Page 110 : 親子の夢
卵屋の二階を訪れたザナトアは、古い椅子に腰掛けて身体を休めていた。
年を取るにつれて、不自由な身体だと実感する。肉体を駆使するからこそ余計に痛感するのだ。かつては簡単に踏み出せた数歩すらあまりに鈍く、重く、身体の節々は痛む。視界は霞み、老眼鏡をかけなければ文字を追い辛くなった。幸いにして脳はさほど衰えていないが、不意に足下を掬われ、床に沈み、それから目を見張る速度で老いる例はザナトアも知るところだ。
生き物はいずれ死ぬものであり、生きていれば老いていく必定に縛られている。育て屋稼業を営んできたザナトアは、キャリアの間に数えきれぬ別れを経験してきた。依頼主のもとへ帰って行く別れもあれば、野生に戻っていく別れもあり、そして死別もある。生き延びるほど、別れに対して鈍感になっていく。ポケモンに限らない。狭小な世間では、人付き合いの悪い彼女の耳にも時折届く。誰某が倒れただの、死んだだの、腐った魚が泳いでくるように、或いは静かな波に揺れて打ち上げられてきたように、新鮮味を失った報せとしてやってくる。
老いているという自覚は、思いがけず幼い旅人を家に住まわせてから更に濃厚になった。
風化していくこの家で借り暮らしを始めたアランが、籠を藁で埋めて何度も階段を往復し、或いはポケモン達に餌を与え、或いは床や壁を掃いて磨いて、そういった細々とした仕事を文句の一つ吐かずに淡々とこなしている姿を、多少は感心しながら観察していた。本音を漏らせば、老体には助かってもいる。不慣れ故の手際の悪さは目につくが、吸収が早い点にも身軽な身体にも若さを実感した。ザナトアはもうじき齢七十四。アランとの年の差は殆どちょうど六十年分と知った時は呆気にとられたものだ。孫と言っても通じてしまう。
卵屋の内部はいつもより静かだ。ヒノヤコマを頭とした群れが出かけているところである。親友である幼く飛べないドラゴンは、衰弱を契機とした病で飛べなくなったピジョンと談笑している。その隣で、涼やかにエーフィは横になっていた。
この子達をどこまで世話してやれるのだろう。騒がしいポケモン達を前にふと静けさに襲われた時、ザナトアは一考する。
少なくとも、余程の不幸が無い限りフカマルは遺される立場となる。ドラゴンポケモンの寿命は長い。種族によっては人の一生を超越する。純粋培養といえようか、無邪気でとぼけた明るさをもったまますくすくと育つ彼を見ていると、必然的に彼が経験する別れについて考えざるを得ない。則ち、自身の死後の世界について。
誰かが死んでも、此の世は途切れることなく動いていく。しかし自分の命は自分だけのものではないと知っている。だからフカマルには自分以外のおやが必要だ。野生を経験していないのだから尚更である。ドラゴンポケモンを簡単に野に放てば、生態系が崩れる恐れもある。無論、フカマルに限らない。ここに住むポケモン達、皆まとめて、互いに互いの生命を共有しており、誰かの助けを借りなければ生きられないポケモンもいる。
ふと、顔を上げた。風の流れが変わった。傍でドラゴンが軽快に鳴く。
フカマルが窓に跳び乗り、小さな手を懸命に振っている。つられるように、エーフィが隣へ歩み身を乗り出した。ヒノヤコマや、野生に帰ろうとしているあのポッポを含めた群れが帰ってくるところのようだった。ザナトアは立ち上がり、整然と隊列を成して飛翔する群衆を見つめる。彼等は数日後に控える、湖を舞台にしたレースに出場する面々だ。
秋、晴天の吉日に催されるキリの一大行事である秋季祭で行われる、鳥ポケモンによる湖を舞台としたレース、通称ポッポレースには、いくつかの部門がある。
