Page 121 : 空白
この熱気をよく憶えている。残暑が色濃かったあの日々に比べれば比較にもならないものの、彼女は人の密集地特有の熱をひしひしと実感していた。
あの日、朝日に照らされて輪郭が美しく輝いた銀の橋に再度足を踏み入れている。首都の中でもセントラルと称される円形の中央地域と、セントラルを囲うように広がる広大な郊外を結ぶ橋は、歩道でも車道でも激しい往来がある。車道の上には覆い被さるように線路が渡る。防音対策がなされているのだろう、轟音こそ抑えられていても、振動は激しく伝わる。頑丈な橋の、遙か下で流れる川の音など少しも聞こえない。無機質で忙しない日常が続いている。
還ってきた、とは、人智の届かぬ水底から帰還した際にも当てはまった。
この場所にやってくると、戻ってきたという言葉の方がしっくりと当てはまる。首都には彼女にとって苦い思い出が詰まっている。紐解くのに勇気を必要とする部分も多い。傷が完全に癒えたわけではないが、顔を背けていたところに、恐らくは知るべき真実が隠されている。まずは、かつて共に過ごしていた彼等を探さなければならない。
傍にはエーフィを携えている。ブラッキーはボールの中で眠ったままで、水底から共に戻ってきて以来、気怠げな様子はあっても暴走の予兆は見られない。
エーフィにやや不安げな視線を配る。従者は頷いた。
そうして銀色の橋を渡り出した。鋼鉄の橋を伝って首都の色は濃くなる。あの日からずっと地続きになった道を辿って戻ってきた。ここからまた始まる。
*
アーレイス国の首都アレイシアリスヴェリントンの中心地区セントラルは、国家の脳ともいえる主要な各機関が密集した中央区の周囲を八つの地区が囲う円形を成している。それぞれの地区に特徴があるが、嘗て真弥とノエルが住んでいたのは住宅密集地である北区である。セントラルは地価が高く、高層マンションが高さを競うように林立する。その中にぽつんと穴が抜けたように建てられた、時の流れに置いていかれたような小さく古いアパートに彼等は住んでいた。
首都で起こった出来事は鮮烈だったが、滞在期間は短い。故に過剰なほど濃密でもあった。場所に関する記憶がさほど強くなくとも、影が地面に焼きついたように完全に忘れ去られてはいなかった。周囲の形を辿るように歩き回る。分かれ道に迷った際にはエーフィに尋ね、お互い薄らいだ記憶を探りながら、かすかに見える糸をたぐり寄せるようにゆっくりと進んでいく。
国内の多くの人間が首都に集中しているとはいえ、住宅街ともなればいくらか人気は少ない。加えて、その多くの人間の大半は郊外に住まいを構えている。セントラルに住むのは限られた富裕層の人間だけ。
ただ、真弥たちの住む場所は、特殊だった。
富を極めた者も、逆に破綻した者も等しく受け入れるのが首都であり、善人も悪人も共存するとかつて真弥は語った。裏表の社会は一見交わらないようで、危ういグレーの天秤の上に器用に成り立っている。表と裏とを行き来する真弥が自身で示すように、干渉し合いながら首都は形作られている。だが、裏側に足を踏みこむほど影は深まる。真弥の敵は何も黒の団だけではなかった。
ノエルは、ネットワークを経由し、ハッキングを駆使して、裏側の、更に奥で鍵のかかった情報を手に入れる。ノエルと真弥の出逢いは、ノエルが興味本位で裏側の情報を掻き回し流出させたことがきっかけで、当初真弥は引きこもったノエルを連れだし当時彼が所属していた組織の上層部に明け渡すか、その場での殺害を命じられていた。それを独断で横取りし、裏切って独立した結果、多くの敵を作った。しかし、裏側にも裏側の秩序があり、真弥は秩序を利用した。絶対的な無干渉を契った土地は点在し、そのうちの一つに、本拠地を構えた。ノエルは幼少期からの事情で一歩も外出できないため、その場所は彼を閉じ込める、言い方を変えれば彼を守る檻となった。
