まっしろな闇











小説トップ
続・キリにて
Page 111 : 過去と未来
 家宅と放牧場を繋ぐ扉は僅かに開いており、細い風が部屋を循環していた。浅い眠りから覚めたアランは、その風の音で起きたようだった。秋の朝は冷めている。ほんの少し立った鳥肌を包むように上着を羽織り、風の奥のざわめきを追いかけた。まるで誘われるように、夢の中を浮かんでいる顔で、朝陽が照らす現実に足を踏み入れた。卵屋の傍でザナトアをはじめここに住む生き物たちが何かを囲うように蹲っていた。アランは輪の外から覗き込んで、ザナトアが調べるように手を添えているその先を直視する。その小さな身体に飛び散っている乾いた血と、抉られ露出した肉体を見ただけで、瞬時に息絶えていると彼女は理解しただろう。
 それは、数週間前に群れから離れ羽に傷を負ったポッポ。ヒノヤコマ達に連れられて少しずつ自分の道を歩もうとしていたポッポ。喉笛が抉られるように千切れており、か弱い首はあらぬ方向に曲がっている。辺りには抵抗を物語るように汚れた羽根が散乱していた。血で固まった羽毛は逆立ったまま先が風に揺れていた。血だまりは既に土に沁み、朝露が濃度を薄めている。草原で息絶えた残骸が朝の日差しを浴びて強調された。
 一体、誰が。
 僅かに震わせた声。緊張しながら問うたのはアランだった。
「狼狽えるな。よくあることだ」
 凜とザナトアは言い放ち、丁寧に亡骸を抱き上げる。小さなザナトアの、小さな腕の中にすっぽりと収まる小鳥は身動き一つしない。出るだけの血はとうに流れきって死後硬直が進んでいた。驚愕とも苦痛ともとれる丸い瞳も僅かに開いた嘴も、揺すろうともそのまま凍ってしまっている。夜風と朝露に曝され冷えた身体は、永久にぬくもりを取り戻すことはない。
「悲しくならないんですか」
 平然としているようにも見える老いた横顔に問いかける。
「悲しいさ」ザナトアは即座に答える。「そして虚しい。でも慣れたさね」
 皺だらけの手が、死骸に触れた手が、アランの背を静かに叩く。
「墓を作るよ」



 林に足を運び、奥へ進むとその光景は見えてくる。背の高い木々の隙間から入る早朝の木漏れ日がちかちかと揺れている中で、朽ち果てかけた木製のささやかな十字が整然と、しかし尋常ではない数で一面の土に刺さる情景は、薄い霧がかかったように寂然としていた。
 ここ一帯の全ての地面を覆い尽くすような無言の墓の群衆。来たばかりのアランは訪れたことのない寂寞の地である。
 息を呑み、立ち尽くすアランにザナトアが声をかけ、彼女は我に返った。
 アランは連れてきたアメモースを隣に座らせ、二人がかりで、木の根元近くをスコップで掘る。フカマルも黙って土を掻き出す。地面タイプを併せ持つ彼は、土の扱いが上手で、人間よりも勢い良く掘り進めていった。ヒノヤコマや他の鳥ポケモン達は頭上の枝に止まり見守っている。誰かが指示したわけでもなく、示し合わせたように皆押し黙っている。誰もがこの沈黙を破ることは許されなかった。
 柔らかい土ではあったが、ポッポ一匹分が入るだけの穴を作るには少々時間を要し、差し入る陽光が輝きを増す中で、やがて十分な穴が出来上がった。
 秋の朝は冴え冴えとしているが、一連の動きでアランの額には豆粒のような汗がいくつも浮かんでいた。手の甲で拭い、深い影を含んだ空洞をしんと見下ろす。
 黙すポッポを、ザナトアは丁寧な所作で、そっと、穴に入れて、余分に感慨に浸る間伐を与えず、上から掘り起こした分溜まった土を戻していく。さっと、身体が汚れていく。埋もれていく。嘴が見えなくなり、目が隠れ、傷だらけの身体がみるみるうちに土を被り、遂には完全に遮断され、明らかに掘り返したと解るその場所に、他と同様に即席で作った木製の十字を突き刺した。その瞬間の音こそが、訣別だった。
 あのポッポはもう地上には存在しない。
 目を閉じ、死を弔う。
 数秒の後、アランが先に瞼を開いても、ザナトアは祈り続けていた。横顔は決して険しくはなくむしろ一見穏やかのようだが、皺の一つすら不動であり、正しく清閑の一言に尽きた。
