まっしろな闇











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続・キリにて
Page 119 : 祈り
 アランが次に目覚めた時、クラリスはもう姿を消していた。
 彼女の声は耳の奥に深く残っていたとしても、新しく塗り潰された声はクラリスのものであってクラリスのものではない。本当の声を聞いて言葉を交わすことなく、泡沫であったかのようにアランの前から去ってしまった。
 水神は変わらぬ様子で洞に居るが、クラリスが居なければ人間と言葉を交わすことはできないのだろう。饒舌な語りはなりを潜めていた。
 水底は何も無い場所だった。
 喋らぬ水神はただそこに佇み、偶に洞窟を出て行くけれどまた帰ってきて、乱雑とした廃墟をそのままに、眠る獣の隣へ戻る。時折じっとアランを観察していたが、何かするわけでもなく、存在するだけであった。
 目に見えぬ怨念が跋扈しているという空間で、しかしアランは一見平然としているようだった。取り乱すわけでも、消えるわけでもなく、膝を抱えながら、眠り続けるブラッキーを撫でる。ブラッキーの小さな鼻からは微細な泡沫が零れる。石像のような背後の獣とは異なり、彼ははっきりと生きているだろう気配がある。しかし、彼は目覚めない。
(ブラッキー)
 起こすという意志は読み取れない。気休めのような声がけは虚しく空を切るばかりだが、呼びかける他にすることもない。
 洞窟の内も外も常に夜の中。朧気に明滅する星を模した石は時を示すものではない。起きては眠る。起きては眠る。その間にどれほどの時が経っているのか、水底にいては少しも解らない。試しに洞窟への外出を試みようとアランが出入り口へ向かっても、水神がすぐさま制した。服の裾を掴んで首を振る。水神の顔はいつでも穏やかだが、その時ばかりはどこか有無を言わさぬ迫力を秘めていた。
 危害を加えられるわけでも、激しい苦痛を伴うわけでもない。他者との関わりが無ければ、誰かの殺意に脅かされる不安も無いだろう。終わりの無い怠惰。刺激の無い日々。ここが時と隔絶されているのならば、日々と呼ぶべきかも疑問である。どうあれ、隔絶とは安定を意味する場合もある。ひとりきり。誰の声も届かず、誰の刃も届かない、ひとりきりの居場所。アランは実際にやってきたその水底で、近くて遠くなった獣に語りかけた。
(ブラッキー)
 おとなしくなった月の獣。牙を立て、狂乱した地上の姿とはまるで裏腹に眠る。
(どうして、急に暴れた?)眠る獣に静かに問いかける。(何が君をおかしくさせた? どうして、あのザングース達と同じ目をしていた?)
 獣は答えない。
(ザングースを狂わせていたのは、黒の団の薬剤。お母さんも元々は黒の団の一員だった。……お母さんがブラッキーにザングースにしていたことと同じことをしていたとしたら)
 音も無く、口から泡が浮上していく。
(そうだとしたら……私はどうすればいい)
 撫でる右手と反対の手が震え、耐えるように拳を握りしめる。
(エクトルさんは、ネイティオとブラッキーが同じだと言っていた。黒の団とクヴルール家が繋がっているなんてことがあるかは、解らないけど……)
 アランは口を噤み、それ以上深く語らなかった。
(……少なくともエクトルさんはネイティオのことを知っている。暴走したネイティオはもう戻れないと言っていた。もう、ブラッキーも元には戻れないなんて、本当に?)弱々しく尋ねながら、手の動きが止まった。(殺さなくちゃいけないなんて、そんなことないよね?)