そういった込み入った事情を、彼女自身は知らない。だが、そう誰もがセントラルに住めるわけではないと、この国に生まれ育った人間として理解している。何かしらの理由があってあの場所にいるのだとすれば、簡単には手放さないだろう。別れてから半年以上が経過しているが、旅人の二人はともかくとして、真弥とノエルは同じ場所に居住している可能性は充分にある。
朧気な記憶を掘り起こしながら道を辿るうちに、彼女は当時の部屋をなぞるように思い出していた。
ほとんど物の置かれていない、殺風景な部屋。雑草が無秩序に育つ放置されたベランダ。濃いコーヒーの香り。暗い部屋に並ぶいくつものモニター。ポリゴンの放つ電子音。少年たちの声。僅かな煙草の煙。横たえられた死体。傷だらけの冷めた肉体、張り詰めた空気。死体は収納され、表舞台の誰にも知られずに消えた。そこに魂はなく、意志を持たないただの有機物として。
あの時、尋ねられたのだ。死体を持っておくか、と。遺体がまるごと収められているらしい、道具カプセルと共に、確かに眼前に差し出された。冗談だ、と彼は笑った。しかし、確実に試された。彼女は立ち止まった。突然の死別に混乱し、非難したけれども、自分の掌に死体が収まる未来を、躊躇った。綺麗で安全な場所に足が吸い付いたまま、動かなかった。
そして、葬られた名前を使っている。
胸に痛みが走りながらも、アランはどこか違う視点から記憶を視ているようだった。感情的な自分と、冷静な自分。主観的に捉えている自分から距離を置いて、まるで他人事のように冷ややかな自分がいる。膜を通しているようだった。本心を決して表に出さず、強固な壁を作って過ごしていたキリでの日々と同じように。
果たして、彼等と再会してもなお、冷静でいることができるか。
キリで行われた秋季祭の前夜、湖畔で仰いだ無限の星空を前に、頑なに凍り付いた壁を突き破って落涙したのは、彼等に会いたいというささやかな感情が起こしたものだった。しかし、彼等の方がどう望んでいるかは分からない。彼等との別れ間際は、決して良好ではなかった。特に、二人の少年は。一人には、まるで今生の願いだというような決死の投身を遮り、一人には、黒の団と同じだと、彼等を最も傷つける一言を投げつけ、あとは混乱ばかりだった。
仮に会いたいと互いに考えてさえいれば、どこかで道は繋がるとほのかな希望が芽吹く可能性がある。あのクラリスにだって、水底という特殊な環境で巡り会えたのだ。
そう、水底。
手負いのアメモースを連れてキリへ旅立ち、彼女はアラン・オルコットとして少年たちとはまったく違う道を歩んだ。あの湖の底に沈んで、その先に眠る、魂の泳ぐ不思議な世界に触れ、キリを見守る水神と言葉を交わしたなど、誰が想像できるだろう。二度と飛べないと烙印を押されたアメモースが再び空を飛んだことなど、誰が知るだろう。向こう側も同様だ。彼等が彼女の旅の動向を知らないように、彼女もまた彼等がこの月日を過ごしたのか、知らない。
あの首都での、全てが表から裏へ一斉にひっくり返って盤面ごと破壊されたような苛烈な日々は、思い返せば一週間にも満たないほんの僅かな時間だった。半年以上ともなれば、一体どれほどの出来事が彼等に起こり得るか、アランには想像もつかない。アランにとっては、半年というのも多くを水底で過ごしており、本人の実感とは異なって圧縮された期間だったが、何が起こっていたとしてもおかしくはない。
最悪の予感には目を向けないようにして、角を曲がる。高層マンション街の付近ののどかで小さな緑化公園では、親子連れが何組か、甲高い歓声をあげながら遊んでいた。その様子を横目に過ぎ去ってしばらくして、自分達が辿った道が外れてはいなかったことを知ることになる。
だが、辿り着いた光景は、予想を外れていた。
え、とアランは思わず声を漏らす。エーフィも紫紺に輝く瞳を丸くした。
乾燥した風が真正面から何にも遮られずに吹き抜けて、栗色の髪をふわりと揺らす。
真弥たちが住んでいたアパートははまるごと消え、あの庭を乱雑に覆っていたものと同じ雑草群が、巨大な空き地を茫々と埋め尽くしていた。
