まっしろな闇












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続・首都にて
Page 122 : 携帯獣学研究所
 ユアのいる九〇七号病室を後にし、曇った足取りのまま中央区立病院を出てすぐ、栗色の瞳に陽光が差した。
 アランは正面玄関から周囲を見回してみる。正面には主要道路へと続いていく道路が延び、その道を涼やかに広がる芝生が挟み込んでいる。病衣をまとった患者が点在するベンチに座り身体を休めている姿があった。一見ぼんやりとした表情で前を見つめている。そこから少し離れて、病院のスタッフが患者の座る車椅子をゆっくりと押しながら、背中越しに声をかけている。広々とした敷地を確保しているがゆえに、どこをきりとっても喧騒の目立つ首都の中で、穏やかに孤立する場所だった。
 芝生に踏み入り、誰も座っていないベンチを選んで深く腰掛けた。傍の広葉樹に同調して揺れる、青い木陰に身をひたしながら、ユアを思い返した。繋いだ小指はたやすく折れてしまいそうに細く、頼りなかった。あの指が、慎重に時間をかけて、寸分のくるいもなく一枚の紙を折り、重ね、開き、閉じ、完成した繊細な作品たちが窓辺に整然と並んで、背中から光を浴びていた。ユアとは対照的に、手のひらに収まる紙製のポケモンたちはどれも堂々と構えていた。鋭い爪まで的確に再現された作品群には、たくましい種族が多いように見えた。かわいいポケモンが好みだと言ったが、テレビ中継で観たというポケモンバトルでも、派手な技の応酬に目を輝かせているようだった。そこには彼女の強いあこがれが含まれているのかもしれない。家族からも社会からも切り離された部屋で、真新しい紙をつまみ、短く切り揃えられた小さな爪で折り目をつけていく。切実な所作に、アランは無力感を抱いた。そして静かに恥じた。彼女がユアを見舞ったのは、ユアの身を案じたのではなく、圭たちの行方を掴むためだった。わずかな手がかりでも得られればと足を運んだが、彼女を安易に利用しようとしたと気付き、胸が軋んだ。圭の話題を出してからことさらに浮き彫りになった孤独は、面識のなかったアランでも肌で感じとった。足を投げ出し、長い息をつく。良心が痛んだうえに、とりたてて収穫もない。
 記憶を掘りおこせば、圭は、初めて首都に着いてすぐさま単独行動をとり、ユアを見舞っていた。その誠実さを鑑みれば、以降も足を向けていたとしても不思議ではないように思った。少しだけ、期待していた。決して大きくはなかったとはいえ、いざ簡単に道を断たれてみれば、思いのほか失望しているとアランは自覚した。
 北区で根城にしていたアパートの跡地が頭をよぎり、つい、嫌な方へ考えが及ぶ。
 アランは首を振った。
 隣に置いた鞄に手を入れ、一枚の封筒を確かめた。裏を返せば、速筆で記されたザナトアのサインがある。キリから首都へ出立する直前に手渡されたものだった。


 *


 首都に向かう前日。キリの育て屋がほこる広大な草原には、まばゆい日差しが照り付けていた。
 白い太陽が青空の頂点を陣取るもとで、くああ、とフカマルはあくびをした。喉の奥までよく見えるような豪快なあくびに触発され、隣で飛行訓練の休息をとって座り込んでいたアメモースの瞳も、眠気で潤む。すぐ傍では、椅子にこしかけたザナトアが正面に厳しい眼差しを向けていた。脇には、彼女の愛弟子であったエクトルが立つ。彼らから十二分に距離をとるアラン、その間で、のどかな風景を切り裂くように、三匹のポケモンが対峙していた。一方にブラッキー、そしてエーフィ。彼らに相対するのはガブリアスだった。
 前衛をつとめるブラッキーが、ガブリアスへ肉薄する。
 ガブリアスは両腕と一体化した鋭い鎌で応対する。蒼い輝きを放ち、ブラッキーの疾走を見極め、衝突の瞬間めがけて振りかざした。瞬時にブラッキーは電光石火のごとく加速し、ガブリアスの攻撃が落とされる寸前、懐へ潜り込み、的確に顎を狙った。
 捨て身のふいうちは、ガブリアスの頭を激しく揺らし、意識を一瞬眩ませた。
 が、竜は動じない。
