まっしろな闇











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続・キリにて
Page 120 : ひとりじゃない
 湖上の彼女は、意識だけが戻らない日々であった。ブラッキーも同様である。彼等は殆ど同じタイミングで覚醒した。
 目覚めてからは、発声は間もなく安定したが、寝たきりで低下した筋力を戻すのに彼女は苦労した。
 院内はポケモンの出入りを禁じており、ブラッキーはおろか、アメモースやエーフィに出会うことも叶わなかった。そして、ザナトアも見舞いには来なかった。愛想を尽かしたのか、たった少しだけ生活を共にした身内でもない子供を見舞う義理など無いと判断したのか。彼女には解らなかったが、しかし再び育て屋に戻ることを目標に、リハビリに励んだ。元通り自在に歩けるようになった頃には冬の気配は完全に消え、春の花が咲き乱れて白い町を彩った。
 長く意識を水底に残していたアランだったが、空っぽになった肉体はなおも活動を続け、栗色の髪は随分と伸びていた。それをばさりと切り払って、鏡に映る自分の顔を見た。傷が癒え、平然とした自分の表情を見つめ、背を向けた。
 病衣を脱ぎ綺麗に洗われた服に袖を通せば、元の生活に戻っていく。若い芝生を踏みながら慣れた病室を後にする時、迎えに来たエクトルに連れられて彼女は新鮮な外の空気を吸う。
 澄んだ青空に吹く春風が暖かかった。
「ブラッキーは」
 少し緊張しながら尋ねると、エクトルの手から小さなモンスターボールが渡された。掌になんなく収まるこの小さなボールに隠された獣を、アランは解き放つ。昼下がりの陽光に照らされてブラッキーは姿を現せば、塵を払うように身震いし、なんてことのない顔でアランを見上げた。尾がゆるやかに揺れている。傷は完治して、内包する狂気がなりを潜めているだけだったとしても、少なくとも今は鬼のような暴走が嘘だったように落ち着き払っている。緊張を解いたアランは腕を広げ、彼を暖かく抱擁した。
 助手席に乗り込み、エクトルはザナトアの住む育て屋へとハンドルを切る。
 現実感を掴みきれずにいるアランは、かつて黄金の小麦畑が広がっていた箇所がさっぱりと綺麗に刈り取られ、今や耕されて新しい次の苗が整然と植えられた光景を呆然と見つめた。
 秋に褪せていた芝生は、越冬し、一面を浅い萌黄色の若芽が埋め尽くしている。白や黄の花が点在し、広大な土地を柔らかく彩る。
 長い階段は変わらない。手すりも無くスロープも無い、冗長で浅い階段。丘を上っていくその前にアランは立つ。その隣でブラッキーがついている。行かないのですか、とエクトルに尋ねられ、アランは頷いた。今度はエクトルも付いてくるようだった。果たして根深いようであったエクトルとザナトアの溝は埋まったのか。少なくとも、既に彼等は再開を果たした後だという気配を、アランは何気なく感じ取っていただろう。
 一段一段、慎重に上がっていく。
 広い春の空。
 羊のような朧気な雲が淡い青に好き勝手に浮かんでいる風に流れていく、長閑な空だった。
 緊張があっただろう。硬い表情の下で流れる感情を外には出さず、踏みしめるように上がっていく。
 半ば頃まで来て戻りきらぬ体力で息を切らし、ブラッキーが顔を覗き込む。
 薄らと汗が滲んで俯いていた顔を上げさせる、一つの声が上空で跳躍した。
 聞き覚えのある声。
 懐かしい声。
 空から。
 はっと誰もが空を仰いだ。
 水底とは裏腹の、淡いパステル調の空色に浮かぶは、その色に溶けるような淡い身体。そして、誰もの目を惹く目玉のような触角が躍動する。
 空から彼は呼んでいる。叫んでいる。
 栗色の双眸が見開かれた。
 理解が追いつく前にアランは駆け昇っていた。切れそうになっていた体力など忘れて、全ての力を使って、春風の中心を切って、無我夢中で走った。
 ――ああ。
 ああ。
 心が今、震えた。
「アメモース!!」
 息切れしそうな声を振り絞り、精一杯アランは叫んだ。
 アメモースは一直線にアランの元へ滑空する。
 彼女は両手を広げた。その表情に広がる満面の笑顔。泣きそうで、でも嬉しくて、空洞に急速に希望ばかりが跳び込んでくる、どれだけの強さだったとしても受け止めよう。溢れようと構わない。全てを受け止める。全てを抱きしめる。
 重力も加速も伴った跳び込みは、最早技そのものだった。豪速で突っ込んできた勢いを殺しきれずにアメモースはアランの胸へ激突し、リハビリから上がったばかり、退院したばかりで痩せた彼女の身体は簡単に吹き飛んだ。アメモースを受け止めたけれど、受け止めきれずに身体のバランスが崩れた。階段をどたどたと忙しなく落ちていくのを蒼白の表情で止めたのはエクトルだった。
 立派な体躯で受け止められたアランとアメモースは、どちらも目を回していた。
「ちょっと」
 焦りよりも叱るよりも、何故か笑いが込み上げてきたのか、不器用な鉄仮面の口許が引きつった。
「あ、ありがとうございます」
 力無くアランは笑い、それから無意識に激しく上がっては下がる胸元に収まったアメモースをもう一度見る。つぶらな瞳がぱちぱち瞬き、威勢の良い声をあげた。打ち付けた痛みはあっという間に感激で上塗りされていく。
「アメモース」
 とても信じがたく言葉が出てこない。アランは腕を緩めて、ぴんと弦を張ったように伸びた触角を見て、三つのまま変わることのない翅を見た。生々しい傷跡が身体に入った罅として残っている。罅が物語るは、嘗てそこに存在していた彼の身体の一部。激しい痛みを伴った喪失だ。
 晴れ姿を見せるように、アメモースは触角を靡かせ、緩んだアランの腕を離れた。翅のちらつく衝撃が肌を刺し、細かな羽ばたきの音がすぐ間近で持続する。巨大な目玉を模した触角も風を掴み、三枚翅でアメモースは一気に上昇した。
 鳴き声がする。甲高い声が、溢れる歓びが風に乗ってどこまでも広がっていく。
 失ったものが失われたままでも、壊れたものが壊れたままでも、取り戻せるものがあるというならば彼はそれを体現している。
 アランはおもむろに立ち上がりながら太陽を反射してきらめくアメモースに釘付けになる。水底に彼女達が沈黙している間に、鬱屈に悩んだ日々を蹴散らして自由をもぎ取った、その栄光の裏側の苦難を思った。何故傍にいてやれなかったのだろう。一抹の後悔に似た感情が過った。ザナトアにもエクトルにも、アメモースの傍にいろと、アメモースを見てやれと、口繁く繰り返されたというのに。