冬を越え、やがて夏へ向かおうという季節、浅い緑がそれぞれ砂利の隙間から身体を伸ばし、中央では呑気に白く可愛らしげな花まで咲かせている。一輪挿しのように凜と立つ、そのたった一本の花は、やはり風を受け流して気ままに揺れている。乾いた、なり損ないの草原のような場所には、そこに人の住む建物があったことなどまるで感じさせない物寂しさがあった。
空き地と道の境にはなんの障害もなく、恐る恐る何もない土地へと踏み入れる。細かな砂利を踏みしめる音が無意味に響いた。中央に向かうほど草花は濃くなる。繁る草叢を進んでいくと、草に隠れて見えなかったガラクタの山が放置されているのがアランの視界に入った。破壊されたコンクリートや焦げた木材の隙間から、また草が空へ向けて身体を伸ばしている。草が覆い隠しているだけで、目を凝らせば根元にはそうした瓦礫が中途半端に転がっている。
当初、場所を間違っただろうか、とも彼女は考えたが、動揺に訝しげにしているエーフィの様子、そして転がる残骸は、ここに何か確実に在ったと物語る。やはりこの地点で間違いなかったはずだった。何か在った、けれども、無くなった。
不意に、彼女の脳裏にこまかな硝子片が降り注ぐ。逆光のイメージに、卑しく笑う弟の表情、偽物の言葉と、なにもかもを薙ぎ払う凄まじい衝撃、荒れ狂う風。古い建物に罅をいれてそのまま崩すだけの、よもやひとのものとは考えがたい不思議な風の力のことだ。実際、あれは、ひとのものではなかった。彼はただのひとではなく、その身にひとならざる獣の力を宿していると語った。彼は、そして、彼等は。
真弥ならば可能だろう、いや、黒の団であっても恐らく充分に可能だ。首都での崩落事故の報道はあったか、思い出そうとしてもうまくいかない。彼女の耳は、首都に関するあらゆること、彼等に関するあらゆることを遮断していた。
今更悔やんだところで解決するわけでもない。
立ち尽くした足を翻し、薄い記憶の糸をたぐって異なる道を歩く。
先程よりも足取りに力があるのは、かつて自らの力のみで歩いた道だからか。
程なくして辿り着いたビルディングに足を踏み入れ、強張った顔つきでエーフィをボールに戻す。エレベーターで五階まで進むと、せわしなさと静けさが奇妙に混じった空気が出迎えた。建物内に作られた診療所の受付の奥で、ばたばたと忙しげに働く看護師の姿が見えた。
笹波白は、既に去っていた。いつ退院したか、聞こうとしたが、個人情報だと突っぱねられた。仕方がない。彼女は静かに頷いた。もうここには居ない、過ぎた月日を考えれば、想定していたことだった。限られた、僅かな可能性をひとつひとつ削っていく。使い古されているエレベーターがぎこちなく降下していく、密室で、彼女は目を閉じる。目の裏側で、彼等に辿り着く断片を探る。どこに行けば、彼等にまつわるものに出会えるのか。
音もなく開いた扉の向こうで、エレベーターを待っていた誰かが顔を上げた。彼女もさりげなく視線を遣ったが、見知らぬ人間だった。そう簡単に引き合わされるわけもない。
ただ、もしも彼が、真弥がまだこの首都にいれば、彼女を補足するのは造作もないことのようにも思われた。
以前の首都来訪時、真弥は自ら会いに来た。そこに知り合いの娘がいるとは想定していなかっただろうが、彼はクロ、そして圭がいるから、かつて檻を脱出した仲間だったから、姿を現した。そこに価値はあった。真弥に連れられて、深夜に部屋を後にした背中を思い出す。真弥の仕事に同行した、その夜を境に危うい関係性に罅が入り、歪んでいった。もともと目に見えない壁は感じていた、けれども、彼等を囲う溝が明確に深まった。
もう別々の世界にいる、と断定していれば、真弥からやってくると考えない方が良いだろう。そもそも生死すら判然としない。アパートそのものが無い、というのは、何事も無かったとはとても想像し難い。彼等の身に、何かは、確実に起こった。
