Page 118 : 魂の在処
彼女は夢を見た。
久方振りの夢だった。
時に、赤い獣の眼に囲まれ、腹から止めどなく血を流す弟の姿、全てを焼き尽くす暴力的な炎に食い尽くされるような悪夢に、夜中に眼が覚めることもあった。逆に、一生眼を覚ましたくないほどに幸福な夢を見ることもあった。弟が笑いながら背の高い向日葵畑に歓声をあげていて、世話になった叔父夫婦が遠くで姉弟を見つめている、そしてエーフィやブラッキーがくるくると踊るように甘えてきて抱きしめる、たとえばそんな夢。
この時は、夜の夢だった。長い暗闇を歩いた先だったから、記憶に引き摺られたのかもしれなかった。
彼女は乾いた匂いの立つ草原に座り、夜空を見ていた。星の敷き詰められた空だった。天の河は本当に河のように星がゆっくりと流れていて、満天の星空には瞼がまたたくたびにいくつもの流星がちらつき、白であったり、青であったり、赤であったり、はたまた虹色であったり、様々な色を発している。輝いては、さっと、消えていく。あっけなく跡形もなく消えていく。零れおちてきそうなほどたくさんの星に満たされていながら、不思議と騒がしい印象はない。静かだった。静粛で、息を呑んで見守る他無い、広大無辺の空間であった。しかし、幻想的に静かに輝く夜空の下、遙か彼方で佇む真っ黒な山間のあたりには赤い別種の光があった。妙にお互い繋がりながら脈打つように輝いていた。それは森を燃やす炎の光だった。
これだけの光が広がっているにも関わらず星光はあまりにも遠く、彼女の座る場所は殆ど周囲がはっきりとしなかった。耳を撫でる草の音や、さわさわと身体を撫で付ける草叢の感触で今ここは草原だと判別できるだけで、それが無ければ、ひとり、宇宙に浮かんでいるような光景だった。
不意に、彼女は肩を叩かれ、隣を振り向いた。
見覚えのある顔に、虚ろな瞳が見開く。
僅かな星の光を浴び、青年、アラン・オルコットが微笑んで、なんでもないような素振りで隣に座っていた。嘗ての日々、笑っていたあの頃のままの、幻。
昂ぶる感情があるのか、彼女は口を開けては閉じて、言葉を発することすらできずに彼をじっと見つめる。彼女より背丈の高い青年は、小さな子供を可愛がるように、優しく栗色の髪を撫でた。
あたたかな行為で決壊したように、彼女は彼の胸へと跳び込んで、背中ごと強く抱きしめた。そして、言葉の代わりに泣いた。
彼の肩口が濡れていく。咎めず、突き放さず、彼もまた彼女の背に手を回して、あやすように背中を優しく叩いた。声は無く、なんてことないように笑っていた。一定のゆっくりとしたリズムに、不規則な嗚咽が混じり、闇夜に染み込む。
張り詰めていたものが解かれ、ただの子供へと戻った彼女は、ゆっくりと顔を話し、腫らした瞼のままですぐ傍の彼をもう一度目視する。
事あれば隙間無く喋り続けていた彼だったが、声を失ってしまったように口を閉ざしたままだ。暫く沈黙を挟み、彼女は、ごめん、と言った。涙が彼方の星光を反射していた。彼はゆるく首を横に振った。依然何も言わないままで。
彼は姿勢を崩し、ゆっくりと立ち上がる。繋いだ手に引かれて彼女も重たかった身体を起こした。ずっとそこに座って閉じこもっていたけれど、夜の中に立ち上がり、ほんの少しだけ宇宙に近付いた。彼女は泣いた分だけ幼くなって、彼の掌にすっぽりと小さな手を収め、ぎゅっと硬い指を握りしめた。
おーい。
