Page 8 : 名前
「誰だ」
これまでの高揚した口調とは打って変わって、男は脅すような重い声を発した。
沈黙する少年の足元からは代わりに微かな摩擦音がした。警戒しつつ様子を探っている様子である。
空気が冷たかった。気温としては蒸し暑いが、雰囲気が氷柱のように冷たく鋭く、一触即発の危険がはらまれていた。ラーナーはその空気に耐えられず、地に身を投げたまま後ずさった。
少年はしばらく唇を噛んだままだった。
と、少年の更に後方から音がした。人間の足音の類とは異種である、軽快な硬いものだ。男は眉間にしわを寄せ、音の主に目を配る。奥からはまず夕日色の光明が現れた。暖色が折り重なって風に揺れる光は、炎によるものだ。四本の脚で堂々と歩く生物。白い体毛は暗闇によく映える。
ポニータだった。長い首には少年が背負っていた鞄がぶら下がっている。背にも何かが乗っており、男はその正体に気付いて舌を打った。
白と青、そしてピンクとカラフルで細い体をしているポケモン、バリヤード。その上に重ねられているのは、片手にスプーンを持ち、五芳星を象る額を持つポケモン、ユンゲラー。いずれも干からびたようにのびており、すでに指を動かす力すらもなく気を失っているようだった。
周囲をバリアで囲っていたこの場所に少年が訪れた理由もラーナーが自由になった理由も、気絶したポケモン達の存在が物語った。
「やってくれる」
男は苦々しく吐き捨てた。
沈黙を守っていた少年だったが、もう一歩足を突き出した。
「黒の団だな」
歩くようなゆっくりとした声に男は硬直した。
ラーナーには聞き覚えの無い単語であったが、
しばらく凍りついたような沈黙が続いていたが、そのうちに男は口元を釣り上げ嘲笑を浮かべた。
「これは、君の相手が先だな」
そう言いながら、凶器を左手に持ち替えてロープに振りおろせば、ロープは不気味な音を立てて真っ二つに分かたれた。
反動で少年は軽く後ろにのけ反る。男は右腕に巻かれていたロープをすらすらと器用に解けば、右腕は蒼白に痺れていた。滞っていた血がまたゆっくりと流れ始め、慣らすようにぶらぶらと振る。
少年は用済みと化したロープを道端に投げ捨てる。ポニータは足を畳み、背に乗る二匹のポケモンを滑らせるようにゆっくりと下ろした。その動きには繊細な優しさが含まれており、正反対のような一人と一匹であった。
男と少年の身長差のある視線がぶつかる。
音は再び消失。薄い雲が月の下を通過し、月光は水に溶けたように薄くなり、暗闇は濃度を増す。只ならぬ緊張感であった。固唾を呑んで見守るラーナーの背筋には寒気が走ったが、立ち去ろうとはしなかった。間一髪のところを助けられたとはいえ恐怖心が完全に拭われたわけではないが、むしろ祈るような切実な高揚感が生まれていた。
少年は目を細めた。男は右手が正常に動くようになったのを、手を閉じまた開いて確認し、ナイフを再び右手に持つ。肉体を裂く巨大な爪のようだった。
開戦の合図を待つような静寂。
月が雲から再度姿を現す。白く澄んだ光。ほぼ満月に等しい美しき造形をしていた。
先に動いたのは少年の方だった。スイッチが入ったように地を蹴り、男が気付いた時には目の前にやってきていた。見開いた黒い目が対象を掴んだと同時に、少年は跳んだと同時に勢いそのままに足を思い切り回し、男の顔面に襲いかかる。男は咄嗟に左腕でそれを受け止める。が、固めた腕にかかった衝撃に息を詰めた。躊躇の欠片も無い攻撃だった。体格としては少年が遙かに劣っているにも関わらず、想定外の重みに男の中で余裕が消える。
電光石火の如き一撃は不発に終わったが動揺はしない。受け止められた足でそのまま男を突き放し、僅かによろめいた隙を逃さない。重心が低い。右手に力がこもり、視線は男の腹部に向けられていた。
鳩尾に鈍い音。突き上げる重いアッパー。体格が違うからこそ、懐には潜りやすい。
男から呻き声が漏れた。
続けざまに余った左手で顔面を殴りにかかれば、男は危険を本能で察知し、右腕を固めガードしようとする。が、腹への凄まじい衝撃は生半可なものではない。ガードは甘い。少年の芯の通った力が男の防御に勝り、男は足下からよろめいた。
「くそっ」
男は腹を押さえつつナイフを少年に向け直線状に伸ばした。が、刃物とはいえど、狙いを定めずして繰り出した攻撃を受けるほど相手は鈍くない。少年は頭を下げて容易に避けてみせ、刃は空を切り、逆に伸びた腕に少年の掌が迫る。掴まれる、その指が触れたと同時に振り払い距離を置いた。
腹部への強襲が響いている。引きずる痛みであろう、そのことに苛立ちを隠せない。
一方少年の顔は冷ややかだった。疲れを感じさせない。
何度かの素早い打撃を受けて男は理解したことがある。少年は男よりも小さく、更に細い身体をしている。しかしどこから沸き上がるのか、単純な力勝負では彼の方が上手のようにさえ思われた。何より動きに迷いが無い。
男は唾液を吐き捨てる。血の味がした。いつのまに口内を切ったか。
