まっしろな闇











小説トップ
続・キリにて
Page 115 : 月影を追いつめて
 上空はネイティオ率いる鳥ポケモン達が隊列を組む。元々の群れを成して飛ぶ習性に加え、日々重ねてきたレースの訓練の成果が如実に表れ、整然と飛んでいる。
 地上から追いかけるアラン達は歓楽街にほど近かった教会から離れ、湖の方角へと向かう道を走っていた。人が集中しているのは町の中心地から湖畔の自然公園へかけた大通りを中心としており、そこからは距離を置いている現在地においては人通りは未だ少ない。ポッポレースも既に始まっている。郊外で営む店も今日は朝からしまって、祭に精を出しているのだろう。閑散とした住宅地、家を出ていない住民もいるだろうが、人気のない道はゴーストタウンすら彷彿させる。
 強くなりつつある日光を反射して、キリの町を象徴する白壁はますます輝きを増し、影は小さく濃くなっていく。
 乾燥した石畳を駆けながら、ネイティオが右に曲がる。それを追って、アラン達は細い路地に入った。昨晩の雨の影響で湿り気が漂うが、とうに水溜まりは蒸発していた。
 エーフィを先頭に縦に列が伸びる。間をアランが保ち、しんがりでエクトルが走る。短い路地を突き当たりまでやってきたところで、鳥ポケモン達は左へ舵を取った。
「こんなに大勢で向かって、ブラッキーは気付かないでしょうか」
 道がまた広くなり併走に切り替えたエクトルに、息を切らしながらアランは横から声をかける。
「布石は打ってあります」
「布石?」
「ええ。それより、覚悟はできていますか」
 アランは息を静かに荒げながら、沈黙し、頷く。
 大人しくボールに収まってくれればいい。しかし、悪く転がれば、戦闘に縺れ込む可能性がある。エーフィの表情も、いつもの朗らかさは潜み、硬いものになっていた。そのエーフィの主要な攻撃技はサイコキネシス、悪タイプであるブラッキーに直接ダメージを与えられない。実質、現在の手持ちの一体として名を連ねているアメモースも本来であれば十分に渡り合えるだけの能力を持っているが、今戦闘の場に出したところで、自在に動けなければ満足に力を発揮できない。何より、アラン自身、バトルの経験が殆ど無い。
「戦闘になったら」アランは力強い眼差しを前に向けながら言う。「その時は……お願いします」
 他に選択肢がない。エクトルが以前はポケモンバトルを生業としていたことを、アランは既に知っている。言質を取ったエクトルは首肯する。
「元よりそのつもりです」
 可能ならば、穏便に済むに越したことはないが。
 人前での戦闘には正直なところエクトルは躊躇いを抱いている。しかし、背に腹は代えられない。
 行き違う人々の視線を無視して走るうち、ネイティオの速度が明らかに落ちる。
 恐らく、近い。
 やがて鳥ポケモンの群れが分散し、各々屋根や旗の紐に止まる。一部は大きく右に曲がっていき、建物の向こうへ姿を消した。
 白色の住宅が並び花が微風に揺れるその場所の、建物の間を抜けていく道路。
 ネイティオは地面に下りて、翼を広げる。目的地への到着を示しているのだろう。
 アラン達は減速し、ネイティオに追いつくと、ゆっくりと立ち止まる。肩を上下させて息を切らしたアランは、熱い顔に滴る汗を手で拭った。
 影が差した道には、誰一人、獣一匹とて、見えない。
 道の途中や、向こう側に、ぽつんぽつんとマメパトやピジョンが点在し、待機している。挟み込んでいるのだ。
 ヒノヤコマだけは道のまんなかに降り立ち、その背に乗ったフカマルも慎重に降りる。そして、彼は、誰かに声をかけるように、聞き慣れた親しげな温度の声をあげて、右手を挙げた。
 現れる、どころではない。ネイティオはブラッキーの居場所を予知した。
 エクトルがアランに目配せする。アランは深く頷き、鞄から真新しくなった空のモンスターボール――ブラッキーの入っていたもの――を握り、緊張するエーフィを傍に引き連れ、強張った足取りで歩みを進めた。
 ブラックボックスに、手を入れる。
 音を立てないようにして、アランは角を曲がり開けた道路に入った。
 フカマルはそれ以上歩もうとはせず、アランを見やった。見上げた先のアランの表情は影になっている。ドラゴンの弱々しい鳴き声が虚しく落ちる。
 半分は日光が差し込み、半分は建物の影となった道路の先、影になった方へ栗色の視線が向いた。
「……ブラッキー」
 白い住居の間は元々あった建物を壊したのかぽっかりとした空き地となっていて、雑然と整えられた敷地内で黄色い輪が光っている。身体をもたげている奥は柵が設置されており、行き止まりとなっていた。気怠げな様子とは裏腹に、赤い瞳は鋭利に光っている。
 フカマルの呼びかけに応えなかったブラッキーは、ラーナー達の来訪に気が付くと、おもむろに立ち上がる。
 エーフィがか細く声をかけるが、返答しなかった。朱い眼の細い瞳孔が陽炎のようにふらふらと揺れながら、彼は体勢を低くした。明確な威嚇行為にフカマルも足を竦ませ、アランの背後に隠れ様子を覗う。
 獣の小さな主は張り詰めた空気を吸い込んだ。表情に湛えるのは哀しみでも戸惑いでもなく、アランは静かにブラッキーと対峙した。この地点は分かれ道だろう。手元に握ったボールに戻るか否か。戦闘に踏み込むか否か。
「ブラッキー」もう一度呼びかけた。「ずっと苦しかったんだよね」
 距離は三メートル弱。電光石火で瞬時に詰められる間合いである。エーフィにとっても、ブラッキーにとっても。その気になれば、一瞬で喉元に牙は届くだろう。
「体調が悪いことは知ってた。でも、どうしたらいいか解らなかった。私が、未熟だから……。……きっかけは、首都で、守るを使ったから?」
 問いかけられたブラッキーは動かない。アランの言葉に耳を傾けているかも判断できない。