唇を噛み、用心深く再びエーフィを隣に顕現させた。窮屈な掌から姿を現したと同時に明るい声が彼女を励ます。やわらかく笑みを返し、さて、とアランは高層ビルの遙か彼方を見上げた。切り取られた空が見える。空と建物のちょうど境界線は遠すぎる。直線的なフェンスの向こう側のことを、嫌でも連想し、遠いはずのその場所を妙な親近感と共に見つめていた。いつでもあの場所には行けるのだ、そう考えれば、傷が疼くようだった。ちらつくのは、透き通った笑顔とどこまでも昏い深海を思わせた瞳、静かで明確な拒絶。死を願った少年は、果たしてどこにいるのだろう。地上にいるのか、あるいは翼を持たぬまま再び空へ向かった可能性だって、捨てきれない。
変わらないんだな、とアランは思う。当事者にとっては重要な出来事も、誰かにとっては裏側の見えない世界で、日々、均等な時の流れに押し流されて濾過されて、日常は巡る。彼等は、離れてしまえば、見えない存在なのかもしれない。見つからないように、生きていたから。
*
期待も怖れも外れていくようだった。つまりは、旅の仲間には一切触れられなかったし、黒の団と鉢合わせることもなかった。
初日、右往左往としながら、北区の駅にある旅行者向けの案内所で、宿を探す。セントラルに泊まるにはどこの宿も高価だった。著名な学校を多く擁する東区は学生向けを謳って比較的安価だが、それでもアランには溜息ものだった上、きらきらと容姿を整えた旅行客の中で、泥臭く地べたの旅を続けるアランは肩身が狭い。
最低限屋根があって静かに寝られて、更にポケモンを放していても許されれば万々歳だ。最後の条件が少しシビアで、対応した職員は少し顔を顰めて、キーボードを打ち鳴らしモニター画面に目を凝らしている。キリの町であればさほど問題にはならなかっただろう。
しかし、多くの人間が集まる首都には独特の懐の深さがある。誰でも受け入れ、静観する街だ。示された宿の地図をポケットに入れて、セントラルと郊外を結ぶ橋を辿る頃には、銀色の道が夕陽を反射していた。
ぼんやりとぼかした雲が遠くでつらなり、その向こうで小さな朱い太陽がゆったりと降下していく。薄い桃色の光線にあてられながら、アランは橋の途中で立ち止まり、右手側にセントラルの高層ビルの街並みを、左手側に郊外のやや褪せたマンション群の街並みを擁する首都の風景を眺めた。遙か眼下で、コンクリートの壁に囲われた川が音もなく流れていて、光が届かず、得体の知れない黒い澱みのようだった。
背後で鳴る、ぱらぱらとまばらな足音を聞く。それから、走り抜けていく鉄道に、ひっきりなしに往復する自動車の音。
日常の往来。
不意に、遠景を横切る羽ばたきを見つけて、アランは目を細めた。
街に住む鳥ポケモンだろうか。黒い影が五匹ほど、ヤミカラスだった。無意識にブラッキーの牙が蘇る。ヤミカラスを喰い殺した牙だ。もしかしたら、ポッポも。そしてアランの肩を。深く抉った傷は痛みこそ消えたが、明確な跡として肉体に残っている。首都のヤミカラスたちはそんなことはつゆ知らず、それぞれの巣へ戻ろうとしているのか。ぱらぱらとした隊列を組んで郊外の方へ向かう。
ここにはいない、アメモースのはばたきを思い返す。翅を一枚失ったままで空を再び掴んだ、自由を愛する者の声そのもの。そして、ヒノヤコマたちをはじめとした、鳥ポケモンたちの団結した飛翔が鼓膜の裏側で響く。ここにいなくとも、消えたわけではなく、目に見えない場所で生きて翼を広げているだろう。そうして信じるしかない。
アランはエーフィを連れて、また歩き出す。
向かった先は、橋を渡りきってから二十分ほど歩いた地点にあった。飲食店がまばらに点在する住宅街に、古びた煉瓦造りのアパートが立ち並ぶ。壁の色はそれぞれ異なるが、鮮やかすぎず、互いを潰し合わぬようむしろ不思議な統一感で道を彩っていた。もらった地図と実地を見比べながら、途中の渋いオリーブグリーンに染まった建物の前で立ち止まった。既にあたりはほとんど暮れていて、薄い暗闇の中で窓の明かりがとんとんと点いている様子が覗えた。
簡素に錆び付いたアーチは蔓薔薇がかかっていれば見栄えがしそうなものだが、飾り気のなさもかえって味だという静かな主張のようだった。そこをくぐれば、左右に細い庭が伸び、右側の方の窓は明かりが点いていた。芝生に点々とプランターが置かれている。いずれも花が植えられているわけでもなく、枯れた植物を処理してそのまま放置してある印象を抱かせる。
