Page 17 : 話
人間の夕食が出来る前に、ポケモン達の夕食は早々に済む。持ち運んでいるポケモン用の飯は、ポケモンフーズと呼ばれる茶色い固形物だ。ラーナーもエイリー婦人から貰ったものをエーフィとブラッキーに与えたが、見た目にはクロの持ち運んでいるものと殆ど変わらない。味気ない外見だが、夢中になって食べる姿を見れば少なくとも不味くはないらしい。みるみる無くなっていく様子をラーナーは興味津々といった風に眺めていた。
ポケモン達の夕食が終わる頃合いで熱していた水は沸騰し、クロは慣れた手つきで缶詰に湯を注ぎこんでいた。スプーンでかき混ぜれば元々入っていた粉と具が混ざりあい、全体にとろみがついてくる。
「ん」
クロはラーナーに缶詰、そしてステンレスのスプーンを差し出す。
「……ありがとう」
ラーナーはおずおずと受け取ると、手にこんもりとした熱が伝わる。湯気が絶えることなく上がる中を覗くと、具材はごろごろと大きく、コンソメのしっかり染み込んだ香りは沸くような食欲を誘う。長距離を長時間歩いたことでラーナーの空腹感は限界に近かったため、猶更だ。しかし、舌を付ければ即時火傷でもしそうな熱だと察し、唇を噛みしめる。
クロは缶詰の端に唇をあて、慎重に缶詰を傾けていき熱いスープを飲んでいく。
かみつくようにその姿を観察していたラーナーは、眉をひそめながら、同じように直接飲もうとする。ゆっくりと傾斜が緩くなっていく。液体がラーナーの口の中に徐々に近付き、僅かに入ったその瞬間にラーナーは唇を離した。
「あつっ!」
大きい声にクロは驚きラーナーを凝視する。
それに気付いたラーナーは舌を冷ますように口を少し開きながら右手を立てて謝る動作をする。
「だって熱くて」
「……猫舌?」
「うん。ちょっと冷ましとく」
ラーナーは地面に缶詰を一度置く。スプーンは持っておくことにした。
彼女を尻目に、クロは無言でまたスープを飲む。彼にとってはもう飽きてしまうほど慣れた味だった。風味はコンソメだが、こってりと深みのある味に仕上がっていて、具もかなり入っているので意外にも腹も気分も膨れる。とはいえ、成長途上の少年が食べるには物足りなさもあるだろう。夏にはあまりにも不釣り合いな程の厚着に誤魔化されているものの、骨ばった手や全体のラインは細い。
スープが冷めるのを待つ時間を弄ぶように、ラーナーは食事を終え近くで寝転がっているポニータの頭を撫でた。気持ちよさそうにポニータは目を閉じる。
と、ふと気が付く。
「クロ」
「何」
「ポニータをずっとボールから出しているのはどうして?」
ポケモンはボールに戻し、必要時以外はその中で暮らすのが一般的であるとされている。アーレイスはその文化が特に顕著だ。中はポケモンにとって心地よい空間になっているらしく、テレビ番組で組まれた特集をラーナーは見たことがあった。どうであれボールに戻すことは、ポケモンに外界からの刺激のまったく無い安寧を与えるのとイコールになっている、らしい。
「……必要な時は戻すけど、基本は戻さない」
「なんで?」
「色々と大変なんだ、ポニータが外に出てないと」
彼は底が見えてきたスープを一気に飲み干しにかかれば、喉に焼けるような痛みが流れていく。
ラーナーも缶詰に触れてみたが彼女にとってはまだ熱いので、もう少し置いておくことにした。
「大変って、何が大変なの?」
「色々」
「ぼかすねえ」
口を尖らせるラーナー。隠れるようにクロは目を俯かせ、焚火に枝を一つ放り投げた。枝の弾ける音が響いた。
とはいえ、昨日今日の付き合いなのだから、何でも言い合える方がどうかしている。
クロは焚火を見つめる。炎は柔らかにクロたちを照らしている。
これを消せば暗くなる。ふとラーナーは心細くなった。彼等に覆いかぶさろうとしている闇夜は底の見えぬ穴のように鬱蒼と深い。
「……聞かないんだな」
ラーナーは首を傾げた。クロはラーナーの方を向き、少し間を置いてから口を開いた。
「黒の団のこと」
その瞬間、ラーナーの心臓は跳ねた。
黒の団。彼が残したメモに書かれた、昨日の首謀者の属する団体名だ。緊張感が一気に高まり、昨夜の血の臭いが蘇る。
「知りたいけど」
「だろうな」クロは空になった缶詰を地面に置いた。「話すよ。少しだけ」
その言葉はラーナーが密かに待ち焦がれていた言葉だった。
