まっしろな闇











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バハロにて
Page 15 : 追憶
「ったく、お前、女なら寝ても何もしないのか」
 クロは大きな溜息をつき、嫌味を込めてポニータに視線を投げた。
 ウォルタを出発してから幾時間。太陽は遠き山脈の連なる西へ傾き、夕焼けの光が赤々と周りを照らし、遠くの森に目を移せばまるで空までかかるように全体が燃え上がっているかのようにも見える。
 彼の右に並んでいるポニータの背中に乗るラーナーは、つい数分前から夢の中へと旅立っていた。ポニータの長い首に身体を密着させ、小さな寝息を立てている。
 ポニータの歩みは遅く、背中を揺らさないよう慎重に気を配っている様子だった。
 以前、ポニータは背中に乗るクロが眠った瞬間、川に滑り落としたという経歴がある。実直に歩みを進めている間に騎手が眠るのは気に食わないらしい。しかし今はまるで落とそうなどという気配はまるでなく、ポニータは鼻を鳴らした。変なところで人間らしい。
 けれど返ってこの方が歩きやすいと言えばその通りだった。ラーナーはすぐにくたびれてしまう。歩き慣れていないと理解は出来るが、クロは戸惑いと苛立ちを感じていた。
「なあ、ポニータ」
 クロは火の馬の名を呟いた。
 目を閉じて気持ちよさそうに眠っているラーナーの顔を見つめる。
「これが……普通、の人間だよな」
 普通、という言葉が無意識のうちに強調される。
 彼は目を細める。ポニータはぎこちない表情をした主人の横顔を見やり、何も言わずに目を伏せた。
「いや、なんでもない」
 首を軽く振る姿は自身に言い聞かせているようでもあった。弱々しさに似た彼の心が垣間見え、ポニータはくぐもった声でクロを窺う。心配しているのだろうか。僅かに笑んだクロは首もとに手を添えた。そんな不安な顔をするな、とでも言いたげに。
 風は相変わらず温い。陽炎のように揺れるポニータの炎は、柔らかく煌々と燃えている。
「……変な感じがするな。こんな風に、普通の人間と歩いているなんて」
 とはいえ、共に歩き始めて一日も経ってはいない。クロは軽く笑って、ラーナーの寝顔を見やる。
 無防備で無垢な姿は、昨晩命を狙われていた人物とは思えない。しかし、クロに推し量ることはできないものの、あの時ラーナーに襲い掛かった恐怖と緊張は彼女の感情の限界を超えていただろう。積み重なった激動は心にどれだけ傷をもたらしたのか。穏やかな微睡みは深い疲労の反動を含んでいるに違いない。
「ニノはこうなるって分かってたのかな。だから、俺にあんなことを」
 瞬間、影が、脳裏に、覆いかぶさるように、少しの隙を逃さず詰寄ってきた。
 さっと表情が暗くなる。
 不意に辺りが真っ暗になったような錯覚が過ぎった。堪えるように左腕をきつく握りしめれば、痛みが現実を繋ぎ止める。僅かに捲り上げられた袖口から、黒く赤く鈍い色をした肌が垣間見える。黄昏時の濃い影の中に忍び込んでいるかのようだった。
 大きく深呼吸をした。体全体で息をするように呼吸をし、鼓動を速める心臓を落ち着かせるように。
 油断ならない。もう、昔のことだ。彼女は――ニノはもう死んだ。心の中でクロは自分に必死に言い聞かせる。
「……クロ?」
 はっと警戒心を剥き出しにポニータの背に乗る人物を振り返った。
 そこには怯えた目でクロをじっと見つめているラーナーの姿があった。
 思いがけず秘密を見られてしまったようで、クロの背中に気味の悪い悪寒が走り抜けた。クロの足が止まったのに合わせて、ポニータの足もすぐに止まる。
 数秒間ぶつかり合っていた視線を先に逸らしたのはクロの方だった。嫌がるように顔を歪めている。
 まだ彼と出会って間もないラーナーだが、只ならぬ空気が肌に突き刺さってくるようで、いてもたってもいられない気持ちにさせられた。
「どうしたの?」
「どうしたって……別にどうもしてない」
「嘘。何考えてたの。顔色悪いよ!」
「なんでもないって言ってるだろ! それ以上言うならもうついてくるな!」
 相変わらずラーナーから顔を逸らしたまま放つ叫びに、ラーナーは咄嗟に怯んだ。
 直後、クロの右足に鈍い痛みが走る。
「いっ」思わず声をあげるクロの右足を、ポニータが踏みつけたのだ。鍛え上げられた脚力がもたらす突然の踏みつけは痛烈で、骨に響いて頭上まで駆ける衝撃だった。
 下敷きになった右足を急いで引っ張るが、ポニータも強情で、なかなか抜けない。漸く引っ張り出せば、抜けた拍子でクロは尻もちをつく。ポニータは目を細くしてクロを見下した。その背に乗るラーナーの目線は、その更に上から落とされる。荒んだクロの胸を逆撫でする構図だった。
「ポニータ! お前、さっきからこいつの肩ばっかり持って!」
「ポニータはクロが悪いって分かってるんだよ! あたしは心配して」
「はっ」ラーナーの言葉を遮るように吐き捨てて、足の感覚を確かめるようにゆっくりと立ち上がる。「心配なんかいらない」
 強情な言葉とは裏腹に、その背中が小さくなったように思えて、ラーナーは息を止めた。
 生温い風が吹いていって、それきり彼等は声を発さなくなった。
 暫し沈黙した時間を押し動かすように、ポニータの足が動き始め、立ち止まったままクロの横を徐に抜いていく。ラーナーはクロを振り返った。暗い影が顔に差し込んでいるように、彼の表情は暗かった。帽子と、夕暮れ時の深くなりつつある影の色が、なおのこと彼の陰影を強調する。
 彼の名前を呼ぼうとして躊躇った。広き大地に、無気力な様子でぽつんと佇む光景は、彼が全てを遮断しているかのように思えたからだ。
 あれは、孤独だろうか。あれが、本質だろうか。
 彼の足元から延びる長く真っ黒な影は微動だにしない。少しずつクロの姿が小さくなっていき、ラーナーは焦りを感じずにはいられなかった。
「……クロー?」
 降りようとも思ったが、ポニータには足を止める気配が微塵も無い。
 呼びかけに彼は耳を貸さなかった。瞳は、どこか違う、空の向こう側を見ているような、そんな瞳だった。目の前の世界など見てはいない。彼が見ているのは虚空であり、引き金が引かれて広がった記憶の渦であった。
「ポニータ」
 戸惑いの滲んだ声にポニータは一瞬足を止めたが、首を左右に振った。ポニータの長い睫が揺れる。火馬には、煌々と燃える炎とは裏腹に、静まった湖のように落ち着き払った佇まいがある。ラーナーには不思議でならなかった。
「クロを追いていっちゃうよ」
 ポニータは何も答えなかった。答える術を持っていないのだ。ポケモンは高度な知能を持ち、人間の言葉がある程度分かっても自らがその言葉を口にすることは叶わない。それ故に、ラーナーにはポニータの考えていること、思いを理解することができない。
 地面を蹴る音が耳に響く。
 クロとの距離はどんどん離れていって、遂に殆ど見えなくなった。


