Page 11 : 弟
深く閉ざされていた瞼はゆっくりと上がり、澄んだ栗色の瞳が姿を現す。
優しい茶の天井。キャラクターの壁掛け時計。見たことのある、いや、見慣れた景色がそこにあった。布団の温もりはベッドの上にいることを気付かせた。ゆっくりと体を起こす。途端に首に激痛が走り表情を歪ませる。おかしな姿勢で眠っていたようだ。
首を動かさぬよう慎重に部屋を見渡す。本やノートが積み重なった机。電源を切ったラジオ。縫いぐるみがいくつか乗っているタンス、引き出しは一つ開きっぱなし、中から服が覗いている。部屋は暗い。外も暗い。白いカーテンの隙間からは月光と思われる柔らかな光が注いでいる。
頭が回転していなかった。
自分は今まで何をしていたんだっけ。
自分は今までどこにいたんだっけ。
「――!」
ラーナーは弾かれたようにベッドから降りた。痛みを我慢して確認を急ぐ。服装は変わっていない。しかし点々と黒く焦げつき、煤はつき汚れている。はっきりと何が起こったかを何よりも鮮明に物語る。
ここは彼女の自室だった。家具の配置も部屋の匂いもどこか雑然とした雰囲気も、全て今までと同じ部屋だった。
何故今ここに自分がいるのか。さっきまで確かに外にいて、炎が舞っていた。記憶は突然途切れている。あの表情。彼がどこか悲しそうな顔で自分を見ているところから覚えがない。
ラーナーは部屋を駆けるように飛び出した。隣り合わせのリビングに直接出る。今日は月光が明るい夜だった。深い暗がりだけれど、電灯が点いていなくとも窓から光が零れてくる。
柔らかな光に照らされながらも暗いリビング。静かだった。夏でも夜中だと熱は控えめに、ひんやりとした空気を漂わせている。冷たいフローリングの上を裸足でそっと彼女は歩いた。息を呑むほど無音で、自分の家のように思えなかった。
壁に掛けられた小さな時計を見る。秒針が音を立てずに滑るように盤面を走っていた。三時二分。随分と眠っていたようだ。
体に気怠さが残っている。足取りは重い。ゆったりした足を止め、テーブル上に目をやった。今日自分が買ってきたひまわりの入った花瓶と、コッペパンの乗る青い皿があった。更にその皿の下に、四つ折りのメモ用紙がある。暗い中で白はとても映える。彼女はそれを慎重に引いて暫く動かなかったが、やがて恐る恐る紙を開く。黒い文字が敷き詰められている。鉛筆かシャーペンで書かれた、小さな文字の走り書き。けれど中心が整えられ、読みやすい文字が並べられている。
ラーナーは立ったまま、目で文字を追いかけはじめた。
「かなり頭が混乱してると思う。
勝手ながら、あんたのこと、いろいろ調べさせてもらった。
もうあんたも部外者とはいえないから、ある程度知っとくべきことはここに書いておく。
まず、セルド・クレアライトのこと。
部屋にはいないし、周辺にもいるという情報は無い。
殺害されて、連れて行かれたという可能性が高い。
セルドが殺され、あんたが殺されそうになったのは、ニノ・クレアライトの子供だからだ。
多分あんたのブレスレットも狙ってる。
そして、今日あんたを殺そうとしたのは、黒の団という組織だ。
奴等はあんたを殺そうとしている。今日に限ったことじゃない。これからも狙われる。どうして長期間何の音沙汰も無かったのか分からないけど、これだけは確かだ。
あまり詳しくは書けない。
この手紙を読み終わったら、粉々にちぎって捨てるか、燃やしてほしい。
なるべく周囲には言わない方がいい。言ったところで何も解決しないし、逆に危険だ。
昼間にも言ったけど、とにかく逃げろ。
もうウォルタから出た方がいい。死んじゃいけない。
今は少し休め。食べ物を置いておく」
所狭しと書かれた手紙はそこで締められていた。
ラーナーは呆然と手紙を見つめる。一度読んだだけでは理解が出来なかった。何度も何度も文を、言葉を一つ一つを噛みしめるように読み直す。