町を超えて、国土各地のチェックポイントを回り再びこのキリに戻ってくる過酷で長期間を覚悟する部門。こちらは数日を必要とする。一方、湖畔に点在するチェックポイントを全て回り同じ場所へと帰ってくる、数時間で終えるレースは、一定のタイムをクリアした精鋭の参加する部門と、誰でも参加可能な部門とがある。ザナトアの擁する野生ポケモンのグループは後者での参加となる。前者は参加規定としてポッポのみという縛りがあるが、後者は種族を選ばない。形式上順位はつけられるものの、己の肉体を駆使し競うことが目的というよりも、空気感を楽しむ場だ。出場するポケモンが多岐に渡るため、華やかがなんといっても特徴である。家族や友人同士で共に飛ばせたり、衣装を着せたり、背中に別のポケモンや人間を乗せて飛ぶのも許されているような自由なレギュレーションだ。当日の飛び入り参加も可能、飛べさえすれば良いという内容で、珍しいドラゴンポケモンでも出場すれば拍手喝采、注目を浴びる。手に汗握る本気の試合形式とはまた違った趣向で祭を盛り上げる。
とはいえ、混沌とするため事故を招きやすい実情がある。
大小入り交じる見知らぬポケモン達に囲まれると、不安に煽られあらぬ方向へ飛んでいき迷子になる、或いは単純に体力不足等の様々な理由で、棄権するポケモンも出てくる。ザナトアは全員が最後まで飛び続けることを最大の目標とする。そのために、チームで隊列を組み練習を重ねさせた。ただ、ザナトアは特別なことは殆どしていない。飛んでしまえば手を離れる故もあるが、彼女が口を出さずともヒノヤコマやピジョンなどレースの経験者である進化ポケモンが全体をコントロールしてくれている。彼等は血は繋がっていないけれど、皆兄弟のようなものだ。信頼で結ばれた結束は固い。
しかし、このうちの何匹かは恐らくそう遠くない将来にこの卵屋を離れていくだろう。自分の手元から離し本来の居場所へと帰す、それこそが今のザナトアの使命である。
不意に、新入りの獣の尾がぴんと伸びて、喜びの声をあげた。
ほんの少しの挙動だけで解る。主人が帰ってきたのだ。
西日が強くなっている中、長い丘の階段を上がりきったところだ。漸く見慣れてきた栗色の髪を、朝と同じく後ろで一つに結っている。両手に紙袋を抱えて重たげであった。
「手伝いに行っておやり」
エーフィに声をかけると、彼女は頷いて、すぐさま駆け下りていった。惚れ惚れするような滑らかに引き締まった身体を柔軟に伸ばし、主を労うことだろう。
群れが窓の傍で密集し、小鳥達から中へ入っていく。一気に賑やかになり、フカマルが一匹一匹に声をかけていた。このささやかな時間がザナトアにとっては愛おしいものである。
逞しいポケモン達と時間を過ごすほど、別れを意識し、同時に命を貰っていると痛感する。けれど別ればかりが人生ではない。ここが居場所と定住を決めた者もいる。まだこの子たちといたい。痛快な人生、まだ終わらせるには勿体ない。
「お疲れさん。さ、ゆっくりお休みよ」
薄い黄金色をした穀物を餌箱に流し込めば、疲労もなんのその、活気溢れて食い付く鳥ポケモン達に微笑んだ。先導したヒノヤコマ達に声をかける。後で好物の小魚を持ってきてやろう。祭日に向けて、皆順調だ。
フカマルを引き連れて、食事に騒ぐ卵屋を後にする。リビングに戻ってくると、アランが荷物を下ろしているところだった。白い頬に薄らと血色が透いている。アランはザナトアに気付くと、柔和な笑みを浮かべた。
反射的に抱いたのは違和感である。
妙だ。
ザナトアは直感した。
アランは約束通り夕食準備に間に合うように帰宅し、台所では隣に立ち、いつものように料理を手伝う。流石に熟れてきて、ザナトアが何も言わずともフカマルの好みを押さえた餌を用意できるようになったし、自身のポケモン達にもそれぞれに合った食事を用意している。購入品を手早く冷蔵庫にしまえるようになり、食器の収納場所は迷い無く覚えてしまった。
ポケモンに対しては些細な変化にも気を配れる自負があるザナトアだが、人間相手となると疎いことも自覚している。良くも悪くも厳しく、距離を置かれることも多い。自然と人との交流が減り、偏屈に磨きがかかった。しかしそんなザナトアでも、頑なに無表情だったアランが町から帰ってきて急に笑うようになれば、嫌でも勘付く。人形のようだった人間が、本来の形に戻って笑む。それは人としておかしくはないことであるが、違和感を持つのは皮肉である。