壁と同色の扉をおそるおそる開けると、中は薄いグレーに塗られていた。正面に入ってすぐ螺旋階段がある。その両脇に扉があり、住居と窺えた。管理人がいるはずだが建物内も人気がなく、アランは目を瞬かせる。が、向かって右側は明かりが点いていた、とすれば人がいるはずである。向かってみると、ご用の方はこちら、と書かれたプレートがさりげなく扉の横に書かれているのを発見し、アランは僅かに肩を撫で下ろす。
住居と事務所を兼務しているらしいその部屋から出てきた男性はザナトアより若い印象を受けたが、老人と呼称しても誤ってはいないように見られた。彼はアランの若さに驚いたようだが、淡々と説明が行われ、アランは最後に部屋の鍵を受け取った。彼は、掃除はしてあるが屋根裏部屋のような狭さだと言った。
部屋は螺旋階段を上がっていった三階にあり、上がっていった先には廊下もほとんどなくぽつりと部屋へ続く扉だけがあった。緩やかな螺旋で目を回しそうになりながら部屋へと入る。管理人の伝えた通り、部屋の天井は低く、質素だが皺の無い布団の敷かれたシングルベッドが一つ佇み、壁沿いに細長い木製のテーブルと椅子が置いてある。ベッドの白を強調する光が零れている、部屋の中央に位置した申し訳程度の小窓に薄いカーテンがかかっていた。湿気を含んだ匂いを辿るようにエーフィが鼻をひくつかせながら入ったのを確認すると、アランは後ろ手に扉を閉め、肩の力をゆるめて長い息を吐いて、もう一つのボールを取り出し、中からブラッキーを出した。彼は身体を弛緩させるようにぶるぶると震わせ、我先にとベッドに飛び乗ったエーフィの声にぼんやりと返事する。
黒い身体に纏う月の輪が光っている、ブラッキーであれば当然の生理現象にアランは静かに肩を撫で下ろす。
窓は表の道路に面しているが、狭い幅なので、すぐ先に路を挟んだアパートが見える。夕陽がほとんど落ちて暗がりに町が沈んでいこうとしており、あちらこちらの窓の向こうがわはぽつぽつと明るくなっていた。
セントラルで見た高層マンションのような、整然と管理された賑やかさとは違う種類の密集だ。郊外を含めれば首都は広い。
「首都っていう感じが、しないな」
ぽつりとアランは呟き、ベッドに腰を下ろす。木の軋む音がした。意を決した再訪のつもりが、まるで手応えがない。呆気ないほどに静かな夜の光が街に満ちる。
*
翌日、アランは元来た道を辿り、セントラルへ向かう。今度の目的地は、中央区。
前回首都に来た際、アランはこの地区へ足を踏み入れなかった。彼女には用が無かったからだが、彼女の仲間にはこの中央区に明確な目的があって訪れた者がいる。
セントラル内を蜘蛛の巣のように張り巡らされた電車に乗ってその場に辿り着く。広々とした構内を抜けると、空虚とすら感じるほど広い石畳のロータリーに出る。高層の建物が立ち並ぶ首都でありながら、空が広い。中央にカイリューを模した石像が堂々と建っている。繁華街周辺や、郊外のアパート周辺といい、狭い面積に無理矢理押し込められた建物や人波ばかりを見てきたので、敢えて空間を広くとっている様子は、セントラルに出来た巨大な穴のようだった。とはいえ、人だかりが少ないわけではない。子供の姿は殆ど見当たらず、身なりを整えた成人が忙しなく往来している。
彼が具体的な病院を知らなくても辿り着いたのと同じように、アランは中央区で最も規模の大きい病院であるアレイシアリスヴェリントン中央区立病院へと足を向けた。中央区内を示す地図を見れば、その場所はすぐに明らかとなった。
灰色の高い壁をぐんと見上げるアランとエーフィ。気怠さというよりも、どこか忙しない雰囲気が出入り口から零れてくる。
建物内ではポケモンは御法度とされ、エーフィもそれを肌で理解したのだろう。表情に影を宿らせながらも、すんなりとモンスターボールの中へ収まる。
