まっしろな闇











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続・キリにて
Page 117 : 水底の森
 冷たい場所で、赤い目が覗き、揺らいだ碧い空間を見る。
 初めは殆ど暗闇だった。明確な太陽の光は一切無いが、さほど時間もかからないうちに視界が慣れていく。元々かの獣は夜を生きる種族だ。だが、そうしてまみえた光景は彼の記憶のどこにも繋がることがなかった。脆く揺らめく碧は煙のようで、陽炎のようでもあった。ほんの僅かに青白く光る、その光源がどこにあるのか定かではないが、天とする高さを見上げれば窺える。朧月夜が揺蕩っているようであるが、幾重もの霧に遮られたようにあまりに遠く、暗闇を明らかにするにはとても及ばない。
 身体に描かれる月輪は機能しておらず、闇に溶け込んでいた。その身体は酷く重く、真っ暗な地面に打ち付けられている感覚にとらわれながら、彼は優れた夜目で周囲を見渡し、隣で俯せに倒れている存在に気が付いた。魚ではなく、ましてや鳥でもない。見慣れた人間だった。
 身体を突き動かしていた衝動ともいうべき激情は切り離されたのか、暴走が嘘のように落ち着き払っていた。
 重い身体をのそりと立ち上がらせ、眠ったままの彼女を見て、額を合わせた。瞼を舐めると、かすかに痙攣し、闇の中で瞳が覗いた。周囲があまりにも暗いから、色の判別はつかなかった。
 力無い手が漆黒を伸びて、ブラッキーの輪郭をなぞった。何か言葉を吐こうとしたのか口が動いたが、声の代わりに唇を割って出てきたのは泡だった。息を吐き出そうとするたび、喉からごぽりと低い音を立てて、泡は浮かんでいき、消えてなくなっていく。泡沫の行く末を遠く見守りながら、アランは身体を起こした。ブラッキーと同様に、彼女も身体は重力を普段より何倍も背負っているように、動きが鈍い。
 伸びた髪がゆらゆらと海月のように揺らめき、地面は堆積した砂や岩が丸く敷き詰められている。全て深く碧い闇の中だったけれど、アランもブラッキーと同様、視野に慣れて、周囲の輪郭がはっきりとしつつあるのか、じっと凝らした目で観察していた。
 そこは、水底としか形容できなかった。
 湖面ばかりが煌めく外側からすればどれほど深いかもわからないが、渦潮に巻き込まれて還れぬままに沈んでいき辿り着いた、光の届かぬ、湖底の世界。
 しかし、そうであればアラン達が容易に目を開けていられるはずもないし、勿論息ができるはずもない。声は出ないが、息苦しさは無いようで、アランは喉に手を当てる。口を開ければ水を呑み込んでいるはずなのに、苦しくはないようだった。まるで、彼女達自身が、水の中に同化した存在となっているかのように。
「……」
 アランが立ち上がり、ぼんやりと歩き出すと、黙ってブラッキーもその後を付いていった。
 彼女達がいる広い暗闇の空間をたとえるとすれば、水底の森である。
 木のような高く痩せた幹が遙か上まで伸びていて、似たような木々が平面上に無限に広がっている。彼等が歩いている場所は明確な道になっているわけではなく、木々の隙間を縫っているだけだった。碧は深く、木々は更に深い闇の色に染まっている。影をそのまま帯びていて、どれも底無しに黒い。葉は見えず、枯れた枝ばかりだ。僅かな光を求めて上へと伸びているものもあれば、朽ちて折れてしまっているものもある。酸性雨を浴びて枯れ果ててしまった森に似ている。或いは、戦争の爪痕が深く残り、人の手が入らなくなった場所に似ている。
 足に引っかかるものがあり、アランは立ち止まる。巨大な倒木が行く手を阻んでいた。直径は彼女の胸のあたりまであり、迂回しようにもその場からは幹の先が見えず、森を両断するような随分とした長さと錯覚する程だった。どうやら、しがみついて乗り越えなければならないようだ。慎重にアランの指が触れると、指先で、ざらついた樹木の鱗がはらりと剥がれ落ちた。樹皮の欠片は塵となり、水に溶けていく。
 いつもなら軽やかに跳躍するであろうブラッキーだが、重い引力がそれを許さなかった。跳躍はおろか、足を上げることすら億劫であった。
