Page 10 : 静寂
「火閃」
猛烈な二つの火柱が収束に向かう最中、クロは呟いた。同時に炎は刃に吸い込まれるように消えていき、刃は円筒の中に滑らかに入っていった。
瞬く間に気温が下がっていく気配は、戦いの終わりを示している。
役割を果たした火閃を元のウェストポーチに収めると、クロはようやく緊張を解き、迷うことなくポニータに歩み寄った。屈みこみポニータの足を診る。切なげにポニータは喉の奥でくぐもった声を鳴らす。クリーム色の美しい毛並みは乱れ、もがれた鳥の羽のようにあたりに散らばっていた。何よりも目を見張るべきは、血。右の前足から湧き出るように出血している。針が直撃したのはやはり痛手だった。更に異変に気付きクロは顔を歪ませる。
「毒か」
苦々しげに呟く。ポニータの口を手で開き、口内の様子を窺う。ぐったりと横たわったポニータは抵抗する素振りも見せない。背後で余った炎の光を頼りに観察すれば、普段であれば血色の良い舌が鈍い紫色に染まっている。
クロは淡々と対処を始めた。右手で腰を探りその手に握られてきたものは、赤と白の球体、モンスターボールだった。
「頼む」
声と同時に開閉スイッチを押し、ボールが開く。途端中から白い光が飛び出し、クロの近くに降り立つ。光は瞬く間にいきものの形を象り、その中から実体が姿を現す。大きな翅のような物体が花咲くようにパッと目につく、その模様は巨大な目玉を連想させ、威嚇的な険相であった。しかしそれは翅でなく、巨大な触覚である。それとは対照的な愛くるしい淡い水色の瑞々しい身体、黒い瞳。アメモースだ。
「水遊びだ。出来るだけ軽く。ポニータにダメージを与えるな」
命令しながらクロは立ち上がり、小走りでバリヤード達が倒れている場所へと向かう。気絶したポケモン達の傍らにある自分の黒い鞄だけ拾う。
その間にアメモースは身体を僅かに震わせ、小さな口から水を噴射させた。水遊びは攻撃用の技ではない。本来は辺り一面に巨大な噴水のように水をふりまき、炎タイプの技の威力を削減させる効果のある技だ。が、今回は意図が異なる。ポニータの足に優しくかければ、水と共に血が絶え間なく流れていく。
クロはポケモン達の元に戻ると、鞄の中から青いタオルと茶色の小さな瓶、それに包帯を次々と出した。まずタオルをポニータの右足の付け根の方で固く結ぶ。
アメモースに水を止めるよう指示すれば、忠実に流水が止まる。クロは包帯を手に取り、止血箇所を器用に包んでいく。白い包帯に痛々しい赤がくっきりと浮かび上がり、すぐにその上に新しい布が巻かれていく。
「思ったより早く止まりそうだな」
緊迫した表情は殆ど変わらないが、声色には安堵が含まれている。
全て使いきって丁度結び終わり、休む暇なく手を瓶に伸ばす。コルクを外して黒い錠剤を二粒掌に転がした。解毒剤である。
「ポニータ、呑み込めるか」
ポニータは弱々しく頷いた。クロは口内へ手を突っ込み、喉へと錠剤を押し込むように送り込んだ。引き抜いた後、ポニータの喉が鳴る。
クロは息をついて腰を下ろした。一気に緊張の糸が緩み、疲れも同時に圧し掛かってくる。
殆ど弱まった炎と入れ替わるように焦げた異臭が漂い始める。
安堵も束の間、クロは気怠そうにしつつも思い出したように立ち上がった。ズボンに付いた汚れを手ではたくと、腰を屈めてポニータの頭を撫でてから、背を向けて歩き始める。
「……」
「あの熱風と炎圧の中で意識を保っていられたか。……どうして逃げなかった」
見下ろされたラーナーは沈黙を貫き立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。すぐに崩れて座り込んでしまった。目は泳いでいる。風にさらさらと靡いていた長い髪は熱風にあてられてちりちりと乱れており、全身が汗ばんでいる。
暫くしてからラーナーは顔を上げる。月明かりを背に、彼女の前に静かに立つ少年がひとり。
「逃げちゃだめな気がして……」
狼狽える声音には力が無い。それでも訊きたいことは山のようにある。震えながら唇を動かした。
「あのひと、は、その……死んだ、の?」
一つ一つの言葉を絞り出すように言うと、クロは面食らったような顔をして、肩を落とした。
「あの炎に生身の人間が耐えられるはずがない。ポケモンなら耐性があるから気絶してるだけだろうけど」
ラーナーの胸の奥からこみあげてくるものがあった。
淡々としたクロの態度。自分が人間を一人手をかけたということにまるで気付いていないかのように、無表情で変わらぬ抑揚だった。
信じられなかった。目の前にいる人は顔に幼さを残した、ラーナーと同じくらいの年齢であろう人間。
同じ?
本当に同じ、人間?
「なんで……」
「なんでって……あんた、よくそんなこと言えるな。もう少し俺が来るのが遅かったら殺されてたこと、判ってないのか?」
クロ自身も彼女の言葉が理解できないでいた。だが、何もかも混乱したラーナーと、状況を理解しているクロとの間では溝があまりに大きい。
ラーナーの脳裏に笑みを浮かべてナイフをかざす男の姿が映る。途端に身の毛のよだつ冷たいものが体中を走りまわる。
「あのひと」
男の口の動き、放った言葉。ラーナーの中に押し寄せるように蘇ってくる。
「お母さんと、お父さんのこと知ってた」
クロは息を詰めた。
「恨むなら、君の母と父を、恨むがいいって言ってた。どういうこと。あなたも知ってた……お母さんとお父さんがどうしたっていうの。だってお母さん達は車に……あたしは……セルドは何もしてないのに」
芯まで疲弊して狼狽する姿は脳内の回線が絡まっているようだった。クロは長い息を吐き、徐にしゃがみこんだ。困惑に染まるラーナーの瞳は、近くで見ればとても綺麗な栗色のしていた。あの人に、とてもよく似ていた。
右手でポケットから何かを出すと、そのままラーナーの前に手を伸ばす。
「なに……っ」
しゅっと軽い噴出音の後、ラーナーは目を見開く。が、すぐに瞼が閉じてしまい、力を全て失ったように前に倒れこんだ。クロは難無く受け止める。彼の右手には、掌程の白いスプレーがあった。中にはポケモンの技、眠り粉が含まれている。かなり即効性のあるもののようで、証拠にラーナーは既に小さな寝息をたてている。腕の中で膨れるラーナーの温もりが、クロにも直に伝わってくる。既に身体から忘れ去られていた、あたたかなもの。目に見えない、光のような。
複雑な心境を内に数秒そのまま動かなかったクロだが、一度ラーナーを近くの壁にもたれかけさせる。
感傷に浸っている暇は無い。まだやらなければならないことが残されている。ポニータに期待できない分、少しでも早く始めなければ、時間がない。
「アメモース、悪いけどもう少し手伝ってくれ」
声をかけられたアメモースは笑顔で頷いて、その大きな触覚を広げて上空に飛ぶ。
意気揚々ともとれる自由な飛行姿にクロは不意に表情を綻ばせ、すぐに引き締めた。
騒ぎになる前にここを片づけなくては。