不意に、懐かしい声が彼女の隣から発された。彼の声だった。繋がれていない手を頬に当て、遠くに向けて呼びかけた。闇に吸い込まれていったその先に、淡いオレンジ色の炎が揺れている。
彼女はつぶらな栗色の瞳を瞬かせて、鬼火のような淡い炎を凝視する。
炎を纏った仔馬がぼんやりと振り返る。その傍に、足下だけ浮かび上がっている、誰か。炎にも星にも照らされることなく、誰かがいることは解るのだけれど、誰なのか判然としない。まるで、足だけ残して、絵を無理矢理上から黒く塗り潰して消したような、そんないびつな姿をしていた。
口から泡が鈍い音と共に吐き出されて、自らの衝撃に叩かれアランは夢から醒めた。
急いで身体を起こし、掌を見ると、いつも通りの大きさでそこにある。水に揺らぐ袖を捲ると、鳥肌がびっしりと立っていた。汗が垂れる環境であれば、額に脂汗が滲んでいたことだろう。
おもむろに周囲を見渡す。眠る前と同じく球形を半分に切り取ったドーム状の洞は変わらず、よりかかる傍には置物と化した巨大な獣が横たわっている。ブラッキーも同様で、彼の方はまだ眠っていた。苦悶という程ではないが、安堵でもない、僅かに眉間に皺を寄せた表情で眠っている。彼もまた夢を視ているのかもしれなかった。
彼女を眠らせたそれは姿を消していた。
ふと、アランは左肩に手を当てた。
ブラッキーの鋭い牙に穿たれた傷は無く、服も破れてはいない。僅かな穴すら無く、綺麗なものだった。一瞬の出来事ではあったが、彼女の記憶に深く根ざしているのだろう。しかし、丁寧に指を添わせ何度確認しようとも、結果は同じだった。
そしてブラッキーも、ガブリアスの残虐ともいえる逆鱗の連続に身体が抉られたはずだ。宙に舞った血液が、晴れ渡った蒼穹には鮮明な対比を成していた。アランは黒い体躯に掌を当て探るが、まるで傷は見当たらない。天井にちらつく碧い光が照らす薄暗い環境下で、相変わらず月の輪が光らない点も妙だった。
そもそも、この場所自体、得体が知れない。
明らかに水中なのだけれど、アラン達はその中で容易に眼を開けていられる。息苦しさも無い。泳いでいるというわけでも沈んでいるというわけでもなく、身体が異様に重いだけで、地上を歩くように移動することができる。けれど、水に揺れるように髪や服は靡いていて、口から零れるものは泡沫である。
確かに彼女とブラッキーは、湖に飛び込み、そして沈んだ。意識が途切れて気が付いてみれば、不思議な水底の森に倒れていた。初めの形が想像できぬほど瓦解した廃墟は、エクトルが地上の教会でアランに語った、嘗て湖底に沈んだ元々のキリの残骸、水底の遺跡と考えるのが自然か。しかし、それにしては不自然ばかりの場所である。
碧い廃墟を見回していると、長い洞窟とを繋ぐ出入り口に影が揺らぎ、それが帰ってきた。散歩にでも赴いていたような素振りで踏み入れてくると、目覚めたアランに気付いて瞳を丸くした。憎めない顔つきである。
手ぶらのままのんびりとした足取りで座り混んでいるアランの傍までやってくると、巨大な貝殻を填め込んだ重たげな頭を下げた。つられてアランも礼を返す。
(あの)
アランは恐る恐る言葉を発する。水、のような周囲に薄められながらも、相手には届いているらしく、それは小首を傾げる。
(ここは……どこですか? 本当に湖の底なんですか? 貴方は、水神様、なんですか?)
それは明らかに人間ではなく、獣の類の形をしていた。そしてクラリスは、水神はポケモンだと断言していた。
しかしそれは何も返さず、沈黙だけ流れていく。
(元の場所に、帰られるんですか?)