中に入ってすぐに出会うのは、二階まで吹き抜けとなった広々とした空間だ。非常に均一な小さな窓の並び、それに清潔な白色の壁が生み出す外観の寒々しさからは離れた、思いがけず開放的な内装にまずアランは目をまたたかせた。静かではなく、どこか浮ついた賑やかさすらそこには存在していた。しかしその賑やかさは決して華やかなものではない。当事者に凝縮された非日常と建物内に蔓延する日常とが反発せずに絡み合う。
部屋の番号は解らなかった。名前だけ。しかしなんの疑いもなく受付で教えられて、アランは内心かえって戸惑いを覚えるほどだった。
館内は忙しなく、看護師が部屋を回り、リハビリ途中で廊下を歩く患者や、売店やトイレにでもいくのか点滴の管を垂らしたまま歩く者も、アランと同様見舞いとしてやってきている者も、お互い知らぬ顔で擦れ違っていく。
エレベーターで九階まで上がる。九階は小児科病棟らしく、エレベーターを出て直ぐ眼前に広がるナースステーションはポップなカラーリングでデザインされており、壁にはキャラクターが並び、ポケモンを模した愛らしい笑顔のイラストがそこら中にちりばめられていた。ピチューにルリリにピィ、ピカチュウに、イーブイ、小さい子供に人気なのだろうポケモンたちの姿が並ぶ。甲高い子供の声は聞こえてはこなかったけれど、開け放たれた各病室には小さな患者が横たわっている。か弱い姿を横目に、アランは目的とする部屋を探した。その間に誰か知り合いに出会うことがないか、素早く視線を周囲に散らせながら。
ナースステーションから少し離れた場所に位置している九〇七号室は総室となっており、四つのベッドが角を埋めるように並ぶ。カーテンで仕分けできるが、部屋に入ってすぐ手前の左側にあるベッド以外は、そのまま開け放っていた。ユア・ルークの名前は間違いなく部屋の前に掲げられていた。アランは彼女に会ったことがなかった。しかし彼女の顔は知っていた。双子の姉の方を知っていた、だから初対面にも関わらず既視感を覚え、双子というのは不思議なものだと感心した。
窓際で静かに佇んでいるベッドの窓際には、たくさんの千代紙作品が並べられていた。
ユアは絶えず酸素の送られる管を両の鼻に差し込んだまま、痩せぼそった顔だけそっと布団から出して、健気な瞼を閉じていた。静かな場所だった。喧噪の絶えない首都の時間の流れから切り取られているような場所に足を踏み入れたのだとアランは理解する。
改めて、眠っている少女の顔を見つめる。
顔は同じだが、纏う肉感ともいうべきか、生気はまったくの異種である。快活にリコリスの大地を駆け回っていた姉のミアは太陽に灼かれた健康的な肌をしていたが、青白く痩せた肌をしたユアは、同じ遺伝子から育まれてきた身体でも、比べるまでもなくずっと静かな空気を帯びていた。細い首、あまりに小さな顔。ミアと会ってからも随分時が経っている。アランはキリの水底でで奇妙な時間体験を味わったが数年分のタイムトンネルを潜り抜けたわけでもないのだ、今では概ね現実の時間に馴染んでいる。どうあれ、アラン自身も若く成長の途上にあるとはいえ、幼子の成長もまた早いのだから、ミアも今頃背が伸びていることだろう。ユアはその成長を味わっているのだろうか。ベッドに寝たままでは、太陽に引っ張られていくはずが、沈んだまま小さくなっていきそうだ。
清潔に伸びた布団は身動きをせず、ただ、瞼だけが、アランを察知したのか音も無く開かれた。
ああ、ミアと同じ顔だ、とアランは改まったように思って僅かな痛みを覚えた。
だが、当然ユアにとってアランは見知らぬ他人だった。目を瞬かせる。新しい看護師さんか、お医者さん、でも、服装が全然、ちがう。淡いベージュのカーテンを通した光が彼女の半分を淡く浮かび上がらせるように照らす。おんなのひと、みたい。だれだろう、と。
アランは慌てることなく、初めまして、とつらつら淀みなく吐いた。
「ユアちゃん……かな」
ユアはぼんやりとした目をしたままで、頷いた。
「私は、えっと」一瞬だけ目を泳がせる間に、いくつもの可能性が明滅する。「アラン・オルコットっていうの。紅崎圭くんの、友達」
「圭ちゃん?」