 穏やかに眠る月の獣の首に触れる。今の彼からは、暴走していたことなど嘘だったように少しの殺意も無い。
(……こんなに静かに寝ているのに)
 首から手が移行し、頬を包む。
(君の苦しみを救う方法が、死だけだとしたら、私は)
 言葉を詰まらせて項垂れていると、後ろから肩を叩く存在があった。
 この世界でアランとブラッキーの他に息づく魂は水神の他ない。アランはぼんやりと振り返り、水神と相まみえた。水神は哀れむ表情で首を振り、口を開いた。しかし彼の口から出るのは人間の言葉ではなく、異形の声であった。アランにはその内容を理解することができない。
(水神様)アランは呼びかける。(死は救いになるんでしょうか)
 水神は何も言わない。
 肯定も否定もせずに、アランの閉ざされた心を見抜こうとするように彼女を視線で射貫く。
(……私は)
 返事が無くとも、アランは続けた。はなから返答を期待はしていなかったのだろう。孤独が長く、暗闇に包まれた場所で、ひとりぼっちで過ごしてきた彼等は、奇妙に繋がろうとしている。
(以前、死のうとしました。自分で自分を殺そうとしました。そういう感情があったとは、その瞬間まで考えなかったんです。待ち望んだわけでも、以前から考えたわけでもない。その瞬間に、ふと。訳も分からず何度も殺されそうになって、あの日、大切だった人が次々に居なくなって、酷い言葉で傷つけて、知らなかったことを急に知っていろんなことが信じられなくなって……。手を差し伸べられて、一緒に死のうと言われた時、その手を払うことが出来ませんでした。死んだら全てが楽になると、あの人は言っていました。笑いながら。きれいに笑いながら言っていました。あの人は多分ずっと、死を望んでいた。その顔が、目が、あまりにも昏くて、簡単にはどうしようもできない絶望を抱え込んでいて、死なせてはいけないと咄嗟に思って……気付いたら飛び降りていました。あの人を押しやった反動で。でもそれで良くて。怖かったのは一瞬で、落ちてしまえば後はどうでもよかった。でも、私は死ななかった。このブラッキーが私を助けたんです。
 私が生かしたことで、あの人は私を恨んでいるかもしれません。私は、ブラッキーに生かされたことで、ブラッキーを恨んではいないけれど、あの日本当に死んでいたら、とよく想像します。そうした方がずっと楽だったんじゃないだろうかって。
 あんな辛いことはもう嫌で。大切なものを失いたくない。失うくらいなら、失う前に誰もいない場所へ行かなくちゃならない、それで、首都を出て、旅を続けていました。少しでも立ち止まってしまったら、また哀しい気持ちが戻ってきて、懐かしくなって、苦しくなる、だから歩き続けなければならないって。いつか忘れるくらいに。
 相手をできるだけ信用しないように。思い出も、弱い自分自身も上書きされるように。強くなれるように。そうして、多分、少しずつ上手くいっていたんです。
 でも、時々、全て恐くなって、何もかも投げ出して消えてなくなりたくなる衝動が、不意にやってくるんです)
 長い独白の果て、不器用に、アランは引きつったような笑みを浮かべた。
 水神は目の前に座り込み、アランの左手をとった。両手で挟み、ゆるく首を横に振る。
(慰めているんですか)
 張り付いた自嘲めいた顔を剥がさずに、アランはへらりと頬を崩す。
(ここにいれば、いつか消えられますか)挟む両手の隙間に爪が僅かに立つ。(いつか誰も、自分も忘れて、消えられますか。ブラッキーは、それで救われますか)
 返事は無いまま、孤独な闇が少女の魂を静かに浸食する。


 *


 彼女の指先が、暗闇に溶けている。
 起きては眠り、また起きて、そして眠る。無味に続いていこうとも、アランはその場から立ち上がることすらしなくなっていた。ブラッキーの傍に居続け、目覚めるたびに彼と自分自身の存在を確認するように触れるだけ。彼女は消えることも怨念に魘されることもないままでいるが、静かに消耗していくようだった。
 伸びる枯れ木は檻のよう。ここは巨大な水牢だった。脱出の意志を持たなければ、蔓延る魂に僅かずつ感化されていき、削がれていき、自分を見失っていく。知らぬ間に誰かの記憶からも薄らいでいき、溶けていく。