やがて、思い出したように突然走りだした。弾かれたようにリビングを出て、玄関に向かう。扉の鍵はかかっていない。不用心極まりない。しかしそんなことはどうでも良かった。ドアを勢いよく開け、息を詰めた。
何も、無かった。
確かに、ここにセルドが、居たはずなのに。
奇妙なのは血痕の一つも残されてはいない。普段と同じコンクリートで出来た無機質な廊下が伸びているだけ。
深夜の静寂が町を包み、自分が余所者であるかのようだった。
手が震える。目の前の現実を信じられなかった。確かにラーナーの記憶の中で、セルドはここで倒れていたのだ。
殺された。
嘘だ。
そう思い、扉から離れる。扉が再び閉まる頃には、彼女は別の部屋へと走っていた。セルドの部屋だ。普段は彼が極度に嫌がるため、入ろうとも思わなかった空間。
「セルドっ!」
扉を思い切り開け放つと同時に、一筋の希望を願って名前を呼んだ。反応した彼が驚いて、そして怒ってほしい。その存在を確かめたい。
しかし現実は理想とはかけ離れていた。
やはり月光に照らされたその部屋には誰もいない。
綺麗に保たれた床。跳ね除けられた白い布団が乗ったベッドに、漫画が積まれ、鉛筆やペンが放りっぱなしの机。古くなって傷だらけになってしまったけれど、彼がとても大切にしていたサッカーボール。生活感に満ちており、まだ彼の呼吸が残っているかのようだった。
ラーナーは入り口で立ち竦む。
何もかもいつだったか見た部屋と同じだった。部屋の主がいないことを除いては。
突如込み上げてくるものがあった。言葉では言い表すことのできない、黒くて重いものが胸の奥で膨らんでいく。
「セルド……出てきてよ」
呆然としたままセルドの部屋に入る。小さな掛け時計の音が部屋の中で淋しくこだましている。
雑然とした学習机に置かれた漫画を手に取り、力なくページを捲る。今日セルドが楽しそうに見ていたアニメの原作だ。しかし、とてもじゃないが読む気にはなれない。脱力感のまま机上に戻す。
風が肌に沁みた。暑かったのだろうか、窓は開けっ放しにしていて、ラーナーの部屋と同じ種類の白いカーテンが揺れている。窓に近寄りゆっくりと閉める。だんだんと風が無くなっていって、最後には消えた。カーテンもおとなしくなる。
立っていられるのが自分でも不思議なくらいだった。本当は足も震えている。今にも折れて、倒れてしまいそうだった。それなのに彼女は立っていた。彼女は、生きていた。
過ぎる血のぬるい感触。視界がぐらりと揺れた噎せ返る臭い。
ふと、彼女の視界の端に金属的な光が映る。
月光を浴びて銀に鈍く光る、鋏が机に放置してあった。
金属的な光沢が強制的に記憶を引き出させる。黒の団の男が持っていたナイフが脳裏を走る。蘇る恐怖感を堪えるように、右手で服の胸元を握る。更に左手を重ね、深呼吸をする。
鋏を手に取る。青いプラスチックの持ち手が闇に浮かび、僅かな夜の光を刃先は補足照り返す。使った跡が傷となって刃に残っている。
ラーナーの頭の中にセルドの顔が映る。楽しそうに笑った顔も怒った顔も、何かを我慢しているのか今にも泣きそうな辛い顔も、全てが思い出せる。記憶を呼び戻せば、何もかも思い出せる。
親を早くに失くし近しい身内も他にいないラーナーにとって、ずっと支え合って生きていた唯一の血の繋がった家族だった。
決して切ることのできない、固い絆があった。
今でも頭の中で彼の声が響きわたる。
「おねえちゃん」
とラーナーを呼んでいる声がする。
光る刃。弟の声。外で吹く風。時計の小さな音。
ラーナーは鋏を動かして、首元に添える。
「死んじゃいけない」
書かれた文字が脳裏を掠める。
彼女はその瞳に光を宿した。決意の光だった。
瞼を閉じ、その右手を動かした。