 堅く握りしめているその手は、死を渇望する少年の命を此の世に縫い止めるために突き放し、そして反動をそのままに彼女は高層ビルの屋上から身を投げた。あの瞬間瞬間のうちに、自ら判断したことだった。ブラッキーは壁を伝って電光石火を繰り返し、あわや地上に激突する寸前で守るを発動し、全ての衝撃を相殺し、文字通り命を懸けて彼女を護り抜いた。
 生き残った彼女は、そしてまた自分で選択し、首都から離れ、旅を共にしてきた仲間と袂を分けた。ブラッキーは、あの頃を境に、息も絶え絶え生きている主人に同調するように崩れていった。
 アランは瞬きも殆どせずに暫く待った後、続ける。
「ブラッキーの考えていること、全部は、解ってあげられないけど」
 零れる言葉もどれほど獣に届いているか。
 アメモースをちゃんと見ろと、言葉が通じずとも理解しあえると、トレーナーの迷いはポケモンに伝わると、ザナトアは繰り返し説いてきた。今、アランの表情には怯えも惑いも無い。ブラッキーから目を逸らさない。ブラッキーの鋭い眼光をものともしていないように、受け止め、対話を試みる。
「ヤミカラスを殺したのはブラッキーの意志? でも、ブラッキーはそんなことをしない……普通だったら。もし、ブラッキーの望みでないなら、一緒に考えるよ、これからどうしていくべきか。……どうしてこうなったのか、わからないけど。お母さん達や、黒の団が関わっているのなら……今度こそ向き合う。一生懸命、考えるから」
 す、と息を吸って、ボールを持たない左手を差し出した。 
「きみを、守るから」
 握手を求めるように、無防備な掌が開かれる。
「帰ってきて」
 誰もが息を詰め、対話を見届ける。
 この場にはエクトルやエーフィを含め、多くの生き物が集合している。しかし、今はアランとブラッキー、ただこの二つの存在のみが呼吸をしているかのようだった。たった一人と一匹だけの世界。町を彩る花も、清廉な白い風景も、眩くも儚い秋の青空も、どこかで沸き上がる歓喜も、静かなる祈りも、力強い羽ばたきも、波の弾ける音も、鳴き声も、泣き声も、何も干渉することはない。あるのは静寂である。強く引き合う糸が視線の間に結ばれ、たゆむことなく繋ぎ止める。緊張を解いた方が屈服する。互いに譲らず、時間ばかりが過ぎていく。
 やがて、動いたのはブラッキーだった。
 強い唸り声が返答となり、アランは唇を噛んだ。
 すぐにエーフィがブラッキーとアランの間を切断するように前に出る。
 黒き体躯がその場を弾いた。エーフィは身構え自らも電光石火で応対しようとしたが、紫紺の瞳はブラッキーの行く先が自分ではないと見切った。ブラッキーは黒い影から飛び出し、太陽の照る反対側の壁へ足を突いた。すぐにまた壁を蹴り上げ、身軽にも上へと向かう。地上を封鎖されたがため屋根を伝って逃げるつもりだ。上空に待機していた鳥ポケモン達は咄嗟に反応できず、あっさりと逃亡を許そうとした。
 しかし、ブラッキーは逃げられなかった。
 彼の後ろ足を何者かの手が握る。灰色の巨大な手が影から伸びるように現れ、ブラッキーの跳ぶ勢いを殺し、力尽くで引き戻したと思えば整地された地面へと叩き付けんとした。
 最中、ブラッキーは空中でバランスを整え、地面に足をめり込ませながらも着地した。邪魔をされ苛立ちに満ちた瞳が空を捉えた。陽光に照らされて、影に身を潜めていた存在が明らかになる。赤い、炎のような一つ目がブラッキーを見下ろす。二メートルにも達する巨躯にはもう一つの顔を模した模様が描かれ、先ほど足を引き下ろした大きな掌をブラッキーに向け、おどろおどろしく空に漂う。
「下がっていてください」
「エクトルさん」
 力の抜けたアランの隣に歩み出て、エクトルはブラッキーを睨む。
 大人しく戻ってこなければ、恐らく戦闘に入る。それはアランも承知していたことであり、だからこそ対話は最後の可能性だった。かすかな願いが散ってしまえば、力尽くで引き戻す必要がある。ボールに無理矢理閉じ込めたところで、自力で脱出する術を得ているブラッキーには効果的な意味を成さない。捕獲の鉄則と同様、弱らせる必要がある。
「既に黒い眼差しを仕込んでいます」
「黒い眼差し……?」
「ヨノワールの技です。これでブラッキーは逃げられませんが、ボールに戻すこともできません。ブラッキーとヨノワールのどちらかが倒れるまでは」
 突如影の中から姿を現したヨノワールも、彼のポケモンの一匹であった。エクトル達よりも先にブラッキーの元に向かわせ、とうに黒い眼差しを発動させてブラッキーが逃げないように監視させていた。
 エクトルは右の人差し指を立て、小さく関節を曲げた。その仕草に吸い寄せられるように、鳥の形をした大きな影が彼等の真上を通り過ぎる。
「シャドーボール。ネイティオ、電磁波!」
 指示を受けた霊獣、ヨノワールは素早く両手を合わせ、瞬時に禍々しい漆黒を掌の間に形成する。黒は深くなり、あっという間に球を成すと、ブラッキーに向けて放たれた。ブラッキーは素早い身のこなしで跳び上がり避けたが、その先を待ち構えていたようにネイティオは電撃を念力で作り上げ、空中で自在に避けようもないブラッキーを襲った。未来を視るネイティオには造作も無い予測である。狙いは的を射る。
 シャドーボールが地面を抉り散った砂を含んだ風が巻き上がる最中、ばちんと痛烈な音を立てて火花が散り、月の獣は電撃を纏う。
「ブラッキー!」
「麻痺させただけです」
 背中から地に落ちたブラッキーを見て思わず声をあげたアランの横で、エクトルは淡泊に言う。
 シャドーボールの影響で薄い土煙が漂い微風に払われてゆく中、ブラッキーがよろめきながら立ち上がる様子をエクトルは観察する。
 電磁波を受け、明らかに動きが鈍くなった。身体の筋肉が電気を浴びて痙攣し、動くにも痛みを伴っていることだろう。これで機動力を抑えられる。