 洞の深い視界でアランは一人何を考えているのか、何も考えられてはいないのか、落ち窪んだ表情を俯かせていた。
 だから、クラリスの再来にも初めは全く気付かなかった。
 ぼんやりと地面を眺めていた視界に白い素足が僅かに覗いて、ようやく彼女は顔を上げた。
(……クラリス)
 また顔を見ることができた。いつか抱いた驚愕も興奮も今のアランには無かった。雑踏を過る人々を眺めるように、他人事のようにクラリスを見る。
(貴方は消えない。ブラッキーも消えない。貴方達は、生きている)
 クラリスが言葉を紡ぐ。しかしそれはクラリスの背後に立つ水神のものだ。語り部の口元を、アランはぼんやりと眺める。
 暗闇に淡く、しかし凜と響く清流のような声だった。
(ここは忘れられゆく場所。水に呑み込まれて死に絶えた世界。悲哀が満ちている。しかし、決して悪しきことではない。貴方はそれを弱さと否定しなくていい。哀しみは互いを繋げる力がある。そこには優しさがあり、愛情がある。哀しみは貴方に寄り添い、強く育てるだろう。そして貴方の抱く祈りも心を繋ぎ、貴方の願いはいずれ誰かを救う)
 アランの瞳の奥に、淡い光がともる。
 水神は周囲をゆっくりと見渡し、最後に息をしていない獣に辿り着く。
(貴方の背後に眠るは、私の友だった者の亡骸だ。遙か昔は、彼が水神と呼ばれていた)
 水神――本当の由来からすれば偽りである水神は、水神だった獣に、友愛と悲哀の混じった視線を落とす。
(とうの昔に死んでしまったけれど、私は彼を忘れることがどうしてもできない。外で何十年、何百年と時が経とうとも、肉体がとっくに朽ち果てていても、私は友を忘れない。そして、ここに遺されたがらくたも全て、私が忘れられないものだ。外の景色も見ただろう。荒れ果てた町と、枯れた森。水面の外でいくら時が進もうと、ここは止まったまま、私はいつまでも進めることができない)
 消えられず彷徨い続ける魂に寄り添う水神は、クラリスの傍を擦り抜けてアランの隣にやってくる。水神はいつも動作が鈍い。よたよたと老いた人間を彷彿させる動きだ。実に緩徐な速度で座り込み、獣の亡骸を手でなぞる。
(共に祈らないか)
(……祈る、ですか?)
(そう。哀悼し、耳を傾ける。心は閉じたままでいい。大切な存在を思い浮かべ、語りかける。貴方の大切な者のために)
 こうして、と水神は合掌する。
 つられてアランは溶け始めている両手を重ねた。今まで幾度もしてきた行為だ。最近は、突如死んだポッポに対して。そして彼女は両親を早くに亡くし、無言の墓前で手を合わせてきた。記憶に殆ど残らない肉親について悼んできた。いずれ時が巡れば、太陽の突き刺さる真夏が訪れ、家族の命日がやってくる。
 振り返った時、彼女は、弟に対しても、旅を通じて喪った者達に対しても、まだこうして手を合わせたことがなかった。
(私も、今は貴方のために祈ろう。目を閉じて)
 誘導されるままに、アランは瞼を閉じ、暗闇の中に視界を投じた。
 長時間の沈黙が、延々とたなびいていく。
 その間、心をひた隠しにしている彼女にどれだけの水流が過ぎ去り、暗闇へ呑み込まれていっただろう。
 先に水神が目を開いた。アランは清閑な顔つきで鎮魂を続けている。密やかな時間がずっと長く延びていき、音もなく睫毛が瞬いた。
(皆、殺されて死んでいった人達でした)
 アランはぽつりと呟いた。
(どうして殺されたのか、どうして殺されようとしているのか、殺されなければならなかったのか……理由がどうであっても、私はきっと許すことができません)
(そうか)
(でも、居なくなったことに変わりはないんです)
(少しずつ受け入れていくだろう。貴方の道だ。だが、復讐はしたところで詮無きこと)
 アランは水神の横顔に視線を移した。復讐。彼女が一言も発してこなかった、鋭い刃の形を成した言葉。
(ましてや、自ら死を望むなど)
 異形を包む気配が変わった。
 首が回り、正面同士で向き合う。水神の口から、大きな泡が噴き出る。それと同時に、クラリスの口から強い意志が籠められた声が飛び出した。