しかしまだ迷いがあるのか言葉を選んでいるのか、クロは暫く口を閉ざしたままだった。ラーナーは根気強くその口が空けられる時を待った。ポニータが頭を上げ、深みのある優しい瞳で彼を見守る。
数分経って、重い唇が漸く開く。
「黒の団は、普通の表だった社会とは違う――裏社会とでも言っとくものの中で強い力を持ってる組織だ。といっても」
少し間が空く。
「人数は他と比較すると少人数で」
ラーナーは首を傾げる。
「まあ、裏の規模なんてあんたには分からないだろうけど。それに、今がどうか詳しくは分からない。ただ、根源は腕利きの科学者の集まったおかげで、技術力に長けてるんだ」
「でも……人を、ころしたり、してるんでしょ?」
殺す、の単語を出すのにはまだ生々しく、躊躇いがある。慎重な言いぶりだった。
「そう。そんな奴等も元は殺人集団なんかじゃなかった。そんな科学者の集団なんかが、何故裏社会の一角を牛耳る組織に発展できたと思う」
ラーナーは答えない。
クロはじっくりと様子を見ながら、話を続ける。
「非人道的実験を行うために集まった組織だから、とでも言っとく」
「……非人道的?」
「詳しい内容は伏せとく。生き物を生き物として見ない、ただ自分達の好奇心が動くままに。どれだけのポケモンが苦しみながら死んでいったか分からない……最初は下火だったはずなんだ、何もかも。だけど……」
頭を俯かせる。
酷く慎重なようだった。
急かしたい思いを押し止め、代わりにラーナーは無意識に夕食に手を伸ばす。冷めてきていた。けれど膝に乗せただけで、食べようとはしなかった。
「どこから漏れたのか、彼等の実験の噂を敏感に耳に入れたある別の組織が手を組まないかと言ってきたんだ。金とそれなりの人も持っている――アーレイスの西の隣国、李国の組織が」
「李国?」
ラーナーは驚いた声をあげ、クロは深く頷いた。
李国。
クロが先程言った通り、アーレイスの西隣に位置する国だ。もっとも隣にあるとはいえ、二つの国の間には大きな山脈があり言語をはじめとしてあらゆる文化が異なる。
数年前まで続いていた内戦によって治安は非常に悪い。戦争の名残で一触即発の場面があるといい、最貧困層があらゆる町に屯している。最も多い死因は餓死か感染症であるとも聞く。食事も衛生もあまりに不十分なのだ。自力の経済力や技術力に欠け、しかし拒んでいるかのように他国との交流も薄い。ほとんど閉鎖状態だ。それは今も続いている。
隣国であるアーレイスだが、アーレイスも急速に経済発展している最中であり、李国に救済の手を差し伸べる余裕はない。
それが実状である。
「李国は当時二つの勢力が戦っていた。規模が大きく、表である李国の治安も揺るがした。その二つの組織の名前が白の団と、黒の団」
ラーナーは息を止める。
「その一方の黒の団が交渉をしてきた。金と引き替えに、実験を黒の団で行わないか、科学者たちはそれに同意し李国に渡った」
「……そんなに凄い実験だったの?」
「黒の団の目には魅力的に映ったんだろう。これで白の団に勝てるって。支援者を得て、実験は急速に加速していった。それを元に黒の団は軍事力をつけていった」
「なんの実験、なの?」
聞きたいようで、聞きたくない。真実を知る恐怖が彼女を襲う。その一方でまとわりつく好奇心。
「詳しい内容は伏せるって言っただろ……あんたも見ただろう、自我を失ったザングース達を。あれはほんの一端に過ぎない」
ラーナーは口を紡ぐ。
正気ではない狂気的な赤い双眸達が、脳裏をちらついていく。どこに逃げてもその先に待ち受けていた獣達は、奇声をあげながら躊躇無くクロに襲いかかった。
「……ほぼ均衡していた二つの組織の力だったけど、黒の団の力は白の団を上回るようになっていった。その中で、実験に人間が必要になった」
「人間?」
「それまではポケモンを使った実験を行っていた。だけど、ある新たな実験では人間でなければいけなかった。必要以上の資金を出したくなかった黒の団が手を出したのは」
クロは唇を強く紡ぐ。
苦しそうに顔を歪めていた。ラーナーは彼を急かそうとはしなかった。内心は続きが知りたいが、彼の顔を見ていてはそうも言えない。
一度目を閉じてから、クロは再び話し始めた。
「子供」
冷たい沈黙が辺りを襲う。
淡々とした態度を崩さないが、クロの顔は少しずつ蒼くなっていた。ポニータがクロの傍に身を寄せる。言葉なくともさりげなく彼を支えていようとしていた。