それは何も言わない。
(……帰らせてください)
懇願するような目つきで見上げると、漸く、それが動いた。返答は、否。首を横に振る。何故かと彼女が問う前に、それが手を差し出してきた。顔の前に出されたその仕草には既視感を抱いただろう。彼女は警戒を強め動こうとしたが、身体はその場に縫い付けられているのか、腰が浮かなかった。
それは、しかし再び彼女を眠りにつかせようとはせず、腰を曲げて肩に手を置いて、二度軽く叩いただけだった。
アランは意図を図りかねたのだろう、怪訝な表情を浮かべていたが、自由に身動きがとれなければ抵抗のしようがない。
困惑を拭えないでいると、それはアランの隣に屈んでくる。壁に寄りかかって眼を閉じている巨大でしなやかな獣を撫でる。その手つきに愛おしさが滲んでいて、アランはまじまじと見つめた。触れられた獣は眼を開けることはなく、ぴくりとも動かない。
きっと、死んでいる。
この世界は死に絶えている。動いているのは、獣を撫でるそれと、アランと、静かに寝息を立てているブラッキーだけ。
アランは水に揺れる自らの掌に視線を落とす。
(私、死んだんでしょうか)
既に諦念が滲んでいる声音に、それは顔を上げる。
生を超越した空間であるなら、数々の不自然は、誰も経験することがない人智の届かぬ世界では成り立つ可能性がある。
掌がゆっくりと畳まれる。
(実感が無い……)
俯いた顔は、光を閉ざして真っ暗だった。その中心の双眼が抱えるは、更に深く昏い、沼底の色。
ぱっと顔が上がったのは、項垂れた手に他の手が重ねられたからだった。望みを失った平坦な表情が、間近でそれの顔を見る。全く違う種族のそれが、彼女の両手を包んで、首を振って、微笑んだ。
絶句するアランを導くように、それは立ち上がり、出入り口に視線を向けた。つられてアランも視線を遣ると、この洞へ伸びるあのおぞましい程に暗い横穴の奥に白い影が見えた。暗闇の中に映える光のようだった。碧い光ばかりが点在している世界に浮かび上がる、異様な揺らめきであった。
固唾を呑んでアランは近付いてくる存在に眼を凝らす。
そして、ぐっと瞳孔が縮まる。
(なんで)
声が微細に震えた。
白壁が鮮やかに映えるキリの町を象徴するようなその存在は、全身を覆うゆったりとしたワンピースのような純白の布を身につけている。目深に被ったフードを模した布が顔を半分ほど覆っているが、綺麗に切り揃えられた黒髪がその隙間に窺え、水に揺蕩うように揺れていた。
(クラリス)
俄には信じ難いといったようだった。ごくごく短期間だったにも関わらず強烈な印象を残していった友人を、彼女は忘れるはずがなかっただろう。
(クラリス……!)
アランの口から大きな水泡が溢れ出した。
俯いた白い衣の下から、淡い化粧を施した唇が動き、僅かに布が浮いて露わになった漆黒の宝石のような両眼がアランを捉えた。凪いだ湖面のように静かだった表情が一瞬驚愕にぶれた。まさしく彼女はクラリス・クヴルールその人であった。
しかし、動揺は瞬時に潜む。ぐっと瞳を閉じ、胸の前で合わせた手の指先に力が籠もる。そのまま前へ、つまりはアランとそれが待っているドームの奥へと歩みを進めていく。
反応に手応えがなく、アランは固唾を呑んで彼女の行動を見守る。
円の中心に向かうのはクラリスだけではない。地に縫い止められたアランを置いて、それも歩み出す。
音すら死に絶えた場所で、惹かれ合うように両者は出逢い、正面で向き合い視線を絡ませる。それは頭に被った貝殻が巨大で、何もせずに立っていると目線はクラリスの方が上になる。クラリスは瓦礫と貝殻の破片が敷き詰められた地に両膝を折り、深くそれに礼をする。
