Page 106 : 外側の世界
鈍い予兆はありながらも、裏表、白黒ひっくり返るように、不意に意識を手放した彼女にその直前からの記憶は一切無い。意識を手放したという実感も無かった。どのように倒れ込んだのかも、どれほどの時間そうしていたかも。冷たい秋風が肌を撫でる。絵に描いたような穏やかな昼下がりの光景では、何もかもが知らん顔をして、小さな旅人を気に留めなかった。
ただ三匹、孤独な旅路で傍に寄り添っている従者を除いては。
太陽と月に見初められた二匹の獣は、自力でモンスターボールから出る術を心得ている。黒の団との邂逅で破壊された古い物から真新しい物へ住処を変えても彼等の前では意味を成さない。
意志を失った腕から滑り落ち、道路へと転がったアメモースがぽつんと鳴く。呼びかけるように何度か心許ない声をあげるけれど、乱れた髪の被さった顔は、半分地面に伏せ、もう半分、血の気の無いその顔は、まるで反応しない。アメモースは頭と胴体を道に擦り付けるように前へ進もうとするが、三枚の翅は地を這うためには発達していない。その場でもがいているばかりだった。しかし、ふっと身体が急に軽くなる。息が止まる。浮かび上がったのだ。それは、進化して以来彼が当たり前に享受してきた感覚とは異なる。決して自力のものではない。しかし彼はどこか切実に懐かしい、胸の奥が焦がされるような驚きを覚えた。
若い主人の隣に降り立ったエーフィが涼やかな表情で発動したサイコキネシスでアメモースを傍に寄せると、すっかり青白くなった顔を覗き込んだ。意識を失うと、恐ろしいほど強ばっていた表情が弛緩している。苦しみも痛みも切り離している。皮肉なことにこの方が余程年相応の無垢な顔つきだった。試しに砂で汚れた頬を舐めてみるが、少しも動かない。
心細い鳴き声がエーフィの喉から漏れる。
遅れて、黒き三匹目が閃光に包まれて姿を現す。
誰もが、不安な顔つきで彼女を見下ろした。皆、彼女を本来のおやとしない。思いがけぬ離別を経験してきたポケモン達だった。
今度は、と。
三匹でそれぞれどのような想像が脳裏を過ぎったかは定かではない。しかし、彼女が彼等に対し無力であるのと同様に、彼等もまた彼女に対して無力であった。
このような事態に陥るのは初めてではない。まさにキリで殺意のある電撃に襲われ一度、そしてキリから首都にかけた道中でまた一度、そして首都にて屋上から飛び降りた、わらっていた、思い出すのもおぞましい一度。今までと明らかに異なるのは、この場に人間が居ないという点だ。溜息をついて、戸惑いながらも肩を貸した少年はもうどこにも居ない。
周囲を見回してもだだ広い小麦畑があるだけで、古い民家がぽつんぽつんと点在しているだけ。道路のすぐ近くにいる分、道を誰かが通りさえすれば気付かれるだろうが、気配は無かった。
居ても立ってもいられなかったのか、エーフィは階段を登ろうとし、すかさずアメモースが制するように声をあげる。最も間近で一連の流れを見た彼は、現在最有力の助け船が彼女に手を差し伸べる光景を想像できなかったのか、迷いが無かった。
苦渋の表情を浮かべ、エーフィは渋々踵を返し主人のもとに戻る。
倦ね果てたように、三匹はラーナーを囲む。
彼女の周りに薄い膜が張られている。壁に等しい膜。透明で、傷だらけで、目には見えないけれど、すっかり心を閉ざしてしまった証。より明確となった境界線。内部に踏み入れることを決して許さない。踏み入れるのも戸惑われるほどの拒絶だった。それは分け隔てなく、ポケモン達にすら向けられている。
