Page 1 : 本日は快晴なり
太陽が長い時間を経てようやく顔を出す。
朝の気配が暗闇に淡く侵食していく。日輪が山のむこうから現れた途端、まばゆい光線があたりを照らして、地上はゆっくりとまぶたを開く。
ちょうど、少年の視界を直射した。
あまりの眩さに気怠そうな表情を浮かべて、キャップ帽のつばを下げた。濃くなった影の下で細くなるのは、ほとんど黒に近似する瞳。光に僅かに照らされて浮かび上がる濃緑をたたえた双眸。
静寂のまんなかを、ゆったりと音が明滅する。
彼の乗っている美しい毛並みのポニータが、乾燥する地面を歩く蹄の音だ。
そのポニータの瞼も少年と同様に薄ら閉じて、生々しく欠伸する。疲労の滲んだ足取りは重く、時折立ち止まってはなにか訴えかけるように振り返り、少年に切実な視線を向ける。ポニータの訴えはひしひしと伝わっているが、背中に乗る主は見て見ぬ振りを続けている。逃げるように視線を右の方へ逸らした。
朝陽に照らされているのは、平凡に静まりかえる、絵に描いたような田園風景だ。
四方どこを見回しても、歩いている道の脇には田圃ばかりがひたすらに広がっており、青々と豊かに伸びた穂は力強く、ほんの凪風程度では微動だにしない。遠景に聳える木々の繁みまで余すことなく続いている姿は、目前を穂の海が広がっているかのようだった。早朝のおかげもあるが、人気がまったくなかった。唯一人の気配を浮かばせる民家も、一軒、しばらく歩いてまた一軒と見えてくる具合だった。
足下は舗装されておらず、細かい砂の道が田圃の間にしんと延びている。無数の足やタイヤで踏み固められてできたのだろう道は、無作為なおうとつがありつつも、ほとんど平坦に慣らされている。ポニータにとっては硬質なアスファルトや歴史的景観を重視した石畳よりも、砂地や草原といった自然に近い道の方が足への負担が少なく、好ましい。だがそんな流暢なことも言っていられないくらい、眠気を増幅させているポニータはいよいよ不機嫌に鼻息を荒くしている。
が、少年は無視を貫き、ポニータに誘引されるように欠伸をした。夜間に冴えた空気が、僅かに露出した肌を不意に震わせる。
「何もないところだな……」
改まった感想に賛同するように、ポニータは細々と喉を鳴らし、ゆっくりと頷く。
少年はそっと微笑み、ポニータの額を揺れている炎の奥を撫でる。柔らかい耳を巻き込んで、長い首の後ろまで下ろす。指の先まで優しい。もうすぐだから、と宥める声もまた穏やかだった。
不満げなポニータだったが、そうされては返す言葉も無いかのように――ポニータは人語を話せないが――諦めて、溜息をついた。
少年は再び視線を上げた。
そしてふと、ある民家が目に入る。
地震が起これば、あるいは突風が起これば抵抗なく倒れてしまいそうな、乾ききった掘建小屋のような小さな木造の家である。近付けば、風で家の軋む音が容易に耳に届くだろう。頼りなく貧相な構造が遠目でも感じ取れる。
だが、彼の目に留まったのは、正しく記せば、死に際に立ちながら堪えている建築物ではなく、家の前にいる人間だった。
子供だった。
七歳頃といったところか、それよりも若いか、どうあれ幼い少女である。泥や埃で汚れ草臥れた服を着ていて、靴も靴下も履かず、素足である。黒い髪の毛は整えておらず自由奔放に伸びきって跳ねまわっていた。どれだけの間洗っていないのか、髪に埋もれた可愛らしい童顔も遠くから観察しても分かるほどに汚れている。真剣な顔つきでせっせと小さく細い身体を動かしているようだが、具体的に何をしているかまでは少年の瞳に明確に映らなかった。
けれど自然と理解はできた。深い溜息をつく。
「ここも、か」
その声は憐れみでも悲しみでもなく。
諦め、に近かった。
*
『今日もウォルタはとても良いお天気に恵まれ、絶好のお出かけ日和となるでしょう―』
小さな部屋の机上に鎮座する小さなラジオから毎朝お馴染みとなっている女性の声。爽やかな朝を己の声ひとつで表現するはきはきとした喋り口からは、満面の笑みを浮かべている姿まで想像できた。
そしてそ声に呼応するように、窓からのぞく空は雲ひとつない夏の青空が広がり、太陽は力強く地上を照りつけはじめている。確かにあまりに絶好調な天候だ。既に気温はぐんぐんと上昇しはじめ、時計の針はもうじき朝の九時を指そうとしていた。