 アランは身体を倒木に倒しこむようにして無理矢理上り、上を跨ごうとしているところで、前足を伸ばして立ち往生をしているブラッキーの身を引いた。主の手に引かれて漸く枯れた倒木を越える。
 碧と黒の霧中を進んでいくように、ゆっくりと彼等は歩む。
 その間、殆ど景色に大きな変化はなかったけれど、無造作に育った森の遠景には木とは異なるシルエットが点在していた。それらは、強いていえば建物の影に似ていた。自然物というよりは人工物に近いが、廃墟らしく、屋根や壁は崩れ、恐らく近くに赴けば瓦礫や土塊が無残に積まれていることだろう。
 生き物らしき存在はアランとブラッキーの他には無い。水中であれば魚の一匹や二匹、水ポケモンが泳いでいてもなんらおかしくはないが、気配も無い。よくよく目を凝らすと、樹木や岩に張り付いているだろう、苔やカビの類すらも無かった。中身の無いひび割れた貝殻や枯葉が散らばっているだけ。泡を放っているのは、アランとブラッキーの口許のみだ。あらゆるものが死滅し、破壊されたまま朽ちゆくのを待つ、終末世界の様相をしている。
 行くあてはないが、進むことしかできないから、アランとブラッキーはぼんやりと無機質な表情で、お互いに目を見合わせることもなく木々の間を迷い続ける。仮にここが水中であるならば浮き上がらなければ地上には出られないだろうが、重たい身体では叶わない。見えない鎖が底から彼等を引き繋いでいる。
 獣道ですらない道筋は、まっすぐに歩いているかすらも危うい。ここには地図もなければコンパスも無く、方角も解らない。だが、たった一人と一匹、唯一傍にいる見知った同士は離れない。アランの行く道をブラッキーがぴったりと付いていくような形である。
 どこまでも平行に続く、死に絶えた森を歩いて行くと、不意に、遠くが壁のように黒く染まっているのが解った。
 近付いていってみると、そこは遠くに林立していた人工的な壁ではなく切り立った崖に近く、岩壁の隙間から這い出してそのまま枯れた木が壁面を覆い、あるものは無造作に空へ伸びて、成長を止めている。
 岩壁を迂回しようと重い足取りで周囲を歩いて行く。すると、彼等は唐突に開いた横穴の入り口へと辿り着いた。壁に沿い手を当てていて手元が不意に浮いたので、アランはほとんど暗闇の中でもすぐに気付くことができた。
 久しぶりにアランはブラッキーと目を合わせ、逡巡してから、横穴を覗き込む。
 これまでの道程も暗かったが、更に真っ暗闇に塗り潰されている洞は一寸先すら殆ど何も見えない。外ともいうべきところで辛うじて薄く浮かんでいる碧い光のような幻も、洞窟の中では無に帰している。
 そこに入っていくのは、好奇だけでなく、多少なりとも勇気を必要とするだろう。底知れない暗闇は、恐怖を呼び覚ます。
 ブラッキーは、自身の肌が僅かに粟立っていると感じていた。本能が小さく叫んでいる。この先には、何かがある。何かがなんなのかは何も分からないが、確実に何かがある。それも、おぞましいものが。
 しかし、アランはその中へゆっくりと一歩を踏み出した。
 虚ろな瞳で、まるで中へと呼ばれているように。
 見えぬ糸に引かれていく主人だけを先に行かせるわけにはいかないと思ったのか、ブラッキーは意を決して彼女と共に洞窟の中へと入っていった。
 洞窟はアランよりも頭二つ分ほどの高さがあり、背を屈める必要も無く進められた。岩壁にそうしていたように、アランは左手を壁に付け、一寸の光も無い黒い世界を探っていく。
 何も見えないために道がまっすぐなのか曲がっているかすら不明だが、少なくとも行き止まりに当たることも、天井が低くなることも、穴に落ちてしまうことも無く、足下すら見えない暗闇以外は一見なんの問題も無いようであった。
 ただ、暗いだけではなく、形容しがたい厭な雰囲気が辺りには満ちていた。元々の重みに加えて、絡みついて彼等を本当に暗闇に同化させてしまおうと引き摺り込むような、その瞬間を虎視眈々と、洞窟まるごとが窺っているような、そんな息苦しい気配であった。