「李国は本当に貧しい国で、多くの子供たちが身寄りを失い、路上で暮らしていた。店から食べ物を盗んで、ゴミ溜めを漁って、酷い時にはそこらにいる虫を摘まんで食べる生活だ。家族のいる子供も、金がなくて満足に食べれない。急にそこらで死んだって誰も不思議に思わなかった。そこに黒の団は目を留めた」
ラーナーは声も出なかった。何か重いものが喉に引っかかっているようだった。
「子供は扱いやすいんだよ。特に食べ物に飢えた子供は……。たくさんの子供が李国の町から消えた。たくさんの命が実験で消えた。勿論その中で生き残ったやつもいた。けどそこからは生き地獄の始まりだ。戦いに雇用されて、そこでまた死んでいく」
「……」
ラーナーはいつの間にかクロから視線を逸らし、自然と地面の方に目を向けていた。決して視線は定まってはいない。
限界か、クロはそう感じて軽く息を吐いた。だがその静かさとは裏腹に、沸々と彼の中から黒いものが渦巻く感覚があった。
「結果的に――黒の団が白の団を壊滅させ、戦いは終わった。けど、黒の団はそこで勢いを止めなかった。――しばらくしてから、アーレイスに足を伸ばしたんだ!」
語尾が上がる。言いきると両手を強く握りしめて突然クロは立ち上がる。
ラーナーは思わず彼を見上げた。彼の顔は影が入り込んで、憎々しげに歪んでいた。
「奴らのやっていることに耐えきれずに逃げ出そうとした奴らは皆殺された」
ラーナーは息を呑む。
静かに怒る彼の声には棘が立っている。握った拳に込められた理由もまた怒りなのだろう。
「黒の団の存在を深く知る者、関係のある者……そういうやつが“表”にいる場合、誰一人として例外なく危険人物の対象だ」
クロはラーナーを見下ろす。透き通っている目が、どこか濁っているように見えてしまう。
不意に表情が緩む。それは諦めに似たものだった。
「あんたも、あんたの弟もその対象だったというわけだ」
「なんで。あたしもセルドも、黒の団とか全然知らなかったし、関わりも全然ないのに!」
先程までしばらく声も出なかったラーナーだが、さすがに理不尽なことに対しては声が出る。
声は震えていた。溢れて零れ落ちてしまいそうな重い怒りが彼女から沸き起こっていた。しかし、クロは何も言わない。言えないのか、ラーナーの疑問に答えようと口を開かない。
「……それがお母さんやお父さんだっていうの?」
クロは答えなかった。
「ねえ、何か言ってよ。お母さん達とその黒の団には一体何の関係があるっていうの、クロだってなんでお母さん達のことを知っていたの!? どうにしろセルドが殺される理由なんて無いはずでしょう!?」
「落ち着け」
加熱が止まらなくなりつつあるラーナーを、冷静にクロは遮った。
「もう何を言ってもしょうがない……奴等に常識は通用しない。弟はこの世にはいない、それだけはほぼ確実だ」
ラーナーの言葉を遮断するように少し大きめの声でクロは言い放つ。
彼女の心が大きく揺れていた。吐き気さえも襲ってくる。手に持っているスープの香りが鼻につく。だんだんと重い疲れが彼女に圧し掛かり、時間が経てば一気に加速した激情も沈黙していく。
「クロも……狙われてるの?」
「え?」
面食らったクロには僅かに動揺が走った。
虚ろな栗色の瞳がぼんやりと光り、クロを見つめる。
「それだけ知ってるんだから、クロも」
「俺はそういうわけじゃない」
早口でクロは言い切る。
「ただ、顔は覚えられたくない」
苦々しげに、吐き捨てる。
そこからは重い沈黙が暫く続いた。
クロはラーナーに背を向けると、鞄の中から一つ、大きくなったモンスターボールと同じ程の大きさの白く長細いカプセルを出す。それを捻るような動作をすると丁度真ん中で二つに別れ、中から白い光が飛び出す。
それは彼の左腕に着地し、形作る。深い青色をして、触れば気持ちよさげなふわふわとした印象をもたせるそれは、寝袋だった。
「道具カプセル持ってるんだ」
先程まで暗い話をしていた故に声に張りはないが、ラーナーは心の中で興奮していた。
口元で乾いた苦笑いをするクロ。ポニータは彼をどこか冷たい横目でじっと見る。
道具カプセルとは、モンスターボールの技術を応用した製品だ。ある程度の重さまでの道具を一つだけ縮小し、中に入れて持ち運ぶことができる。最近売り出されたばかりのもので、値段は高く収納にある程度制限はあるものの、便利故にすぐに売り切れ、入荷してはまたすぐに売り切れる、という状態なのだ。