(一瞬の迷いを、一生の絶望と見間違えるな)
 アランの喉元が上下し、唾を呑み込む。
 穏やかに寄り添う優しさと異なる圧力は怒りにも近い。畏怖と称すべき威圧にあてられたアランの瞳が丸くなり、耐えるように唇を締めた。
(……はい)
 アランは辛うじて返答する。
 暫し沈黙の後、水神の周囲が再び弛緩する。その瞬間を敏感に察知したアランは、ほっと肩の力を僅かに抜いた。
 この異形は、ポケモンであるという。友を愛し、たゆたう魂も愛する、強く、孤独な存在。しかし、水神という名を冠する、唯一の存在だった。



 ブラッキーが目を覚ました。
 暴力的に濁っていた瞳は澄んでおり、暴れ出すような殺気立った雰囲気は一切無い。アランが手を差し出すと、その指を嗅ぎ、一度舐めた。安心したようにアランは腕を広げると、ブラッキーは重い身体を持ち上げ、倒れ込むように彼女の懐へ入り込む。魂が寄り添う。そこに心臓の鼓動は無く互いに体温という概念も無いが、間には温もりが発せられているかのようだ。
(これからどうしていく)
 水神の問いに、アランはブラッキーの体毛を往復する手を止めた。黙した後、少しすっきりとした顔でアランは微笑んだ。
(キリに戻ります。アメモースやエーフィ達を置いたままにはしておけませんから)
(それがいいだろう。貴方の望みに従うがいい)
 ふと、アランが目を丸くしたので、水神は首を傾げる。
(何か可笑しかったか)
(いや……水神様は、てっきりずっとここに残っていてほしいのかと)
 水神は苦笑を吐く。クラリスの声ではなく、水神自身の獣の声が漏れた。
(旅人を引き留めようもない。貴方はここにいるべき魂ではないのだ。寂しくはなるだろうがね。退屈だったろうが、私は新鮮で愉快でもあった)
(愉快……)
 これほど暗い場所にいては、些細なことでも光を感じるものなのだろう。
(私は人間が好きだ)水神は微笑む。(だが、皆未来が輝かしいとは限らない。迷うこともあるだろう。そのときは、心の最も望む方向を考えれば道を見失わずに済む。貴方はもう、貴方自身の望みを知っているだろう)
 水神は立ち上がり、アランに手を差し出した。束の間のようで、しかし同時に長きに渡った水底での営みも終わりが近い。アランはブラッキーを下ろし、水神の手を取った。一人と一匹、同時に立ち上がると、初めに来た頃よりも背筋が伸びていた。
 アランを見上げる水神の目が細くなる。彼の瞳には、アランの表情だけではなく、別のものが映っているかのようだった。
(貴方は少しだけ歪な運命にあるのやもしれない)ぽつりと憂うように呟く。(貴方をとりまくものが幾重もの因果の糸に絡まり、貴方自身もその糸にくるめられている)
(……)
(貴方は選ぶことができる。糸を断つこともできる。けれど忘れてはならない。貴方の触れてきた全てが貴方自身であり、貴方の出会うもの全てが貴方自身を創り出す。過去の上に今があり、未来が存在する。貴方は今に生きている。ここに来たのも、これまでのいきさつも、貴方を取り巻く運命と、過去と、いきものと、貴方自身の集合体だ。これからも変わることはない)
 概念的な話に理解が及ばないのか、アランは顔を顰める。
(難しい……ですね)
(いつか理解する時がくる、ここに居なくても。全て、生き物はひとりではないということだ。さあ、そろそろ向かえ。貴方達を待つ生き物たちの所へ還りなさい)
 水神は手に取ったアランの手に、クラリスの手を引き寄せ、重ねる。アランはクラリスを見上げた。柔らかなシルク地の白装束に身を包みながら、どこまでも黒く澄んだ宝石のような瞳にアランの顔が映る。
(クラリスの手を離さないように。後ろを決して振り向いてはならない。帰りは行きよりも難しい。道を間違えれば迷い、閉じ込められる)
(はい)
 水神の手が離れる。細い二本の違えた手が合わさり、繋がったままアランは頭を下げた。
(ありがとうございました)
(貴方は私の気まぐれに巻き込まれただけだ)
(でも、来て良かったです)
 アランは笑い、ね、とブラッキーを見やる。ぽかんとした顔でブラッキーは目を瞬かせ、尾を振る。