不意に、油断は禁物だと釘を刺した上司の言葉が過ぎる。あの時は慎重すぎると内心一蹴し、右から左へと流していた。それもそのはず、どこにでもいる、ごく普通の姉弟を殺害するだけの簡単な仕事であったはずだ。子供に無様にも押されていることになるとは夢にも思っていなかっただろう。
彼の黒い瞳が少年をとらえる。深淵のような黒であった。先程までのラーナーに向けていた軽率な雰囲気は跡形もない。
こちらから仕掛けるか、受け止めるか。逡巡する男は唇を噛み、刃物を突き出したまま少年の様子を窺う。月光に照らされ風になびく少年の髪に深い緑が透ける。特徴的な外見に男の中で引っかかりが生まれた。
少年が走りだした。
男は唇のみを動かした。
「お前、笹波、白か?」
ぴくり、と、一瞬少年の動きが鈍る。しかしそれが隙となった。男は眼前に踏み込んできた少年にすかさずナイフを振った。少年は肩口で避け、僅かな動揺を隠すように再び距離を置いた。
表情は大きく変わらないが、ロボットのように感情の混ざらぬ攻撃を繰り返してきたからこそ、その行動は逆に不審であった。
男の口元が怪しく吊り上がる。
「そうか……お前がそうか!!」
そして男は狂ったように大声で嗤い出した。鼓膜を掻き乱す、醜悪の権化。その声が高らかに周りの建物に反響する。
ポニータ、と少年は呟いた。男とは対照的に、彼の表情はみるみるうちに冷めていった。ポニータもまた、元来の素朴な佇まいは影に潜み、ひんやりとした様子で男を見、頷いた。
笑い続けるのにも限界は訪れる。それでも堪えきれない笑いを隠すように左手で顔を包み込み、もう片方のナイフを持った手は天へ向かって真っすぐ突き上げられた。
周囲が蠢いたのを彼等は見逃さなかった。
少年は、眼球のみ動かし周りの様子を窺う。僅かな周囲の気配は彼にとっては手に取るように解る。ーーいる。何か、殺意をだだ漏れにしたものが。それらの数を数える。一匹二匹、ーー八匹。四方八方から追い詰めるように奴等は近付いてきている。
白と赤の毛を持つ獣達。
ザングースの群れ。どれも鍛えられているのだろう、ふくよかな身体は逞しさが秘められ、瞳には力強さが宿り、爪は月の光沢が走る。戦いから身を守るため建物の壁まで下がっていたラーナーからは小さな悲鳴が漏れた。彼女には見覚えがあった。逃げようとした先々に待ち受けていた、血走る瞳の正体と察するのに時間を要しなかった。
「貴様からだ笹波白……その女を守ったこと、後悔するんだな」高圧的なまま少年を指さした。「行け」
命令が下された直後、枷が外れたようにザングースの群は奇声をあげ、強く地面を蹴りあげ一斉に少年達へと襲いかかった。
思わずラーナーは叫び声をあげそうになる。あぶない、そんなありふれた言葉は喉を越えて今にも声として出そうだった。しかし少年は動じることもなく、その眼でザングースの動きをしっかり捉えていた。
「炎の渦」
途端、ポニータの体の炎は膨張し、首を大きく仰け反らせた。男は表情を一転させると危険を感じ後方に跳ぶ。同時にポニータの傍から少年も前方へ回避する。
鞭を地面に叩きつけるがごとく首を回せば、ポニータの口から灼熱の炎が噴射した。カーブを繰り返しポニータの周囲を回る様は、大蛇がうねりながら夜空へ昇るが如く。身体ごと呑みこんで大きな火柱が上がる。勢い余って止まることの出来なかったザングース達がその中に巻き込まれ、次々に悲鳴がつんざいた。
男は熱から守るように腕で顔を隠しつつ、呆然と眺める他なかった。
炎の渦は相手ポケモンの動きをしばらく止めることが可能な炎の技。足止めの役割を果たすそれは継続時間が長いことと引き換えにその威力は低いが、その名の通り炎で出来た渦が敵を襲う。だが少年のポニータのそれは、一般的な炎の渦と比較すればまるで桁違いの威力を誇っていた。少なくとも男は、このような巨大で圧倒的な、天にまで迫る炎の渦を見たことがなかった。
破壊を象徴する炎を前に誰も言葉が出ない。
凄まじい熱風に押されうずくまっていた少年は、陽炎のようにゆらりと立ち上がった。盛んに弾ける火花、真昼のような炎の光が逆光となり、激しい熱風で髪や服が暴れていた。
そっと右手で懐を探る。ベルトをかけるループ部分に引っ掛けていた黒い袋。そこから何かを取り出す。
二十五センチ程、直径約五センチくらいの円筒だった。ゴム素材なのか、彼の右手に柔らかくフィットしている。
男は警戒し少し足を後ろに下げる。嫌な予感が男の体中を一瞬の内に巡った。
「火閃」
少年は呟き、手に力を込めた。
直後、円筒の両端から何かが真っ直ぐに跳び出す。光を鋭く反射するそれは、四十センチほどの両刃。そしてその刃の周りにおいて空気が揺らぎ始め、刹那に刃を覆うように炎を形成する。オレンジの光、熱が揺らめく。
それは男を怯ませるのには充分だった。
ラーナーにとっては理解の範疇を超えていた。手元から噴出した炎は少年の全身を煌々と照らす。兵器のようにも、魔法のようにも見える光景は、恐ろしくも、美しくもあった。
「それは……やはり、お前は」
「違う」
男の言葉を遮る少年の声には明確な怒気が含まれていた。
「笹波白は死んだ。俺は」
威嚇と明確な殺意を込めた、炎を纏いし刃先をさっと男に向けた。
「藤波、黒だ」
少年――クロははっきりと名乗りをあげた。