幽霊のような瞳に希望の光が宿った瞬間を、アランは見た。そこに鮮やかな夕焼け色の面影を見た。ああ、この子、彼のことが好きなんだ。
「うん、そう。圭ちゃんの。去年、リコリスの、ユアちゃんのお姉ちゃんたちにお世話になって」
「お姉ちゃんのこと知ってるの?」
「うん」
それから、昨年リコリスに行き、ルーク家に数日滞在したことを簡単に説明する。ユアは目をぱちぱちと瞬かせながらも、疑念を殆ど抱かずに聴き入っているようだった。瞳に内在するのは懐かしさというよりも憧れに近い。
「それで、首都に来たらユアちゃんのところにもお見舞いに行きたいと思ってて、遅くなっちゃったんだけどね、会えて良かった。急にごめんね」
「ううん」
ユアは枕に埋めた頭を横に振る。青白い頬に赤が差しているように見えた。声には少なくとも張りがある。まだ緊張は続いているようだが、警戒心は多少解けたようだった。
「あ、じゃあ、あのね、ユアね、えっと」
布団が動いて、ユアは起き上がろうとしているようだった。咄嗟にアランは背中を支える。灰色の病衣の下に浮かんだ背骨が殆ど直に掌に伝わってくるようで、ぞっとした。小さい。軽い。細い。骨すらも煙のようにかぼそいのに、はっきりとした存在感が掌を圧する。
「あれ、持ってきてもらいたい、です」
そう言われてアランは指の先、ミアの足下の方へ視線をずらすと、ベッド上に設置されているテーブルがあった。色とりどりの千代紙が隅に追いやられている。主に食事をするために備え付けられている台は、スライドできるような仕組みになっている。言われたようにユアの手元まで滑らせる。
「これ、やりませんか」
ユアは細い手で赤い千代紙を一枚取ってアランに見せ、ふんわりと笑った。鼻から伸びた管が揺れた。無理をさせているのかもしれなかった。文字通り精一杯楽しもうとしているように見えた。精一杯、だとすれば負担は大きい。けれど、彼女は望んでいる。一緒に遊ぶ、ただそれだけの些細な望み。
「うん、やりましょう」
アランは頷く。おずおずとした敬語につられてみると、ちぐはぐとしたぎこちなさが、どこかおかしかった。
同じ窓際のベッドでは別の子供が眠っており、カーテンの閉じられた内側からは咳き込む音がして、時折看護師が様子を伺いに来た。ユアはあまり喋らない子供なのか、人見知りなのか、黙々と手先に集中していた。折り紙の本を開いていた。ポケモンをテーマとした本だが、単調なものではない。鋏で切り込みを入れたり、細かい小指ほどの折り目をつけたり開いたり、非常に繊細な技術を要求するものだった。
「何を作ってるの」
アランは丁寧に折りながらも、ユアの迷いの無い手元に魅入っていた。
「リザードン」
「へえ。すごい」
「難しいの。でも、できるよ。似たの、作ったことがある。カイリューとか」
既に頭部はそれらしくなっており、特徴的な角を立てて、開いた口がドラゴンに引けを取らぬ勇ましさを彷彿させる。ユアは指に移行していた。翼はどうやって作るのだろう。アランは見開きになった本を見遣るが、細かな順序は次のページまで続いており、翼はどうやらその後のようだ。
「かっこいいポケモンが好き?」
「ううん。かわいい方がいい。でも、リザードンも好き。前にね、ポケモンバトルをね、みんなで観たの、テレビで。そのときのリザードン、すっごくかっこよかった」
「バトル、好きなんだ」
「うーん」ユアは手を止めずに首を傾げる。「わかんないけど、観るの楽しい。あのね、南区にね、おっきなスタジアムがあるの。そこで大会もあってね、この間も、テレビで皆と観たんだけど、すごかった。観た?」
「ううん、観てない」
「そっか。あのね、すごかったんだ。最後にね、ぼろぼろだったギャロップの角ドリルがきまってね、それで、バンギラスが倒れて、……えと、バンギラスだったっけ、ええっと」
ギャロップ。ポニータの進化形。アランはミアの声を聞く裏側で、記憶を参照する。育て屋に残る過去の記録にもその名は連なっていた。穏やかな炎が猛々しく踊る、戦いの一幕が蘇る。
まさか、大会に?