 別れを惜しむような緊張した沈黙が訪れる。微笑む水神に、アランは最後の質問を寄せた。
(……あの、最後に、一つだけ聞いてもいいですか)
 アランが尋ねると、水神は頷いた。
(なんだ)
(水神様は、未来を視ることができるんですよね)
 水神は悩ましげな表情を見せる。
(掴むは大きな流れのみ。生きる貴方個人には数多の可能性が広がっている。その行く末を絞ることはできない)
(私は、ブラッキーを以前のような状態にしてあげたいんです)
 話題に上がった獣の耳が動く。
(そのためにどうしたらいいのか。水神様には解りませんか)
(……)
 水神は沈黙し、ブラッキーに視線を映し、暫し言葉を選ぶように沈黙した。
 道を定める言葉には相手を締め付ける力がある。行く手を狭めることは、水神の望むものではなかっただろう。しかし、餞別のつもりで、水神は言葉を選ぶ。
(因果の糸に繋がることだが)再び、真剣な眼差しでアランを見る。(ブラッキー、それは貴方に絡まる糸、繋がりは未来へも過去へも通じている。貴方が絡んだ糸の先を知りたいのなら、真実を知りたいのなら)
 アランの喉が鳴る。
(西へ向かうといい)
(……西……)
(言えるとすれば、それだけだ)
 アランはクラリスとは逆の拳を握り、頷いた。
(ありがとうございます)
(もう会うことはないだろう)アランの背中に向けて言い放つ。(さよなら。ラーナー・クレアライト)
 はっと彼女は水神を振り返った。
 見通している飄々とした雰囲気で水神は微笑んでいる。
(……はい、さよなら)
 否定せずに、ラーナーは小さく別れを告げた。
 直後、クラリスの全身が一瞬、脱力する。反射的にラーナーはクラリスの上半身を支えたが、すぐにクラリスは自立し、目前のラーナーを見つめて、息を呑んだ。
 二人の間に奇妙な沈黙が流れながらも、クラリスは一度その場を翻し、深々と水神に一礼した。
 物を申さぬ水神はただ笑って返すだけ。
 クラリスはラーナーを握る手に少しだけ力を籠める。痛みを与えるものではない。決して離さない、決意の力である。
 そうして彼等は、水神の居る碧い空洞を後にした。



 暗闇を歩くクラリスの足には躊躇が無い。まるで彼女には帰る道がはっきりと見えているかのような安定した歩行である。
 碧い光に慣れた目には、一段と暗闇は濃く見えるだろう。水神の住まう空洞を抜けて、まだ後ろを振り返ってはいない。
(また会えるとは思っていませんでした)
 思わずラーナーは暗闇の中で声のした方を向こうとした。しかし、勢いで後ろを見てしまいそうで、首は留まる。
 クラリスの声は、先程までずっと聞いてきたものだ。水神はクラリスを通してラーナーに語りかけていた。水神から離れた以上、この声はクラリス本人のものだ。
(私も……)
 おずおずとラーナーが返す。
(水神様を信じてはいましたが、ラナが死んだわけじゃなくて安心致しました。こうして一緒に還ることができて。前回、一緒に還れなくて、本当に焦ったんですよ。気が付いたら、ラナ、また寝ているんですもの)
(……なんか、ごめん)
(いいんですよ。少しのお寝坊くらい。こうしてまた話せたのだから。ブラッキーも無事で何よりです。キリへ還りましょう)
(クラリスは、還り方が解るの)
(ええ。なんとなくですけれど。じきに洞窟を抜けますよ。大丈夫ですか)
(大丈夫)
 尋ねた意味が、今のラーナーには理解できるだろう。暗闇は単に光がないというだけではなく、彷徨う魂そのものでもある。ラーナーはしっかりと歩んでいた。ブラッキーも、今度は足下を確かにして、二人にぴったりと付いている。
(なんだか、変な感じですね。噺人では無い誰かと一緒にこの道を歩くなんて、クヴルールの歴史でもきっと初めてですよ。本でも昔話でも聞いたことがありません。そもそも、どうしてラナはここにいるのですか)
(ちょっと、色々。でも、水神様に呼ばれたってことになるんだと思う)
(何故、水神様が?)
(気まぐれらしいよ。水神様に、クラリスが私達のこと話したんでしょ。それで気になってたんだって)
(そんなことで?)