 木の葉が重なり揺れる音が、風の来訪を示す。呼び起こされるようにザナトアが手を下ろし新しい墓を視界に捉えた後、入れ替わるようにして、隣でフカマルが大声でさめざめと泣き始めた。人間の赤ん坊が泣くように懸命に声をあげて涙し、茂る木々の音のみの静けさである林を震わせた。
 全身で悲しむ感性を宥めるように、ザナトアはその頭を撫でる。彼につられるように、天からは別離の挨拶をするような鳥ポケモン達の声が重なり合い、木々の隙間を縫って林の中をずっと響いていった。それはまるで自然が奏でる鎮魂歌のようであった。
 アランは表情を凍り付かせたままで、涙は最後まで出てこなかった。
 やがてフカマルが泣き止み、時間をかけて激情が落ち着いてきた頃、ザナトアは広がる墓場のほとんど中心に佇む、朽ちかけた大きな十字の前までアランを案内した。大きな、とはいっても、他と比較して多少枝が太いほどであり、特別な違いは殆ど無い。
「これが、どうかしたんですか」
 アランからそう尋ねられることを待っていたように、ザナトアは重い口をゆっくりと開いた。
「チルタリスの墓だよ」
 言われてすぐアランは目を丸くする。
 昨日の今日だ。彼女がわざわざそう伝える意味、示されたチルタリスが一体どういった存在なのか、理解しているだろう。
 足下でぺちぺちとその十字架を叩くフカマルを諫め、老婆は肩を落とす。
「フカマルの父親だよ。この子はガブリアスとチルタリスの間に生まれた子だ」
「それ、エクトルさんは、知っているんですか」
「知っているだろうね。知った上でだ、あいつ、ご丁寧に前金と卵と、一緒に何匹かポケモンをここに置いていった」深い息を落とし、苦々しい口調で続ける。「殆どは相棒と言っていいメインパーティの面子だ。訣別とするにはあまりに身勝手だったね。チルタリスはとりわけ悲惨だった。……滅びの歌という技を知っているかい」
 アランは首を横に振る。
 気丈に振る舞っているようではあるが、ザナトアも感傷に浸っている様子だった。
「長い旋律を三回繰り返し歌い続けると、自分も含め相手も味方も全員戦闘不能になる荒技さ。トレーナー同士のバトルではなかなかお目にかからないが、野生となると危険なもので、見えないところから歌われて手持ちが全滅、遭難してそのまま行方知らず、なんてホラーに使える話もあるような技さね。……チルタリスは、鍛えれば滅びの歌を自然と身につける。あの子は幼い頃から一緒だった主人との長い別離に寂しさを拗らせ心を病み、三日三晩滅びの歌を歌い続け仲間まで道連れにして逝った。あの歌は、たとえ頭が呆けても忘れられないだろうさ」
「……壮絶」
 ぽつりと呟くと、ザナトアは頷いた。
 膨大に立ち並ぶ十字架に囲まれた中心で、暫し沈黙を味わう。身代わりのように、無言で地面に立つ父親を示す墓の前、先程は叩いていた掌で今度はゆっくりと撫でる子供の姿があった。
 自然を彩る小さな生き物たちの声もまた、歌のよう。滅んだ後に咲く、ささやかな花々のような生者達の声と、静まりかえるほどにどこかから幻のように漂う死者達の気配が混ざりあう。ここはそういう場所だった。
「あの夜、ここに住むポケモンも多く死んだ。中には育て屋として預かっていた子もいた。責任を取ろうにも命に代わるものなんてこの世には無い。どうにか落ち着いたけれど、もうブリーダー稼業は続けられないと確信しちゃったね」
 そうですか、とアランは零し、周囲に目配せした。
 夥しい数の十字架の理由。いくら育て屋として様々な別れを経験しているとはいえ、通常であれば、預けたポケモンはいずれおや元へ引き取られていく運命にある。数十年という、アランにとっては気が遠くなるであろう年月を経ているにしても、夥しいまでの墓はあまりに過剰な死別を物語っていた。
「それで、育て屋を辞めたんですね」
「まあ、跡継ぎもいないから、引き際をどうすべきか少し考え始めていたところだった。……こっちは、クロバットの墓さ」
 小さな墓場の巡覧は続く。懐かしい昔話でも語るような口で、ザナトアはアランを促す。数歩左へ向かったところに、似た十字架が立っていた。