 しかし、遙か上空での南風に押され、大きくアメモースは揺らいだ。翅の動きが乱れ傾いたままの姿は、脚を掬われて転げる姿と似て、一目で墜落すると解った。
「アメ」
 モース、と繋げようとしたところで急停止する。アメモースの動きが空中で静止したからだ。
 透明の存在に運ばれるように、アメモースは動きを止めたままでアランのもとまでやってくる。手の届くところまで降りてくると、ふと力が抜けて、重力に従い柔らかくアランの腕の中に落ち着いた。
 サイコキネシスによるものだ。念力の主を求めて栗色の視線が丘の上へ走る。階段を昇った先で、小さく呼び声がした。こんこんと湧き上がる泉のように、胸の奥から激しい情愛が迸ってやまない。アメモースを抱きかかえたまま、アランは若葉の匂いが満ちる階段をまた駆けた。一気に距離を詰めていく。放牧場を囲う柵の向こうにいたエーフィも、易々と柵に脚を引っかけて跳び越え、原っぱに着地しアランめがけて走った。
 太陽の下、また会えた。ぴたりと引っ付きあって再会の余韻に浸るのにはどれだけ時間があっても足りなかっただろう。
「ごめん」
 身体が歓びに耐えきれず破裂してしまいそうだった。しかし裏腹に、アランの口からは謝罪が何度も溢れる。
 とめどない感情の渦は制御できるものではなくやがて言葉も出てこなくなり、隙間を全て埋めるようにアランは二匹纏めて抱擁した。勢いのあまりきつく締め付けると、アメモースから濁った声が零れ、慌てて緩めた。目を回したアメモースはぶるぶると身震いした。笑いの輪に入らずに一歩後ろに控えていたブラッキーにエーフィが呼びかけた。明るい声音で、にこにこと笑いながら。引け目を抱いているのかブラッキーはなおも留まったが、アランに引き寄せられて漸く彼等の輪は元通りになった。
 ここはどこだろう、と何故か考えた。勿論あの水底ではないがどこか現実味が薄い。甘く都合の良いことを信じてはいけないと固く拒んでいたのに、無邪気に笑う生き物達が瞬く間に氷を溶かしていってしまう。
「アラン!」
 上方からの声に引かれ、アランは顔を上げた。
 明るい春の昼下がり、丘の上にザナトアが立っている。その隣ではフカマルが短い腕を全力で振っていて、更に視線を上に流せば、屋根にヒノヤコマをはじめとした鳥ポケモン達が並んでいた。以前より数が少ない。きっと、秋から冬にかけて、暖かい場所へ向かう群れに戻っていった者もいるのだった。
 帰ってきた、と思った。ここは彼女の故郷ではない。生活したのはほんの少しだったはずなのに、無性に懐かしさがこみあげた。巨大で暗い水底で空虚ばかりを溜め込んでいった心細さを思い返し、反動で目眩すら感じる。ここはこんなに眩しい場所だっただろうか。自分に不釣り合いなほど暖かいのに、どうしてここが居場所のように感じるのだろう。
 アメモースを抱いてエーフィを引き連れながら頂点まで辿り着くと、腰を曲げたザナトアが感慨深く見上げてくる。
「戻ってきました」
「ああ」
 ザナトアは複雑な表情を浮かべていた。
「最後はいつだったかい」
「秋季祭の時です」
「ああ、そうだね……そうか。五ヶ月近くにもなる。顔を忘れていたさね」
 今ならば解る。彼女は素直ではないのだ。少し斜に構えた言葉が懐かしい。アランは小さく微笑んだ。
 アランの意識では、決して眠ってはいなかった。けれど、アランは打ち明けないことにしている。水底の出来事を広めない方が良いと暗に理解している。とりわけ、キリに住まう民に対しては。
 また一つ秘密を抱えることになる。
 そうとも知らず、アランの微笑みが寂しげに見えたのか、ザナトアは肩を落とす。
「悪かったね、見舞いもできなかった。アメモースの飛行訓練に集中していたんだ」
「いえ。……あの、びっくりしました。本当に」
「そうだろう。あたしも驚いたんだ。秋季祭の後から始めたんだが、空への執着というのかね、かえって身体に余計な負担をかけていると心配になるくらいだった。エーフィと二人三脚みたいなものだった」
「エーフィと?」
 思わず視線をやった先で、二叉の尾をしきりに揺らす獣は涼やかに笑っている。
「鍵はサイコキネシスだった。あんたも、エーフィがそれでフカマルを浮かばせて遊んでいたのを見ただろう。同じ要領で、アメモースを浮かばせてバランスをとる訓練をしたんだ。欠けているとはいえ、この子の場合、痛みさえとれれば要はいかに空中でのバランスを掴めるかなんだ。サイコキネシスは、言うなれば自転車で後ろを支えてやる、そういう役割さね」
 左右崩れないように、後ろから支えて補助をしながら走らせる。やがて怖がらずにスピードを上げられるようになった頃、気付けば支えは消えて、それでも一人で走れるようになる。アランの幼少期にも覚えがあった。へえ、と小さく感服しながらも、言葉以上に容易なことではないだろう。自転車は道具だが、アメモースが乗りこなすは致命的な欠陥のある己の身だ。
「あたしがそう指示したんじゃない。この子達がそうしたんだ。不思議なものさね。強いもんだ。あたしなんて、あんたの意識が戻らなくてちょっとはへこんでたってのにね」
 皺の寄った手がアメモースの頭を撫でる。ちょっと力任せな触れ方が、却って彼等の間に生まれた繋がりを語る。共闘者としての繋がりである。
「サイコキネシスだって立派な技だ。一日中受けていれば体力なんてどんどん削られる。冬は虫ポケモンにとって苦しい季節だが、よく頑張った。あんたが戻ってくる日を信じていたんじゃないかね」
 帰ってきたアランのところへ、エーフィよりも早く、一直線に飛びこんでいった。驚かせようと考えていたのだろうか。
 秋の間の定位置であった腕の中で、アメモースは誇らしげに息を鳴らす。
「ま、まだ完璧じゃないけどね」
「そうなんですか」
「墜落しかけたのを見ただろう」
 ザナトアは苦笑する。
「もっと長く、雨風あろうと崩れないところまで仕上げて、最終的には技を放てるようになるまで仕上げるのが約束だ」
 ザナトアが目配せすると、アメモースは呼応し鳴いた。
「いなかった分、明日からはあんたも手伝うんだよ」
「はい」
 足下で浮き足立っているフカマルに笑いかける間に、さあ、とザナトアが手を叩いた。
「今夜は退院祝いだ。手伝いな」
「え、そんなことしてくれるんですか」
「ババアの気が変わらなければね。食えるかい」
 アランは白い歯をちらりと覗かせた。
「病院食には飽きてました」
「ちょうどいい。それなりに用意してあるんだ」
 ザナトアが破顔すると、食事を熱望してやまないフカマルがまた跳び上がった。あんたのためじゃないよ、と釘を刺すが満更では無い。