「あたしも知り合いにもらったんだ。寝袋大きいからね。野宿した時用に」
「悪いけど、野宿は多い」
「わかってる」
苦笑と溜息まじりの息をついて、膝に乗せた缶詰を握った。とうに充分冷めて、今は湯気も殆どあがっていない。
「スープぐらい食べれば?」
「なんか、食べられる気がしなくて」
薄く笑った。
強制的に食べろということはできなかった。
かける言葉が見つからない。こうした時にどうしたらいいのか、彼には全くわからない。
「……俺、眠いからもう寝る。ポニータ、ついてやれ。明日は早いからさっさと寝ろよ」
ポニータはラーナーを見やり、またクロの方を向いて頷いた。
持ちかけられた黒の団の情報に満足したわけではなく依然不十分だったが、彼女自身としても疲れているのも確かだ。ラーナーは止めることもできず、頷いた。
クロはポニータの元へ近付き、頭を優しく撫でようと腰を折り曲げる。
「おやすみ」
小さく呟くような優しい声音だった。ポニータの白い体毛を撫でると、気持ち良さげな声が返ってきた。
それから彼はラーナーに背を向けて、丁度焚火をはさんでラーナーとは反対側の位置で、腕に持っていた寝袋を地面に落とす。下ろした瞬間に風が舞い上がり、焚火が大きく揺れた。その火もだんだんと下火になってきている。
彼は上着を脱いで、黒い長袖のTシャツ姿になる。そうなると、彼の細さが更に際立つように思えて、ラーナーは息を呑んでしまう。ゆっくりと潜りこんでいく間にさわさわと寝袋のこすれ合う音が耳を掠める。頭だけは袋から出た状態で、ラーナーに背を向けくるまった。
急に音が無くなったような感覚にラーナーは襲われる。本当は消えていない。火花は散っているし、草の中でささやかに歌っている虫もいる。けれどラーナーは突如暗い穴の中に入り込んだような、そんな一人ぼっちの感覚に襲われた。
完全に消化されていない疑問の塊は胸に残ったままだ。しかし、あれ以上聞く余裕がラーナーに無かったのも事実だった。そのまま突き進めば、感情任せに何も受け付けられなくなっていたことだろう。
弟の姿を思い返す。セルドはいない。つい一昨日までは確かに彼女の傍にいた。手を伸ばせば触れることができた。正直でズバリと真ん中を射る言葉にいらつきを感じたこともあった。けれど今思い出してみれば、何もかも愛おしくて、そんなことに気付いたのは皮肉にも彼がいなくなったからだった。
もういないのだ。
目を俯かせていたラーナーの頬に、ポニータの鼻が当たった。驚いたラーナーは目を見開いて肩を飛び上がらせた。
ポニータは首を傾げていた。大きな真っ黒い瞳がまっすぐにラーナーを見つめている。ラーナーの目尻には微かな涙があった。それにポニータは気付いたのだ。改めてラーナーは痛感させられる。ポニータは人の気持ちに恐ろしく敏感で、同時に人を気遣う余裕のあるポケモンだった。
ラーナーはすぐさま目尻を拭い、仄暗い視線を落とす。
「セルド……あの時助けられていたなら……」
誰にも聞こえないように、ひとりごと。
玄関で崩れ落ちた直後は、セルドはまだ辛うじて息をしていた。けれど、だからといって後悔が出来るほどラーナーに余裕は無かった。ラーナーにできることなど何一つとして無く、逃げるという選択肢を選ぶ他残されていなかった。今更仮定について考えたところで、セルドが帰ってくるわけでもない。
ポニータは聞こえたのか聞こえていないのか、目を細め頭を下げる。
眉を困ったように傾けた状態で、ポニータの体をさする。
「一緒に寝ようね。あたし、一人じゃ寝れる気がしないや」
声がポニータの耳に吸い込まれて、ゆっくりとポニータは頷いた。
焚火は時間をゆったりとかけて少しずつ小さくなっていく。煙はか細くなっていき、ポニータの炎が明るく感じられてきた。ああそうか、とラーナーは気付く。ポニータがいれば、真夜中も光がある。底無しの穴に落とされることは無い。
ラーナーの呟きは、ほんの少しだけ瞼を開いていたクロの耳にも確かに届いていた。声をかけようとは思わなかった。稚拙な同情など意味は無い。ならば、雪崩れ込んでくる眠気の渦に身を浸らせる他に彼の選択肢は無かった。深緑色の目が完全に隠される。それから少しして本当に眠りにつき、彼等は静寂の中へ沈んでいった。