Page 5 : 日常
中心街、休日に賑わう溢れんばかりの人混みの中をくぐり抜け、レンガ造りの住宅が連なる郊外の道をラーナーは歩いている。
一日中、天気予報の少しも外れることない快晴で、今も太陽は燃えるような光で町を照らしながら西の向こう側に沈んでいこうとしていた。朝は東の海から顔を覗かせ、夕方は西の山々に隠れていくウォルタの太陽を中心とした風景は、国内でも有数の美しい景観だと有名で、人々は数々の地点からその動きを目に焼き付ける。ただ幼少期から住み町を出たことも殆ど無いラーナーにとっては、他処と比べても飛び抜けて美しいのかどうかまでは分からない。この景色が普通で日常そのものだからだ。けれど黄昏時、強い西日が空を朱く染めて、根を張り巡らせたような川も建物も石畳も時計台もまとめて温もった色が差し入れられる風情ある景色は好きだった。
ラーナーの右腕の中には大きな茶色の紙袋があり、中には食料品がどっさりと入っている。時折持ち直す様子からも、かなりの重量感を物語っている。左腕には黄金に光り輝くひまわりが二輪、白い紙で簡素に包装されて揺れている。
石の敷き詰められた道を歩くたびにコツコツと硬い音。右の方に長く黒い影が平らかに伸びて、建物にぶつかると沿うように屈折した。
ラーナーの表情は沈んでいた。足の運び具合も重い。
朝の出来事を引き擦っているのである。
気を紛らわせて綺麗さっぱり忘れてしまえと決意し、ウォルタ市内を歩き回り時間を漫然と消費して最終的にはいつもの買い物だけを済ませた。結局は一切忘れることができず、植物が根を張るように記憶に残っている。鮮明に思い出せる。優しい炎の揺れも冷たい深緑も、流れた風も木の動きも蝉の声も。このままじゃいつか、殺されるよ。あの言葉が、同じ口調で反芻する。
やがて道の右側のある背の高いアパートの中にラーナーは足を踏み入れる。上へと続く階段には目もくれず、長い廊下を歩く。そして一番奥の黒い扉の前に立った。インターホンを鳴らす。中からリン、と小さな鈴の音が跳ねる。
続けざまに扉の内側から鳴り響くのはバタバタと忙しそうな足音。外まで聞こえてくるということはよほど急いでいる住民の心が伝わってくるようで、ラーナーはふと頬を緩めた。
鍵が開けられてすぐに、扉が滑らかに開く。顔を出したのは、十二歳程の男児だった。
黒い半ズボン。鮮やかな青い半そでのTシャツには、黒で何やらアルファベットが敷き詰められたようなプリントが大きく前に描かれている。髪の毛はラーナーよりもやや暗めな栗色で、瞳の色は彼女と同じ色素を抱いていた。
ラーナーの弟、セルド・クレアライトだ。
「なんだ、姉ちゃんか」
あからさまに落胆した様子だ。
「なんだって何よ。ただいま」
「おかえり」
ラーナーがドアノブを取った瞬間に、待ちかねたようにセルドは扉から離れ部屋に駆けこむ。
軽く爪先を叩いて余分な土を落としてから扉を閉める。この国には部屋で靴を脱ぐという習慣がないため、靴を脱ぎ捨てる場所はない。靴を履いたまま、重い荷物を持ってセルドの入っていったリビングへと向かう。
リビングに入ると賑やかな音が耳に入り、見ればテレビがついていた。セルドは椅子に座り真剣な眼差しでアニメを観ていた。そういえばこの曜日のこの時間はいつもセルドはテレビに夢中になる。何やら人気の少年漫画を映像化したものらしく、彼も数えきれないファンの一人だ。四十二巻にわたる長期連載漫画を友達に借りて、そしてラーナーにも自慢げに見せていた。以前熱くその漫画の内容を姉にも話していたのだが、実物は何故か読ませなかった。
大袈裟な音声が響く中、ラーナーは少々呆れた顔でセルドを見やり、持っていた荷物をテーブルに置いた。叩きつけたような派手な音が重量感を知らしめた。
花束だけは台所に持っていき、流し台の前に立つと、置いてあった空の花瓶に水を入れる。その間、ひまわりは鋏を用いて茎を斜めに切り落とし短くする。そうこう作業しているうちに水が花瓶から溢れ始めたので慌てて蛇口を捻り、背丈が低くなったひまわりを花瓶に二輪揃えて挿した。ごくシンプルだが良い具合だ。笑顔を零すと、布巾で花瓶を優しく撫でるように拭き台所から出る。明るい色の木製テーブルに花瓶を乗せれば、それだけで殺風景だったテーブルが一瞬で華やぐ。ラーナーは一仕事を終えて満足げに花を観察する。立派な存在感だ。