「……姿を見ないから、きっと、いないんだろうなとは、思っていました」
「察していたか。そりゃあ、そうかね。あんたは元々そのために来たんだ。会いたかったんだろう」
「まあ……はい」
「残念だったね」
「いえ」首を振り、躊躇いがちにアランは目を伏せる。「……その、記録、見ました。クロバットが頑張って飛ぼうとしていたこと、ザナトアさんが飛ばせようとしていたこと、ちょっとだけですけど、読みました。だから、会えなくても知ってます」
「いつの間に? いじらしいね。で、どう思った」
 アランは迷うように言葉を選ぶ時間を使う。
「……驚いていました。あんなに頑張らなければ、もう一度飛ぶことはできないのかって」
 ザナトアは懐古を込めてゆっくりと頷く。
「あのクロバットは、少し特別だった。あんなに踏ん張れる子はそういない。クロバットのことが世に知れてからは、同じようなトレーナーがやってきたし、あたしも出来る限りのことはしたけど、飛べるようにはしてやれなかった。……アラン」
 改まって呼ばれ、彼女は、ザナトアの顔を見た。真剣な眼差しに射貫かれて、身動きがとれなくなる。
「必ずまた飛べるようになるとは、限らないんだ。それはきちんと言っておきたい」
 だから、とザナトアは緊張を解かずに続ける。
「お互いに納得する答えを出して欲しい。あんたはポケモントレーナーだ。あんたが迷えば、ポケモンも迷う。アメモースと、エーフィ、ブラッキーを大事に育ててあげなさい」
 そう言って、ザナトアはアランの胸に抱かれているアメモースの肌を撫でた。アメモースは気持ちの良い甘えた声を出し、その手に擦り寄る。死の衝撃を刹那の間忘れさせるだけの平穏が、指先に生まれた。
 安らぎの瞬間を前に、アランは冷えた顔つきのまま深く頷き、ゆるやかに触覚を上下に動かすアメモースに視線を落とした。そして、再びクロバットの墓へと戻す。彼女がたったひとつの希望と縋った生き物、羽を失いながらも再び飛翔したという獣の不在を示す、無言の墓前で静かに一礼した。
「……クロバットも、滅びの歌で?」
 ザナトアは頷く。
「頑張っていたんだけどね。チルタリスを励まそうともしていたが。あたしも、クロバットも、誰もね、閉ざしてしまったあの子の心に声を届かせることはできなかった」
 冷静でいるようだが、ザナトアから滲んでいる自責の念にアランは唇を僅かに締めた。老婆の身体は、たゆたう感傷を重く背負い込み、平時より幾分縮こまっているかのようだった。
「あたしを求めて来てくれた子を助けることができず、たった一匹のポケモンの心を解してやることもできず、多くを死なせた。最も無責任なのは、あたしさ」
「……エクトルさんの責任でもありますよ」
「なんだ、励ましてくれてるつもりかい?」かすかに自嘲の色を滲ませながら、笑いかける。「そうさね。本当に無責任。でもね、今更あいつを責めたって仕方ないのさ。一度くらい墓参りに来いとは思うがね」
「今度会ったら、伝えておきましょうか」
「伝えたところで、来るかどうか。あいつだってキリの人間なら知っているはずだよ。それでも来ないんだ。これが答えさね」軽く首を振り、口許だけで微笑んだ。「余計なことまで喋っちまったね。帰るよ」
 踵を返し、折れた腰でゆっくりと帰路を辿り、アランはその歩幅に合わせる。ザナトアの語り口はあくまでもうとうに清算したように淡々としていたけれど、重みを共有した二人の間に会話はなかなか生まれなかった。
 林を抜け、影の落とす場所の無い広大な草原へ出る。
 水で薄めたような透明感のある朝だった。空には薄く破って散らばめたような雲がぽつぽつと流れている。地上にはほとんど遮るものがないおかげで、随分と広い。どこかから優しい牧歌が流れてきてもおかしくないような、際限なく長閑な場所だった。美しい空の下、ザナトアは眼を細めた。
「いい秋晴れだね」
「はい」
「きっとポッポも、気持ち良く空に飛べるさね」
「……はい。きっと」
 濁りの無い目には、小さな羽ばたきが映っているかのようである。誰よりも大きく翼を広げ、誰よりも高いところへと翔る小鳥の姿を見守る目だった。
