まっしろな闇












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ウォルタにて
Page 2 : ウォルタ
「……ねむ」
 喉の奥が覗くほどほどの欠伸をしてから、少年はぽつんと呟く。眠気と戦っているのは何もポニータだけではなかった。殆ど休まず夜通しで歩き続けてどれだけの時間が経過したのか、重い眠気のあまり顧みる余裕もない。
 しかしさりげないうたたねも許されたものではない。一瞬でも眠りにつこうものなら、自分が姿勢を崩す前にポニータの怒りが襲いかかる。火馬は後ろに目でもついているかのように敏感だった。
 過去に、うつらうつらと首を揺らし始めただけで、丁度橋を渡っていたところを前触れもなく川に滑り落とされた経験があった。文字通り寝耳に水だが、更に荒い出来事だ。浅すぎず深すぎず、絶妙な水深が幸いして擦り傷程度で済んだが、溺れていたか、あるいは頭でも強打して重傷を負っていた可能性もある。自分の身に身に何が起きたのか理解できずに少年が呆然と仰いだ先で、ポニータは鼻息を鳴らして全身ずぶ濡れの主を見下ろしていた。眠気や疲労を堪え人間一人乗せて歩き続けているぶん苦労も大きいというのに、騎手がのんびりと油断するのは我慢ならない、らしい。少年にとっては鮮烈な記憶だ。あまりの衝撃ゆえに、彼はポニータに乗っている間の眠気に自らに注意深くなった。
 日の出から随分と経った。太陽は高い位置に昇り、道沿いから広がる草原は青々しい。周囲は夏らしくコントラストが視界にまばゆい。身震いしていた明け方は遠く追いやられ、強い日照が気温を急激に引き上げていく。
 町は近い。現に、遠く投げかける視線の先には集落が林立しはじめている。
 ウォルタ。
 巷では別名水の町、とも呼ばれている。そう言われているのは、その名の通り水が豊かであるがためである。
 付近の山から流れる川が町の中を網目のようにいくつも流れ、面している海へと伸びている。その一本一本が透き通り、太陽光を反射して天の河を模すように煌めく。ちょうど今の時期は夏、町中でも子供の水遊びで賑わうそうだ。更に、ちょうど中心部には町のシンボルとして巨大な噴水広場があり、そのデザインも凝ったものだと名を知らしめている。国内において比較的人口の多い都市だが、古い街並みが色濃く残っており、中心地からやや東の地点には、市内一の高さを誇る古い時計台がある。少年たちのいる場所からも既に時計台は見えた。褪せた白い壁は、建物のもつ歴史を堂々と表しつつも、青空に似合ってどこか爽やかでもあった。
 そうした、いつか耳にしたような観光情報を少年が思い出している間にも、ポニータは町の中へいよいよ歩み入ろうとしていた。心なしか足取りが軽い。ゴールが近い高揚感だけでなく、早く休みたいと強い願望が伝わってくる。しかし時間を惜しみ徹夜を敢行したのは少年も同様だ。騎乗側も決して楽ではない。全身が軋み、痛んでいる。
 間もなくして市街地に入る。道端に刺された小さな標識には「ウォルタ」と短く書かれてあった。
 入って印象的なのは、石造りの建物が多い点だ。道も滑らかに削られた石が整然と敷き詰められており、蹄の音は軽快な色へと変わった。中心地へと歩みを進めるほど、住民や観光客が行き交う賑やかな空気が膨らんでいく。
 渋い色調の石畳をまっすぐ歩いていくと、やがて水の町を象徴する川の一筋が視界に入ってくる。彼らの歩いている場所より下方、石の壁に沿って、爽快な音をたてて流れていた。朝日に輝く水面に紛れて遊んでいる子供達は、歓喜の声をあげながら走り回り水飛沫を次々とあげていた。地元の住民からしてみればありふれた真夏の風物詩なのだろう。道を往く人々は、時折甲高い歓声があがれば無意識に一瞥するだけで、誰も止めようとしなければ特別な興味も向けていない。
 軋むエンジン音と共に、車が脇を次々と走り去ってゆく。
 人の多い町だった。時間帯を考えれば休日の午前中だが、老若男女満遍なく歩いている。その間を縫うようにやってくる自転車の類も危なっかしい。
 けれど少年にその心配はなかった。疲労しているとはいえど、慣れた調子でポニータは器用に歩行者も自転車も避ける。通行人も勿論避ける。その過程で殆どの人が物珍しそうに彼等を見やる。モンスターボールに入れずにいると、どこでも似たような扱いをされる。出会う人々の瞳は興味深い光を灯していたり、煌々と揺れる炎におののいたり、子供が手を伸ばそうとしたり、或いは迷惑そうに睨みつけてきたり、反応は様々だ。少年はこの国の各地を練り歩いてきたが、どの町でも共通していたし、町中で他のポニータに出会ったこともない。愛玩用にはより小型のポケモンが好まれる。炎タイプともなると尚更一般には見かけない。そもそもポケモンを連れているという時点で珍しい。そういう国だった。
 ただし、好奇の視線にはいつまで経っても慣れない。目のやりどころに困り、少年は顔を上げた。遠く聳え立っている町の自慢の時計台は、九時を回ろうとしているところだった。
 溜息を吐きながら文字盤を眺める表情には、疲労の色がはっきりと表れている。
 とりあえず一休みしたい。いっそここで今日は何もせず一日を過ごしてもいい。
 たまにはいいだろう。
 彼の心中を読みとったように、ポニータは嬉しそうに喉を唸らせた。少年は、柔らかいポニータの長い首をそっと撫でてやる。
 と、この町の地図と思わしき看板を見つける。ポニータに足を止めさせ、するりと降りて表示を一見する。観光者向けの地図のようで、ウォルタ全体の図に加え、中心部は拡大され、詳細が載っていた。万人を呼び込む観光都市としての配慮が浮かび上がって、表示が小綺麗にまとめてあるだけではなく、看板の高さは低く、こまかに点字も打ってある。
「宿は……」
 改めて地図を見回す。安くて落ち着ける宿屋が良い。しかし中心地は名前を確認する限り理想の場はないようだった。いかにも洒落た文字列が並び気後れし、徐々に範囲を外側へと広げていく。
「ここでいいか」
 ポニータが覗きこんでくる。温かい吐息に柔らかな草の匂いが浮かぶ。
 少年は候補の宿を指す。地図上ではほとんどなにも書かれていない、明らかに閑静な場所だった。密集した住居や宿だけでなく娯楽施設や観光名所など、あらゆる建物が集中している中心地に対して、郊外は過疎地のように空白が目立っている。その中にぽつんと宿がある。幸いまだ町に入ってから浅いので、比較的近い。ポニータがまたひとつ大きな欠伸をする横で、少年は宿への道筋を入念に頭に叩き込む。
 こうした行為には慣れていた。ずっと、ずっと前から。
「行こう」
 ポニータに声をかけ、今度は自分の足で地を歩き始めると同時に、帽子を深く被り直す。誰にも顔を見られたくないかのように、長い前髪が目元を覆う。
 やや遅れてポニータは少年の背中を追うと、炎は軌跡を描くように揺れて、淡い火のさきが散っては、消える。
 ここは賑やかすぎて、彼等には少し眩しい場所だった。