 エクトルの背後で、ネイティオの動きが鈍り、堪らず地上に降り立つ。おっかなびっくり見つめるフカマル同様、アランは目を瞬かせた。鳥獣の身体は、反射されたように電撃が迸っている。が、嘴が上下に動き、仕込んでいた小さな木の実を呑み込む。シンクロは想定範囲内、道連れは許さない。同調した麻痺はすぐに癒えていくだろう。
 いくら祭で人が出ているとはいえ、住宅街で騒ぎを起こせば目立つ。ある程度戦闘で道を破壊しても適当に話を付ければどうとでも補修は効くが、住宅に及べば少々厄介なことになる。狭い立地では、ブラッキーやエーフィのような身軽なポケモンの方が有利な上、タイプ相性としても二匹ともブラッキーに対しては分が悪い。時間をかけるのは得策ではない。さっさと片を付けなければならない。
「気合い球!」
 電磁波が強力な足枷となっている隙を狙う。
 ヨノワールは再び両手を合わせ、今度は先程の黒く混沌としたシャドーボールとは裏腹に、白く輝く光球を造り出した。光は留まることなく輝きを増す。抱え込むような大きさまで膨らんだと同時に、赤い瞳が妖しく光り、ヨノワールの叫びと共に渾身の力で投球、黒い標的へと一直線に走る。ブラッキーは咄嗟に黒い衝撃波を自らの周囲に形成、発射した。悪の波動。黒白のエネルギーがぶつかったが、相殺とはならず、気合い球が波を切り裂いた。止まらぬ勢いに朱い眼は見開かれ、本能的に回避を試みた。が、身体に電気が迸り、地を滑る。筋肉は痙攣、黒い足が折れた。見守るアランは息を呑んだ。
 剛速球はブラッキーに直撃し、先程より派手な音が路地を抜けて周囲へ及んでいく。
 頭の高さを遙か超えて粉塵が舞い、アランは咄嗟に翳した腕をどけて、煙が晴れるのを待つ。エクトルも時を待つ。瀕死でなければ、すぐに追撃を指示するつもりでいた。しかし、当たってさえいれば効果的な一撃である。幾度の修羅場を乗り越えてきたブラッキーといえど、まともに喰らえばそれなりの深手を負わせられる。
 が、風に煙が払われていくその中に、硝子のような煌めきが混ざっていることにエクトルは気付く。
 煙が晴れる。
 ブラッキーは地に伏しているどころか、四つ足でしっかりと立っていた。表情は険しいが、それは攻撃に対する純粋な嫌悪に過ぎない。ダメージを受けた形跡は無い。細かな輝きはアラン達の横を通り過ぎ、風に消えていった。
「……守る」
 アランは呆然と呟いた。
 エクトルは眉間を歪めた。
 型破りな防御技は、生成に時間がかかる。連続すれば失敗しやすくなるとされるのは、いかに緻密で、巨大なエネルギーを消費する技であるかを物語る。ブラッキーは、気合い球を避けるつもりであったはずだ。それは彼の僅かな挙動が示し、そして電磁波による麻痺で阻害された。加えて悪の波動を放った直後で隙も出来ていた。そこまではエクトルの目は追えていた。あの瞬間、既に気合い球は彼の目前まで迫っていたはずだ。距離を置いているならまだしも、肉薄しようとしていた至近距離で、後出しの守るで防ぎきるか。
 確かに訓練次第で技の精密性は上がるだろう。それにしても発動が速過ぎる。
 エクトルが無意識に抱いていた油断を自覚したとも露知らず、ブラッキーは唸り声をあげる。細かく並んだ牙が顔を出した。月輪が輝きを増し、短い体毛を割って威嚇の毒が滲み出す。瞬く間に変容していき、禍々しい気配が彼の空気を支配した。
 ブラッキーは完全にエクトル達を敵と見なした。
 後方から見守っていたアランは表情を僅かに歪める。
 僅かな動揺が隙となり、ブラッキーは瞬時に間を詰めた。電光石火で空に浮かぶヨノワールに襲いかかる。
 しかし、その体当たりはヨノワールの身体を弾くことなく、そのまま何にも触れず通り抜けていった。充血した瞳が見開く。
 電光石火はゴーストタイプには無効だ。トレーナーにとっては常識でも、ブラッキーには解らなかったか。判断力が低下しているのならばエクトルにとっては好都合である。
「もう一度気合い球! ネイティオ、怪しい風で援護しろ!」
 戦闘の勘が鈍っていようと、相手のミスを逃す愚かな真似はしない。
 二匹は通り抜けたブラッキーを振り返る。ネイティオは翼を大きく羽ばたかせ、紫紺に輝く突風を巻き起こした。強力だが、同じゴーストタイプのヨノワールにその風が影響することはない。またも空中で体勢を崩されたブラッキーに向け、ヨノワールは再び光球を育てる。
 ブラッキーは音が聞こえてきそうなほどに歯を食い縛り、その足が向かい側の壁を捉えると、痺れる筋肉を酷使する。垂直落下する前に、足先に力を籠めた。再度、電光石火。ヨノワールに襲いかかる。
 何故、とはエクトル、そしてアランも恐らくは考えただろう。まだ僅かしか形成していない気合い球に肉薄したところで然程威力を発揮しないが、それ以前にヨノワールに一撃を喰らわせるには電光石火では意味が無い。つい先程身を以て理解したはず。単調な攻撃。判断力が鈍っているのか。目にも止まらぬ速度でヨノワールに近付く。
 直後、鈍い、破裂音のような奇怪な音が、ヨノワールから発された。
 獣であり同時に霊体でもある奇怪な霊獣は、血の代わりに黒い靄を嘔吐して、低い呻き声を漏らした。
 やはり擦り抜けてきたブラッキーに、ヨノワールの発する黒い靄と、それとは別種の黒い火花のような残滓を身体に迸らせて、着地した。
 生まれて間もない気合い球は空に収束し、浮かび上がっていた巨体は力無く落下し、地に臥した。
 冷たい沈黙が訪れ、やがて彼等は漸く呼吸を思い出した。
 悪の波動はヨノワールに効果抜群。ブラッキーが悪タイプの技を持ち合わせている可能性は考慮していたが、ブラッキーは元来攻撃面に恵まれていない。対するヨノワールも自惚れではなく十分に鍛えてある。たった一発効果覿面な技を喰らったところで、耐えられる自信はあった。しかし、ヨノワールは倒れた。その理由の理解に至り、エクトルは顔色を変え、落下したヨノワールに駆け寄る。