「……空を飛ぶって、どんな感覚なんでしょうね」
 アランがぼそりと呟くと、そうさね、とザナトアは返す。
「あんたは、一度も鳥ポケモンに乗ったことがないのかい」
 軽くアランは首を振る。
「ありますよ。一回だけ。でも、その時のこと、あんまり覚えてないんです」
「勿体無いな。あれはなかなか癖になるよ。ま、あたしももう随分やってないがね」
「落ちたら」アランはほんの僅かに間を置いた。「大変なことになりますもんね」
「まだそこまで愚図じゃないよ」
 馬鹿にするな、と抵抗するような口調だが、いたって穏やかな笑みを浮かべていた。
 薄い雲が涼やかな風にのんびりと吹かれゆく姿を二人して見つめる。
「空って、あんまりに遠いから」
 一度言葉を選ぶように口を閉じてから、アランは続ける。
「自分で飛んでいくことができたら、きっと気持ちがいいでしょうね」
「そうさね」
 ぽつんぽつんと、泡沫のような会話が生まれては消えていった。アランは鼻からつんと冷たい秋の空気を吸い込む。深く、内側から身体に馴染ませるような味わいをゆっくりと呑み込んで、強ばった拳を僅かにほどいた。
「飛べたらいいのに」
 ぽつりとした独り言を、ザナトアはうまく聞き取ることができなかった。
 空を仰ぐ深い栗色に、透いた青色がかかっている。頭一つ分以上も違う高低差では、彼女を見上げるザナトアにその瞳は見えない。
 ザナトアは何も言わず、そしてアランも沈黙に浸り、やがて誰も合図を出さないうちにどちらからということもなく再び歩き始めた。柔らかく乾いた草原をゆっくりと踏みしめる。腰を折りながらたっぷりとした時間をかけて歩くザナトアにアランは並行し、家に進むごとに、あのポッポが死んでいた卵屋の傍に近付くほどに身を固くした。
 その後、ザナトアとフカマルは卵屋に向かいポケモン達の食事を、アランは自宅に戻り遅くなった朝食を用意することとなった。
 裏口の傍で、エーフィとブラッキーが待っている。薄く青い日陰で耳を垂れ、寝そべるブラッキーにエーフィは付き添っていた。エーフィが微風に合わせるように尾を揺らし、しかしふと、アランを前にして、その動きを止める。
 ザナトアと別れ、一歩、一歩と踏み出すほどに、アランの影から冷気が沸き上がってくるように、伴う気配は強張っている。
 ポケモン達と共に帰宅し、後ろ手に扉を閉め、長い溜息を吐いた後、呟いた。
「誰が」
 誰がポッポを――殺した。
 アランは右手首のブレスレットを握る。
「黒の団なんてことが有り得るかな?」
 エーフィに問いかけたが、彼女は肯定も否定もしなかった。
「違うだろうとは思う。発信器はもう無いはずだし」
 いや、と呟き、ブレスレットに視線を落とす。
「そうとは限らない、のだとしたら……」
 部屋は窓から差し込む、カーテンを通した弱い陽光のみ。手首は深い影の中にあり、囲う小石は淀んでいる。
「……でも、仮に場所が割られていたとしてもこんなまどろっこしい真似をするとは考えられない。……ただ、野生ポケモンが襲ったって話で片付かない予感がする。気味悪いというか……嫌な予感がする。万が一に、黒の団の仕業なのだとしたら、もう、ここには……。……でも……」
 返答を期待してはいないように、一人、呟きを止めない。整理をするように、回る思考を口にしてその糸口を導こうとするけれど、最後には、わからない、と締めた。
 噛み千切られた首と朝。不吉だった。黒い雨水が硝子窓を這うのを見つめているようだった。この家で新たな日常を過ごす外でも、近付く祭を謳う穏やかな時ばかりが経っているわけではない。現在とは、過去からの地続きの上にある。これから、いつ、何が、誰がその硝子を割り、破片の散らばる闇の中、首を掴みかかってくるか、解らない。
 心許ないエーフィの一声に、アランは頷く。
「とにかく、今は用心していよう。何か怪しいことがあったら、すぐに報せて」