一方、部屋の中は騒然としていた。
「ああーもうっ時間がきちゃうじゃんっ」
部屋の主である少女、ラーナー・クレアライトは背中まで伸びた栗色の髪を懸命に櫛で梳かしていた。赤いラジオの隣で鏡を立てかけ、必死に身だしなみを整えている。その動きは慌ただしく、覚束ない。寝坊をしてしまったのだ。昨日、油断して夜遅くまで遊んでいたのがいけなかった。
壁にかけてある人気キャラクターの時計が気になって仕方がないが、無情にも時間は誰しもに平等に過ぎていく。今日は世間では休日だけれど、ラーナーには朝早くから予定がある。
『――それではおまちかねの、今日の占いにいきましょう!』
ラーナーは赤いゴムを取り、鏡で確認しつつ、慣れた手つきで髪を高い位置で一つに束ねる。
『今日の一位は! 魚座のあなた!』
手を動かしつつ、耳をちらりと傾ける。残念ながら彼女は魚座ではなかった。
女性キャスターは次々と駆足かつ一切の滞りなく、順位から星座の名前、簡単な説明からラッキーアイテムまで軽々と羽ばたくように読んでいく。きちんと聞き取れるちょうどいい塩梅なので、横耳に入れている程度でも不思議と浸透していく。何故つっかえずに舌を走らせられるのか、ラーナーにとっては昔からの疑問の一つだった。
しかし一向にラーナーの星座は読まれない。まさか。嫌な予感が彼女の脳裏を走る。急がなければならないのに真剣に耳を立ててしまう。いや、そんなことあってたまるか。静かな抵抗も虚しく、いよいよ十二番目まで出てくることはなかった。
『残念ながら最下位のあなたは、双子座のあなた!』
ついに動きを止め、音声に釘付けになる。
『いろんなところで転んじゃう日。足元には気をつけて! 家の中にいた方が安全かもしれません』
今まさに家を出る準備を進めているというのに。続く言葉を待つ。
『そんなふたご座のあなたに、もやもやを吹き飛ばすラッキーアイテムをご紹介!』
身支度を一時止めたまま、ラジオに集中する。もったいぶるように、若干の間があいた。
『赤いキーホルダーを常に身につけて! そうすれば運命の出会いがあるかも』
「……」
しばらく考え込むと、ラーナーは以前友人とお揃いで買った赤い星のキーホルダーを机の引き出しから出した。エナメルカラーの、目立つ代物だ。占いを信じているわけではなかったけれど、勧められてしまえば信じていなくともやっておいてみたくなるたちであった。
キーホルダーと、それを持った右手首のブレスレットが同時に目に入る。窓からの陽光を、手首を囲う白い石の一粒が反射して、一瞬、彼女の栗色の瞳を駆けた。
掌を見て、俯いた瞳が朧気に光る。
「……出会い、か」
ぼそりと呟き、プラスチック製の一等星をデニム生地の短パンのポケットに入れる。
ラジオ番組は占いコーナーを終えて、しっとりとしたフリートークのエンディングへと入っていった。先程までとても近くで聞こえていたはずなのに、ずっと遠くで発せられているような電子音が部屋に霧散する。
彼女の中で、時間が止まる。
現実は、しんと過ぎてゆく。
賑やかな番組は終わりコマーシャルが流れ始めると、指先で叩くように主電源を切った。
同時に時計は九時を指し、彼方で鐘の音が鳴りはじめた。ウォルタ市内中心にある、名物の古い時計台の鐘だ。浪々と街のすみずみまで音の波動は伝わっていき、それに呼応するように窓の外で小鳥達が可愛らしい鳴き声を放ちながら空へ羽ばたいていった。飛び立たれて、さびしげに木々が揺れる。
風の音。
「……行かなきゃ」
目を醒ます。間に合わせなければならない。一年に一度だけ来る大切な日、大切な時刻。
椅子に置いていたベージュのショルダーバッグを取る。使い古された中身を一瞥してから、逃げるように部屋を飛び出した。止まっている場合などではないのだから。
外の世界は朝から活気づいていて、人々の笑顔が溢れんばかりに走り回っていた。
水の町と呼ばれるウォルタは今日も大勢の人で賑やかで平和。それは日常的な景色。今日もいつもと同じような平凡で穏やかな休日になる。そんなこと、当たり前すぎて誰も疑ってすらいない。
それでも物語は、既に始まっているのだ。
例えそれが、どんなに先の見えない暗闇の中に歩いていく道だったとしても。
それでも物語は、既に始まっているのだ。
例えそれが、どんなに涙を止めることのできない道だったとしても。