まっしろな闇












小説トップ
続・キリにて
Page 116 : 空と底
 ブラッキーの牙が、アランの身体に突き刺さった。
 激しい飛沫が五感を遮ろうと、栗色の双眸は獣の動きを克明に捉えていた。直前の行動は意志というよりも反射であった。アランは辛うじて身を捩り、それは首ではなく左の肩口を襲った。致命傷こそ避けたが、アランは堪らず痛みに声をあげた。深く、ヤミカラスを食い破ったいくつもの牙が穿たれたまま離れない。ブラッキー自身から溢れるものと合わせて、赤い色水をぶちまけていくように傷からあっという間に赤が広がっていく。
 それでもアランは強くブラッキーを頭から抱擁した。しかし、服が水を吸い込み、痛みは一気に体力を奪う。だんだんブラッキー諸共、沈んでいき、辛うじて顔を出すのに精一杯であった。
 湖畔から呆然と見つめていたエクトルは水タイプのポケモンを持ち合わせていない。だが、漸く脳内でスイッチが入ったように、背後を見やった。
「ガブリアス、来い!」
 背中越しにドラゴンを呼ぶと、逆鱗直後とは考えられぬほど従順に命に従い、涙目で地面にへたり込んだフカマルを置きざりにしてガブリアスはすぐさまエクトルの傍へ来た。一瞬振り返った後にまた湖面に視線を投げると、目を疑った。
 平穏な湖に異変が起きている。
 彼女らを中心として、湖面にゆるやかに渦が発生している。いわば渦潮である。ほとんど水流の生まれていない今、それも比較的浅い岸辺、自然現象としては起こるはずのない出来事だった。
 しかし、エクトルはその光景に対して既視感を抱いた。何故と動揺し判断を失念した間に、初めは細波程度であった勢いが、瞬く間に強くなった。見えない巨大な力で乱暴に掻き回される。上空は不変に広がる蒼穹、照る太陽の光が波間で反射する。まるで湖にだけ嵐が起こり始めたようだった。勇敢なヒノヤコマやピジョンが柵を越えて救助を試みようとするが、水の勢いがあまりに強く近付くことすら叶わない。
 二対の声が小さくなって、とぷん、と、中心に吸い込まれるように、不意に掻き消された。
 ざわめくのは、渦巻く激流の荒れた音と、空疎な羽ばたきと、錯乱するエーフィの叫び声のみ。
 エクトルの脳裏で湖へと引き込まれていく主人の姿が重なった。
 浮かんでいた血は荒い白波にほだされて、深い青に沈んでいった。


 *


 湖面が遠ざかっていき、鮮血が煙のように上がっていく。
 突如として襲った渦潮に巻き込まれ、激しく突き動かされながら、その流れから漸く手を離された時には、戻りようもないほど深い場所へと彼等は身を沈めていた。
 身体を覆う服が重く、浮き上がることは叶わない。
 傷つけられた身体は更に渦潮に打ち付けられ、空気を吸いこむ間もなく水中に引き摺り込まれた。少女は獣を離さなかったけれど、最後に苦しげに口から水泡が絞り出されて水面へ浮かんでいった頃には、とうにはっきりとした意識は失われていた。
 晴天が放つ陽光が遙か遠くで木漏れ日のように輝いていた。誰も居ない暗闇へと誘われていく。月輪が朧気に光り、暗闇で位置を示しながら、抵抗無く沈みゆく。底に向かう程に冷たくなっていく感覚を、彼等の肌は感じていることだろう。