それも返礼し、右手を出す。その指が、クラリスが被る衣の隙間を縫って、額に触れた。
一瞬、衣に隠れたクラリスの瞳が戦慄き、それを隠すように瞼が閉じられる。
暫し石像のように彼等は動かず、クラリスの身につけている純白の柔らかな衣だけが、生きた魚のたおやかな鰭のように靡いていた。不思議な光景を、アランは静観していた。
やがて、クラリスは俯いたままで瞳を開け、ゆっくりと立ち上がった。そのまま顔を隠していた衣が剥がれて、今度は、それの背後で座り込んでいるアランに視線が移った。
心臓が大きく跳ねたアランだったが、クラリスは平静な表情を浮かべていた。そこには、友愛とも呼べるような感情は読めない。
それがおもむろに振り返り、奥へ戻っていく。クラリスもそれを追い、呆然とするアランの前に両者が立った。
(クラリス)
もう一度アランは名を呼んだ。
あの日、あの瞬間、湖上で叫んだ名を。
しかし、近くにしたクラリスは俯いた眼差しを湛えており、焦点が合っていなかった。
(……漸く、話せる)
待望であった声はアランの耳にも届いただろう。透いた声は水底にお誂え向けであったが、表情と同様に声にも感情の起伏はなかった。
アランははっきりと違和感を抱いたのか、瞬時に眉間に皺が刻まれる。
(そう怒ることではない。噺人を通さなければ言葉を交わせないのだ)
クラリスの唇が動き、小さな泡が零れては上っていき、消える。
アランは隣に立つそれを見やり、もう一度クラリスを見た。
(……クラリスじゃない?)
(察しが早くて助かる)
それが微笑んだ。クラリスは無表情のままで。
そして、それはしゃがみ込み、座るアランと視線の高さを合わせる。
(直接貴方に語りかければ、貴方を破壊する可能性があった)語るはそれの方だが、実際の声は脇で棒立ちになっているクラリスであるというのが不思議であった。(噺人以外を呼んだのはいつ以来か。よく参った)
(呼んだ……)
アランは戸惑いながら、それを見据える。
(貴方は、水神様ですか?)
この空間にやってきた際の問いをアランは再度投げかける。
(今や、形だけだがね)
水神は、自嘲めいて呟いた。正しくは、呟いたのはクラリスの口ではあったが。
(あまり驚いているようには見えんな)
(驚いていますよ。でも、そうだろうなとは思っていたので)
(最初、私にそう問いかけたね。虚を突かれたものだった。貴方は想像を少しだけ違えてくる)
水神は微笑んだ。
(だから興味深い。人間は皆、面白いのだがね。……たとえば、ずっと尋ねたかったのだが、貴方は、ここにやってくる時何も感じなかったのか)
感じる、とアランは呟いて口から小さな水泡が零れた。
(暗闇が纏わり付いてくるような感覚。無性に不安に駆られるような、或いは囁きが聞こえてくるような、厭なものを、何か感じなかったか)
(何も。……いえ、確かに、厭な感じはありました。重くて、寒気がするような。でも、それだけで)
(そうか)
水神は眼を細める。
そのままゆっくりとクラリスの横を擦り抜けて、アランの前に屈むと、右手が彼女の頬に触れた。アランは一見毅然とした表情で、ぶれることなく水神の顔を見つめる。
(まみえた時に先ず解った。とても昏い目つきをしている)
頬を撫でる仕草には、慈愛を含んでいるようであった。
(心を閉ざしているのだね)
揺れる毛先を手で避ければ、碧い光に照らされるばかりの栗色の双眼が露わとなる。
(ここではむしろ心は露わとなる。肉体に守られている精神が剥き出しになれば、自ずと安定を失い、蔓延る気配に毒される。以前、多くの異形の者達が砕かれていった。この世界には癒やされることのない怨念が沈み、根付いている)
(この世界は、どこなんですか?)