 ポッポの死から幕を開けた一日は、始まりこそ劇的だったが、それからは開いた穴を見て見ぬ振りをしているかのように努めて平穏に過ぎていきつつあった。近付くレースを前にヒノヤコマ達は外へ繰り出し、地上のフカマルは草原に棲み着くナゾノクサの群れの傍に立って、友達の堂々たる飛翔を遠景に眺めていた。ザナトアは寝たきりとなっているマメパトに薬を混ぜた餌を、手から啄ませるように与えて、その横でアランは、エーフィのサイコキネシスで下ろした天井の添え木にこびりついた汚れを雑巾で磨いていた。力仕事はすっかりアランが担うようになりつつある。アランは首にかけたタオルで汗を拭い、感嘆の息を吐く。アメモースは邪魔にならぬよう、ザナトアの定位置である椅子に座り、黙々と労働を眺めていた。
 じきに夕暮れ時へと進もうという頃合いに休憩を言い渡されたアランは、アメモースを連れてリビングへ戻った。身を入れて励んでいた身体は疲労感を覚え、ソファに勢いよく座りこめばぐったりと目を閉じた。弛緩しゆく身体のほてりに委ねて暫し休んでいたが、数分経った後、ゆっくりと身を起こした。
 毎晩眠っているソファにかけられたブランケットの端を揃えて畳み、端に置く。乱雑になった鞄の中を整理しながら、アメモースの薬やガーゼを纏めたポーチを取り出した。
 アメモースの、当てられたガーゼを身長に剥いで、隠れていた傷口が露わになる。相変わらずそこにあるべきはずの翅は無いけれど、抜糸された跡は少しずつ埋まっていき、ゼリーのような透明感のある身体には不釣り合いな黒ずみも消えていた。鎮痛剤が奏功しているのか、最近は痛みに表情を歪める様子も少なくなっていた。
 フカマルや他のポケモン達が駆け寄ってきて声をかけられれば、嬉しげに返事をして触覚を盛んに動かすようになった。新しい生活に馴染んでいくほど、急速にアメモースは回復しつつある。個体差はあれど、元々ポケモンは人間と比べ自然治癒の速度には目を見張るものがある。彼とて例外ではない。勿論、今の生活がアメモースに良い効果をもたらしていることは間違いなかった。
 アランは真新しいガーゼを取り、テープを使って傷口をあてがう。直後、アメモースが穏やかに鳴いた声に、彼女は手を止めた。挨拶のようにたった一言。彼がアランに向けて声を発したのは、久しぶりだった。
 フラネで発した悲鳴と、声にならない感情をそのまま表したような銀色の風。あの頃、誰もが混乱の渦中にあった。心も身体も整理がつかないまま旅に飛び出して、模索を続けている。そして、確実に修復されていくものがある。回復と同時に、決断を迫られる時は近付く。
 アメモースを抱く時、彼女は背中を自分側に向けさせる事が多い。お互いに顔の見えない位置関係だ。今、ゆっくりとアメモースを回し、互いを正面に見据える。
「迷ってる」
 ぽつりとアランが語りかけると、アメモースは不思議そうに表情を覗った。
「もう一度飛ぶことは、そんなに簡単なことじゃないって。時間もかかるし、きっとアメモースにとっては、辛い日々になる。苦しい思いをしてまで、頑張る必要なんてあるのかな。本当に叶うかどうかも分からないのに。傷つくだけかもしれない。ザナトアさんが見てきたポケモン達や、あのポッポのように。それは虚しい」
 長い溜息をついた。あのね、と重い口ぶりのままで語りかける。
「アメモースが空を飛べるようになったらいろんなことがうまくいくような気がしていた。心が晴れて、皆が前向きになるような。だけど、違う。願っていただけ。そうなればいいって。ただ、止まってしまったらもう何もできなくなってしまう予感がしたから、その口実にしただけで。……いや、ただ私が、逃げ出したかったから」
 一瞬、固く口を噤んだ。
「ひどいことを言ってるな。……ずっと、君のためという建前でいた。勝手にあの人から引き離して連れ回して。……ごめん、アメモース」
 アランは静かに頭を垂れた。
「ごめん」
 繰り返して、そしてそのまま、暫く動かずにいた。
 アメモースが声を発するまで、アランは相手を見ることができなかった。穏やかな声を耳に入れて顔を上げた先で、アメモースの瞳は、笑んでいた。解っているのか、解っていないのか、その判別はつかないけれど、彼はアランに笑いかけていた。