 *


 きっかけは、地震だった。
 吉日と指定されて熱に浮かれた秋季祭の中心地にも、その地響きは僅かに伝わった。静かに一人座り込んでいれば辛うじて感じ取れるかといったような、ほんの少しの違和だった。だから、ザナトアはその不自然な一瞬を自らの足先から電撃のように伝わった直後は、気のせいだと思った。ポッポレースを終えて選手も観客も労いの空気に包まれていて、誰も気付いていなかったからだ。
 揺れる直前には、ザナトア率いる野生ポケモン達のチームが参加する自由部門のレースは殆ど終了していた。
 ポッポレースが終わってしまえば、ザナトアにとって秋季祭という大イベントは殆ど終わる。
 ヒノヤコマを初めとして、群れを牽引する者の不在を、ザナトアは少しも不安に思っていなかった。たとえ群れに馴染めなかったとしても厳しい野生の世界で逞しく生きていくために育成を施してきた子達の、集大成にあたる舞台なのだ。結果的に、誰一匹として離脱することなく、チェックポイントを全て回り、ゴール地点まで還ってきた。順位は下の上といったところだろう。充分な結果だ。遠くないうち、冬が本格的に始まる前に野生に返す準備をしなければならない。彼等にとってのザナトアの役割は終わりを迎えようとしている。喜ばしいことだ。しかし少しだけ寂しい。彼女はおやではないが、おやごころが芽生えるのだ。たまにヒノヤコマのようにそのまま卵屋に棲み着いて離れない者もいるけれど、ザナトアは微妙な胸中に立たされる。複雑なおやごころである。
 当初の予定よりずっと少ない面子の乱れた羽毛をブラシで丁寧に梳かしてやり、一匹一匹に声をかけていた最中だった。
「……地震?」
 ぽつりと呟いて、周囲を見渡した。
 だが、誰も顔色を変えずに歓談している。地面が、一瞬だけ突き上げるような、浮かぶような力が加わったように感じた。視線が上がり、白く塗られた電灯同士を渡る旗の飾りが、揺れているのを発見した。留まっていたポッポが羽ばたいたために大きく揺さぶられていた。
 果たして、ブラッキーはどうなっただろうか。水面下での懸念事項がはっきりと浮かび上がる。
 ザナトアは、アラン達なら大丈夫だと考えていた。楽観的だととられるかもしれないが、アランは依然未熟なトレーナーであるものの、ポケモン達は彼女を見捨てていなかったからだ。獣が強いほど、弱い人間は嘗められる。だが、エーフィ達は決してトレーナーを見下しているわけではない。
 アラン達が寂れた育て屋を訪れた日、ザナトアはかのポケモン達に問いかけた。あのトレーナーのことが好きか、と。アメモースはどっち付かずな反応を見せたが、エーフィとブラッキーはすぐに首肯した。良くも悪くも複雑な思考をする人間より、獣はずっと素直で正直だ。彼等の詳しい経緯をザナトアは知らない。これからも知ることはないかもしれないが、ただ一つ確実なことがあったとすれば、あのトレーナーとポケモン達の間には、ザナトアが一瞥しただけでは理解できなかった繋がりが存在している。
 ポッポレースの表彰式を促す放送が周囲に響き、熱気の冷めやらない人集りが移動し始めた。
 顰めた面をしたザナトアの手が止まったことに不満を抱いたのか、毛繕いを受けていたムックルが鳴いた。声に弾かれ、ザナトアは我に返る。
 不意に気付く。大丈夫だと思い込みたいだけなのだ。
 無性に胸が掻き立てられて仕方がなかった。