(そんなことで)
 クラリスは暗闇で唇を尖らせる。周囲を照らしていた碧い宝石は瞬く間に失われていき、背後へ置き去りにされていく。
(簡単に呼び寄せていいような場所じゃありませんのに……ラナもブラッキーも消えていないからいいものの)
(本当だよね)
 共通の話題は距離を縮めるきっかけとなる。会えなかった時間を急速に埋めていき、二人の空気は和らいだ。
 困りましたね、とクラリスは溜息をついた。
(今回、ここに来るとき、ラナがちゃんとまだ居てくれたら、話したいことがたくさんあったはずなのに、一体、何を話したらいいんでしょう)
(無理しなくたっていいよ)
(いいえ。無理してでも話しましょう。そう長い道ではありませんから)
 ラーナーはクラリスの茶目っ気の入った言い方がなんだか可笑しくて、小さく笑った。
(良かった。クラリス、元気そうで)
(ご心配をおかけしましたか)
(そりゃそうだよ。だって急に居なくなるんだから)
(それは)痛い部分を突かれたクラリスは一瞬言葉に詰まる。(申し訳ございません)
(いいよ。もう過ぎたことだから。クラリスが元気だったらいいんだ)
 暗闇の向こうに、蒼い靄のような僅かな光が見える。長い洞窟を通過するのも近い。
(クラリスは、噺人としての制約がもう辛くはない?)
(そうですね……)
 ぼんやりとした沈黙を置いた。
(諦めた、というしかないでしょうね。生活自体に不足はありませんし、水神様も想像よりも、あの通り、慈愛のある方で。一つ恐いとすれば、この道を歩き続けなければならないことですが)
(……そうだよね。クラリスは、これから何度もこの道を歩くんだ)
 迷えば戻れなくなる可能性がある。心を絡みとられれば魂の形が保てなくなり自我を失う場合もある。死に絶えた世界はいつでも仲間を誘っているのだ。ラーナー自身も、ここからきちんと元の肉体に還られるのかは不明だ。そんな道を、クラリスは噺人の役目としてこれから幾度も往復する。
(噺人は水神様との繋がりが強いですから、迷うことは滅多にないし、易々とは魂が崩れないそうです)
(そっか。じゃあ、安心なのかな)
(でも、今もここに居る他の魂の気配をひしひしと感じます。擦り抜けていくたびに、胸の底がひやりと冷めていく感覚。……ラナは感じないのですか?)
(感じないんだ。心を閉ざしているんだって)
(心を?)
(うん)
 世間話でもするように、ラーナーはなんの感情も見せずにするりと言う。
 繋いだ手に力が入るのを、ラーナーはきちんと感じただろう。
(何か、大変な思いをしていませんか)
(そんなことないよ)
(でも)
(そりゃあ、確かに落ち込んだりしてるけど。今は、もう少し平気。クラリスにまた会えたんだし)
 それより、とラーナーが無理矢理話題を移す間に、出入り口まで到達していた。ここからは、黒と青の霧に包まれた、水中の枯れた森を通り抜けていくことになる。
(あの時の手紙のおかげで、助かってる。エクトルさんが居ないと、きっと上手くいかなかったことが多かったから)
(それは……良かったです。エクトルはお元気ですか?)
(うん。変わらない)
 ブラッキーに対するエクトルの残虐な行動は伏せた。
(そうですか。私から漸く離れて、清々していることでしょう)
(そんなことないよ。エクトルさん、クラリスのこと結構大切にしてたんだなって思うから)
(憎んでもいたんですよ)
 ラーナーは咄嗟にクラリスの方を向こうとした。しかし、前を向くようにとすぐさまクラリスは制す。
(私の存在がエクトルの人生を大きく狂わせましたから、あの人にはもう自由になってほしいんです。可能なら、クヴルールからも離れていただいた方がいいんです)
(そうしたら、クラリス、本当に一人になってしまうよ)
(慣れない暮らしではありますけれど、本家は良くしてくださっていますから)
 ラーナーは黙り込む。
 主人の元を離れ、休暇を貰いながらも、急に軽くなった手を持て余して仕事に打ち込んでいたエクトル。クラリスの気遣いも最早空を切るばかりだ。現実、クヴルールの泥沼に浸かり、戻れないところまで沈んでしまっている。
 クラリスの言葉も、その裏にある寂しさが却って浮き上がるようだった。
(ラナが考えているより、私は大丈夫です。だから、安心してください)
 返事はせずに、ラーナーはクラリスの手を握り返した。
 闇に隠れて道に散らばった枝葉や小石を踏んでいく。群青の靄は果てで揺れ、木々の隙間に佇む遠景の廃墟群が相変わらず侘しさを引き立てている。
(道が行きと違う気がする)
(実際、変化しています。だから迷うんです。手を離さないで、前だけ見ていてくださいね)
(うん)
 クラリスが纏う白いゆらめきは、蒼い光を失った暗い森であっても映える。光を模して歩くクラリスを頼りに、ラーナーは黒い景色を踏み進む。
(ラナ。長い道のりに見えて、もう出口はそんなに遠くはありません)
 え、と言葉を失う隣で、クラリスは優しく笑む。
(あのね、どうしても、伝えたいことがあるんです)
(……何?)