 衝撃で上向いた瞳は、即座に月の獣を睨んだ。衝撃の反動で体勢を崩したブラッキーが次の攻撃へと移るよりも、ガブリアスの咄嗟の反応が上回った。ブラッキーの攻撃では微動だにしなかった脚が踏み出すと同時に身体が回転、棍棒で打つように隆々たる尾がブラッキーを直撃した。黒い身体は放物線を描く。痛烈な一撃に全身が痺れたが、歪んだ赤い瞳はうろたえない。そのまま地面に叩きつけられながらすぐに立て直す。その間、アランから指示が飛んだ。後方で距離をとっているエーフィの額が輝き、五芒星を模した光がたくわえられると、ガブリアスへ向けて放たれた。エーフィの念力を帯びたスピードスターは追尾性をもち、回避を試みようと意味はない。ガブリアスは地上を走る流星を、ためらわず受け止めた。受け止められるだけの自負があった。寸分狂わぬ精度ですべてガブリアスを射るも、鎧のような鮫肌を舐めるばかりだ。が、五芒星の輝きは視界を遮った。その隅に、爽快な青空とは正反対の漆黒が描かれた。ブラッキーの放った悪の波動だった。禍々しい衝撃波を前に、ガブリアスにはかつて食らった一撃を思い出した。一旦跳躍を図ろうと地面へ力を押し出したが、縛り付けられているかのように妙な挙動で留まった。困惑する間もなく、悪の波動が襲いかかり、乾いた土煙が膨らんだ。
 エクトルは指示を出さず、ガブリアスの自己判断に任せ、バトルの様子をザナトアとともに静観していた。
「あんた、あの二匹をどう思う」
 ザナトアは、獣たちの激しいやりとりに視線を投じたまま、エクトルに話しかけた。
 エクトルにとって、未だザナトアの隣は居心地が悪い。試されたような問いかけに、スーツの下で身体がわずかにこわばる。互いに胸の内を少しばかりさらし、あやまちを痛み分けし、かつて二人の間に生まれた亀裂が癒えようとも、急に長い年月を圧縮して、気兼ねのない師弟関係に戻るほど単純ではなかった。既に関係性は変形している。ザナトアは、対等な立場で、エクトルに意見を求めていた。
「……特段、なにも。普通ですね」エクトルは慎重に言葉を選ぶものの、淡々と断言した。「秋季祭のブラッキーは手がつけられない状態でしたが、今はさほど」
 土煙が風に払われてガブリアスが姿を露わにする前に、球形のエネルギー波が飛び出した。地面を翔け、エーフィへとめがけた攻撃に、アランは再度スピードスターでの迎撃を指示した。光の密度が満ちる前に、次々と発射されていく。しかし、二つの衝突したが影響しあわない。スピードスターをシャドーボールはそのままエーフィを吹き飛ばした。逆にスピードスターは再びガブリアスのもとへと走っていく。
「アラン、今のはシャドーボールだよ。タイプを考えなきゃ!」
 ザナトアが声をはりあげる。エーフィがすぐ足元まで転がりこんで、うろたえるアランは顔をあげた。土煙が晴れ、スピードスターは突如現れたヨノワールの身体にあっさりと吸い込まれた。ガブリアスの短い影に潜んでいた霊の出現に意識が傾くと、その背後にいたガブリアスから気がそれる。既にガブリアスはブラッキーへ滑空していた。距離を詰めていくと同時に再び、鎌から爪先まで力が宿る。その姿が、客観するアランには見えた。
「まもる!」
 すかさず叫んだ声がブラッキーの耳を貫き、淡い輝きが二匹の間を分断した。厚い硝子にぶつかったような痺れる衝撃がガブリアスの爪を震わせる。軋んだ視線が、至近距離で交わった。
 エクトルは、そしてザナトアも、目を細めた。
 あらゆる攻撃を無へと引き込む彼の技は、緻密な壁ゆえに編むのに時間を要す。基本としては相手の技の先手を打ち、準備に集中させなければ間に合わない。そして緻密さゆえに、緊張と疲労の重なりゆくバトルの中では失敗も多く、連続での発動はさらに困難を極める。誤れば無防備の身体で攻撃を受け止めなければならない、脆さも併せもつ。
 しかし、ブラッキーは続けざまに繰り出されるガブリアスの攻撃を、造作もなく『まもる』で受け止める。その試行回数は、二度や三度に収まらない。鮮やかな防御は、秋季祭の湖畔での対峙でも顕著だった。その際は、たがを外したガブリアスの怒涛の逆鱗もすべて凌ごうとした。最終的にはガブリアスの猛々しい怒りがブラッキーの身体的限度を上回ったものの、エクトルにとっては忘れられない、恐怖すらよぎって、ブラッキーを看過できないと決意を固めた出来事でもあった。何度目の当たりにしても、常識を覆す光景だった。それはザナトアにとっても同様である。今に限ってはさらに、ヨノワールの発する特性が、無言の圧力がブラッキーを削っているはずだった。
「あれは、なんでしょうね」
 言葉にこそはっきりと表さなかったが、ザナトアにはエクトルの言わんとすることは理解できた。