それでも、知っている。深い悲傷に呑まれて壊れかけても、或いは既に壊れてしまっていたとしても、剣難な旅路をたゆまず歩もうとしたことを、傍らに添い続けてきた彼等は知っている。
いつか気付いてくれるだろうか。
いつかまた振り返り笑ってくれるだろうか。
たとえ本当のおやでなくとも、ラーナーこそ、今の彼等の居場所だった。
エーフィは、彼女の身体に自らの身体を寄せる。温めるように懐に身を入れると、瞼を閉じた。
倣うように、ブラッキーは背中に回り、ぴたりと体毛を当てる。
労りに満ちた光景を、アメモースは少し距離を置いて見つめていた。
彼女は一向に目を覚まさない。
風が凪ぎ、西日が強くなり、影が伸び、ブラッキーの光の輪がぼんやりと発光し始め丘が薄いオレンジ色に染まっても、変わらずに。
進行も後退もせぬ時間を過ごしているうちに、アメモースは安息の眠りについていた。他の二匹も、うたた寝に転じようとしていた頃、徐に沈黙は裂かれた。
囚われた籠に手を伸ばしたように、丘の上からやってくる。実を言うと、あちらはずっと上から様子を窺っていたのだ。階段の上と下では随分長い距離が間にあり、ラーナーにばかり気を取られていた従者達は、上の方でささやかに、しかし浮き足立ったポケモン達には一切気付いていなかった。
階段をどたどたと忙しない足取りで小さな存在が降りてくる。紺色と朱色の、細かな鱗で覆われた獣は、一直線に迷いなく彼等のもとへやってくる。
突然の訪問者に、エーフィとブラッキーは咄嗟に立ち上がる。研ぎ澄まされた警戒心の強さは折り紙付きだ。鋭い視線を投げてよこすと、威嚇された小柄な獣はぎょっと身を振るわせ立ち止まった。ついでにやや遅れ、アメモースも何事かと目を覚まして辺りを見回す。
姿を現したのは、幼いドラゴンのようなポケモンだった。
緊張の種を蒔いた小さなドラゴンポケモンは、あどけない顔つきで毒気が無い。闘争本能とでも呼ぶような殺気立った気配は一切合切削ぎ落とされ、豊かな田舎風景に馴染む雰囲気である。それを嗅ぎ取れないほど、エーフィとブラッキーは鈍感ではなかった。とりわけ機微に聡いエーフィは無意識のうちに早々に力を抜いた。何故かと問われれば答えに戸惑うが、憎めない、ぽんやりとした気配を纏っている。有り体に言えば、ゆるかった。それが、一目で解ってしまうようなゆるさなのだ。
やがて、夕焼けの中をまた別の生物がゆったりと飛んでくる。夕陽よりも濃い朱色の体毛が印象的な鳥ポケモンは、ドラゴンポケモンより少し大きい体格だった。後を追う小鳥ポケモン達も野次馬のようにその場にやってくる。ポッポやチルット、ムックルにマメパトとその種類は多岐に渡り、瞬く間に階段下は賑やかになった。
何が起こっているのか理解できない一同は、間の抜けた展開に気圧されながら、ただ一つ主人の元からは離れまいと足下を確かにした。
小さなドラゴンポケモンがそろりと前に出て、階段を大きく逸れて草原を踏み、遠回りするようにラーナー達の周囲をなぞる。抜き足差し足忍び足、と、道路側に回る、その動きに合わせて一同の首が回り、目で追う。注目を浴びるドラゴンポケモンは、ラーナーの顔が見える場所に立つ。それから相手はラーナーに興味を示しているのか、一歩近づこうとしたので、とりわけ警戒心の強いブラッキーが厳しい視線と低い声音で相手を射抜いた。ドラゴンとしての威厳に欠けたその獣は、びくりと足を止め、冷や汗を垂らした。
直後、ぎゃあぎゃあと鳥ポケモン達が騒ぎ出した。今度はエーフィ達がぎょっと目を丸くする番である。