 白い装束の下で泡が浮かぶ。
(私がこうして私でいられること。それはきっと、ラナ達が、私のことをはっきりと覚えていてくれているからだと思うんです。クラリス・クヴルールという感情の形が無くたって、噺人は恐らく機能します。水神様は、私のことをいたく心配しておられました)
(……言っていた。噺人が外界の干渉を断つのは、守るためでもあるって。感情は、無い方が安全だと)
(先代の噺人は、抑圧された感情にこの世界の魂が共鳴して、跡形も無く弾けたそうです)
 ――私もね、正しいばかりではないと考えるようになってきてな。
 そして、水神は長く噺人を選ばなかった。
 ここは蒼く澄んだ水底。そして同時に、碧く濁った水牢である。
(私もいつかそうなるかもしれません)
 クラリスは左手が引き留めるように握られるのを遠くで感じた。
(でも、今ラナが繋いでくれているように、私自身を誰かがきちんと覚えてくれていたら、きっと、大丈夫な気がするんです。たとえば自分を見失いかけたとしても、遠くても誰かが私を覚えてくれていたら。私とラナ達が一緒に居た時間は、ほんの少しでしたけれど……でも、私は忘れません。生きていれば、きっとこうしてまた会えるって、力が湧いてくるんです)
 ラーナーは唇を締めた。開いた口から溢れ出してきそうな気配があった。
(……ありがとう。覚えていてくれて。あの夏の終わりの日、私を呼んでくれて)
 栗色の瞳がぐんと開いた。
 みなわが浮かび、どこかへ上昇していく。
(届いてた?)
 信じ難いというように尋ねると、クラリスは微笑んだ。
(風が届けてくれていましたよ。掻き消されそうなほど、小さな、僅かな瞬間だけ。エクトルは気のせいだって言ってましたけど。あの人、薄情ですから。あとで水神様がその話をしてくださって、あのときの感覚は間違ってなかったんだって)
(そっか)
 ラーナーの口許が、ほうと綻んだ。なんともいえない、笑っているような、困っているような、感情の置き所に惑った表情を浮かべた。
(そっか)
(そうですよ)
(すごいね)
(そうですよ。凄いことですよ)
 ありきたりで、単純な言葉が往来する。
(だから、またどこかで会えます。お互いに、会いたいと願っていたら、きっと、いつか)
(うん)
(忘れるとは、その人の消失です。必ず、忘れません。だからラナも、私のこと、覚えていてください)
(忘れないよ。絶対に)
 繋がれた手は鎖となって二人を硬く契る。
(……諦めたら、駄目ですね)
 ぽつんとクラリスが呟いた頃、いつの間にか森が更に深いものになり、しかし隙間の無いほど埋め尽くされた枯れ木を次々と擦り抜けていた。透明の、闇が形だけを成しているかのように。そして、蒼い靄も彼方に溶けていき、洞窟を彷彿させる真っ暗闇へと没入していこうとしていた。
(ブラッキー、いるよね)
 声をかけると、足下から威勢の良い声が返ってきた。繋いでいない左手を差し出すと、その腕の中に彼が跳び込んできた。ずっと軽くて、そして子供のような小柄な体躯をしていた。相変わらず月の輪は機能しておらず、その姿は全く見えない。しかし、ラーナーの手の中にいるのは確かにブラッキーなのだった。
 暗闇では、前をきちんと向いているかも解らない。今やクラリスの白装束すら完全に闇に沈んでいた。繋いだ手だけが、標だった。
(自分を忘れなければ、必ず還れます。決して後ろを見ないで。前に向けて、歩き続けて)
(うん)
 いよいよ別れが波打つ足下まで来ているのだと、察したのだろう。声にならぬ言葉に、熱が籠もる。
(さよならですよ)
(でも、また会える)
(そう、会えます)
(だから、大丈夫)
(エクトルと、エアームドと)掌の力が、弱くなっていく。(クロと、圭と、エーフィ達にも、よろしくね)
(うん……きっと、伝える)