 *


 薄暗くなってきた祭の露店に明かりが灯る。自然公園に設営された屋外ステージで行われたポケモンバトルも幕を閉じ、熱い拳握る真昼から一転、涼やかな秋風が人々の蒸気を冷まし、ちらほらと草原に人が集まり始める。子供から老人まで、配布された色とりどりの風船を持つ姿は微笑ましい光景だ。
 秋の黄昏はもの悲しさを秘める。生き生きとした夏が過ぎて、豊かな穂先は刈られ、花々は枯れ、沈黙の冬に向けて傾いていく。雨は冷たくなり、やがて雪に変わる。積雪の下には、次の春へ向けた生命がひそやかに眠る。季節は循環する。儚く朽ちてゆく間際、最も天高くなる時期、人々の願いと感謝が込められた風船は夕陽が沈む瞬間を見計らって、高々と空へ昇る。来る瞬間へ向け、準備が個々で進められていた。
 その中には、エクトルの友人であるアシザワの姿もある。
 幼い子供は沢山貰ったお菓子をリュックに詰めて、同じ年頃の友達と自然公園を無邪気に駆け回っていた。きゃあきゃあと黄色い声が飛び回る。
 湖面に迫る夕陽を前にして一人佇んでいると、普段は思い出しもしないことが浮かんでくる。たとえばそれは聞き流していた音楽だったり、記憶だったり、要はノスタルジーに包まれる。思い出といえば、大役を解かれ休暇を貰ったというのだから無愛想なあの男も暇潰しにでも来るかと思ったが、的外れだったようだ。
「何をぼーっとしてるの」
 ぼんやりと芝生に座って三つ分の風船を持ち子供達の姿を眺めていたところ、声をかけられて顔を上げた。朱い夕焼けより少しくすんだ、けれど綺麗な赤毛をした女性に、アシザワはおどけた表情を返し、アンナ、と呟いた。
「何も」
「そう? なんだか珍しく寂しそうだった気がしたけど。はい」
 と言って、アンナはアシザワに瓶ビールを手渡した。既に王冠は外されている。湖面を渡るポッポの絵が描かれたラベルが貼られた限定品だ。
「ありがと。お、ソーセージ」
「美味しそうでしょ。列凄かったんだから」
「かたじけない」
 アシザワが仰々しく頭を下げると、わざとらしさにアンナは吹き出した。
「李国式だ」
「古風のな」
 にやりとアシザワは笑む。
 彼女は大ぶりのソーセージがいくつも入ったパックを開ける。湯気と共に食欲を刺激する強い香りが漂う。祭で叩き売りされる食事というのは、普段レストランで味わうものとは違った、素朴でジャンクで、不思議な希望が詰められた味がするものだ。子供も大好きな一品。添えられたマスタードをたっぷり絡めるのがアシザワは好きだった。その良さを知るには子供はまだ早いのが残念なくらいである。
「風船持とうか」
「いい、適当にするから」
 瓶を傾け、一気に喉に麦酒を流し込む。まだ明るいうちに喉を通る味は格別だ。これもまた子供には早い。無邪気に遊び回る子供は自由で時折羨ましくなるけれど、不自由なことも多い。やがて適当に流すことを覚え、鬼ごっこやおもちゃとは違う楽しみを覚える。
「手紙、書いた?」
 風船に括り付けるもののことである。人によっては、感謝だったり、祈願だったり、愛の告白だったり、様々な思いをしたためる。
 昔は、湖に沈んだ町や大洪水に呑まれた魂を悼み、天空へ誘うポケモンを模していたと聞いている。だが、現代になるにつれ外部の観光客も楽しめるポップな様相へと変わっていった。それでいいとアシザワは思う。水神の未来予知だって、現代は科学が発展して天気予報は殆ど当たる。災害予測も技術が進めば可能だろう。宗教を盾に権力を振りかざして胡座をかいているクヴルールは正直気に入らないところがある。若者を中心に、そう考えている人間は少なくはない。時代が変われば文化も考え方も変わる。
 瓶ビールを半分ほど一気に流し込んだところで、口を離した。
「そんな恥ずかしいことはやらねえ」
「ええ? 去年は書いたじゃない。家内安全って」
 アシザワは苦い表情を浮かべる。
「そうやって覚えられるから嫌なんだよなあ」
「子供みたい」
 くすくすと笑う。真新しい銀の輪が嵌められた薬指が夕焼けに煌めいて、金の輝きを放つ。
 赤と、青と、黄色、三原色の風船が穏やかな風に揺れている。湖面の方角からやってくる秋風が心地良い。
 秋季祭が終わっていく。
「あーっチューしてる!」
 目敏く幼い少年が叫んだ。
 いつの間にそんな言葉を覚えたんだ、と思いながら、アシザワは振り返った。その先で黒い影法師が二人分ずっと伸びているのを見て、これは風船があってもばれるなと気付いた。まあいいか。瓶を置いて、走っても走ってもなお体力を有り余らせている子供に向けて、誤魔化すようにソーセージを高々と見せた。ご馳走を目にして歓喜の声をあげながらやってくるユウにも、隣で笑うアンナにも、思いがけず強い感情が込み上げる。この瞬間を、幸福と呼ばずしてなんとするだろう。


 *


 長い時を経て、縁の途切れていたエクトルとザナトアが再会したのは、秋季祭が夜に沈んでいこうとする頃。 
 喚くようにヒノヤコマ達がザナトアを探しに来た。宥めても混乱が収まらず、明らかに様子がおかしかった。彼等に連れられて、老体に鞭打ち、通行規制が解かれた湖畔に足を運んだ。場は騒然としていた。罅の入った道路を早急に隠すように工事準備が進められ、車道は片面通行となっている。エーフィは芝生に座りこみ、憔悴した顔で、鳥ポケモン達の声に気が付き縋るように振り向いた。隣にはアメモースもいる。目玉を模した触角は垂れ下がって動かない。彼女の傍をフカマルも離れないようにしていた。腕白小僧には似つかわしくない気落ちした表情をしている。鮮明なテールランプが夕焼けを切り取って回転している。ザナトアは立ち尽くし、言葉を失った。更に奥で、水ポケモンに指示を終え、救急隊が全身ずぶ濡れになって蒼白になった少女と黒い獣を担架で運んでいる。その様子を、嘗ての愛弟子は、ザナトアが本当の息子のように想っていた男は、至極冷静な表情で見つめていた。
 遙か向こう、祈りの風船が群を成して、夕景に昇っていった。

( 2020/04/16(木) 20:01 )