散らかった机上に無理矢理空間を作ったような場所で日常通り食事を囲い、アランはぽつぽつと穏やかな色合いで話す。アメモースの抜糸やブラッキーには異常が無かったこと、町はいよいよ祭が近付き浮き足立っていたこと、湖畔の自然公園に巨大なステージが設置されていたこと、町中でポッポレースの広告を見かけたこと。確かに喜ばしい報せもあるが、アメモースは完治したわけではなく、他の問題が解決したわけでもない。大きな変化を与えるほど彼女が祭に興味を持っているかと考えれば、ザナトア自身は疑問を抱いた。過ぎるのは、別の要因がある予感だ。無表情の裏で何を考えているのか読むことの出来ない、端からは底知れない少女にしては、実に明白な変化だった。
「町で何があったんだい」
食器を置き、単刀直入に尋ねた。表情は変わったが、相変わらず食事の進む速度は鈍い。
アランの笑みが消える。ザナトアの問う意味をすぐに理解したかのように。
逡巡するような間を置いて、口を開いた。
「エクトルさんに会いました」
存外あっさりと答えて、ザナトアは不意を打たれたように目を丸くした。
「病院でアメモースとブラッキーを診てもらってから、時間があったので」
「……そうか」
知人に出会い気が紛れたのだろうか。アランは常にどこか緊張し、相手の様子を窺う目つきをしていた。普段は気にもならないが、時折妙に儚げに飛行するポケモン達を眺めていることもあれば、刃先を向けているような非道く冷酷な顔つきをしていることもある。
二人共暫く黙り込んでいたが、長くは続かなかった。ザナトアの方から続ける。
「あの子、元気にしているのかい」
「はい」
「そうかい」細い目が、更に小さくなった。「それなら、別にいいんだけどね」
ザナトアの肩がゆるやかに落ちる。
アランは目を伏せ、手にしていたスプーンを皿に置く。スープなら多少は食べられるので、ここ最近は専らそればかり口にしていた。
「前から思っていたんですけど、ザナトアさんとエクトルさんは、どういう関係なんでしょうか」
耳を疑うように、老婆の眉間に大きな縦皺が寄る。
「知らないのかい」
信じられないとでも言いたげな声音だ。アランが戸惑うように肯くと、大きな溜息が返ってきた。
「呆れた。……いや、あいつにね。今更だよ。語るほどのものでもないけれど」
「昔、お世話になっていたとは聞いています」
「それだけかい?」
できるだけ相手の神経を逆撫でしないよう注意しているかのように、慎重にアランは頷く。
「そうかい。まあ、それだけだがね、しょうがない子だね……あんたも本人に聞いてやればいいのに」
「なんとなく、聞いてはいけないような雰囲気があって」
「これだけ年が経ってもまだ引き摺っているんだろうねえ……あたしのことなんて忘れたものだと思っていたくらいなのに」
解った、と彼女は言う。
「これを食べたら喋ってやるさね。ちょっと長くなるかもしれないがね。だからあんたも今日はそれを食べきってやりな」
ザナトアはパンを千切りながら顎でアランの手元のスープを指した。今日買ってきた野菜をふんだんに使い、細切れの豚肉を放り込み、うんと柔らかくなるまで煮込んでスープに溶けてしまうほどになっているものだ。ミルク仕立てで見た目はシチューにも近いが、濃厚な味付けではない。味が濃いと気分が悪くなってしまうからだった。
黙ってアランは食事を再開した。義務感に駆られるのか、その日は綺麗に平らげてしまった。
食事を終え、部屋の奥のダイニングテーブルに熱いアールグレイを淹れたカップを二つ並べ、二人は直角の具合にソファに腰掛けた。アランは眠たげに触角を下げたままのアメモースを膝に抱える。