 *

「ありがとうございましたー」
 笑顔でバスの運転手にお礼の言葉を言い渡す。続いて硬貨を払う音が、耳心地に良い。
 ラーナーは軽い足取りでバスを降りた。
 降りるのは彼女一人だけ、外は無人。すぐに扉が閉まって発進すれば、砂をタイヤで豪快に巻き上げて離れていく。その薄汚れた赤い小型バスの背をしばし見送って、視界で米粒のようになった頃、改めてラーナーは周りを見渡す。顔を上げると、日光が眼球に突き刺さる。思わず手を額に当て、目元に陰を落とした。
 静かだった。ウォルタ内でありながらも、彼女も住む中央地区とはかけ離れた風景だ。住宅は少なく、見渡しても指で数えるほどしかない。いつでも賑わい、所狭しと建物が並ぶ中心地とは違い、人も見当たらない。
 その分、自然音は町中よりも清らかに渡る。柔らかな緑が風に揺れてサラサラと音に、山よりたどってきた水流と織り成す美しく爽やかな協奏。中心部とは時間の流れ方も異なるような、わたで包み込むような穏やかな空気だ。度を超えた暑さがもたらす太陽の光さえも、鮮やかな青い空と相まって夏を演出し、すがすがしい。
 波打ち際もいいが、この場所もラーナーは好きだ。思いっきり深呼吸をして身体中を新鮮な空気で満たすと、口元に笑みを浮かべながら歩き始める。
「ン〜……ンンンン〜」
 鼻歌まで零して、気分は好調。というのも、寝坊したがために乗る予定だったバスを逃すと思ったのに、間に合った点が大きい。危うく目の前で発進しかけたが、運転手が必死に走るラーナーに気付いて待ってくれたからだ。全力で走ればなんとなるものだ。その過程で恐らく沢山の人に迷惑をかけたのだけど。脳裏にぶつかりかけた人々が浮かんでくるが、ラーナーの心は晴れ晴れとしていた。やはろ占いはあてにならない、寝坊こそしたものの順調な一日の滑り出しだ。
 軽い足取りで乾いた地面を進んでいく。右方向に古い民家が建っていて、その横を抜けようとした。
 曲がり角。
 慣れた道。風が流れ、草が揺れた。民家の塀から道に投げ出され、折り重なるように波打つ木々とその木漏れ日の下。

「……あ」
「あ」

 互いにはっと立ち止まる。
 角を曲がろうとして、不意にラーナーの前に現れたのは、見たこともない緑髪の少年と、炎の盛る馬のような生き物だった。
 それが、彼と、彼女の出会い。


( 2012/03/03(土) 19:28 )