 絶対的な黒に足を踏み入れていく。光の一切届かない世界を歩む。
 目の前の黒に溶けていくうちにクラリスの手は消えてしまったが、彼女は迷いなく進んでいった。やがて、歩いているかどうかもラーナーの意識には残らなくなっていっただろう。ブラッキーの存在も自分の存在も暗闇と混じり合う。しかし、誰もが闇に同化しても、導が心に宿っていれば、暗闇の中でもきっと歩いてゆける。


 *


 残された水神は、友の亡骸を背後にして、天井を仰いだ。
 世界から彼等の気配が彼方へ遠ざかっていき、先程完全に途切れた。戻れるかどうかは解らない。けれど、きっと、彼女達なら無事還られるだろう。
 ――不思議な人間だった。
 ぽつりと、思い出す。
 閉ざした心の深淵を曝くことはできなかった。
 けれど、彼女を通して見る、彼女自身の世界の広がりは、糸は、奇妙であり、澄んでおり、歪んでいた。
 とりわけ際だった、あのイメージ。
 あれは、貴方の心なのか。貴方を創り出す何かなのか。貴方自身を成す、誰かのものなのか。
 どこまでも白く、一面、何の穢れも見当たらない。どこまでもまっしろな世界。
 純粋な世界。
 しかし、決して光ではない。
 あれは、光というよりも、むしろ……。


 *


 あまりの眩さに初めは薄い視界すら苦しげであった。
 細い目を恐る恐る開いていって、遅れて誰かの足音が彼女の鼓膜を叩く。白い天井に、クリーム色のカーテン。口許を覆う透明のマスクには酸素が送られている。すぐ傍に窓が並び、硝子の向こうでは淡い色を浮かべた空が広がっている。
 静脈に繋がれた点滴が揺れ、ぽたりぽたりと、一滴ずつ小さな水面に波紋を創りながら、血管へ流れ込んでいく。
 意識の覚醒に看護師が気付いてからは、周囲は騒然とした。騒々しくやってくる者に返す言葉が出てこなかったが、辛うじて首を振ることはできる様子で、単純な返答で意思表示を続ける。耳に流れ込んでくる濁流のような世界の情報量が、脳をやたらと刺激した。
 けど、知った顔、エクトルがやってきた時、栗色の瞳が漸く明確な反応を見せた。
「オルコット様」
 律儀にも偽った名で彼は呼ぶ。
 点滴の繋がれていない右手に男の堅い指が触れた。
「嘘みたいなことが。……本当に、良かった」
「……わたし……」
「話せますか。無理をなさらないように」
 当たり前に発していた声が不慣れのようであった。
「今年の冬は随分と冷えましたが、これから暖かくなっていきます。ゆっくり、回復に専念致しましょう」
 言葉をゆっくりと噛み砕き、彼女は窓の外をもう一度見た。
 平らに倒したベッドの上からは外の全景がうまく見えないだろう。しかし、幻のような水底で過ごす間に、時間は確実に進んでいた。彼女の体感よりも、ずっと早く。
 クラリスは二度訪れた。それはつまり、二度季節の境目を跨いだということ。
 秋は過ぎ、冬が訪れた。新しい年を迎え、その冬が過ぎ、春がやってきた。
 桃色の蕾が膨らみ、早熟の若葉が芽吹いていく。雪は溶け、暖かい場所へ流れていた渡り鳥がやがて春一番に乗って戻ってきて、生き物は豊かな営みを始める。儚いまでの時の流れの中へ、生々しい肉体のもとへ、打ち付ける鼓動が鳴り続ける現実へ、水底から還ってきた。

■筆者メッセージ
https://soundcloud.com/hy_re/page-119
大変有り難いことに、いつもTwitterでお世話になっているモカさんがこの119話に曲を書いてくださいました……。
切なさに、力強い希望を感じさせるような美しいピアノ曲です。ぜひ、ぜひ、お聴きください。
リンクを直接貼れないようですので上記URLを貼り付けて飛んでくださいませ。
モカちゃん本当にありがとう。
( 2020/04/19(日) 21:46 )