ザナトアは小さく浮かぶ湯気を眺めて、一口軽く含んだ。味わう間も殆ど無く、胸中を熱い塊がするりと落ちていく。
ポケモントレーナーだったんだよ、とザナトアは始め、アランは背筋を伸ばした。
「まだあたしが育て屋の現役だった頃にあの子は遊びに来るようになった。クヴルールの家元だったから実家は町の方だが、親戚がこの辺りに住んでいてね。何の縁か、ここにやってきた。子供は大体ポケモンに憧れるからね。噂でも聞きつけたんだろう。ここには沢山のポケモンがいると。
多くのキリの人間が一家に一匹は鳥ポケモンを持っているように、あの子も一匹ポケモンを持っていた。
今でも覚えているよ。見てほしい、としつこいから仕方なく相手してやったら、モンスターボールから立派なチルタリスを出してきた」
まだ八つか九つか、そのくらいの年齢だったはずだとザナトアは笑う。
「自分で育てたって言うんだ。多少は震えたね。勿論、ほんのちょっとさね。それから流石に嘘だろうと思い直したけど、話を聞くほど、どうやら本当らしい。こっそり野生ポケモンと戦わせたり、本を読んで技を訓練したりね。やけに熱っぽく語るものだからさ、嘘にしちゃ上出来だとね。
その日からあの子はよくここに来るようになった。町からここまでは遠いよ。一日に数回だけ通るバスを使ってさ、チルタリスが人を乗せられるようになってからは、その背中に乗ってね。学校が終わってからここに来て、長期休暇になれば泊まり込んで。ポケモン達とバトルをして、遊んでいた。親がどう言うかあたしは心配だったんだが、どうも事情が複雑で、誰からも咎められることはなかった。あの子の家族は、あの子に無関心だったのさ」
ザナトアはソファを立ち上がり、リビングから廊下へと繋がる扉のすぐ隣にある本棚の前に立ち、一つ取り出した。古びた群青色で、厚みのあるアルバムだった。
ダイニングテーブルに広げられたものを、アランは覗き込んだ。少し焼けて褪せた色が写真の古さを物語った。幼い黒髪の少年と、チルタリス、数多くのポケモン達の日々が記録されている。たまに写る女性は、今よりずっと皺の少ないザナトアだった。カメラを向けられることに慣れていないように、ぎこちなく攣った表情をしている。
少年は満面の笑みを浮かべていた。乳歯が抜けたばかりのように、でこぼことした白い歯並びが印象的である。ページを捲るほど目に見えて身長は伸び、体格は大きくなっていく。顔にも膝小僧にも擦り傷をつくり、絆創膏を貼り付けているのは変わらない。時を進ませたどの写真でも多様な表情を浮かべている。説明が無くとも、少年期のエクトルであると察することができた。基本的には無愛想な今の彼とは正反対の、自由奔放に溌剌とした姿であった。
「悪ガキだったよ、あたしからしてみれば。こちとら仕事だからね、勝手にバトルされると調整が狂うからやめろって言ってるのに聞かないんだから。外が静かになったと思ったら書庫で本を読み漁って床に物が散乱してるし、こうした方がいいああした方がいいって育成に口を出してくるし。子供は黙ってろってね。でもちゃんと聞くと、的を外しているわけではない。あたしも随分教えたね。気に食わないところもあったけどね、楽しいもんだったよ。
ポケモンを持つ子供が皆そういうように、プロのポケモントレーナーになりたい、ポケモンマスターになりたいって話をしていた。あの子は確かに子供だったけど、立派なポケモントレーナーだった。
実際、ちょっとした大会にも参加していてね。キリは地域柄ポケモン関連のイベント事は盛んな方だが、ジュニアじゃ抜きん出ていて話にならなかった。大人相手でも遅れをとらない。その頃になればはっきりと確信したね。あの子には才能がある。こんな田舎町で燻らせるには勿体ないくらい。