 ただの気絶に留まらない一撃であった恐れがあった。エクトルはすぐにヨノワールの顔を覗き確認する。意識を失っているものの、僅かに開いたヨノワールの瞳の最奥は赤い灯を失っていなかった。しかし、風が吹けば消えてしまいそうな蝋燭の火さながら、あまりにも弱々しい。
 電光石火はヨノワールを擦り抜ける。しかし、それを裏手にとり、彼は擦り抜けようとしたその瞬間、つまりはヨノワールの体内にあたる地点で、悪の波動を発した。
 あらゆる外傷から守るために生物は身体の外側を皮膚などで覆い、その内側に張り巡らされた筋肉、血管や神経、更には内臓、繊細な器官を守る。が、守りとは外側に向けられたもの。鎧の奥、内部、守られるべきものに直接内側へ手を下せば、それは則ち急所である。
 相性の不利は承知の上だったが、加えて、無防備な内側への直接攻撃。相性以前の問題である。ブラッキーに一切の躊躇は無かった。ヤミカラスを殺した事実、ポッポを殺したという可能性が急速に現実味を増し、エクトルの脳の芯は急速に冷えていく。
 彼は的確に敵を殺そうとした。
 逆立った体毛は更に刺々しく荒さを増し、ブラッキーは吠え、再び悪の波動を放とうと黒いエネルギー波を溜め込んだ。
「スピードスター!」
「エアスラッシュ!」
 攻撃される前に、攻撃を打ち込む。考えたことは同じだったのだろう。観客に回っていたアランが堪えきれずエーフィに指示したのと、エクトルがネイティオに向け指示したのはほぼ同時。
 躍り出たエーフィの額が赤く光り、輝く五芳星が素早く地上を走りブラッキーへ向かう。ネイティオも、力強く羽ばたきを繰り返し、見えぬ風の刃が無造作に地上へ叩き込まれた。
 波形状の漆黒の波動は相殺される。しかし、全てを防ぐことは叶わない。波動は全域に渡り、周囲の壁や柵に炸裂した。破壊音が響く一方、衝撃を潜り抜けて五芒星が軽やかに滑空した。スピードスターは必中技。大きな威力こそ無いが、ブラッキーの体力を削る。その身に遂に打ち込まれた攻撃。が、ブラッキーは易々と耐え抜き、常時の彼とはあまりにかけ離れた劈いた声をあげた。
 そして、赤い目は正面で険しく対峙したエーフィを捉え、すぐさま飛翔するネイティオに目標を切り替える。
 強靱な脚力は、痺れていても衰えない。一直線にネイティオに飛びかかる。咄嗟にネイティオは風を起こし対応したが、ブラッキーが競り勝つ。
 ブラッキーの前足がネイティオの身体を掴み取る。噴出する毒の汗が立てた爪を介してやわらかな鳥獣への侵入を試みる。小さく不安定な足場で、更に、その牙が露わになった。
「ブラッキー!!」
 止まれ、と、制止を促すようにアランは叫んだが、ネイティオの胴体、翼の根元めがけてその牙が落とされようとした瞬間。
「振り落とせ! 電磁波!」
 俊敏にエクトルの指示が入り、ネイティオはアクロバティックに頭から落ちるように急降下、ブラッキーの体勢が瞬時に崩れ、地上すれすれの位置で超至近距離で電撃が再び弾けた。無論、ブラッキーは既に麻痺している。が、強力な静電気で反射的に指先が仰け反る様と同様、ブラッキーの身体は強制的に弾かれ、地面に激しく打ち付けられた。
 その地点、アラン達から僅か一メートルすら無い。あまりに近い場所でアランとブラッキーの視線が堅く交差する。一瞬の衝突である。
 ヨノワールが倒れたことで、黒い眼差しによるしがらみから彼は解放された。自由となった足で蹴り出すと、アラン達の来た道を辿る。丁字路を右へ曲がっていき、逃亡を許した。
「追いかけますよ」
 立ち竦むアランの腕を無理矢理掴み、走るように促す。息絶え絶えであったヨノワールは既にダークボールに戻していた。我を取り戻したアランは、流されるままに頷いた。
 鳥ポケモン達は既にその場を飛び立ち、ネイティオも羽ばたき、先行してブラッキーを追っている。最も足が鈍いフカマルは、エーフィがサイコキネシスで運び、一同はブラッキーの後を辿った。
「広い場所へ誘導しましょう」
 エクトルの提案に、アランは目をやった。
「こうも狭い場所では満足に戦えません。逃げ場所が増えるリスクはありますが、見通しが良ければ追うのも簡単です」
「広い場所って、どこに?」
「湖畔に向かわせます」
 言いながら、エクトルはスーツの下で手首に巻いているポケギアを操作した。
「でも、今は祭が!」
「祭は自然公園と大通り沿いが中心です。湖畔の領域全てが使われるわけではありません。通行規制して、人が入らないようにします。このまままっすぐの方角へ向かえばいずれ湖畔に着きますが、できるだけ東の方へ……」
 ポケギアのスピーカーから、通話音が入る。簡単に言ってのけるが、クヴルールの権力を振りかざしている。が、この際職権乱用と刺されても構わないだろう。錯乱状態に陥っているブラッキーを放置しておく方が余程危険だ。緊急事態だと適当に御託を並べて人員を用意させた。祭を滞り無く終わらせることが本日の最重要事項であるのだから、秋季祭に良からぬ影響を与える可能性があるとご託を並べればひとまずは動くはずだ。
 走りながら通話し始め準備を進めるエクトルの横で、アランは暫し考え、速度を落とし、後方で浮かんでいるフカマルと目を合わせた。
「フカマル」
 真剣な眼差しに、フカマルは目を丸くした。
「ヒノヤコマ達に伝えてきてほしいことがある。……お願いできる?」
 まだ幼い彼にどこまで人語が理解できるか。しかし、話しながら、首を傾げていると、エーフィが通訳をするように彼等の間に挟まった。
「いける?」
 なにも難しい指示ではない。フカマルは頷き、エーフィはサイコキネシスで一気に彼を上昇させる。
 サイコキネシスによる浮遊も当初こそ慣れぬ様子であったが、今はなんの抵抗も無く受け入れている。無為に身体を動かすことなくエーフィに委ね、彼はヒノヤコマ達に声をかけ、その背中に乗った。その先で、アランの指示を伝えているのだろう。直後、彼等は左右に分かれ、速度を上げた。