 *


 遠くなっていく音。風が髪を撫でては去っていく。
 広い草原に一人、クロは佇む。その目には力が無く、微かな呼吸がかろうじて彼がこの世界と繋がっていることを示していた。全身の力は抜け、突風が吹けばそのまま抗うことなく倒れてしまうのではないかと錯覚するほどだ。
 踏まれた足の痛みはとうの昔に消えた。
 オレンジ色の太陽を反射して帽子の上にあるゴーグルを光らせる。
 頭の中で響く声。瞳の裏に移る色褪せない映像。彼の心を切り裂くように掻き回し、過去へと連れ戻していく。
 それは遠い記憶。

『どうなってるんだ、こんな……』
『だめ、こんなところで死んだら』
『あのまま死んでた方が楽だったのかな』
『ふざけないでください! 何をするつもりですか!?』

 叫びが聞こえてくる。
 自分の声と他人の声とが激しく重なりあい、当時の風景が色鮮やかに蘇る。
 熱。
 腐った血の臭い。
 今にも崩れそうな建物。
 自分を引く手。
 氷のように冷たい床。
 僅かな笑顔。
 衝撃と決心、走り、休む暇など無く、直向きに。
 行き着く先を見定められぬまま。

『笹波白は死んだも同然なんだよ』

 猛スピードで駆け抜けていく記憶の濁流が終盤に差し掛かった頃、乾いた唇が開いた。
「……死んだんだ。笹波白は」
 噛みしめるように言い聞かせる言葉に。下唇を噛むと、自分の制御を超えた力が肌に食い込み、舌に血の味が流れ込んできた。
 力の宿っていない深緑の瞳を、そっと瞼が世界から隠した。
 あの頃に戻りたいとは決して思わない。けれど、過去を忘れることは出来ない。現在は過去の積み重ねで、記憶とは烙印だ。焼き付いたまま一生涯薄れない。いくら拒絶していても、ふとした拍子に雪崩のように襲いかかってくる。唐突な再来に対し、抗う術は無い。
 刻み込まれた日々の記憶は彼を今もなお縛り付けている。
 バハロをまだ先に控え、夕陽はもうじき山の向こうに落ちようとしていた。

( 2012/03/13(火) 17:14 )