(どこだと思う)
アランは暫し一考し、顔を上げる。
(死後の世界)
(当たらずとも遠からず)
水神は苦笑する。
(それが真だとすれば、貴方もそこの獣も、このクラリスも死んでいることになる)
(ああ……)
納得したようにアランは相槌を打つ。
水中でありながら生きているように存在している不思議な状況下で、アランやブラッキーの存在がいかほどかは不明であっても、クラリスは水神の言葉を民に伝えるためにキリに戻る。であれば、彼女は死んでいるはずがない。
(でも、ここは、キリの湖の底でしょう、きっと。私は湖に跳び込んで溺れるブラッキーを助けようとして、そうしたら突然大きな波が立って、水の中に引き摺り込まれて、それはなんとなく覚えているんです。……眼が醒めたら、ここにいました)
(確かにここは湖の底だ。しかし、異なる。水底の更に奥。生ける者は来られない場所)
アランは唇を噛む。
(それって、死んでいるということでは)
(いいや。貴方も獣も死んではいない。肉体は鼓動を続けている。辛うじてだがね。肉体と精神が離れているだけで、死ではない。今の貴方という存在は、貴方という魂そのものなのだ。獣も、クラリスも同様)
(魂……)
(理解したかね)
アランは自分の手を覗く。碧い暗闇に浸り、水の動きに合わせて指先が揺れている。しかし、薄れるわけでも溶けるわけでもなく、確かにそこに存在していた。
(全然、解りませんし、変な感じですけども)ぽつりと言う。(死んでいないということは、信じます)
(充分)
満足げに水神は微笑む。
水神はのっそりとした動きでアランの正面に座る。クラリスは対面する彼等の中間地点で、双方の顔が見える位置に無言で続いた。純白の衣が動きに合わせて海月のように揺れる。クラリスは相変わらず無表情であり、そこに自我は無い様子だった。
(貴方を呼ぶのに)
両者に挟まれたクラリスの声で、水神は語りかける。
(特別な理由は無い。しかし、貴方のことは知っていた。彼女が噺人として初めてここにやってくる日、貴方が彼女の名を湖で呼んでいたと、知っている)
(……え)
(必死に呼んでいただろう。喉が枯れるほどに叫んでいた)
アランは目を丸くし、まじまじと水神を見つめる。
(聞こえていたんですか)
(聞こえていた。視えていた、という感覚が近いが)
(そんな)
アランは小さく狼狽える。
エクトルですら湖上に少女とエアームドの姿があったと人伝に後から聞いたという話だった。であれば、クラリスに届くはずもなく、誰の耳にも入ることのない無意味な行為として消えたはずである。
(まさか、クラリスにも聞こえていたんですか)
(彼女からは聞いていない。しかし、クラリスは貴方の話をしていた。それから、貴方の友人や従える獣の話も。噺人でクヴルール以外の話題、それも外部の人間に関する話をするとは随分珍しいから興味深かった。湖上で呼んでいたのが貴方だとすぐに解った)
アランは意志を持たないクラリスを見やった。
整った横顔は凜とした気配を漂わせながらも、決してそこに彼女は居ない。
(だから私は貴方を認知したのだ。湖面に触れた瞬間に理解した。血の気配は標になった。そして呼んだ。貴方を呼んで、そして貴方はここに来た。長い行程だったろう)
水神は静かに慮る。
水底の森を探りながら進み、辿り着いた長い洞窟を、碧い灯りを頼りに抜けてきた。窮してもおかしくはない暗い道程を思い返したのか、アランは沈黙し、静かに頷く。視界はほぼ暗闇であり、本来であれば暗闇に作動するブラッキーの発光習性も全く機能しなかった。慎重な旅路ではあったが、暗闇に屈せずに歩く姿は、光を求めて手探りで彷徨う生き物そのものだった。
(自分の足音すら聞こえなかったのに、何故かずっと誰かに呼ばれているような気がしていたんです。見えない糸を、ずっと手繰ってここまで来たような)
(事実、私は確かに呼んでいた。声ではなく、意識を寄せていた。意志を拡げれば、私達は繋がることができる。その波紋を掴んだ貴方はここに来た。だが、この外はあまりに深い森だから、迷い込んだまま自分の形すら失う魂も少なくはない)
(それは)一度考え、アランは再び口を開く。(消える、ということですか)
(消えるわけではない。迷ったままなのだ。しかし迷い込んだことも解らなくなり、いずれ自分を忘れる。そうして自分の輪郭を保てなくなり、砕け、暗闇に溶ける。水は蒸発しても消失しないだろう。同様に、魂は消えず漂い続ける。そこに意志は最早無いが、彼等の思念が更にこの世界を濃くする。暗い、寂しい、悲しい……母を呼び、父を呼ぶ。愛する者を呼ぶ。私はいつも耳を傾けている。目を瞑ると、聞こえてこないか)
促され、アランは躊躇いがちに瞼を伏せる。
碧い光が遠くで揺らぐ中、暗い空間を暫く見つめていた栗色の瞳が静かに姿を現す。
(聞こえません)
凜とした言葉には、偽りも強がりも透けてこない。
クラリスの声で、そうか、と水神は呟く。
(水底に響く激情を抱えながらも完全に閉ざすとは考えにくいが。それでいてここまで辿り着いた。不思議なものだ)
(閉ざすって、心を?)