 エクトルはポケギアの通話を切った。
「何を指示されたんですか」
「逃げる場所を一つに絞らせます。湖畔に誘導するために」
 キリの町は縦横無尽に路が張り巡らされている。逃げようと思えばいくらでも路地を曲がり行方を眩ませられるだろう。しかし、曲がろうとする場所に、先んじて鳥ポケモン達を配置し、それを繰り返す。背後からはアラン達が追いかける。誘導したい先を敢えて空けておく。
 今のブラッキーの状態では、野生でまともに育てられても居ない鳥ポケモンなど驚異でもなく、阻んだところで躊躇無く突破される可能性もある。成功するかは別だが、打つべき手は打っておくに越したことはない。エクトルは納得したように頷き、上空を仰いだ。
「ネイティオ、シンクロでサポートを」
 端的な指示を受けて、ネイティオは加速する。未来を予測する眼と、他者に同調する特性、そして元来持ち合わせている念力。司令塔としての役割である。目に見えぬ力が空を伝い鳥獣の間でネットワークを形成し、ブラッキーに対する包囲網を強化する。
 アランは、ただ前を見て、直走る。
 以前、彼女はこの策に捕まったことがある。
 あの時、無垢な少女は今のブラッキーの立ち位置にいた。迫る殺意から逃げるために、暗い水の町の路地を、混乱を整理しきれずにただ逃げるために走っていた。その先が行き止まりとも知らずに。
 果たして、この逃亡劇の先に何があるのか。
 まだ遠くの視界には黒い月影が見える。曲がっても、鳥ポケモン達を信じ同じ道を辿り、湖畔の方へ向けば、またその尾が見える。真昼に輝く白の中で、黒い姿はよく映えた。結果的に、ネイティオの放った電磁波がブラッキーに与えた技の内最大の功績と言えるだろう。明らかに動きは鈍くなっている。
 花や旗で彩られた華やかな白い道を疾駆する。道程で秋季祭の中心地から逸れた、或いは向かう途中である人間と擦れ違い、そのたび何事かと怪訝な表情が向けられるが、構っている暇などない。
 エクトルは腰のベルトに付けたボールのことを考える。再起不能であるヨノワールは言うまでも無くもう使えない。ネイティオは健在だが決定的な攻撃を浴びせるには役不足だ。彼が携えているボールは、全部で三つ。残りは一匹。
「ブラッキーの技は、守ると、悪の波動、電光石火、他には?」
 走りながら尋ねる。息を切らしながら、アランは足がもつれないように答える。
「月の光です」
「回復技ですか」
 長期戦は不利になる。瞬時に発動できる守るが最も厄介だ。
 ブラッキーに会うまでの顔つきより、ずっと冷たく、鋭利なものになっているエクトルを、アランはじっと、洞の広がったような瞳で見つめていた。



 長く白い路地を抜けて、先にブラッキーにとっての視界が一挙に開ける。
 僅かな雲すら見えぬ、一面の青。夏空に彩度は及ばずとも、まるで穢れを知らぬ高みは、地上の生き物たちの目を奪う。
 彼の背後からはすぐに追っ手が迫っている。上空は鳥ポケモン達が、地上は彼のよく知る人間と相棒が来る。
 道路を跨いだ無効の湖畔を沿う堤防へ、その場所はなだらかな坂となっており、コンクリートの道路と地続きの芝生が敷かれた僅かな坂を上れば、中央の自然公園からずっと伸びている柵が湖と地上を分かつ小高い空間となっている。
 迅速な通行規制が間に合ったのか、道路を車が走ってくる気配は無く、人払いが成されている。先だってはこの場所にも人が並び、ポッポレースで湖畔に散ったチェックポイントを渡りゆく鳥ポケモン達を応援していたものだった。レースは終盤へ移ろうとしているのか、縦に伸びた様々な翼が遠景でそれぞれ堂々と羽ばたいていた。彼方で行われている楽しい祭の軌跡である。通過点として既に役割を果たした地点を人々は後にし、エクトルの根回しで此の場所には他に入れないようになっている。
 広い場所は、しかし隠れるところが無い。姿形が全て太陽のもとに晒され、ブラッキーは歯を食いしばった。
 道路の中央部に立ち尽くしたブラッキーに、汗を散らして走ってきたアラン達が追いつく。遂に動きを止めたブラッキーを見て、エクトルは最後の一匹を閉じ込めたハイパーボールに一言呟くと、躊躇わずに投擲した。
 吉日に相応しい雲一つ無い晴れやかな空に向け高々と上がった一擲。真っ二つに割れた中から、白い光が飛び出し、ブラッキーの前にその姿を瞬時に形成する。
 咄嗟に間合いをとり警戒するブラッキーと、アラン達の間に降り立った獣。青く光る鱗に覆われた身体に朱色の腹を抱き、両手の先には鋭利な牙のような立派な爪を生やしている。二つ足で立つ様は細くしなやかな印象を抱かせるが、身体を支える太股や巨大な尾は強靱な肉体を主張する。
 濃紺のドラゴンは、柔い羽がその場に落ちるように静かな立ち居振る舞いで姿を現した。
「ガブリアス……」
 激しい息づかいをしながら、呆然とアランは呟いた。
 上空で、ヒノヤコマに乗ったフカマルが、ぱかんと口を開けてガブリアスを見下ろす。
 チルタリスとガブリアスの間に生まれた子供だと、小さなドラゴンの父親が永眠する墓前でザナトアは語った。
 母親は子供には気付いていない。最終進化形まで逞しく育てられた勇ましいドラゴンは、一点のみ、目の前で威嚇するブラッキーのみを揺るがずに捉える。数多の群を抜いて気高く生きる種族に相応しい、清閑で、どこまでも冷たい眼差しで。
 相手から視線を逸らさず、耳だけは彼女がこの世で唯一認める主人の声を待つ。
 息を整え、堅く結んでいたエクトルの唇が動く。
「行け」
 ごく短い指示が、氷のような温度で伝わり、ガブリアスの枷が外された。
 スレンダーな巨躯が沈黙を叩き割り、直線上に立つブラッキーに接近した。身体に合わぬ速度は、ブラッキー達の電光石火の瞬発力にこそ劣っても、虚を突くには充分な効果を果たす。