 つられるように、アランは口元に微笑みを浮かべた。そして、また彼の名前を呼ぶ。ねえ、アメモース。問いかける時期をずっと探っていたはずなのに、彼女はするりとその言葉を喉から零す。
「君は、飛びたい?」
 つぶらに潤う瞳は揺るがずに、現トレーナーの真剣な表情を見つめた。
「痛みが無くなって元気になったら、もう一度飛びたい?」
 飛ぶ。
 あの空へ。
 地を生きる彼女も一瞬だけ夢を見た。大空に向かうことを。
 どこまでも蒼く、どこまでも遠く。風を纏い風と共に生きる、あの自由な世界へ。
 アメモースは、首を傾げた。戯けたように、あるいはまるきり解らないように傾ける。
 まだ決断すべき時では無いのか。彼女自身も迷っている。トレーナーが迷えば、ポケモンも迷う。アランの表情はかすかに曇る。
 いつかここを出て行く時がやってくる、それは育て屋に暮らす野生の生き物に限った話ではない。迷い子としてやってきたこの場所、向かうべき道が見つかれば、或いは向かわなければならない道が明らかとなれば、発たなければならない理由があれば、いつかは再び旅立つのだ。



 その晩、深夜の事件の全貌は明らかにならないまま昼行性の生き物たちが眠りにつき、ひっそりと冷たくなった夜にアランはそっとソファから立ち上がった。
 今晩は夜空を雲が覆っており、とはいえ湿気は薄く雨は降っていない。差し入る月や星の光が無く、周囲は足下のブラッキーの光の輪のみ、異様に浮き上がっていた。
 息を殺し、直接放牧地帯へと繋がる扉に近付き外へと出れば、強い夜風に栗色の髪が吹き上がる。乾いており、やはり雨雲ではないようだ。このあたりは地上からの光も殆ど無い。萎縮するほどの闇に迷い込んだ。
 果ての無い暗闇は掴み所が無い。
 目が慣れてきて、僅かに見える物の輪郭と耳を頼りに、アランは摺り足で進んでいく。外に置かれた棚や壁を指で伝い、卵屋へと歩みを進める。
 緊張を緩めず、開きの悪い扉を開ける。昼間ならポケモン達の声や羽ばたきで充満しているこの小屋も、今は沈黙している。まるで、死に絶えているように。
 内壁を辿って一段ずつ大きな螺旋階段を登っていく。
 二階まで来れば、生きた気配を嗅ぎ取った。藁に座り込み眠る鳥ポケモン達を一匹一匹確認する。彼女はまだそれぞれを覚えているほどではないが、少なくとも妙な空白は見られない。一晩数えるほどに、一匹居なくなっていく。そんな可能性が無いと言い切れない。
 用心深く冷ややかな視線で周囲を見回すアランの視界に、一匹、椅子に隠れて彼女の様子を覗う獣が入った。気付いた直後こそ身構えたが、軟らかな月光に明らかにされれば、すぐに緊張は解かれた。丸い身体は細い椅子に隠れられるほど小さいものではない。
 フカマルだ。巨大な口に整然と並ぶ肉食獣の牙は、か弱い小鳥の首ひとつ、容易く噛み砕く力があるだろう。しかし、ポッポは彼の友達だ。ポッポに限らず、ここに住むポケモン達に彼は生まれ持った愛嬌で好かれ、彼自身も仲間に対して溢れんばかりの愛情を向けている。墓前で見せた激しい号泣に嘘の混じりけなどなかった。彼は心優しいドラゴンであり、今もアランに脅える様からは、とても彼が事件の加害者であるとは見えない。
 アランは唇の前に人差し指を立て、ドラゴンの隣へと近付く。その間、フカマルは彼女を凝視し、ひとときも目を離さなかった。強い警戒心と恐怖心を抱いているのだ。アランは小さく息を吐き、硬質な肌をゆるやかに撫でた。
 大丈夫、と囁く。椅子を挟んで座り込み、壁を辿るように作られた寝床で眠りにつく鳥ポケモン達を仰いだ。
 フカマルもまた見張っているのだろうか。新たな被害者が出る予感を払拭できず卵屋に集った同志は、沈黙を頑なに突き通す。
 深い藍色の夜に白い光。青い世界に漂う獣の香りと、穏やかな寝息は一晩中続いていった。フカマルは座り込み、うとうとと瞼を閉じては、時折はっと覚める、そんな様子を繰り返した。アランは膝を抱え緊迫し続けたが、ゆるんだ夜の空気に馴染んでいくように、だんだんと肩の力を抜いていった。