テレビの中から明るい歌が流れてきた。ふと何気なく見やると、スタッフロールが流れ始めている。どうやら物語は終わったようだ。セルドはそっと自分の鼻歌を重ねている。
時刻は午後七時を回ろうとしている。ラーナーは重い疲労感を感じていた。朝の出来事を引きずっているために気分が乗らず、できればシャワーを浴びて寝てしまいたいくらいだった。けれどそろそろ夕食の準備に取り掛からないと、弟に文句を言われるのが目に見えている。
仕方がない、そう思って紙袋をもう一度の中を覗き込み、トマト、茄子、肉など次々に買ったものをテーブルの上に並べていった。沈んだ時こそスタミナのつくものを。姉弟の好物、夏野菜カレーを作ろう、そう思って買い揃えた品々である。
まずは米を炊かなくては、そう思い出して、急ぎ足で台所に戻り戸棚を開ける。最下段にある透明の米櫃に手をかけた直後、ラーナーに違和感が過ぎる。いくらなんでも軽い。嫌な予感がしてすぐに蓋を開け、深い溜息をついた。案の定、だった。
中には計量カップと、指折り数えるほどの米粒しか無かった。
これではカレーライスもルーだけになってしまう。
「……セルドー」
堪えられなくなって台所から顔だけ覗かせた。
セルドはその声に気付いてはいたが振り向かなかった。
「何」
「あのさ、米買ってくる気とか……ない?」
「ない」
視線はテレビのまま、間髪入れずにセルドは即答する。
「……」
「姉ちゃん、まさか買うの忘れたの? あんなに昨日の夜、買わなきゃって連呼してたのに」
「……買って、きます」
弱々しくラーナーは頭を垂れた。
セルドは幼い見た目以上に冷静で、人の触れてほしくないところをピンポイントについてくるのが得意なのだ。本人に悪気があるわけではないのだが、天然で皮肉る性格は姉に対して特に容赦がない。
ちょうどテレビの中でエンディングを終えたのと同じくして、ラーナーは椅子にかけていた鞄を再度手に取った。
「じゃ、ちょっと行って来る。鍵よろしく」
「ん」
バタバタと忙しそうにリビングを出ていくラーナーの姿を、セルドは横目で見送った。
窓の外は夕日が沈みかけて、薄らと暗くなり始めている。
扉を開く。いってきます、と念を押すようにリビングの中に向かって放てば、いってらっしゃい、と草臥れた声が返ってくる、自然なやりとりが交わされた。
行きつけの店は近くの商店街にある。走れば五分と経たずに着くだろう。疲労感も朝の記憶も見ないふりをするように、駆けだしアパートを後にした。
東の果て、宵の空には輝く星が見え始めている。
*
「そろそろ夜が来る」
キャップ帽を深く被り直すと、件の少年は呟いた。
少年とポニータは今ウォルタの住宅街が立ち並ぶ道を歩いていた。住宅街、といっても古いものが多く、夕方にしては人通りは極めて少ない。
一度立ち止まると、片方の肩にだけかけるタイプのリュックサックをポニータの背に乗せる。着ていた上着を脱いげば濃厚な灰色のTシャツ姿になり、暗い町並みにより馴染んだ様相となった。
「ありがとう」
鞄を取り乱暴に上着を中に詰め込んで、深い呼吸をした。数度目、歯の隙間から細い息を吐き出し、一筋の静寂が彼等を包み込む。
「少しでも異変を感じたら向かうぞ」
ポニータは緊張の面もちで頷いた。
十九時を示すチャイムがウォルタ中に響き渡る。町の時計台は、定刻にこのチャイムを高らかに鳴らすのだ。町全体にその音が余すところなく響かせんとするように広がっていき、静かなる残響が夜に包まれつつある水の町に跡を染み渡らせていく。
美しい音のさざなみが細く、細く、溶けて、消えていく。
彼の周囲の空気は少しずつ冷えていく。涼しい風が髪を揺らし、隣で淡い炎は踊る。瞼の裏で広がる世界。感覚を針のように過敏に鋭利に研ぎ澄ませていく。暗闇の中で遠くの足音も聞き漏らすまいと耳を立て、変化をすぐさま察知できるように匂いをそっと探る。冴え渡っていく。雑踏。木の葉の擦れる音。話し声。夕食の香り。平穏な日常のかけらに丁寧に神経を繋ぎ合わせ、町の空気と一つになる感覚で、少年は集中力を高まらせていく。
蠢く闇を、捉えるために。