あの子が家でよく思われていないのも流石に解っていた。どれだけ結果を出しても気にも留めない奴等なんか見返してやりな、とよく言い聞かせていた。誰よりもあの子のことを解っている気でいた。だから客のトレーナーともバトルの経験を積ませ、首都で開かれるような全国区の大会にも参加させた。あたしが保護者役でね。そこまでいくとレベルが高くなってきてね。バトルが得意な人間なんていくらでもいるんだよ。最初は一回戦で負けた。こんなもんかとちょっと残念だったけど、悔しかったのか更に夢中になって遂には家出してしまってね。流石のあたしもあの子の親戚の元に話をしに行ったんだがね、好きにさせてやれなんていうものだから、腹を括ったというかね……。あの子はあの子で、難しい本を読んで知識を詰め、新しいポケモンも育てて、技を鍛え、毎日戦略を練って、益々のめり込んでいった」
ふとアランに笑いかける。幾分、いつもよりもザナトアの表情は柔らかかった。
「修行の旅まで出たんだよ」
アランは僅かに目を丸くした。
「旅……ですか?」
「そうさ、あんたと同じ。と、あんたは別にトレーナー修業ではなかったか」
ザナトアは続ける。
「危険が伴うから賛否あるがね、西の山脈方面に向かうと手強い野生の根城がごろごろある。それから各地の大会に出て、経験を積んでいった。旅を始めてからは何か合致したように腕を上げていってね、楽しそうだったよ。元々風来坊なところはあったけど、自由な生活が性に合っていたんだろうね。自分の居場所を自分の力で探すのは、とても大変だけれど。立派なことさ。挫折も経験、栄光も経験、ポケモン達と共に成長していった。あたしの楽しみは、チルタリスに乗って帰ってくるあの子の土産話だった。日に焼けて、身体はどんどん大きく逞しくなって、元気な顔を見せてくれることがさ。あたしには子供がいないけど、息子のような存在だった」
流暢な口が、不意に立ち止まる。
「転機は恐らく、クヴルール本家のご息女が生まれた事だね」
静かな口調は、次への展開を不穏に物語った。つまりは、クラリスの影響となる。アランは口元を引き締める。
「規律に厳しいと言われてるクヴルールの人でありながらあの子が自由にできたのは、分家も分家、それも末端の、末っ子の人間だったからだ。そこらのキリの人間とそう変わらない、ただ名字だけクヴルールと貰っている程度。
詳しい経緯は知らない。ただ、あの子が連れ戻されたのは、奇しくもあの子がここらでは誰よりも強いトレーナーだったからだ。そのときには最早誰もが認めざるを得ないほどに。
細かい事情は、あたしだって知らないけどね。要は、お嬢さんのお目付役を頼まれたってことさ。
ポケモントレーナーとしての目標を捨てると、トレーナーはもう辞めると言い出した時は、あたしの方まで目の前が暗くなったね。そこに至る葛藤を今なら想像こそできるが、……いや、それは烏滸がましいだろうね。うん。激しい口論になったものさ。
純粋な自分の望みなら大した問題じゃない。プロの道は甘くないし、途中で諦めるトレーナーは数知れない。あの子もその一人だったというだけ。だけどあの子の場合、その理由はあの家にあった。
あまりにも今更だろう。どれだけ戦果を上げようと家族は殆ど見向きもせず、むしろ邪魔者が離れてせいせいしたというくらいだったのに、トレーナーとして誰が見てもそれなりに形になってきてこれから成熟していこうという時に。家に戻れ、ご息女を護れ。どの面下げて言えるのか、ふざけるのも大概にしろとね。人生の選択に少しばかり自由になりつつあるだろうに、いつの時代を生きているつもりなのかとね。クヴルールを許せなかったし、屈するあの子にも幻滅してしまった。……あの子は本当は、多分ね、寂しがっていたよ。家族に振り向かれないことを。だからポケモンに没頭していたというのも否めない。それを利用したのなら尚更たちが悪い。
結局喧嘩別れになって、それきりさね。あの子とは二十年近く会っていないことになる。凝り固まってたあたしも悪かったと今なら思うけれど、謝るタイミングも無くなってしまったね」
長い溜息をついた。
「エクトルはね、ポケモンが大好きだった」