「エクトル!」
 丘の半ばで静観し、踵を返していた背中に向けてザナトアは叫んだ。放牧場の奥まで声を届かせるように仕込んだ声は老いても褪せない力強さを持っている。聞こえないはずがなく、呼ばれたエクトルは立ち止まった。
 振り返らないが、そのままザナトアは続けた。
「こんな所まで来て挨拶も無しかい? あんたも来い。男が一人居ないと食べきれないくらい用意はしてあるんだ」
 つまり、エクトルも含めた食事を最初から想定しているのだ。アランは横目で察したが、溝の深い二人の距離感は計れない。
「どうせぐちゃぐちゃ考えているんだろう。……いいんだよ、もう」
 投げやりな口調ではあった。ザナトアは複雑な色を皺だらけの顔に浮かべている。
 二人の間を流れる、冷たいとも熱いともいえない不透明な空気はそう簡単に晴れるものではないのだろう。しかし、ザナトアの言葉にほだされたのか、エクトルはおもむろに振り返る。距離が遠いせいなのか、黒いスーツを常に纏った威圧ある風格が、寂しげに小さくなったように見えた。
 アランはしゃがみこみ、フカマルに耳打ちした。行っておいで、と。一瞬、ぽかんと首を傾げたが、背中を軽く押されると鎖から放たれたように、エクトルの方へと向かっていった。
 立ち竦んでいるエクトルのところに、フカマルがやってきて、皺一つ無いズボンを掴んだ。
 視線を下げ、暗がりに落ちた先で足下の獣を見た。本来はエクトルがおやになるはずだったフカマルは、彼がかつて育て屋に置いてきた中で、唯一生き残っている存在だ。幼いドラゴンがその事実をきちんと理解しておらずとも、まるでひどく求めていたように真摯な光を瞳に宿していた。
 ザナトアとフカマルの誘いに折れて小さくなった肩を落とし、フカマルと共に階段を上がり始めた。
 一歩一歩、動悸が深まっていくようだった。いたく緊張しているのだ。
 丘の上までやってきて、ザナトア達と向かい合った。
 数十年ぶりの再会ではない。既に顔を合わせてはいるが、事故のようなものだった。アランのことで混乱しており、まともに腹を割って話すような余裕など無かった。事務的な連絡は偶にとったがそれだけ。お互いに緊張もむず痒さもあるだろう。それを誤魔化すように、ザナトアはそうだ、ととってつけたように言った。
「ついでに屋根を直しておくれ。今年の雪で少し壊れたんだ」
「……そういう魂胆ですか」
「そうだよ」
 ザナトアはいたずらに笑い、アランとエクトルの両方を見やった。
「おかえり」
 アランだけでも、エクトルだけでもない。二人に向けた言葉だった。
「……ただいまです」
 アランは噛み締めるように伝え、目を逸らしたエクトルは言葉にはせず、僅かな会釈をした。



 ポッポレースを終え、冬を間に挟んだことで侘しくなっていた育て屋が、その夜はよく賑わう。
 外に折りたたみ式のテーブルを出し、色とりどりの料理が並ぶ。チーズがふんだんに使われたグラタンに、肌寒い春の夜に丁度良いグリーンポタージュ。生ハムやレタス、トマトに玉葱等々素材を惜しげなく使ったシーザーサラダ。カリカリに焼かれたバケット。丁寧に下味をこしらえたというローストビーフ。山盛りの唐揚げがどこか童心をくすぐる存在感を示している。勿論、ポケモン達の分も忘れず、フカマルの前には生肉が積み上がり瞳を輝かせている隣で、それぞれ好みを反映して盛り付けられた御馳走に歓声をあげる。
 食べられればそれで構わない、というような料理をするイメージだったから、殆ど全て自分で作ったというザナトアにアランは驚きを隠せなかった。
「デザートも作ってあるから、後で食べるよ」
 アランは目を瞬かせ、エクトルは半ば呆れたように肩を落とす。屋根の修繕に限らず、卵屋の力仕事から扉の油差しの細々とした作業まで次から次へと持ち込まれた仕事をこなす内に汗をかき、上着を脱いでいた。黒色が助長する威圧感が薄れ、肩の力の抜けた印象を抱かせる。
 麦酒を注ぎ、アランには麦茶が用意される。初めはエクトルにも麦茶を傾けようとしたところで、彼は遙か昔に成人しているのだと気付く。彼も老いて、中年に掛かって随分になる。不思議な心境で黄金を注ぐ。成人後のエクトルよりも、少年時代の方がずっと印象深くザナトアの記憶に残っている。
 今日は新月で、星がよく見える。浮き足だった食事に合わず、退院を祝して、とザナトアは静かに告げ、飲み交わされた。
「美味しい」
 アランは目を丸くして唇に手を当てる。ほどよく揚げられた衣の中で、肉汁がたっぷりと詰められた柔らかい肉から湯気があがる。揚げたての唐揚げを噛み締めて、アランは頬を緩めた。
「やっと美味そうに食べたね」
 皮肉を味付けにしてザナトアが笑う。
 指摘をされて、アランはすとんと胸に落ちるものを感じた。
「美味しいって思ったの、久しぶりな気がします」
「不味かったから食べられなかったのかい? 生意気な舌だねえ」
「違うんです。今までは、味を感じられなくて」
 美味しいです、と繰り返しながら、次々に口にいれる。食事の熱に感化されて身体中が火照っていく。血潮が力強く巡る音まで聞こえてくるようだった。枯れた大地に雨が降り、生命に恵みを与える水が染み込んでいくとすれば、こんなふうなのだろう。
「あんたはどうだい」
 声をかけられたエクトルは、淡々と食事を口に含んでいた。味は感じるのだけれど、喉を通らないような心持ちであった。ザナトアも気安い体で誘ったはいいが、まだ距離を測りかねているようだ。
「いただいています」
 緊張が色濃く仏頂面を緩めることもできていない。深掘りはせず、そうかい、とザナトアは小さく留まった。
「以前はね、帰ってきたらよく作ってあげたんだ。もっと質素だけどさ。お腹を空かしてやってくるものだから」
 アランに向けた言葉に懐古が滲む。
「昔の話ですよ」
 滑り込むようにエクトルが制す。知られたくない自分を曝かれるようで、気恥ずかしさも無いわけではないだろう。彼にとってはとうに捨てた自分の姿だった。
 しかし、その姿しかザナトアの記憶には無い。時間という埋めようもない溝は深い。
 複雑な空気が流れる人間を横目に、ポケモン達は和やかであった。
 エーフィは新鮮な根野菜、ジャガイモを捏ねてベーコンを練り合わせ表面を焼いた、独特な練り物に頬張りつき、アメモースは葉野菜を食べては甘いモモン水を吸っている。変わらぬ味を求めてか、ブラッキーはポケモンフーズを黙々と食べる。誰の記憶にも強く残っているであろう暴走の気配は欠片も見えず、そして他のポケモン達もブラッキーを避けるわけでもなく、むしろ寄り添うように食事を囲んでいた。小さい身体のどこにしまう空間があるのか解らないが、フカマルは止めどなく肉を流し込むように齧り付き、時折派手なげっぷを放つ。