 やがて、異変がブラッキーに起こる。
 足下にも気を配っていたのだろうアランは、ブラッキーの動きが更に重いものになっていると気付いていたのか、自身の速度もぐんと落としていた。しかし、不意に完全に隣の気配が止まる。ふと振り返り、水中を藻掻くようにゆっくりと足下を手で探り、まだ遠くない後方で、倒れているブラッキーを探し当てた。
 身体をさすっても、叩いてみても、全く返事が無い。まるで置物のようだが、柔らかな弾力はやはりブラッキーのもので間違いなかった。本来ならば暗闇で光るはずの彼の模様もこの場所に迷い込んでからは力を発揮していない。
 ブラッキーが起きないとみると、アランは口から大きな泡を吐き出す。そして獣の身体に腕を差し入れると、そのまま抱きかかえた。アメモースを抱えるには慣れたものだが、ブラッキーは経験が無い。少女が抱えるにはかなりの負担があるはずだが、彼等が実感している重力に比べてしまえば、不思議と軽いのか、アランはさほど苦しい表情を見せずに歩き始めた。
 手元すら見えない中、手に感じる岩肌と、抱えるブラッキーの重みだけが、確かに彼女がここにいるのだという証明たりうる。
 しかし、不意に現れた、唐突な、雪のようにちらついた光に、アランは目を見開いた。
 暗闇のずっと先に、碧く僅かな光。
 正気を失ってもおかしくないであろう暗闇を緊張と共に手探りで進んできた彼女の視界に、その光は果たして希望として映っただろうか。
 アランは変わらぬ速度でその光へと近付いていく。
 奥へ行くほど、ぽつんぽつんと、蝋燭が少しずつついていくように碧い光は増えていった。一つ一つは儚く、道を照らすこともできないような僅かなものであった。光に誘われるままアランは、最初に見つけた光の傍へと辿り着く。やはり、太陽の眩しさには到底及ばない、気休め程度の光量であった。辛うじてその周囲を僅かに照らしており、荒い洞窟の壁を碧く浮かび上がらせている。近くで見ると、岩肌に埋め込まれた宝石が自ら発光しているような印象を受けた。アランはぐっと目を近付けるが、宝石には何も映らず、光の奥にも何も無い。
 更に奥に点在し始めた光を、順に追っていく。光は左右分かれながらも、ほぼ直線に浮かんでおり、果てなく、ただまっすぐと続いている簡素な洞窟だという全景が浮かんでくる。
 歩き進めるにつれて、光はだんだんと密度を増していく。ぽつぽつとひとりぼっちでそれぞれ光っていたものが、密集していき、深淵に等しい闇に続いていたはずの道が見えてきたのだ。やがて両側や天井を埋め尽くすほどになると、あまりにも心許なかった光が鮮明となり、アランは漸くブラッキーの表情を視認することができた。決して険しい顔つきではないが、ぐったりと目を閉じており、どれだけ光に照らされようとも眩げに動くこともなかった。
 そして、遂に長かった横穴は到達点へと辿り着く。
 細い道を造り出していた光る宝石達が、大きな空間を造るようにその場所を広げ、出口を示す。
 奥は巨大な半球をいびつに描くドーム状の洞が広がっており、その天井には道標となった宝石が音も無く輝き、碧い星のちらつくプラネタリウムを彷彿させた。
 天井こそ幻想的であったが、地に目を向ければ、洞窟の外で渺茫と群を成していた木々を拾って敷いているような無造作な倒木や、遠景でぼんやりと建っていた廃墟の石壁の残骸が転がっている。明らかな光に照らされている分、全容が事細かに判明しかえって荒廃が浮き彫りになる。およそ整然とは言い難い。
 その入り口で立ち尽くすアランは、ドームの奥に座り込んでいる、彼等とは別の存在に出会うこととなる。
 それは、壁に寄りかかるように目を閉じていた。光で浮かびあがる、横たわった巨大な美しい碧い四足の獣が寄り添っている。いや、その獣の方に、寄り添っているのかもしれない。獣の胴体を背もたれにして、それは座っていた。巨大な巻き貝を模したものを頭部に被り、倒れている獣よりもずっと小柄な身体をしていた。
 その目が開く。
 そして、アランと目が合い、それは、微笑んだ。
(……水神様?)