 その晩は何も無く過ぎていき、卵屋の青は薄らいでいく。有明の優しい眩さが山の向こうから広がり、大きな窓より光が注いだ。意識せぬうちに眠りに落ちたのはアランもフカマルも揃っていて、間近の囀りに瞼を開けばいつも通りの朝に包まれていた。平凡な朝が本当に平凡としてやってきたのだ。
 まだ半分も目が開いていないフカマルのとろとろとした足取りに合わせて卵屋を後にしようと階段を降りている途中で、耳に障る扉の音がした。まだ生き物が全て目覚めていない早朝に、その音は強く響いた。ザナトアとアランで目が合った。彼女は一瞬目を丸くしたが、続いて呆れた表情を浮かべた。
「まさか一晩中見張っていたのかい」
 階段を最後まで降りたアランはおずおずと頷くと、元気だねえと苦笑した。
「若いってのはいいもんさね。ちゃんと寝なよ」
「大丈夫です。このくらい」
「は。ちょっとは生意気な口も叩けるようになってきたか?」
 皮肉交じりな口調で笑う。
「で、夜通し見張った甲斐はあったのかい」
「どうでしょうね。でも、誰も殺されなかったですし」
 ね、と足下のフカマルに目配せをする。フカマルは立ちながら微睡んでアランの足に寄りかかっており、意識があるのか無いのかはっきりせぬ様子でぼんやりと返事した。
「物騒なことを言うね」
 目を細めたザナトアが怪訝な口ぶりで言う。発言の違和感に気付いていないかのように、アランはどこか平然とした顔つきでいた。 
「あのポッポが、明確な意図を持った誰かに殺されたと、そう思っているのかい」
 圧力を感じたのか、アランはぐっと息を呑み込んだ。
「……分かりません」
 ザナトアは首を左右に振る。
「昨日も言ったかもしれないけれど、良いか悪いかは別としてあたしはこういうことには慣れたんだ。ここは野生との境目があやふやだから、夜に野生ポケモンが忍び込んできて食べられるのは特別な話じゃない。昔は用心棒がいたが、今は止めた。だから、仕方が無いんだよ。あんたがそうも気に病む必要は無い」
「でも」アランの握りしめた拳に力が入る。「野生ポケモンに襲われたとは、限らないじゃないですか」
 朝の空気には不釣り合いに、二人の間の空気に小さな火花が散る。
「あの傷は、明らかに自然の傷じゃない。食い千切られた跡ですよね。勿論、野生ポケモンによる可能性もあります。だけど、それ以外の理由だって否定できないでしょう」
「トレーナーが意図的にそうしたと?」
 低い声で問われアランは硬直したが、老婆からかかる強い圧力に負けじと深く頷く。
「そうだね。確かに可能性は零じゃない。あんたには衝撃的だったろう。だがね、決めつけて行動するには少々直球すぎる」
「ザナトアさんだって、決めつけていることになっていないですか? よくあること、今回もそうだろうと」
「というより、拘る理由が無いかね。これが客のポケモンだったら死因を確認する必要があるけれど、毎回事件性を考慮していたらきりがない」
 冷静に断言するザナトアは揺るがなかった。二人の間で散った火花を察知したのか、寝ぼけ眼のフカマルもはたと気が付き、おろおろと二人の間で視線を往復させる。二の句が継げず、アランは沈黙した。
「ま、冷たい奴だと思うのは勝手だけどね」
「いえ……」
「少し、意外だよ。そこまで動揺しているようには見えなかったから、あんたがそうも入れ込むとは。……考えすぎだよ。ちょっと気分を変えたらいいさね。顔でも洗ってきな」
 細い手がアランの腰を叩き、横をすり抜けて老婆は二階へと上がっていく。
「ザナトアさん」
 丸まった背中に呼びかける。のっそりと階段を上がっていく歩みを止め、振り返ったなんでもない顔に、アランは唇を噛み締める。
「確かに事故のようなものかもしれないですけど、なんだか嫌な予感がしてならないんです。恐いことが起きてしまわないかって」
 数秒間ザナトアは言葉を探し、真顔で口を開いた。
「心当たりでもあるような物言いだね」
 芯を捉えるような一言を残して、ザナトアは立ち尽くすアランに背を向けた。

( 2019/08/24(土) 21:41 )