(そう。魂そのものでありながら、その器の更に内側に心をしまいこんでいる。だから干渉されない。その獣が歩く力すら失ったのは、無数の魂に感化されたためでもあるだろう)
(ブラッキーが……いなくなるかもしれないんですか?)
(その獣は、ブラッキーというのだね)水神は微笑みを深くして、ブラッキーに視線を遣った。(それは彼次第であり、貴方次第でもある。少なくとも貴方がブラッキーを覚えている限り、彼は彼で在り続けるだろう)
(忘れるなんて)
(人は忘れる生き物だ)
水神はアランの言葉をしんと遮る。
(この獣はそうでなくても不安定だ。強い憎悪を感じる。彼を繋ぎ止めておきたいなら意識を向けなさい。肉体から離れた魂は脆い。記憶は存在証明となる。心象によって存在は形作られる。クラリスのことも、きちんと覚えていられるように)
(クラリスも……)
(彼女の場合は少し特殊だがね。けれど、感情豊かな彼女を形作るのは、貴方達の存在も小さくはない)
(クラリスは……怨念というものが、平気だったんですか)
(噺人と私の間では繋がりが殊更強い。だから彼女達は誘いを辿って迷い無くここにやってくることができる。そこにたとえ感情が無くとも)
淡々と話す水神の言葉に、アランは沈黙する。
(むしろ、感情はできるだけ無い方が安全ともいえる。魂に共感して不安定になるためだ。噺人が外の世界からの干渉を断つのはそこに所以がある。彼女達を守るための方法でもある)
心をできるだけ清らかに保つ。さもなければ、水神の元へ辿り着くことすら出来ない。地上にて、エクトルはアランにそう語った。
(でも、そんなのは)
(言わんとすることは理解する。噺人を呼び止めようとしていた貴方のこと。私も、正しいばかりではないと考えが移りつつある)
アランは憂う水神の表情を凝視した。
(だから暫く噺人を選ばなかった)
(……クラリスは、久しぶりの噺人、なんですよね)
(よく知っている。彼女から聞いたか)
(はい)
(未来を視る鳥獣のことも知っているか)
(ネイティオのことですか)
(彼等には惨い思いをさせた)
(そうしたのはクヴルールの人達です)
(きっかけを作ったのは私だ。そんなつもりはなかったと言っても、漂う獣達は許さないだろう)
水神と同様、未来を正確に導き出す特殊なネイティオを作り出すまでに、クヴルールは生まれない噺人の代わりにネイティオを水神の元へと送りこもうと試みた。しかし、ネイティオの魂は水神の元に辿り着けずに魂は壊れたのだろう。嘗て傷だらけになって帰ってきたという鳥獣の肉体と別に、帰り損ねた心は永遠に水底を飛び続けている。
(ネイティオが可哀想で、噺人を選んだんですか)
(いいや)水神は僅かに首を振る。(人間の行動は意外ではあったが、気にも留めていなかった)
(じゃあ、どうして)
水神は沈黙した。クラリスに劣らずまっすぐとした言葉を投げかける。
(ここには時間という概念が殆ど無い)
ぽつりと水神は呟く。
(貴方はキリの人間ではない。噺人の本来の由来を知らないだろう)
アランは頷く。