「特定の技だけ得意というのは、普通の話だけれどね」
「それにしたって」
「そうさね。エーフィの方もね、ブラッキーのまもるほどではないが、普段の生活を見ていてもね、器用で、あれほど精度を保ったままサイコキネシスを操れる個体は、そう多くない」ザナトアはエクトルを一瞥した。「あの二匹が、元々はアランの両親のポケモンだという話は知っているかい」
「いえ……人から譲り受けたとは聞いていますが」
「とてもじゃないが、あの二匹を育てあげる腕はないからね。あの子の戸惑い具合を見ていると、ドーピングをしたとも思いにくいしねえ」
「元のおやの可能性はあるのでは」
「そう……そうなんだろう。いくらなんでも人為的さね。だとしたら、あの子はどう思うんだろうね」
 エクトルは沈黙する。
 エーフィのサイコキネシスが、ガブリアスの動きを止め、その巨体をヨノワールへと吹き飛ばした。幾度も破壊されたまもるの破片の向こう、ブラッキーは、息を切らしながらも、崩れ落ちず踏みとどまる。
「まだ大事なことを隠していそうだけど、かといって、あまり詮索するのもね。訳ありが迷い込んでくるのは、ポケモンだけで手一杯なんだけどねえ。あんた、なんか知ってたりしないの」
「いえ……」
 言葉を濁し、エクトルは話題を変える。
「首都に行くんでしたっけ」
 ザナトアは頷く。
「明日にでも、そのつもりみたいだよ。ブラッキーの暴走について、多少はあてがあるんだと」
「正直」エクトルはためらいがちに言う。「行くにしても、ブラッキーも置いていった方がいいのではないかと思いますが」
「心配する気持ちはわかるよ。ただ、考えたんだけど、もしかしたらチャンスではないかとも思ってね」
「チャンス?」
 ことごとく攻撃を阻められ、サイコキネシスによる妨害も重なり、ガブリアスの鮫肌からは苛立ちが陽炎のように湧き立つ。距離をとっていてもただならぬ雰囲気を察知したのか、フカマルがザナトアの座る椅子の背後に隠れようとする。バトルの目的は、勝敗ではない。エクトルはここが潮時と見定め、相棒たちの名を呼んだ。
 戦闘への熱がどれほど高まっていても、おやの声は的確に聞き取った。内包している熱狂を鎮めるために一歩ずつエクトルが近づいていくほどに緊張の糸がほどけていき、つられてブラッキーたちも動きを止める。緊迫していたアランが、戦闘の終了を察し、胸をなでおろしているのが見えた。
 身体中の筋肉が発熱し、頭は冷やされながらも鼻息を荒くしているガブリアスにエクトルとヨノワールが集まる。つい、幼少期の頃と比較してしまうザナトアは、男の背中を感慨深く見つめた。
 遠目でブラッキーの様子も確認するが、自我を失う気配はない。ゆるやかに尻尾を揺らしながらアランのもとへと走っていく。秋季祭での事件がすべて嘘だったように凪いでいた。普段の姿だけを切り取れば、彼がもつ不気味な体質は煙に覆われたように隠される。日常においては、エーフィもブラッキーも、おとなしくのびやかに生活しているのみで、育て屋で穏やかに過ごす鳥ポケモンたちとなんら遜色ないように見えるのだった。
 今の育て屋には、そんな彼らの本来の技を引き出すだけの強靭な肉体をもつポケモンは存在しない。ザナトアの提案をアランとエクトルが快諾したことで実現した実戦を経て、ザナトアは一つ決意を固めていた。
 エクトルは育て屋に長居はしない。ガブリアスとヨノワールの興奮の熱が徐々に冷めていくのを待ったら、別れの挨拶を簡素に済ませ、早々にキリの市街地へと戻っていった。
 日が落ち、夕食を終えたアランは、旅立つ準備をひととおり済ませた後、まどろむアメモースを隣にリビングのソファに腰掛けて、育て屋に途方もなく蓄積されている育成記録のファイルを開いていたところに、ザナトアが近付く。
「ん」
 ザナトアは、アランに一枚のメモ用紙と白封筒を差し出した。
 アランは分厚いファイルを閉じ、受け取る。メモには、住所が丁寧な字体で記されていた。首都、セントラルの、東区を示している。
「この住所は」
「首都にある、携帯獣学研究所さ」
「携帯獣?」
「ポケモンってこと。大げさな名称さね。アーレイスの、公的なポケモンの研究施設だ」ザナトアは息を吐く。「あんた、多少はあてがあるようだけど、一度専門機関でブラッキーの精密検査を受けた方がいいんじゃないかと思ってね。ついでに、エーフィも」
「この封筒は?」