いや。進化は有り得ても、彼が、笹波白であろうと藤波黒であろうと、テレビで中継されるような表立った舞台に立つはずがない、アランはすぐに可能性を削除する。ギャロップの使い手なんて、いくらアーレイスとはいえど、他にいくらでもいるはず。
「角ドリルって」アランは脳裏に、ザナトアの育て屋で頭を痛めながら閲覧した本を思い出す。「一撃必殺の技だっけ」
「うん、そう。そうだ、ギャロップにね、ストーンエッジが決まって、それでもうだめー、っていうときに、ぎりぎりで、びゅんって高速移動して」びゅん、に合わせて右手が横に素早くスライドし、直角に上へと軌道が曲がる。「スカイアッパーみたいに、どーんって、角ドリルが決まったの。大逆転! すっごく、かっこよかった」
ユアは前のめりになる。彼女を生かす酸素の音が聞こえる。呼吸を僅かに乱しているのがアランには気がかりだったが、すぐに息は整った。
「いつかね、生で観に行きたい」
アランは微笑む。この子も、自由に外を歩き回る、ささやかな願いが叶わない。
「うん。きっといつか、大丈夫」
「うん」
大丈夫、なんて曖昧で都合の良い言葉だった。少女の事情を何もしらなければ、何が彼女を傷つけるのか分からなかった。当たり障りの無いことしか吐けないまま、アランの指は終着点に辿り着こうとしていた。六角形に畳まれたところの先端に、息を吹きかける。すると、内部に空気が送り込まれて淀みなく膨らむ。
「紙風船だ」
嬉しそうに笑う声が、アランもまた嬉しかった。
「そう。昔よく作ったなあって。ユアちゃんより全然、下手だけど」
「そんなことない。あ、そういえば、あのね、圭ちゃん、鶴も、折れなかったの。びっくりでしょ」
「あは、それはびっくりだ」
同調して笑いながらも、きっと彼はそうした文化に触れたのがここが初めてだったのかもしれないな、とアランは内心思った、であれば無理もない。もしかしたらリコリスで、ミアと一緒に遊んだ経験くらいはあるかもしれない。だが、少なくとも幼少期に触れることはなかっただろう。貧しい李国の出身で、黒の団にいた彼等は、ユアやミアと同じ年頃で果たして既に刃を手にしていただろうか。血の流れる内戦、その中心にいただろうか。なにを頼りに生きていたのだろうか。
「圭くんは」躊躇いつつも、そっと滑り込ませるように尋ねてみる。「最近、来た?」
軽やかな指先が止まる。
「ううん」
「……そっか」
「お姉さんも、圭ちゃんがどうしてるか、知らない?」
アランは頷く。ここにも空白がある。確かに居たはずなのに、存在していたのに、無い、居ない。
窓際でカーテンが揺れている。窓が開いているわけではない。窓は開かないように設計されているだろう、どこにも鍵もクレセントも見当たらない。布は揺れる、一定の気温を完璧に保つ空調の、見えない風の通り道が見える。カーテンの向こうに中央区が一望できる。この上なく清潔な、檻のような空間。
アランは掌の上で紙風船を転がす。ユアも手を止めたまま、その動きを眺めていた。
「私、弟がいてね」硬直した空気を解すように、明るい声音で話を差し出す。「二つ下なんだけど、ちっちゃい頃二人でこれで遊んだ。意外と、覚えてるものだなあ」
「へー、えっと、なんていう名前?」
ほっとしたようにユアは目線を上げる。
「弟の?」
「うん」
「セルド。ほんと、生意気。ユアちゃんを見習ってほしいくらい」
「どんなふうに、生意気なの?」
「いちいち鼻につく言い方とかね。折り紙で遊んでた頃は、どこに行くにもついてくるような可愛い子だったけど、いつのまにかそんな時期は過ぎちゃってたな」
ウォルタで二人で生活するようになるよりもずっと以前だ。最早触れることの叶わない思い出を見つめる。しかしそれを悟られないように努める必要がある。まるで今も生きているように。嘘ではなかった出来事を、嘘を吐くように、しかしほんとうのことのように、芝居を打っているように、すらすらと。
アランはユアのことを知らない。知らなくても、彼女の肌が、骨が、空気が、生命を引き延ばす管が物語る。彼女は、生きながらにして空へ向かう淵に近い。そして非力な身体で文字通り懸命に抗っている。弟が死んでいる、など、禁句だった。
「今は、ちょっと別々のところにいるんだけどね」
「そうなの?」
「うん。そのうちには会えるんだけど」
「そっか」ユアは視線を落とした。「寂しいね」
「うん」
アランは素直に首肯する。共鳴が散りついた。寂しい、というユアの口調に影が差していた。作りかけのリザードン。窓辺に並んだ紙製のポケモンたち。先端を丸めたオレンジ色のバラを模した作品。隣の子の力のない咳、励ましの声。窓から差す光が揺れる。清潔な布団に眩い木漏れ日のような欠片がいくつも瞬いた。白さには強弱があった。太陽の強く白い光はこれから夏へ向けて益々強くなっていくだろう、ユアの白い肌は不透明で、いつか光の中に埋没していくのかもしれなかった。
「だから、また会いに来てもいい? またやろうよ、折り紙」
ユアは目を瞬かせる。それから、少々緊迫した沈黙を撫でて掻き消す、春の桃色の光を放つように笑む。
「うん、いいよ。また来て。約束。絶対だよ」
小指を差し出す。二人の縁は指が絡まって繋がる。幼い少女は、再会の約束を少年と交わした日を今でも覚えている。