すぐにドラゴンポケモンが地団駄を踏みながらその野次に負けぬ叫びをあげると、高揚した喧噪が水をかけたように冷めるが、消しきれない残像の如き騒々しさが満ちる。沈黙に溶かすように、燃える炎のような羽毛の鳥ポケモンが呆れた声を零した。
意を決したようにドラゴンは一歩、また一歩と近付く。三匹はその様子を固唾を呑んで見守る。そろり、と鞠のような身体を傾け、黒く大きな瞳がラーナーの疲弊した顔を覗く。ぽやんと僅かに開いた大きな口内には、生え揃った牙が整然と並んでいる。体つきは幼いが、牙は立派なものだ。一噛みすれば只では済まず、いとも容易く骨を砕き肉を引きちぎるだけの迫力がある。が、じっと見つめる瞳に悪意は無く、存在するのは穢れを知らぬ無垢な興味に近い。
沈黙に耐えかねたのか、エーフィが鳴く。尋ねるような声音だ。対するドラゴンが返事をする。いくつかの会話がその場になされていくほど、彼等を纏う空気ははより一層温もっていく。
ぎゃ、とドラゴンポケモンが深く、全身で肯いた。
ぱっと表情を華やがせたエーフィは、希望を詰め込んだ笑顔でブラッキーを振り返った。やや不安を拭いきれないのか煮え切らない表情のブラッキーは、アメモースに赤い視線を流す。アメモースは状況を掴み切れていないのか、小首を傾げ瞳を瞬かせた。
事の顛末を見守り、やれやれと、俄にざわつく鳥ポケモン達の中でもリーダー格であろう朱い鳥を筆頭に、ポッポ達は羽ばたき、丘の上へと向かっていく。黄昏時に小さな影が群を成す。ドラゴンポケモンは階段を上がり、ぴょんぴょんと飛び跳ねて明るい声をあげながら彼等を促した。道案内をしようとしているのだろう。
エーフィは紫紺の瞳を輝かせ、念力を発動する。朧気な赤い光に包まれたラーナーとアメモースが同時に浮かび上がり、階段を登る。ドラゴンポケモンは超常現象に驚いたようだったが、エーフィが彼等をつれてこようとしているのだと察し、階段を先に登りだした。エーフィはブラッキーに声をかけ、一足先に道を行く。こうなれば流されるままに流される他無い。深い溜息をついて黒獣は後を追った。
静かな旅は繋ぎ留められていく。
長い石段を軽快な足取りで駆け登っていくポケモン達の小さな行列。夕空は光に当たる粒のような彼等を覗き込んだ。陸では穏やかな風を切り、たおやかな黄金を背に走っていく。空からは鳥ポケモン達が見守り丘の向こうへと吸い込まれていく。先導する陽気なドラゴンは時折振り返りつつ、まっすぐ女主人の家へと向かう。
丘を登りきると、ドラゴンポケモンは放牧帯を囲う柵の下を匍匐前進で潜り抜け、民家の裏へと回る。
遅れて民家の前へ来たエーフィは、念力をゆっくりと解いてラーナーとアメモースをその場に下ろした。ドラゴンの後は追わなかった。体格からして潜り抜けられる自信が無かったうえ、鼻に刺さる香りが気になって足が進まなかった。
ブラッキーと並び暫く待っていると、深い静寂のおかげで家の中の騒がしいドラゴンポケモンの声が外に漏れ出ているのがはっきりと聞こえてきた。
やがて、玄関扉が開く。
ザナトアは気絶しているラーナーとその三匹のポケモン達を見やり、一瞬驚愕の表情を浮かべ、すぐに今度は呆れた息をついた。
「面倒なことを」
苦い顔のザナトアとは裏腹に、その足下からドラゴンポケモンが顔を出し、あどけない溌溂とした表情でエーフィ達に声をかけた。こんな大きな捨て子はいらないよ、とザナトアは毒づきながらも、扉を大きく開いた。
「フカマル、中に連れてきな。その子も一緒だ」