「紹介状。あたしのサインをしてある。基本的には登録されたトレーナーの申請しか受け付けないがね。まあ、あたしもブリーダーとしては引退して久しいし、時効かもしれないけれど」
 向かい合わせに置かれたソファに、ザナトアが腰掛ける。
「ブラッキーが調子悪かった時に、一度町医者に診てもらったと言ってただろう。結果、なにも異常はなかったって」
「はい」
「ただ、エクトルとも話していたんだが、今はその兆しもなければ体調も問題ないように見えるとはいえ、やはりね、ブラッキーの技の出力もどうにも引っかかるんだよ」
「まもるのことですか?」
 ザナトアは一瞬面食らう。アランの瞳は静かだが、奥に厳しく冷たい光が潜んでいた。
「そう。まもる自体はね、多くのポケモンが会得できるんだけどね。細かい原理までは知らないが、あらゆる種族に共通した要素があるんだろうね。ただね、簡単という意味じゃないよ。技自体は安定させるのが難しいんだ。ブラッキーを見慣れていたらわからなくてもおかしくないけどね、本来、連続で、軽く素早く出せるようなものじゃない」
 アランは頷く。
「感覚的な話になるけれど、技を出すのに必要な過程をすべてスキップして出力しているように見えるというかね。そのあたりも含めて、調査してみたらどうかとね。たとえ原因がはっきりとしなくても、多少は解明されるものがあれば、予防線を作れるかもしれない」
「それは、ブラッキーたちにとって、負担をしいたりはしないんですか?」
 ザナトアは眉をひそめる。
「少なくとも、ぞんざいに扱いはしないよ」
「でも、ポケモンを使った研究って……」
「一般のイメージはあまり良くないかもね」ザナトアは歯切れ悪く言う。「秩序はしっかりしている。少なくとも、国内では信頼できる方さね」
「そうですよね……」
「あんた、嫌なイメージでももっているのかい」
 アランは慌てて首を横に振る。ザナトアは訝しげな表情をしつつ、続ける。
「それほど心配しなくてもいい。あたしが現役だった頃よりも精度は上がっているだろうし、それなりにはやる価値はあるだろうさ。一般データと比べた時の個体差はもちろん、どう育ってきたのか、数値的な予測も立てられるはずだ。あたしも昔、何度かやりとりの経験はある」
 足元で横たわっているエーフィとブラッキーを、二人して見やる。
「決めるのはトレーナーさね。でも、今のままでは、また不測の事態が起こったとき、同じことの繰り返しになってはね、お互いにとって、望むものではないだろう。備えというかね、使える手は使った方がいい。後悔しないために」
 アランは視線を手元の封筒に移し、またザナトアに戻した。
 その封筒は、おそらくは特権だった。どれほどの効力を意味するのか検討のつかないアランにも、薄らと理解された。そして特権とはザナトアの嫌うところであると、短い共同生活の中でもアランは想像できた。一人で育て屋を切り盛りしてきた実績や、育て屋を通じて出会ってきた無責任なトレーナーへの不信、そして悲劇をもたらしたチルタリスの事件、アランもまだ知りえない出来事が積もった末、自己責任への意識が強い。権力を利用するには葛藤もあったのではないかと、アランは想像した。裏返せば、あらゆる手段を使ってでも解明すべきだと、幾多のポケモンを育ててきた彼女の目には映っているのだとも。
「怖いですね」
 沈黙を経て、ためらいがちにアランは呟いた。
「怖いかい」
 ザナトアが言葉を繰り返す。アランは無言で頷き、隣で体を寄せてきているアメモース、そしてエーフィとブラッキーへと視線を移していく。淡くすこやかで、傷を忘却した時間がポケモンたちの間には、流れている。
 ブラッキーの暴走を目の当たりにした時、アランは、黒の団が使役していたザングースの群れを重ねていた。薬物によって強制的に身体能力を引き上げられ、代わりに理性を削り取られたザングース。そしてブラッキーにとっての本当のおやである彼女の母親、ニノもまた、黒の団に所属していた一人だとも知っている。ザングースとブラッキーが同じ状態であれば、母親が関与していないとは、考えにくい。死してもなお、現在に深く関わっている。ウォルタで、すべてが終わり、そして始まった夜、団員は告げた。恨むなら、母と父を恨めと。
 ブラッキーのためにも、過去の裏側を知る必要がある。そのために、首都に戻ると決断した。けれど。