 フカマルの隣には、ガブリアスが座っている。
 親子としての意識は残念ながら彼等に無いだろう。しかしドラゴンという孤高たる種族同士、惹かれ合うものが芽生えている可能性はある。ガブリアスはフカマルを特別に扱うような素振りを一切見せず、これまた山になった肉に豪快に噛み付いている。秋季祭の日に見せつけた冷酷で豪快な戦闘態勢とは裏腹に凪のように落ち着き払っていたが、牙を立てる瞬間には凶暴な一面が見え隠れする。
 鳥ポケモンは暗闇に弱く、訪問者は限られている。ヒノヤコマをはじめとして、既にここに棲み着いたといっても良い年長者が並んで、エクトルのネイティオと共に細かく刻まれた色とりどりの木の実をつついている。
 数だけでも賑やかだが、人間には解らない言葉を交わし、ああだこうだと秘密の話を展開させている。その壁の無い雰囲気を羨んだのはアランだけではない。
「ガブリアスは」ザナトアがふと話す。「維持が大変だろうに。あれは苦労するだろう」
 エクトルは食べる手を止める。
「……いえ。彼女は強い個体です。若輩者が雑に扱おうと、自力が違う。よく育ってくれます」
「強いなら尚更大変さね。どこまで力を伸ばせるかはトレーナー次第だ。特にドラゴンポケモンはプライドが高い」
「比較的、穏やかな性格ですので」
 容赦の欠片も無い、剥き出しの殺意を溢れさせていたガブリアスの姿をアランは思い出す。
 穏やかという耳心地の良さからは対角線上にいた。あれは、本能とも言えるものなのか。その爪が自分にかけられていなくとも、恐怖に脚が竦んだ。
 沈黙するアランの横で、エクトルは目を伏せる。
 ザナトアは遠目にガブリアスの肉体を観察する。ガブリアスは若かりし頃のエクトルの主戦力の一匹でもあった。絶縁前の話なのだから当然ザナトアも知っている。隆々とした筋肉は無駄がなく、雌らしいしなやかさを併せ持っている。年月を重ねて成熟した体つきには弛みがない。これだけのポケモンに囲まれていながらも驕らず大人しく座していられるのは、よく躾けてある証拠でもあるだろう。プライドが高くとも、トレーナーに完全に屈している。
 ドラゴンポケモンは育成過程でトレーナーを見限り全く言うことを聞かなくなる例もある。どれだけ強くなろうと、トレーナーが格上なのだと常に示さなければならない。他のポケモンとは一線を画す。育て上げれば何者にも代え難い存在になる。逆であれば、悲惨な末路か、堕落を辿る。
 熟練のブリーダーならまだしも、エクトルは一端のトレーナーに過ぎない。
「流石、と言うべきなんだろうね」
 溜息交じりにザナトアは言う。
「以前、ブラウン様にご教授頂いたことを続けているだけです」
 耳に馴染まない単語に、ザナトアは複雑な表情を浮かべる。確かに老婆はブラウンと姓を持つが、距離を明確化されるようだ。
「気持ち悪いね、ブラウンなんてさ。あんたの敬語だって寒気がしてしょうがないよ」
「ご勘弁を」
 固持するエクトルだが、ザナトアは不満げであった。
「……昔、ザナトアさんにどんなことを教えて貰ったんですか」
 単純な好奇心もあるが、助け船を出すつもりで、アランは口を挟む。
「そんなこと、あまりにも多いですから」
「前に、ポケモンの性格と、味の好みのこと、言っていたじゃないですか。あれも、ザナトアさんから?」
「あれは……」エクトルは迷うように一瞬口籠もったが、諦める。「ここで読んだ本からの知識です。しかし、細かいことを言えば、人間と同様嗜好も性格も千差万別ですから。直接教えていただいたのは、もっと実践的といいますか……」
「あんたにも何度も言っているだろう。ポケモンをよく見ること。観察すること」
 ザナトアがアランに向けて言う。真剣な眼差しをしていた。
「突き詰めれば、そこに尽きる」
「ふうん……」
「簡単に思うだろう? でもガブリアスにまで至っても、この基本が意外に重要になる。人間はあまりにも非力だ。それは認めざるを得ない。その上で屈服させる技術はあるけどね、大前提に、何をするにしても絶対に目を逸らしてはいけない。威嚇に怯めばたちまち自分が格上だと考える。そうなってしまえばなかなか逆転はできない。それはボールの強制力とは次元が違う」
 アランは顔を曇らせる。
「私はどう考えても、エーフィ達の上ではないです。むしろ明らかに格下で」
「それぞれ形は違うさね。プロの手持ちと家庭のペットじゃ育成の方向性は全く違うだろ。あんたは別にエーフィ達をバトルで勝つために鍛えようっていうんじゃないだろう」
 アランは一瞬だけ息を詰まらせて、苦笑する。
「そうですけど。……でも、上とか下とかじゃなくて、同じ立場でいれたらいいですよね」
 言いながら、賑わうポケモン達に視線を投げる。
「それも良いさね。幸い、あの子達は利口だからね」
 ザナトアは微笑む。
「子は親の背を見て育つように、ポケモンはトレーナーを見て育つ。トレーナーをおやと呼ぶのは、そこに由来している部分もあるんだろう」
「トレーナーが迷えば、ポケモンも迷う、ですよね」
「そう」
 伝えた言葉を言われ、ザナトアは機嫌を良くする。
 エクトルは沈黙し、麦酒を口にした。数年ぶりに摂取するアルコールだが、身体に沁みていく感覚は殆ど無かった。液体が喉を通っていくばかりで、味を感じられない。
 彼女がアランに語るのは精神論だと断じればそこまでだが、ザナトアの手腕は確かなものがある。種族もタイプも性格も限らずに育てられるのは、並大抵のことではない。
 ポケモンはトレーナーを見て育つ。トレーナーが迷えば、ポケモンも迷う。
 綺麗事だ、と心のどこかで吐き捨てる自分がいると、エクトルは内心で自覚する。
「……ザナトアさん、私、少し歩いてきてもいいですか。ちょっとお腹いっぱいになって」
 アランは腹部に手を当てて強調する。喋っているうちに、いつの間にか出した料理は無くなりつつあった。
「いいけど、どこを?」
「ちょっと放牧地をぶらぶらするだけです」
「……分かった」
 遠慮しているのだと誰の目にも明らかだった。エクトルの緊張感が高まる。アランがいることで探れないものがザナトアの胸の内にはあるに違いなかった。
 元々、ザナトアとアランで話は合わせていたのが実情ではある。ザナトアから話を持ちかけられた時、アランも嫌な気持ちにはならなかった。きっと、この二人の決裂を修復できるとしたら、今回が最後だろう。この期を逃せば二度目は無い。それに、アランにはアメモース達と時間をとりたい気持ちもあった。