 振り上げられた爪の軌道を読んで、ブラッキーはその場を跳んだ。ブラッキーの居た地点めがけて叩き付けられた爪の一撃が、まるでいとも簡単にコンクリートの舗装を抉って、アランは目を見開き、額に汗が滲んだ。あれは果たして技か、ガブリアスの筋力がものを言わせたか。いずれにせよ、あの爪がブラッキーに突き刺されば只で済むはずがない。
 空中でブラッキーは歯を食いしばり、崩れた体勢のまま悪の波動を放つ。禍々しい波及攻撃が至近距離のガブリアスを攻撃するが、硬い鱗に覆われたドラゴンは狼狽える様子すら見せない。羽虫でも当たったように何事も無く跳ね返し、直後にはブラッキーの傍まで跳び上がっていた。
 横一直線に蒼き一閃。硬質な翼が黒い体躯を襲う。
 同時に、咄嗟の判断だったのだろう、ブラッキーはすぐさま守るを発動。まばたきと同じリズムで、両者の間に煌めく壁を瞬時に形成した。切り裂くガブリアスの攻撃は阻まれたが、まさしく煌めくエネルギーの硝子が木っ端微塵に粉砕される音と共に、絶対守備のエネルギーは瓦解した。
 ブラッキーは激しく後方へ転がりながら、形勢を立て直す。防御の反動で揺らいだドラゴンの隙を逃すまいと、顔を上げた。硬質な竜の鱗は全身を覆う。しかし、ガブリアスにも急所は存在する。狙うは首元。渾身の電光石火を叩き込んだ。
 顎へ急接近した一撃は脳を震わせる。ドラゴンの頭は堪らず仰け反ったが、頑丈な足は揺れない。脳天への衝撃を押し殺す。紺の影が回転、長い尾が襲い掛かり、接近したブラッキーに脇から一撃喰らわせた。骨を切らせて肉を断つとでも言わんばかりに。重い一打。ブラッキーのやわらかな身体が空を舞った。
「剣の舞。ネイティオ、追い風を起こせ」
 激しい転倒の最中、エクトルから技の指示が下される。
 麻痺の残る身体を震えながら起こした頃には、飛翔を続け静閑していたネイティオが激しい風を巻き起こす。ブラッキーは目を細めた。強い風が正面から彼の動きを阻む。逆に援護されたガブリアスは自身で編んだ剣の波動を呑み込んでいた。次いで、鱗の下で筋肉が盛り上がり、地面を蹴り抜いた。
 その足元から、亀裂を模した光が地面を這う。
 周囲が揺れた、と思うと、突き上げるような激しい縦揺れの激動が大地を伝った。広範囲の攻撃はアラン達にも影響、とても立っていられず倒れ込んだ。
 地を伝う衝撃はブラッキーを逃さない。裂いた地面に足下を呑み込まれる。
「逆鱗!」
 冷めた瞳に、激しい炎が点火した。
 それまで僅かな声も漏らさなかったガブリアスの、全てを声で薙ぎ倒すような鋭い咆哮が劈いた。風が、空気が震え、コンクリートの向こう側にある青々とした穏やかな草原が仰け反った。罅の入った道をガブリアスは疾駆する。蹴り上げた先から一気に加速。背後から追い風を受けたその速度はブラッキーの電光石火にすら迫る。地震で足場を崩されたブラッキーは防戦に持ち込む他無かった。またも、彼の目前で透いた壁が輝く。彼の身体に巡る獣の力を空に編んで、激情するドラゴンの頭から突進を受け止めた。二匹の間が弾けたが、凶暴化したガブリアスは隙を見せず地を蹴る。接近、右腕が振り上げられた。再度守るを発動、中心を穿たれ、空に放たれる破裂音。ガブリアスは、止まらない。三度目、反対側の爪がすぐさま繰り出される。それも、守る壁が跳ね返した。
 五回分は超えている、とエクトルは静かに思う。
 あのブラッキーがどれほど守るを使い続けられるかは不明だ。しかし、いずれ技を編み出す力は必ず底を突く。精密かつ強力であるほど、集中力も尋常でなく削られる。自我を失っているように見えて、ブラッキーの行動は的確だ。だが思考がぶれれば隙は必ず生まれる。電磁波による麻痺は確実にブラッキーを蝕み、ガブリアスは追い風を受けてますます加速する。剣の舞の効果は後に引くほど効くだろう。とめどなく攻撃を続けていれば必ず折れる。そうなれば後はドミノ倒しの如く落とせる。確実に。
 振り落とした二対の爪を、今度は突き上げる。黒獣の腹へ入れ込む衝撃。竜の業火は跡形も無く燃やし尽くさんと肥大化していく。加熱してゆく威力そのまま、ブラッキーは遂に攻撃を許した。黒い影が、空へ放り上げられた、その過程に血が踊った。
 アランは、歯を食い縛った。隣でエーフィが、彼女を見た。戸惑いの視線であった。
 血の色をした双眸いっぱいに、ガブリアスの姿が容赦無く映り込んだ。鬼の形相の竜に、ブラッキーの顔が強張った。
 縦に回転。
 止まらぬ激昂をそのまま体現した、硬質な尾がブラッキーの身体を捉えた。
 次瞬、地面に再び衝撃。一瞬で直下していったブラッキーを中心に、先程の地震で傷ついた道路が窪んで、高い噴煙が上がる。しかし、ガブリアスには煙など目眩ましにもならない。すぐに追いかけ、直下に飛ぶ翼が煙をその過程で払っていって、中心に倒れる無防備にブラッキーに向け、上空からの加速をそのまま爪に乗せるような、攻撃が突き刺さった。躊躇なく、突き刺さって、彼のしなやかな体躯を抉った。串刺しになったブラッキーが悲鳴を上げる間もなく、すぐに引き抜かれると同時に月の獣の身体が浮き、固い翼を持つ腕がすぐに追随する。横に殴った勢いでぼろきれのようにブラッキーはなすすべもなく荒れた芝生に叩き付けられた。真っ赤な飛沫をアランは見た。エーフィも見て、そしてその場にいる全てのポケモン達が圧倒されて硬直していた。つい数日前まで、育て屋で戯れていた獣が瀕死に追いやられていく過程に誰もが震え、怯えた。ただ一人、それを指示するエクトルを除いて。
 とどめだと、トレーナーは声にこそしなかったが、冷酷な視線はガブリアスに制止をかけなかった。
 駆け上がる逆鱗。
 止まらない激情。
 意識が果たして残されているかすら危ういブラッキーに、ガブリアスが肉薄した。熱い返り血を浴びて刺激されたドラゴンの目は狂気に支配されたまま。捉えるは動かない的となった獲物ただ一つ。赤い、ブラッキーの血肉に濡れた爪が振り上げられた。
「サイコキネシス!!」
 静観していたエクトルが、叫んだアランを見た。