 アランは、ソファに置いている、旅の準備を終えた鞄を探り、物に埋もれた暗闇にほそく輝く、ブレスレットをつまんだ。母親の形見であり、鎖であり、秘密である。少年が言ったことが正しければ、治癒の力を秘めているというこの道具に、彼女は一度キリの湖上で助けられたはずだった。アランは、突然伝えられた超常的な現象への驚きだけでなく、少なからず救いを感じていた。母親に守られたと、実感を得た。信じた。
 けれど。
 治癒とは、少年たちがその身に受けたものと同じく、黒の団が内戦中に始めた人体実験で得たポケモンの力だと、伝えられた。生身の人間を、強靭な兵器につくりかえるための実験だった。そして母親は、実験の初めての成功者だった。
 故郷に鎮座する墓石は何も語らない。
 脳裏で、黄金の向日葵がこちらを見ている。向日葵は、両親の好んだ花だった。花畑に立つ、像影が揺れる。ほとんど記憶のない歯抜けの土台に、自分で作り出してきた虚像を、彼女は捨てきれないでいる。
「ザナトアさんは」
 アランは慎重に言葉を選んだ。
「ブラッキーに、なにか……人の手が加わっていると、思いますか」
「思う」
 ザナトアは即答し、ソファにゆっくりともたれかかった。
「別にね、正規の方法であれば、問題はないんだよ」
「正規の方法」
「うん。あたしも、仕事ではね、クライアントの意向にあわせて、強化のために道具を使うなんてのはやっていたよ」
「道具っていうと、たとえば」
「そうさね……まだあったかどうか」
 ザナトアはおもむろに立ち上がり、壁際に置かれたタンスの引き出しを上から順に開け、一つ、掌ほどの大きさの褐色瓶を手に取る。アランは差し出されたそれを座ったまま受け取る。中には数個錠剤が入ったままになっており、瓶を回すと硬質な音がした。ラベルには商品名としてキトサンと書かれ、成分や注意項目が細々と印字されている。
「それもポケモンの能力を上げるための道具さね。国内で一般流通はしてないし、高価だから、バトルで生計を立てるようなトレーナーしか使わないし、ライセンスがなければ使えないように規制もされている」
「それは、危ないからですか?」
「難しい質問だ」ザナトアは一拍置いて、続けた。「そういう面もあるね」
 アランは顔を顰める。
「でも、使っていたって」
「必要に応じてね。効果が強い分、副作用が出ることもある。ただ、今時は、ひどい事例はほぼ聞かなくなった。開発が進んで、かなり安全なものへアップデートされている。ま、普通に育成する分には、使わなくていいんだけどね。ほんの一握りの人間が、効率を求めて使う。プロが早急に新しいポケモンを試合用に仕上げる必要がある時とかね。バトルが一般人にも浸透した外国ではもっとカジュアルに使われていると聞くけど、アーレイスじゃ、基本、ポケモンを戦わせあったりなんてしないからねえ。正直あたしも好きじゃないよ」
 ただ、とザナトアは言う。
「昔はもっとポケモンへの世間の関心は低く規制もほぼなかったせいで、粗悪な品も出回っていたからね。親世代なのが、余計に引っかかるというかね。でも、現時点、あんたに心当たりはないんだね」
「……わからないです」
 もし、ザングースと同じなら、ブラッキーにも。しかし言わなかった。
「親、小さい頃に亡くなったので、全然知らなくて」
 そうだったね、とザナトアは呟き、しばらく沈黙した。アランは身体が急速に緊張していくのを感じた。脳裏にちらつく、向日葵が咲きほこる夏の情景に笑う人は、遺影と同じ顔をしている。
「でも」
 強張りながら、声を絞りだす。
「母なら……きっとありえると、思っています。」


 *


 東区へと移動する。
 首都は、ほぼ正円に近似した都心区域、通称セントラルと郊外、つまり橋を渡った内と外でまず分かれ、そのセントラルを更に見ていくと、中央区を囲んで、東西南北に従って分割された八つの区域があり、それぞれ特色が異なって栄えている。東区は教育・学術に特化しており、大学を中心に教育機関が密集し、各企業の主幹をになう研究機関も点在している。セントラル内に住む上流階級に限らず、郊外や首都の外からも多くの知識人や学生が集まる。基本的には地価の高いセントラルにおいて、学生向けに安価な集合住宅や寮が多く建設されているのも特徴の一つだ。ゆえに、繁華街である南西区や、アミューズメント施設の集まる南区に負けず劣らず、若齢層の姿も多い活気ある場所だった。