 がやがやとしているポケモン達の間に入ろうと立った瞬間で、察したようにエーフィは立ち上がった。
「ちょっと夜風に当たりにいこうよ」
 既に屋外ではあったけれど、もっと静かな場所へ。エーフィは頷き、アランはアメモースを抱き上げる。ブラッキーも、ゆっくりと立ち上がる。ぽかんとしたフカマルが肉を丸ごと呑み込み後を追おうとするが、ヒノヤコマがすかさずその頭を嘴で小突いた。
 足早に去って行く旅の一行。辺りは電灯など勿論無く一面の深い闇だが、ブラッキーの光の輪が浮かんでおり、位置ははっきりと解る。アラン達が声が届かないだろう遠くまで離れるのを確認する。
 やれやれ。もう少し場が温まってから行ってもいいだろうに、逃げたな。ザナトアは胸の内でこっそりと毒突いたが、いつであろうときっと状況は変わらなかっただろう。
 夜はまだ少し冷える。上着を着直すと、俯いたまま沈黙する男を見た。
「……エクトル」
 硬直していた男の顔が上がる。
 なんて顔をしているのだろう、と笑いたくなるところをザナトアは堪える。
 あの日のまま止まっているのはお互いにそうなのかもしれない。既にあれから二十年も近く経っているはずで、それほどの年月が過ぎていれば、細かい出来事など忘れているものも多い。しかし、目の前にすると余計に当時の感情を思い出す。遠い記憶、朧気な煙のような形で。こうして腰を据えて向き合うまでは、はっきりとした、たとえば怒りだったり戸惑いだったりそういった突出したものが強調されていたけれど、いざ本人を目の前にしてみると、もっと繊細なものが浮かんでくるような予感がした。
「チルタリスのことは、知っているかい」
 できるだけ感情を表さないように意識して尋ねる。
 回りくどいことは苦手だ。彼女が短気であることはエクトルも知るところであっただろう。
「……知っています」
 逃げ場が無くなり白旗を揚げる。
 解りきっていても、本人の口から告げられた瞬間、ザナトアは口から濁流のように言葉が溢れていきそうになるのを寸でで留まる。
「そうかい」
 ぽつりと言い、暫し沈黙する。
 育て屋に預けたまま押しつけて消えるトレーナーは、無責任としてザナトアの軽蔑するところだった。相手が誰であろうと変わらない。本来であれば情を捨てなければならない。だが、怒るにも叱るにもあまりに時間が経ちすぎた。
 ザナトアは深い溜息をつく。
「それなりに自負はあった。だけど、全てへし折られたね。チルタリスを救えなかったのは、預かったあたしの責任でもある」
「違います」
 エクトルは即座に言った。
「悪いのは私です。トレーナーとしては、とうに失格です」
「あんたの敬語、気色悪いね。どうにかならないのかい?」
 承服し難いのだろう、無言のうちに拒否を示す。
「まあいいけどさ」ザナトアはわざとらしく肩を落とす。「確かにあんたのした事はあたしにとって許し難かった。共に過ごしてきたポケモン達への裏切りだと、解らないはずがないだろう。今更、問い糾すつもりはないよ。それなりの理由があるんだろう。どうせ、真っ当なものじゃないだろうけど」
 ただ、とザナトアは続ける。
「墓参りくらい、行ってやりな。明日の明るい時間にでもね。チルタリスも、他の子達も皆、ずっとあんたのことを待っていたんだ。薄情者のあんたのことをね」
 エクトルはうまく声を出せなかった。辛うじて、はい、と応えたきり唇を噤む。
 甘いな、とザナトアは内心自嘲する。会ったら土砂降りのごとく糾弾してやりたいことが山程あったはずなのに、いざ目前にすると行方不明になってしまう。
「……私は」
 エクトルが話し始めると、ザナトアは黙って彼を見た。
「貴方に合わせる顔がありません。チルタリスの件も、レントラー、ミロカロスに、ルカリオに、他にも、多く……ここに預けられたポケモン達まで巻き込んだことも、バトルトレーナーとしての道を捨てたことも」
「そう思うのなら、尚更、もっと早く来れば良かったんだ」
 つい、無意識に責める口調になる。
 あんただって大切にしていただろう。あんたが、誰よりも、大事にしていた家族だったじゃないか。家族が死んだと知ってそれでも来なかった。滅びの旋律は愛情の裏返しだった。あんたのことを愛していたから寂しくて、どれだけ待ってももう来ることは無いという事実を誰よりも長くあんたの傍にいたチルタリスは解っていて、けれど待っていたんだ。どれだけ待っても来なくて、現実を信じられないあまりに唄ったんだ。あの子達でなくとも、あんたにはもう置いていったポケモン達には未練も愛情も無いと考えてしまうだろう。
「バトルで生きる道を望んでいたわけじゃないよ。そんなの一つの選択肢に過ぎない。詫びる気が少しでもあるのなら、たまに手伝いでもしにきな」
 エクトルは暫く沈黙してから、絞り出すような息を吐く。
 もう、自分はザナトアの知っているような人間ではないというのに。ネイティオの数多の死に対して不感となり、時に従える獣で首を落とす苦悩も薄らいでいった。純粋な情は失われ、他に大切なものもできた。何もかも変貌したというのに。
「貴方は、甘すぎます」
 ぽつんと呟いた。
「どうとでも言えばいいさね」
 ザナトアは笑いもせずに、溜息をついた。
「ポケモン達に罪は無いよ。そうだろう」
「はい」
「あんたもあたしも取り返しのつかないことをした。あたしだって、あんたに合わせる顔なんてどこにもないよ。大切な子達をあんたにまた会わせてやれなかった」
 脳裏に無機質な墓地が映り、耳の奥で絶望に染まった滅びの旋律が過っていく。
「すまなかった」
 ザナトアは顔を伏せた。
 今更、何が正しくて何が間違っていたかなど、ザナトア自身にも言い切れぬことだ。
「顔を上げてください」
 エクトルの冷静な口調に、ザナトアは静かに面を上げる。
 斜め向かいに座るエクトルは正面をザナトアに向けて直していた。
 老いたのはザナトアだけではなく、エクトルもそうだった。少年期から青年期にかけての印象があまりにも強く、深く皺が刻まれようとしている顔にも、力強い骨格にも、スーツを纏った姿も、ザナトアの記憶に埋もれている彼の形とは違う。
「貴方が謝ったら、私の立つ瀬がありません」
 苦しくエクトルの表情は僅かに歪んでいる。
 細い諦念が胸の内を伝っていたザナトアだったが、あらゆる壁を越えて、通じ合っている瞬間を不意に感じた。
「痛み分けだね」
 するりと言葉が出てきて、自分でも改めて呑み込んだ。そうだ、これは、痛み分けだ。
