ」
「はあ。……そんなことより、ちょっといいですか」
 クロは身を乗り出して、老人の茶色の瞳を正面から睨むように見つめる。
「ああやっぱり洋酒目当てではないんだね」
「当然です」
「せっかちだねえ」
 老人は苦笑しながら洋酒がたっぷりと染み込んだタオルを畳み横に置く。
 クロはリュックを背中から下ろし、それを隣の黒い椅子に乗せる。そしてリュックから黒く古ぼけた財布を取り出す。
 中から二枚ほどお札を出して老人の前に出す。老人は少し驚いた顔をして、一枚手に取るとクロに差し出す。
「君みたいな子供が無理に格好つけちゃって、ね。こんなにいいよ。大切なお金なんだから」
「はあ」
 クロは不思議そうに首を傾げながら老人と札を交互に見やり、おずおずとお札を受け取る。直後にさて、と老人は切り出すとお札を胸ポケットの中に無理矢理突っ込んでクロを見下ろす。
「いつから、どうしてこの町に黒の団がいるんですか」
 老人は目を細める。
 クロの瞳は憎々しげに光っている。机に置いた右手の拳は強く握られていた。何もかも握り潰してしまいそうなくらいに。
 老人は息を吐くと、カウンターに置いていたグラスを手に取り、白いハンカチを懐から出してそれを拭く。手元を動かしていないと落ち着かないらしい。
「昨日からさ」
「昨日?」
 クロは思わず聞き返す。老人は真剣な顔つきで僅かに頷く。
「ああ、昨日の夜に。四人ほどかな。一人とても目立つ子がいるそうだ。子供まであんな組織に入っているとは驚きだよ」
「子供……」
 クロは先程自分が見た金髪の少年を思い出す。自分より年下だろう少年。あどけなさの残った顔つき。目立つ、というのは恐らくあの金色の髪に、何より金色の瞳のことだろう。明らかに人間のものとは異なる、特徴的な目。老人の言う子供は間違いなくあの子のことだ。
「来てから一日も経っていない。だから“どうして”という質問には答えづらいな。まだ何も分かっていない」
「何かここで起こったとか」
「物騒なことを言うね。殺伐な面倒事からは最も離れた町だと君も知っているだろう」
「そうですけど」
「趣味を商売にゆるやかな老後を送っているこちらの身にもなってほしいところさ」
 言いながら老人は所狭しと洋酒の並んだ店内を見やった。整然と置かれているボトルは彼の注ぐ愛情の一端でもある。
「むしろ少々騒ぎになったのはウォルタの方だろう。火事が起こっただの起こっていなかっただの奇妙なことだが。近くで騒がしくなった飛び火がバハロに及んだということじゃないかい」
 平然を心がけながら、クロは口を噤んだ。
 殺し損ねた彼女を追いかけてきたのだとすれば、近隣の町を漁る理由も理解できる。しかし本当に目的が彼女なのだとすれば、まんまと根を張られた地域にやってきてしまったのは、無意識のうちに飛んで火に入る夏の虫になってしまったといえよう。
 クロは机に肘をつき、顔の前で手を組む。
 先程見た少年の他に三人はいる。ラーナーの傍にはポニータがいる。ブラッキーとエーフィを持っているが、どれほど期待できるかは未知数だ。ポニータがいればいざという時に逃げる事もできる。しかしそうなれば、クロとラーナーは散らばってしまう。
 懸命に考える。情報が少なすぎるのだ。下手に動けばあっちに見つかり、しかし早く手を打たなければ危険は高まるばかり。
 困ったことにラーナーと連絡は取れない。それが一番の厄介な点だ。
「くそ」
 気持ちばかりがはやる。

( 2012/03/13(火) 17:15 )