 不思議なことに、ブラッキーに対して出てこなかった言葉が、泡と共に水中を揺蕩った。普段空気中で発するよりもずっと濁った、朧気な発声――発声とすべきかも定かではないが――が口をついて、アランは目を見開いた。
 それは、何も言わなかった。ただ微笑み、アランを見つめている。
 アランは慎重にドームの中へと入っていった。奥に鎮座するそれは、何も発さず、ただ在るだけのように存在している。ドームは、やはりここ自体もまた廃墟のようだった。植物も動物も生きていない、孤独に残された場所に、それはただひとり佇んでいる。
 枯れた枝や尖った瓦礫の破片、それに朽ちた骨や割れた貝といった様々な欠片を踏みしめ、アランはそれの数歩手前で立ち止まった。
 それは、優しい表情をしていた。穏やかな老人を彷彿させるような、しかし浮世離れした不思議な優しさを含んだ笑みだった。
(呼んだのは、貴方ですか?)
 泡と共に、水を通して言葉が届けられる。
 それは返答しない。張り付いたような微笑みのまま、手がのんびりと動いた。白い小さな爪が並んだ丸い手が地面を叩いた。横たわって眠っている碧い獣にもたれかかる、ちょうど隣。
 座れ、という意図なのか。
 それは何も言葉を発さないが、アランは引き寄せられるように示された地点までやってくると、ブラッキーを丁寧に横たえ、腰を下ろした。ぬくもりもなければ、つめたさもない。僅かに尖ったおうとつが座り込んだ場所から刺激する。
 通ってきた洞窟と同じように暗闇の深い瞳で、アランはそれを見やり、背後に倒れる獣を見た。巨大な獣は目を閉じ、オーロラを彷彿させる薄いベールを纏い擬似的な星の光を反射して輝いていたが、近くでよく観察すると、ぼろ布と同様に破れ、汚れ、焼けたように縮れている。肌は干からびたように痩せぼそっている。恐らく、実に美しい姿形をしていたのだろう。しかしこれでは転がる倒木や廃墟と同然だった。
 傍に横たえたブラッキーの頭を、それは撫でる。額を撫で、輪郭を辿り、最後に瞼を覆うように包んだ。
 暫くして、硬直していたブラッキーの腹は穏やかな眠りについたように緩やかに膨らんでは萎み、その行為を繰り返すようになった。
 どこか、割れたら全てばらばらに瓦解してしまうような、繊細な営みをしているようだった。アランは慈愛の籠もったそれの表情を横から直視する。視線を感じたのだろう、それの顔がゆったりと上がり、真正面からアランを捉えた。ブラッキーを深い睡眠へと落としていった掌が近付く。アランは縫い付けられたようにそれの視線から目を離すことができなかった。水に揺らぐ髪の毛を分けて、ブラッキーにそうしたように冷たい掌が額に当てられ、まずは右の瞼を覆い、そして次に左をなぞる。通ったところに添って密やかな淡い光がかすかに明滅し、力が抜けて、アランの瞼は抗う事無く閉じていた。膝を抱えた腕も含めて全身が脱力し、背後の獣の胴体に倒れ込んで、僅かに開いた唇の隙間から細やかな泡が一定の間隔で零れていく。
 倒れた迷い子達を、それは温和に伏せた瞳で見つめ、そして自身も同じように目を閉じる。
 どこか遠くに閉じ込められた水底で、アランは深く、深く、眠りについたのだった。

( 2020/04/17(金) 20:57 )