「痛み分け、ですか」
「そうさね。これで、あんたとあたしは平等だ」
 二人で分けて、等しくする。
 やや間を置いて、エクトルは肯いた。それ以上の言葉は不要であった。
 あの子も、あの時の私達も、滅びの歌などではなく、攻撃してばかりではなく、痛み分けできたのなら、もしかしたら何か変わっただろうか。ザナトアは寂しげに笑う。過ぎたことに変わりはない。
 一人一人生きる時間が異なっていても、大きく変容していったとしても、何か一つ共鳴するものがあれば、漸く止まった時間は進むのだろう。
「さあ、分けたところで、飯でも食べな。デザートもあるよ。エクレア好きだっただろう」
 言いながら、ザナトアはテーブルに乗せられた菜食豊かな大皿とチョコレート仕立てのエクレアをエクトルに寄せていく。いつまで経っても、エクトルに対して子供としての一面が抜けない。名前に少し似ているからなんとなく好きだった、それだけだったのに。老婆心に、頑なになっていた肩の力が急に抜けた。
「昔の話ですよ」
 そう言いながら、エクトルは満更でもなく、口許を解けさせた。



 出てくるまでは良い。しかし、戻るタイミングが悪ければ、煮詰まって泥沼にはまった場面に立ち会うかもしれない、或いは、話に花が咲いて長い軋轢を一瞬で解消するような、穏やかな空気に割って入ることになるかもしれない。いずれにしても肩身が狭いな、とアランは思う。
 悶着はあったが、ザナトアにもエクトルにも恩義を抱いている。ウォルタを出て以来、キリでの滞在期間は最長に達している。ここは故郷とは離れているけれど、消費した時間があまりに濃密で、旅の一過程という域を超越していた。しかし、彼等二人を見ていると、入る隙間が無いという一抹の寂しさが過った。
 旅というのは、そういうものなのかもしれない。
 どこに向かおうと全ては過るばかり。
 だが、そのこと自体に悲哀は感じなかった。愛郷の精神が急に湧いてくるわけでもない。
 何かを探している。それはきっと、ウォルタに居ては得られなかったもの。しかし、一体、何を探しているのだろう。
 家の灯りも随分と遠くなり、暗闇に浮かぶ点の光に変わる。放牧場をゆっくりと歩いた途中で立ち止まると、春の星が頭上に広がっていた。新月の夜、街灯も殆ど無いだだっ広い丘では、清廉な星の光が強調される。宇宙の果て、遙か遠くからやってくる光。そんな星空をアランは繰り返し見てきた。そのたびに彼女の中には異なった心情が揺れてきた。
 冬の気配をまだ少しだけ残した夜の風は肌寒いが、心地良い。なんの温度も存在しなかった水底に比べれば、どれほど暖かく生々しい空気だろうか。
「アメモース、頑張ったんだね」
 腕に抱く獣に声をかけると、ゆらゆらと触角が上下して、返答がある。
「あんなにぐずぐず悩んでいたのに、結局なんにも手伝えなかったな」
 地上でひとしきり、水底でもじっと蹲っている間に、育て屋を賑わせていた鳥ポケモン達の一部は旅立ち、アメモースは飛行訓練に勤しんだ。クロバットの翼と状況が違えど、かの偉大な先達者を遙かに越える速度で彼は空をものにしようとしている。
 それは才というよりも、アメモースの空への執念、そして彼を支えるエーフィの存在、ザナトアの覚悟や経験が合致した結果のように思われた。
 そして、アメモースを育てあげた人間の存在が彼の基盤を造りあげたということも、きっと繋がっている。アランは懐かしげな視線を空へ放り投げた。
「クロが君を見たら、なんて言うだろうな」
 するりとその名を滑り出して、星の光のもと、アメモースの顔が持ち上がる。夜が創り出す青い光に照らされ、アランの表情は穏やかに見えた。
「喜ぶか、驚くか……当然みたいに受け入れたりして。勝手なことするなって、怒るか」
 足下で緑が夜風に靡いて、風の音が確かに波打った。
 流れる草原に座り込み、エーフィ達と視線を合わせる。月の輪が光を放ち、赤い双眼がアランを見た。
「あのね、あの日、秋季祭の前夜……ブラッキーは知らないことだけど、泣いちゃったんだよね。あの時、考えていた」
 瞳から氷が溶けていくように、内なる声が外に零れ頬を濡らした瞬間のこと。
「クロのこと」
 ぽつんと呟き、夜空に吸い込まれていく。
 そのまま続ける。
「アランくんのこと、圭くんのこと、クラリスも、真弥さんも、ガストンさんも、エリアさんも、他にも別れてきた人達のこと。皆、ここにいたらいいのにって……」
 綺麗な空だったから、と眉間を歪ませながら笑う。
 たったそれだけのこと。
「馬鹿だな。自分から離れてきたのに。……ずっと一人でいたかった。誰からも、黒の団からも。誰かを失うことに比べれば一人の方がずっと楽な気がした。だから首都を出た……でも、ずっと一人じゃなかったね。皆がいてくれた」
 エーフィがぴんと耳を立て、それから高く鳴いた。静寂に突き抜けていく明るい声だ。
 アランは大人しいブラッキーの頭を撫でる。
「全てがもとのように戻るなんて、きっと難しいけど」
 煌々と光る月輪が手の動きに合わせて揺れる。
 こうして今は穏便に過ごしているブラッキーがいつまた暴走するとも分からない。恐らくエーフィも例外ではないだろう。アメモースの翅は永遠に戻らない。浮かんでくる人々が今どうしているかも分からない。もう会うことが叶わない人もいる。藤波黒は笹波白の存在に塗り潰されて、消えてしまったかもしれない。親を殺したと告白した人を前にどんな顔でいたらいいかもわからない。
 現在は過去から続いてきた終着点。変化は必然として起こる。
 それでも。
「取り戻せるものがあるなら、取り戻したい」
 威勢の良い語調ではなくとも、確かな願いの込められた言葉を放つ。
 ブラッキーの底に蝕む何かを解く鍵を求めて、また旅を始めるだろう。
 鍵は西にある可能性があるという。
 西。
 恐らく、則ち李国。
 ブラッキーの本当のおやであるニノ・クレアライトは、嘗て李国の内戦、通称黒白戦においても李国にて黒の団に所属していたという。だが、その真相は謎に包まれている。ブラッキーとザングースが同じ施しをされているのならば、黒の団にヒントがある可能性は充分であろう。
 過去は現在へ繋がり、現在は未来へ繋がる。
 だが、李国は、隣国でありながら謎の多い閉鎖された国だ。李国出身であり内戦を経験した元団員、現団員が今アーレイスにいるということは、何らかのルートが国境にあるのは間違いないだろう。つまり、アーレイスの西に連なる猛々しい山脈である。