 エスパー技は直接ブラッキーには通じない。彼女の指示の意図は、詳細を伝えずとも、隣のエーフィにぴったりと通じていた。指差した先、まっすぐにドラゴンを射貫く。
 黒い土煙の中心で、ガブリアスが硬直した。強力なサイコキネシスがドラゴンの動きを封じている。
 しかし、卓越した念力を操るエーフィでも、ガブリアスの動きを完全に止めるには強い集中力を要した。逆鱗で我を失いかけている竜を抑えるのは容易ではない。激しい抵抗を無理矢理抑え込んでいるのだろう、普段は涼やかなエーフィの表情が険しく歪む。
「……何故?」
 エクトルは素直に疑問を投げかけた。
 アランは、苦虫を噛んだような表情を浮かべていた。
「戦闘になれば任せると言ったのは貴方でしょう。貴方は何もしなくていい」
 烈火の如き戦闘を前にしてもエクトルは何も感じていないかのようだった。何も感じず、何の疑いもなく、制御すべき義務を放棄し、ただ、見ている。ブラッキーが刻まれていく様を。
「ブラッキーを、殺すつもりですか」
 予感ではなく確信であろう。氷のような沈黙が両者の間に流れた。
 エクトルに動揺は一切無い。冷え切った表情が、彼の抱えた意志を物語る。
「何を仰いますか。ブラッキーを弱らせる必要があるのは、貴方も解っていたでしょう」
「弱らせるなんてレベルでは、ないです」
「貴方が気にされることではありません」
「誤魔化さないでください……お願いですから」
 アランは苦く懇願する。震える肌。恐怖を浮かべながら、必死の抵抗を見せていた。
 暫しの沈黙を挟み、諦めたように、エクトルは長い溜息を吐いた。
「あのブラッキーは、貴方の手に負えるものじゃありません」
「……」
「理性を失い、衝動のままに周囲を破壊する……ヤミカラスはその片鱗に過ぎません。ヨノワールも運が悪ければ即死でした。あの獣を手元に戻して、制御できるとお思いですか。未熟な貴方には到底無理です」
「だから」絞り出すようにアランは抵抗した。「だから……殺すと」
「時に、その方が彼等にとっても安楽です。大きすぎる力はポケモンもトレーナーも滅ぼします。これは貴方のためでもあります。どういった経緯かは存じませんが、あの異常な力の捻出、自我の喪失、戦闘への執着……あそこまでいけば、元のようには戻れない」
「どうして、エクトルさんがそう言い切れるんですか」
 問いながらも、すぐに言葉を変えた。
「いえ……エクトルさんも、知っているんですね」
 何を、とは言わなかった。
 エクトルは幾度も重ねた思考をまた浮かべた。果たして、こんな子供だっただろうか。こんなにも疑い、真実を見抜こうとする目をしていただろうか。このキリの町に戻ってきて、彼女は変化し続けている。それとも、元々そういう人間だったのか。
「貴方も、見たことがあると?」
 エクトルは、努めて冷静に返す。
 彼女が内包している、純粋な怒りが眩しい。
 きっと嘗ては自分もこんな怒りを心に秘めていた。ポケモンに自ら手を下すなど、考えもしなかった。いや、下しているのは正しく言えばガブリアス達だった。望郷の地に残してきた者達は知らぬ間にみな死んだ。この手は直接命の重さを知らない。
「あります。よく似た、ザングースを」
 アランは僅かに震えた声で応えた。
 エクトルは沈黙し、この奇怪な引き合わせを呪いのように思った。二人が抱く、決して交わらないはずの記憶が、遠からぬ場所でよく似た色を帯びる。
「ブラッキーは」深い洞を抱えた黒い瞳は、栗色の中に燃える魂を見た。「数多死んでいったネイティオと酷似しています」
「ネイティオ……」
「噺人の不在を埋めるために、代わりとなるネイティオは能力を極限まで引き上げる必要がありました。その過程、耐えられない個体は数知れなかった。ブラッキーはそれによく似ている。いずれ己の力に潰され自滅します」
 アランは刹那、絶句する。
「……でも、だからって、ブラッキーを殺していいとは繋がりません」
「そうですね。貴方は正しい」
 エクトルはすんなりと静かに頷く。
「しかし、貴方の正しさが、他にとっての正しさでもあるとは限りません。貴方の甘さはブラッキーに余計な苦しみを与えます」諭すように言う。「それでいいのですか?」
 エクトルの脳裏に、自我を持たぬうちに死んでゆくネイティの姿が浮かんでは消え、自らの力に溺れ脳が停止したネイティオ達の姿が浮かんでは消えた。黙って見つめている自分がいた。
 アランは首を横に振る。
「死が救いなんて、そんな悲しいこと、あるべきじゃないです」
 耐え抜くように両の拳を握った。掌で爪が深く食い込み、その痛みを支えにして、顔を上げる。
「もう誰も失いたくないんです。私は、確かに甘くて、未熟です……だからこうなってしまったけど、だったら! 強くなります。トレーナーとして強くなって、ブラッキーを救う方法を探します! だから……もっと、こんなことじゃなくて、もっと違う方法があるはずです……!」
「甘いです」
 断言し、聞く耳を持たないエクトルはガブリアスとブラッキーを見やった。
 良くも悪くも、未来を信じている者の言葉。まだ、未来がずっと先まで続いていくと信じている子供の言葉。眩くて、空疎で、無力で、自らに未来を突き動かす力があると過信する傲慢を抱いている。
 恨まれるだろう。そんなことは今更だ。既に失うものなど何も無い。
「ガブリアス、躊躇うな!」
 エクトルが叫ぶと、ガブリアスの鋭い咆哮が拮抗を叩き割った。
 周囲にいる誰もがドラゴンを凝視した。遂にサイコキネシスによる束縛を無理矢理解いた。根負けしたエーフィが、アランの隣で足を折り、か細い声で鳴いた。まるで、ブラッキーを切実に呼ぶように。