 彼女がこの地区に立ったのは、二度目だった。名前の本当の持ち主である、青年アラン・オルコット、そして彼の師事したガストン・オーバンは、ちょうど以前彼女が首都に訪れたのと同時期、学会参加のため首都を訪れ、東区内で過ごしていた。激しく地を抉っていく突風のような冷徹な記憶は黒くこびりついており、痛みがないといえば嘘になる。
 駅前は若者達が活発に往来している。視線を左右へ揺らすが、彼らのいた痕跡は、当然、どこにも見当たらない。
 アランは人波にするりと紛れ込み、目的地へと足早に向かう。
 ザナトアから受け取った紹介状の先である携帯獣学研究所は、駅から徒歩では遠く、バスに乗って三十分ほどの距離にあった。駅から離れるほどに閑静な街並みへと変わっていき、淡白な印象もあるが、車窓越しに、広い校舎や無機質な施設が次々と現れる光景は、高層ビルが雑然と建ち並ぶ他の地区とは異なり、整然とした印象を抱かせた。進むほどに高まる緊張もあり、アランは無意識に背筋を伸ばしていた。
 研究所の前に掲げられたバス停で降りると、背の高い柵の向こうに、無骨に直方体をいくつも組み合わせた建造物が広がっていた。全体に経年劣化を帯びた壁に整然と並ぶ窓はすべからく閉じられ、人の気配もポケモンの気配も窺えない。閉鎖的な印象を抱いたアランは、内心怯んだ。おそるおそる柵の切れ目を探して歩いていくと、道路を走る車が隣をすりぬけ、やがて内側へ曲がっていった。同じ方へ向かうと、解放された門へ行き着いた。門の壁に、携帯獣学第一研究所と彫られた銅板が埋められている。門の向こうに視線をやれば、研究所のメインエントランスへ直線で繋がっていた。
 立ち入っていいものか迷っていると、傍に立っていた警備員の男性と目が合った。鞄からすぐさまザナトアの紹介状を取り出すと、彼は特段確認することもなく真正面の施設を指差し、総合受付があると教えられた。あっさりとした誘導に面食らい、敷地内に入ってからも再度振り返るが、警備員は後ろ手を組んでのんびりとしたような調子で外を見ていた。寛容な態度にアランは戸惑いつつも、舗装道を通って施設内に踏み入れる。
 自動扉をくぐれば、広く抜けた空間の右手側に、受付とみられるカウンタースペースがあり、二人の職員が並んでいた。アランの来訪に気付き、彼等の視線が上がる。
 カウンターに紹介状を渡すと、対応する男性は紙面上を見てから、再びアランを見た。
「どういったご用件でしょうか?」
 アランは浅く呼吸をして、うろたえながら、封筒に記されたザナトアの筆致を確かめた。
「ここで、ポケモンの精密検査を受けられると、その招待状の人から聞いて」
「トレーナーカードはお持ちでしょうか」
 極めて事務的に職員は尋ねる。
 聞き慣れない単語に、普通のトレーナーなら門前払い、というザナトアの言葉が乗る。嘘をつくわけにもいかず、アランは首を横に振る。受付に立つ二人は互いの顔を見やる。紹介状の送り主を確認するが、二人には判断ができなかった。気まずい沈黙が流れる。
「一応、担当部署に繋いでみますね」
 アランは安堵し、大きく頷いた。
 近くに置かれたソファに座って待つ間、二つのモンスターボールをお守りのように握った。座っている間に、職員とみられる人がちらほらと行き交う。中には、手持ちのポケモンをボールから解放し、一緒に歩いている姿もみられた。見たことのない種族に胸を高鳴らせる、ほどの余裕はアランにはなく、落ち着かず、あたりをきょろきょろと見ているうちに目が回りそうだった。強い緊張が機械越しにも伝わっているのか、語りかけるように、モンスターボールが振動する。そして、自らの意思で、ボールから飛び出したのはエーフィだった。光がアランの隣に着地し、なだらかな紫の獣が姿を現す。
 ちょうど昼食を摂る時間帯に差し掛かろうとしており、周囲を往来しているほとんどは昼食へと向かう弛緩した職員だった。彼等にとって馴染み深いモンスターボール独特の開閉音は、自然と視線を集める。ある者は目を瞬かせ、ある者は目を疑い、ある者は立ち止まった。
 アランの緊張をほぐすつもりで登場したエーフィは、自分に集まる視線を敏感に察知し、振り返った。


 *


 急にやってきた年若い無名の女性トレーナーが、エーフィとブラッキーをつれている。更に、検査申請の紹介元は、引退したキリのブリーダー、ザナトア・ブラウンだという。