 アランはフラネの町で見た険しい山脈の写真をふと思い出した。妙に強く惹かれた、青空と白銀の鮮やかなコントラストを。
 唾を呑みこむ。逃げようとしながらも、離れても、結局向かうことになるのか。恐怖や後悔と戦うことになることは見えている。選択しない道もある。しかし、延々とこの育て屋にいられるとも考えていない。名前まで偽ったが、いつまでもまかり通らないだろう。滞在が長期になるほど、悪い可能性は増幅する。トレアスの家族もそうだった。同じ惨劇を繰り返させるわけにはいかない。
 だが、真実とも解らぬ水神の言葉を鵜呑みにして、李国へ真っ先に向かうのは得策ではない。西と一口にいっても広い。具体的に指されているわけではないのだ。李国を示しているのだと直感しているだけで。
 彼女にとって最も黒の団に近い存在は、李国に訪れずともこの国に居る。
 アランは夜空を仰ぐ。つられて、彼女を囲む獣たちも星空を見上げる。夢で見たよりも現実的で、押し潰されそうな圧倒も零れそうなほどに満ち足りた煌びやかさも無い。けれど手の届かない遙か向こう側から、何故かすぐ胸の内に寄り添う謙虚な輝きがある。
 今頃、どうしているのだろう。
 黒の団を倒すと言って集まり、いざとなればなんの疑いも無く敵に刃先を向けられる彼等。のうのうと過ごしていた自分とは密度も空気も異なる生活をしているだろう。考え方も生き方も異なる彼等を前にして、一体今更何を言えるというのだろう。
 一方で、ふつふつと浮かぶ思惑も利害も後ろめたさも蓋をして、今、純粋に思う。
 会いたい。


 *


 翌日以降、アランは身体を生活に慣らしながら、アメモースの飛行訓練に参加した。
 初めは胴体部分を支えながら、翅を羽ばたかせる。準備運動のように暫し続けた後、エーフィのサイコキネシスで浮遊しつつ、空中でバランスをとる訓練を行う。手の届く低い高度で保たれつつ、まっすぐ上昇するイメージだ。そして身体を温めたら、休憩を挟みながら、風が荒い上空へと高度を上げる。自然の風を読むのは慣れているが、風に乗って高度を保つ鳥ポケモンの翼と異なり、彼の翅は風を掴むにはあまりにも小さい。自力での羽ばたきが重要になる。そのうえ、ゆくゆくは上空から技を自在に操れる段階まで持って行くのなら、ハードルは上がる。銀色の風、エアスラッシュ、一層の激しい振戦を、墜落せぬように放たなければならない。地面に足がかりを作るのとは違い、空中での技は心許ない。
 当然のように空を飛び、技を放つ姿の方がまるで奇跡のようにアランには思われた。
 ザナトアの隣に立ち、晴れやかな青空を背に奮闘する白い姿を目に焼き付ける。
 空に起ってしまえば、人間の手は届かない。休憩で地上まで降りてきた時、ザナトアは簡単に指摘をする。できるだけ身体に負担の無いフォームを追求しているのだった。スポーツ選手をなんとなく想像しながら、アランにできることといえば、激励すること、好物のモモン水を飲ませることくらいだった。
 支える存在は多い方が良いと、ザナトアは言った。アメモースにとっても、そしてザナトア自身も、昔に比べれば体力が落ちたからだ。
 日々をアメモースの訓練と、ブラッキーの療養と、卵屋のポケモン達の世話に費やしていた。
 明確な変化といえば、エクトルが偶に育て屋を訪れるようになっていた。彼は詳細を語らないが、無期限の休暇は続いているらしい。暇を持て余して顔を見せることもあれば、町で事故にあった野生ポケモンを連れてくることもあった。彼が黙ったままポケモンの治療や世話を手がけている姿にアランもザナトアも慣れなかったが、男手は貴重であった。
 エクトルが来た時、いつもはヒノヤコマ達と遊んでいるフカマルだが、時折ガブリアスの傍に居る姿を見かけた。彼は元々卵の状態でザナトアの元に預けられ、孵化した時には既にガブリアスは居なかったのだから、少なくともフカマルには親子の意識は無いだろうとザナトアは言う。驚異的な逆鱗でブラッキーを殺そうとした野獣としての姿を目撃してもなお気にせずにいるのは、脳天気なのか忘れっぽいだけなのか。他の鳥ポケモン達はガブリアスには寄りつかない中、フカマルがあれやこれやと遊んでいるのを、ガブリアスは大抵傍観している。
 ガブリアスだけを連れて行ったのは、単純に最も強かったからだとエクトルはアランに話した。
 クヴルールに利用されるのは、できるだけ少ない方が良いと考えていた。これまでの生活との訣別のつもりでもある。ネイティオは実験の最中でのはぐれものの個体、ヨノワールは新たに育成したポケモンだと。
 一度訣別したことで、滅びの歌を聞かず、生きて、長い年月を隔てて子と再会した。しかし、彼等に特別な意識は無い。その皮肉は形容しがたいものがある。
「親子は、引き離すべきじゃないんでしょうね」
 ぽつりとエクトルは呟いた。
 その横で、アランは遠景を眺めるような目つきで、静かに頷いた。
 そう彼等が実感を込めて言うには、もう一つ理由がある。
 若芽が色濃くなり新緑が鬱蒼と茂ってきた頃、朝陽が出たばかりの早朝、ザナトアがいつもと同じように卵屋に鳥ポケモン達の様子を見に行った時のことである。彼女は発見した。ピジョンが、卵を自分の寝床で温めている姿を。
 卵屋と呼ばれるその建物は、元を辿ればザナトアが現役の育て屋を営んでいた頃、多くのポケモンの卵を集めていたことに由来する。今は物置となっている一階も、鳥ポケモン達の巣箱となっている二階も、嘗てはずらりとポケモンの卵が並んでいた。預けたトレーナーの元に渡る場合もあれば、ザナトアがそのまま育てる場合もあった。その影すら無くなり古くなってゆくばかりだった卵屋に現れた、一つの新たないのち。
 孵化の瞬間にはアランも立ち会った。
 少しずつ揺れるようになっていた卵に、ぴしりと小さな罅が入り、他の鳥ポケモン達と共に根気良く待ち望んでいたフカマルが慌ててザナトア達を呼んだ。林に住んでいるポケモン達まで風の噂を聞きつけたのかやってきて、広い土地に住む生き物たちに見守られながら、その卵は少しずつ罅を拡げていった。固唾を呑んで見守るアランに、ザナトアは穏やかな眼差しを向けていた。厚い欠片が零れた。懸命に卵を破ろうとしている。誰も助けることはできない。祈ることしかできない。赤ん坊は初めにたった一匹で初めの大きな困難を乗り越えて、この世に生まれ落ちる。隙間から小さな囀りが聞こえ始めた。ちいちいと忙しない、分厚く安全な殻を突き破って空気を吸い込もうとする鳴き声だ。そして不意に、ある瞬間を境に、一気に全面に亀裂が入った。あ、とアランの口から声が漏れた。そして、殻がぎこちなく開かれて、全身ずぶ濡れの、小さくて皺だらけの、まだ羽毛もきちんと生えそろっていないポッポが生まれた。