 アランは、本来であれば切ることのないカードに手を出した。アランに、エーフィに呼応するように揺れていたモンスターボールを乱暴に掴み、願うように、祈るように、戦場に向け投擲した。太陽の下、翅を失ったアメモースが躍り出た。アランは叫んだ。アメモースも叫んだ。戸惑わず、躊躇わず、嘗てフラネの町でがむしゃらに放った銀色の風を、やはりがむしゃらに三枚の翅で巻き起こした。明確な意志をもって、抗うために。乱れた風はアメモース自身が空でバランスを失い地に落ちるまで続いた。だが、所詮、不完全な技はガブリアスを止めるには遠く及ばない。悪あがきにガブリアスはびくともしなかった。アメモースは自身の無力を呪っただろう。それでもまた立ち上がろうとして、しかし覚束ない動きしかできなかった。
 逆鱗で直情的になったガブリアスは、怒りを、エーフィでもアメモースでもなく、すぐ傍で倒れ込んで動かないブラッキーに向けた。既に月の獣は虫の息だった。広がる血溜りの温もりと太陽の温もりの混ざった場所で、細くなった赤い瞳は振り下ろされようとする鋭い爪の軌道をぼんやりと見つめていた。
 止められない。
 アランが悲鳴をあげようとした瞬間、上空から、鋭くも幼い叫び声が跳び込んできた。
 ガブリアスめがけて、ヒノヤコマが一気に下降する。その背に乗るフカマルが、叫び声をあげながら、ふと声に引き寄せられたように目線を動かしたガブリアスに向け、跳び込んだ。
 小さなドラゴンの渾身の頭突きが、ガブリアスの頭にクリーンヒットし、頭蓋が激突した形にへこんだと錯覚するような、鈍い音がした。
 小柄な体躯にその衝撃は足先まで響いただろう。ぶつかりにいった小さい獣は目を回し頭を抱えたが、ふらついた足取りで立ち上がった。ガブリアスの方といえば、幼稚な頭突き程度で倒れるほど柔ではない。鋭い視線がフカマルに推移した。
 睨み付けられたフカマルは、一瞬硬直したが、めげずに今一度体当たりを仕掛ける。同時に、ヒノヤコマが遅れて、翼をガブリアスに鋭く見舞う。
 ガブリアスと比較してしまえば取るに足らない、鍛えられてもいない野生ポケモン達が、一斉にガブリアスに向けて攻撃を始めた。上空に残るピジョン達が殆ど同時に翼を激しく羽ばたかせ、大きな風を起こした。
 その風はガブリアス周辺に留まらず、後方に下がっているアラン達も激しく揺らす。
 しかし、激しい砂嵐の中でも自由自在に動き回るというガブリアスは、すぐにその激しい風起こしに順応する。苛立ちが勝ったのか、上空に視線が動いた。ブラッキーをいとも簡単にねじ伏せたドラゴンの強さを目の当たりにし恐怖に竦んでいたポケモン達だが、怯まない。ガブリアスが跳躍しようとしたところを、すかさずフカマルがその左脚に必死にしがみついた。少しでも縫い留めようと。凶暴な金の瞳がフカマルを射貫き、左の翼が太陽を反射して鋭く鱗が光る。
「止まれ!!」
 暴風を突き抜ける、遂にかけられた制止の指示に、ガブリアスの動きが止まった。
 爪がフカマルに、あとほんの少しで突き刺さるという、その寸前。すぐ傍まで迫った脅威にフカマルは腰を抜かし、座りこんだ。
 アランは咄嗟にエクトルを見た。男の顔に、狼狽が窺えた。
 ガブリアスを止めて再び生じた沈黙。ブラッキーが力を振り絞るように起き上がると、すぐに硬直したガブリアスのみぞおちめがけて体当たりを仕掛けた。意識は既に朦朧としているだろう。爪の立てられた場所から絶えない流血を抱いたまま放った一撃。僅かに揺らいだドラゴンの足下。その隙を縫って、ブラッキーは逃げようとした。不安定な走りで、方向感覚も失われながら、アランやエーフィからは離れるように、つまりは湖面へ。
 ゆるやかな坂を駆け上がるその瞬間は、電光石火でそのまま止まれないかのように一気に上がる。鮮血が芝生に落ちて道筋を作る。
 誰もが、ブラッキーの行動に目を奪われた。
 高くなった柵の向こうに、黒い身体が消えて、激しい水飛沫の音が代わりに響いた。
 声をあげる間も無く、彼等は走った。すぐに柵までやってくると、穏やかな湖に小さな飛沫が上がっている。赤い染みが穏やかな青に混ざり、抵抗もできずにブラッキーは必死に空気を吸い込まんと頭だけは出そうと藻掻いているが、瞬く間にその気力も失われていく。
 溺れる。そう思ったエクトルの傍。
 鞄をかなぐり捨てて、躊躇無く柵を跳び越えた、アランの姿が、はっきりと、エクトルの視界に焼き付いた。
 栗色の瞳はただ一点、ブラッキーだけを見ていた。手を柵にかけて軽やかに越えると、脚からそのまま湖面へと吸い込まれていく。
 二度目の激しい飛沫が高く突き上がる。
「な」
 驚愕するエクトルを余所に、青に沈んだアランはすぐに浮上し、藻掻くブラッキーに向かって、みるみるうちに重くなっていく身体を引き摺るように泳いでいった。
「ブラッキー!」
 獣に向けて手を伸ばす。ブラッキーの前脚に彼女の腕が掴まると、一気に引き寄せる。再び触れることは待望であった。その黒獣の身体は水に溶けながらも厭な臭いを放ち、微かな滑りけを含んでいた。傷から溢れる血液も、体外に放出された毒も止まらない。
「大丈夫――大丈夫!」
 打ち付けるような水が口内に入ってきながらも、アランはブラッキーに呼びかける。しかし、ブラッキーは狂った叫び声をあげた。
「大丈夫! ブラッキー、落ち着いて!」
 猛る黒獣をアランは強く抱き寄せた。その身体に、隠された爪が立ち、彼女の耳元でブラッキーは奇声をあげた。掴まりながらも、息も絶え絶えであったはずの身体のどこにその力が眠っているというのか。これではモンスターボールに戻したとて繰り返すだけだ。必死に宥めるアランを突き放そうとするように暴れ回る。激しい飛沫が一心不乱に暴れ回る。
「ブラッキー!!」
 抑え込み自我を蘇らせようともう一度叫んだ、その瞬間、肩越しにブラッキーの口が大きく開き並ぶ牙が外に露わとなった。彼の視界が、アランの首元を捉えていた。その瞬間を、アランもほんの目と鼻の先で直視した。
 エーフィの悲鳴が湖畔を劈いた。

( 2020/04/15(水) 20:28 )