 研究所内は、狭小なコミュニティだ。一階にある食堂や、研究所の近所の飲食店へと向かう、人の往来が滑らかになるタイミングであったのが、幸か不幸か著しい速度での噂の伝播に繋がった。専門分野が進化学領域の人間にとってはイーブイは比較的慣れ親しんだ種族だが、それ以外だと、本の記載や写真、動画以外には目にした経験のない若い研究者もいる、貴重な存在だった。噂が噂を呼び、あらゆる職員間の雑談で、彼女の存在は一人歩きしていた。
 職員の一人であるハンナの耳にも、噂は届いた。彼女が指揮担当しているチームの報告を聞き終わって、雑談に伸びていく中で話題に上がった。
 確かに概要だけを聞けば刺激的な内容ではあるが、噂を聞きつけて本館エントランスが騒然としたというから、彼女は呆れた。その後、騒動を抑えるためにも、渦中のトレーナーには再度連絡すると伝え、ひとまず帰宅したらしい。所内の盛り上がりは徐々に下火になりつつも、賑やかな興奮でどこもかしこも浮ついていた。
 かのトレーナーは、手持ちポケモンである二匹の精密検査を希望しているらしく、検査部の担当者として名を連ねているハンナも、厚い眼鏡をかけなおし、紹介状を確認した。本来であれば、公式登録していないトレーナーには行わない検査項目がずらりと並んでいるが、ザナトア・ブラウン直筆の紹介状となれば、無下にしにくい。彼女が現役で育て屋を営んでいた頃、研究所からは何度かデータ収集の協力を要請し、やりとりをしていた。また彼女の育て屋でチルタリスが起こした悲劇には、携帯獣学研究所も関与している。ほろびのうたによる事故は、以前から各地で報告されていたが、過去に類を見ない規模だったがために、解析のため研究所からも人員が派遣された。ザナトア・ブラウンとの間には、そうした決して浅くはない関係性がある。ブリーダー業を引退して久しく、所内の若い世代では彼女の名を知らない者も多くなっているものの、当時在籍していた研究員たちにとっては、良くも悪くも聞けばすぐに記憶を引き出せる著名人だった。
 紹介状の文面を読み通し気にかかったのは、ブラッキーに関する内容だった。民間診療所での検査では異常はなかったようだが、技の出力や行動に関して不可解な点は確かに目立つ。昨年の秋には、ブラッキー自身で制御不能な、いわゆる混乱に近似した状態に陥った。その際には、急速かつ極端な能力上昇が見受けられた。当時、道具による人為的な操作は行なっていない。ブラッキー自身は一時的に能力値を上げる類の技を覚えていないとみられる。常時においても、技、特にまもるについて異常な出力傾向が見受けられ、調査をしたいのだという。
「しかし何故、私にこの話を?」
 ハンナは書類を持ってきた大柄な男性、ミックに尋ねる。ほぼ同年代の彼は、気兼ねなく話を交わせる貴重な同僚で、検査部の責任者でもあった。
 ハンナ自身は、ザナトア・ブラウンと直接の関わりをもってはいないうえに、あくまでも彼女の専門分野はほかにあった。特に外部のポケモントレーナーの関わる検査業務に関しては、ミックが許可を出し、技師や後輩の職員が検査、分析するのが常で、ハンナ自身も一通りの作業は可能だが、基本は分析内容の確認が業務だった。
 机を挟んだ向こうで、ミックは持参したコーヒーを啜った。あからさまに躊躇っているそぶりに、ハンナは警戒し、先んじてかわすための言い訳がないかと考えはじめた。研究所がハンナに割り当てた部屋の扉を叩き、まるで世間話でもしにきたとでも言いたげな軽やかな態度で入室してきた時から、身構えていた。
「うーん」ミックは肩を落とす。「まあ、僕の考えすぎかもしれないんだけど」
「なにをもったいぶって」
「きみ、そのトレーナーの顔、見た?」
 表情をほとんど変えなかったハンナの眉間が歪む。
「見に行く暇があれば、見に行ったかもしれないけれど」
「そうだよなあ。僕は一応、書類の確認のためちょっと話しに行っただけなんだけど、なんていうかな、……似ているんだよ」
「似てる? 誰に」
 ミックは頷く。
「何年か前に亡くなった、ニノに」
 ハンナは声をあげかけて、かろうじて止めた。沈黙の間、疑う耳の奥で、その名前を繰り返す。
「ニノって……あのニノ?」
「そのニノ」
 神妙に首肯され、ハンナは喉の奥で狼狽する。部屋を冴え冴えと照らす蛍光灯の光が急速に青く冷え込んでいくようだった。
「顔もなんだけど、彼女、確かブラッキーを連れてなかったっけ」
「連れていた」
「子供が、今、いくつにあたるかまではわからないけど。姓が変わっているのは、ありえる話だろう」