 色とりどりの歓声が湧き上がった。
 赤ん坊は、たくさんの生き物たちに囲まれることになるとは思わなかっただろう。一番傍に居た母親であるピジョンに包まれて、ちいちい、ちいちい、一生懸命に肺を収縮させては弛緩し全身で空気を吸い込もうとしているかのように鳴いた。
 アランの目尻が濡れて、さりげなく拭き取る。
 触れただけで潰れてしまいそうなあまりにも小さな存在だ。この鳥獣は世界で今、一番弱い存在だろう。なのにどれだけの力強い希望を内包していることか。
 一度は死に絶えた育て屋に、新たに命がやってくる。消える命があれば、生まれる命がある。当たり前の営みに励まされるように、アランは顔を上げ、母親であるピジョンと、父親であるヒノヤコマに挟まれる小さなポッポを見つめた。



 首都に戻るとアランがザナトアに相談を持ちかけたのは、そんなポッポの孵化から一週間ほどが経った頃である。
 アメモースはまだ技を完成させていない。ただ、エーフィの補助が無くとも、自力での飛翔をだんだんとものにしつつあった。鳥ポケモン達に囲われ強い風から守られながら、長距離に挑戦しては途中で力尽きて戻ってきたり、林の中へ潜り込んで水遊びをしにいってぷかぷかと仰向けで浮かんだまま昼寝をしたりと、秋と比較すれば、実にのびのびと過ごしていた。
 ザナトアも目を見張る速度だが、鰻登りで快調していった先で挫けてしまうのもまずい。波に乗っている時ほど足下を掬われる。慎重に訓練を続けているザナトアに、首都への話を持ちかけるにはアランも多少なりとも勇気を必要としただろう。
 存外、ザナトアは驚かなかった。アラン達にとってこの場所は迷い込む中唯一の標を頼りに辿り着いただけで、風向きを掴めば、再び発つのは当然のことだと分かっていたのだろう。
「でも、わざわざ首都に何をしにいくんだい」
 ソファについて、その日の昼食に温めたパンを千切りながら、ザナトアは尋ねる。最近のエクトルは手土産を持参するようになり、昨日置かれていった、チーズをたっぷりと練り込んだパンが余っていた。
 朝から訓練に勤しみへたれこんでいるアメモースを膝に乗せて鎮痛剤をゆっくりと飲ませながら、アランは斜線上にザナトアと向き合う。
「ブラッキーのことで手がかりを探したくて」
「首都に行けばあるのかい」
「もしかしたら、なんですけどね」
 苦笑して、アランは足下で横たわっている黒獣を一瞥した。
 水底から帰還して以来注意深く見守っているが、暴走の出来事が幻であったように凪いでいる。気怠く部屋で眠り続けているわけでもなく、悠々と日陰を歩く姿も見受けられた。
 しかし、いつ同じ状況になるとも知れない。
「実は」アランは躊躇いがちに唇を再び閉じたが、続けた。「エーフィもそうなんですが、ブラッキーも、元々は私の両親のポケモンだったんです」
「……ああ」
 そうだったか、と続く気配で、ただ一言ザナトアは相槌を打つ。ザナトアは初めからかの獣達がアランの手で一から育てたわけではないと予感していた。驚嘆も同情も挟まず、静かに続きを促す。
「親のことは殆ど何も分からないんですけど、私の知らない頃を知っている人達が、多分首都に居ます。ブラッキーが急に暴れ出したのはやっぱりおかしいじゃないですか」
「そうさね。あたしも気になるところではある」
 ザナトア自身は暴走したブラッキーを直接目にしたわけではないが、当時の様子は耳にしている。
 ザナトアが話を聞いて初めに考え至ったのは状態異常の一種とされる混乱状態である。敵味方の境を判断できなくなり自らを攻撃することもあるが、ごく一時的に判断力が鈍った状態に過ぎない。ブラッキーに起きたのは、そのような表層の現象ではなく、より深い部分に由来しているように考えられた。
「理由があるなら、多分親が生きていた頃にあります。他に確かめたいこともあります。もう一度、首都に行かないと」
「止めはしないよ、別にね。あんたがどこに行こうと、知ったことじゃない。好きにしたらいい。だが、確認しておきたいことはある」
「アメモースのことですよね」
 ザナトアは深く肯いた。
 アランは膝の上に乗せているアメモースを見下ろす。視線に気付いたアメモースは黙って顔を上げた。
 既に、彼等の間では交わされた議題であるようだった。
 再度、ザナトアを見る。
「必ず戻ってきます。だから、その間、アメモースのことをお願いします」
 あらゆる懸念を踏まえて、出した答えである。
 ザナトアはアランの顔を見定めた。アランは真剣な表情をしている。初対面の時とまるで異なる顔つきだ。そして同じようにアメモースがまっすぐに見つめてくる。緊張と共に希望を抱いた瞳。クロバットも同じように大空に近付くほどに希望を輝かせていた。
 育て屋は一人のトレーナーから依頼を受けて仕事が始まる。その瞬間の空気を久々に吸い込み、ザナトアは思いがけず胸の奥が熱くなる。失意と共に引退した道に再び戻そうという。いつ死ぬとも解らぬ老い耄れに。
 老いてまで、人生ってやつはままならない。
「預かろう」
 ザナトアははっきりと言い放ち、右手を差し出した。皺が深く刻まれ、骨まで浮いた手である。白く滑る手が重なり互いに握られた時、老いた皮は厚く、ザナトアに秘められている力をアランは掌に感じ、思わず、両の手で包んだ。
「なんだい、気色悪い」
 ザナトアが照れくさく苦笑する。
「ザナトアさんの力の、ほんの少しでも貰えたらいいなって」
「干からびるだけだよ、やめときな」
 そう言いながら、ザナトアは決して手を解こうとはしなかった。


 交わした約束をそれぞれ抱き、日を然程跨ぐことなく、アランは遂にキリを出立した。
 平穏な快晴、若い新緑が太陽に向け手を伸ばす。再び、旅は始まるのである。

■筆者メッセージ
続・キリ編、完結です。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
破壊の跡を歩いたラーナーを中心とした物語。そしてアメモースが再び空を飛べるようになるまでの物語。大切な章でした。
様々な要素を詰め込んだ欲張りな章でしたが、時間をかけながらなんとか漕ぎつくことができました。
自分なりにはできる限りのことは文に乗せたつもりでおります。よろしければ一言でもご感想・ご指摘いただければたいへん喜びます。
これからもどうぞよろしくお願い致します。
( 2020/04/20(月) 19:31 )