噛み締めるように、懐かしむように、切実に、語る。
「あたしはこの界隈に身を埋めているから、プロトレーナーの道がどれだけ険しいかは理解しているさ。それでもね。ポケモンは沢山のことをあたし達に教えてくれる。あたしは今でも学んでるよ。彼等を通して得る経験はかけがえのないものになる。旅を勧めたのはあたしだけれど、あの子には世界はキリだけではないと教えたかったって理由もあった。トレーナーとして成功せずとも、ブリーダーでも、うちの手伝いでもいい。なんだって良かったんだ。あの子のポケモンに対する愛情は純粋だった、だからあたしはあの子がポケモンのと共にのびのびと生きてくれるのなら、それ以上に幸せなことはないと思っていた。宝だとすら思っていた。視野が広くて、冷静と情熱を使い分けられる子だった。そして何よりポケモンが好きだった。……自惚れだと、甘いと思うかもしれないけれどね、あの愛情は、正しい使い方をするよう誰かが導いてやらなければならなかった」
あたしには出来なかった、と感傷的に呟く。
「どんな形でもいい。あの家から引き剥がすべきだったと、あたしは今でも信じているし、後悔しているさね」
ザナトアは彼女の核心にも迫る語り部を続けようとした最中、目頭を強く抑え、頭痛がすると言って、すんなりと幕引きを迎えた。アランはザナトアの骨と薄い肉ほどしかないような細く丸まった小さな身体を支えて、寝室へと連れて行った。やんちゃなフカマルもおとなしくして、ザナトアの傍についている。
寝床のソファに寝そべり毛布にくるまりながら、アランは夜の静寂をじっくりと味わう。
散りばめられた星から星座が生まれるように点と点が結ばれていき、合致する。嘗てエクトルがクラリスに放った言葉もクラリスが自由を求めて起こした行動も、昼間に彼が放った責任という意味合いも、真の根源は彼にあるのだとすれば繋がる。
判断を誤った、とエクトルは言った。
ならば正しい判断とは一体なんなのか。どこから誤っていたのか。どうすれば正しかったのか。
愛情の正しい使い方とはなんなのか。
ザナトアの言うことがもしも正しいのなら、彼は間違いで出来ているのか。間違ったまま生きているのか。正しくない愛情の行き所はどこなのか。そもそも正しさとはなんなのか。
以前キリで、ポケモンを好きだろうと彼女が言うと、彼は返した。そんな時代もあったかもしれない、と。大好きだったものがずっと好きであるだなんて確証はどこにもなくて、ならば、ザナトアの語った純粋な愛情はどう変容したのか。幸福の膨れあがった笑顔を浮かべポケモンに囲まれていた少年は、数多のネイティオの屍を重ねて繁栄を繋げようとした家の渦中に飛び込んでいった人物と同一なのだ。しかし、衰弱したアメモースに憂えた表情を浮かべた男もまた同じ人間である。
結局、暴力的なまでの濁流に巻き込まれれば、ひと一人分の人生など意味を成さないようでもある。アランの口から流れゆく重い吐息が、音も無く広がった。
生き物はずっと同じではいられない。人はいつまでも純粋ではいられない。アランも、アランを取り巻く存在も、皆。
部屋をぼんやりと照らす足下の小さな光が揺れている。暗闇に浮かぶ黄金の輝きがソファの傍にあって、余波のような淡さでアランの視界を僅かに明白にする。僅かな光も、暗闇の中ではしるべのようである。
月光に照らされるアラン自身は、今、無色の顔をしている。ザナトアの話を終始醒めた目で聴いていた。瞼をきつく閉じる。毛布を擦る音、白い月光、紙の匂い、沈黙するラジオ、健やかな寝息、闇夜に抱かれ皆眠る。ひとまぜになって混濁は透き通っていく。
部屋に響く風の音が強い。夜を彩る虫の歌が部屋に差し込む。
どれほどのことがあろうと、時間はやはり等しく生き物を静かに流し、夜を越えて、朝はやってくる。
卵屋の傍で首を千切られたポッポの死体が発見されたのは、朝陽もそよ風も穏やかで、たおやかで、平凡な翌日のことだった。