(元々は、ここに留まる私達に時を報せ、水底に朽ちた嘗ての町の噺を伝聞するための存在だった。未来予知は副次的なものに過ぎない。彼等の欲するものを与えただけ。……嘗て、キリの民は私の教えた未来を信じて生活していた。ほんの少し、いくらかの日を超えれば嵐が来る、或いは初雪が降る、晴天の吉日、些細な事象を含めて分け与えた未来を一つの柱として生きていただろう。しかし、今や、私が居なくなろうと、その役割は私だけのものでないと証明された。水神という存在を必要としない者も多くいるだろう。私の与えるものに価値は消えつつある。それは人間にとっての私自身の価値に等しい)
存在そのものを尊重された生き物が、長い時を経て、人々の記憶から失われていき、代わりに生まれたものによって価値は低下していく。新しきが古きを駆逐し、変容していく様と同じように。
そして、少しずつ忘れられていき、朽ち果てていく。
(……それでも、噺人をまた選んだのは……)
アランがしんと入り込む。
(寂しかったから、ですか?)
(寂しい、か)
情緒的だ、と水神は言う。
(太陽も月も無い、時間の無い水底における時の指針。それが噺人。貴方が現在を知るために空を仰ぐように、私は噺人を寄せた。それだけのこと)
(でも、未来を視ることができるんですよね)
(未来は過去の先にあり、現在の先にある。現在という点が解らなければ、視える点を測ることは出来ない。春の嵐、夏の夕立、秋の木枯らし、冬の吹雪、重なり得ないものが重なる。今が解れば何が過去で何が未来なのかは自ずと判明する)
アランは顔を顰める。
(解るような、解らないような)
(生きている貴方は理解しなくてもいい。生きるとは時間の中にいることに他ならない。生物は存在そのものが今であるのだから)
(……水神様は、生きてないんですか)
(私は長く水底に居座り続けている。この場所自体が時の流れから隔絶されている。死んでいるとも、生きているとも言える)
相変わらずアランが悩ましげな表情を浮かべている姿を、水神は微笑ましく見守った。
(貴方は知りたがりのようだ。ここに居ればいずれ自然と理解できるだろう)
水神は立ち上がり、アランの一歩前にやってくる。天井の碧い光を浴びて、アランには水神の作る大きな群青の影がのしかかる。彼女の目はぼんやりと濃く碧い逆光の中にいる水神を見つめ返した。
(私と居るか)
時の流れない、誰の言葉も届かないこの水底に。
アランは再度口を動かした。しかしその直後、がくんと頭が前に揺れる。瞼が重くのしかかろうとしている瞬間を耐えるように持ち堪えた。
(負荷が大きいのだろう)
(何……)
(少し眠るがいい。心配せずとも、ここでは時は無限だ)
(でも……、まだ……)
水神の右手がアランの瞼に迫る。彼女が水神の棲むこの場所へやってきた時と同じ動きであることにアランは気付いたかどうか。碧い影に更に暗闇が被さって、クラリスを映した暗い視界を遮り、柔らかな掌が触れた。強張った表情が和らぎ、抗う隙も無く彼女の瞼は閉じられた。
浮かぶことなく、地上で重力に従って倒れ込むように、アランはそのまま前へと倒れていった。
意志を失った魂を水神は受け止める。
そしてゆったりとした動作で上半身を起こし、背後に横たわる巨大な獣にまた寄り添わせた。眠るアラン、ブラッキーの顔は苦しみとは無縁で、穏やかな顔つきをしている。
おやすみなさい。水神はぽつりと呟き、クラリスとの回路を切断した。