 ハンナは曖昧に相槌を打ちながら、ブラッキーの平均寿命を思い出そうとしたが、極端に短くもなければ長くもないという印象しか湧いてこなかった。再度書類に視線を落とす。トレーナーの名前は、アラン・オルコット。
 ニノ・クレアライトに、子供は確かにいた。押し寄せる記憶は、ゆるやかな波のようだ。波は、ウォルタの潮風の香りをつれて脳裏をさらう。労いを兼ねて、休日を使ってウォルタまで赤ん坊に会いに行った。促され、おそるおそる抱いた経験もある。あたたかく豊満な質量の、扱いがたい生物を、赤子を、腕でくるんだ。きっとすべてを自分にゆだねてきただろう。泣かれたような気がするし、笑っていたような気もする。まだ首も据わっていない時期だったような覚えがある。肝心の子供の名前は、アランだっただろうか。夫婦共々事故で亡くなり、子供だけが遺されたはずだった。その後の行方は知らない。どんな記憶をたぐりよせても曖昧で、子供が職場にポケモントレーナーとしてやってきた可能性を前にしても、現実味は薄かった。
 ハンナは大仰に溜息をついてみせた。
「いくらなんでも。そんなに似ていた?」
「見覚えはある気がしてね。会った時はすぐにわからなかったけど、もやもやしながら書類を読んでたら、ブラッキーからも連想したのかな、急にニノを思い出して、あ、そうだって。雰囲気が、なんとなく似てる」
「……そういえば」ハンナは呟く。「夫も、エーフィを持っていたような」
「そうだっけ。そうかも。あー、そうだ、そういえば話してた気がする。仕事がきっかけで引き取ることにした子だっけ」
「そう。そうだ。そもそもエーフィがきっかけで、研究所に来て……ああ」
 明確な言葉にはつながらない、それぞれの胸の内で、すっかり埃を被って色を失った記憶が、息を吹き返し、ゆるやかに明滅していた。
 ミックは喉を鳴らすように笑った。
「変な感じだ」
「なにが?」
「いや、ニノのことで今頃盛り上がるなんて。亡くなったの、何年前だ。暑い時期じゃなかったっけ」
「夏だった」ハノンは壁に詰められた本棚を一瞥した。「私は、まだ首都勤務じゃなかった」
「ハノンがこっちに赴任したのって、いつだっけ」
「六年前」
「もう、そんなになってたか」
「その時は、北にいたと思う。山岳地帯に篭って調査をしてた時期だったから、十年くらい前」
「よく覚えてるね」
「電波が届きにくい場所だったから、連絡が遅れたんだ。それで覚えてる」
「へえ。でもお葬式には行ってなかったっけ」
「迷ったけど。無理を言ってね」
 そうか、とミックは息をつく。
「でも十年も経ったのか。直後は、ただただショックで、言葉も出なかった覚えがある」
「……そうね」
「あえて口にも出せなかったというかね。そういうものかな」
 ハンナは瞼を伏せる。
「私たちは、ニノを避けていたから」
 ミックは神妙な面持ちをしたハンナを見下ろした。彼女は椅子を回転させ、ミックから逃げるように背後の窓から空を見た。雲が広がりはじめ、光が薄れている。
「ニノ、急に李国に行ったでしょ。子供を置いて」
「らしいね。詳しくは知らないけど」
「私も。確か、人伝に聞いただけだから」
「そもそも、仕事を辞めてウォルタに行ってからは、全然会わなくなったし」
「そう。でも、行方がわからなくなってからは、もう、どこか関わらないようにすべきだと思っていた。違う?」
 ハンナが再度振り返った先で、ミックは苦笑いを浮かべる。
「なかなか、冷徹な問いだ」
「私は、少なからずそう思っていた」
 ハンナは微笑む。
「今更、打ち明けるけどね」
「時効ということかね」
 まあ、とミックは続ける。
「僕はおそらく、もう少し素直に友人の消息不明も死も悲しんでいたよ」
「まるで私が悲しんでいないとでも」
 ミックは笑いながら首を振る。親戚でもない、友人の葬儀に、大仕事を中断して即座に駆けつけた彼女の心情が、口から出る言葉通り無味であったとは考えがたかった。
「邪推だよ。言われてみると、僕もそういうところがあったかもしれない」
「どうかな。昔のことだから」
「ハンナの方が理解しているだろう。というわけで、どうだい。まだ彼女がそうと決まったわけではないが、関わりなおしてみる気にならないか。まずは話を聞いてみるだけでも」
 ミックは机にちりばめられた書類を手に取り、わざとらしく差し出した。
 光の閉ざされた霧の中から手招かれているようだと、ハンナは思った。

( 2024/04/30(火) 23:36 )