まっしろな闇












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続・キリにて
Page 105 : 孤独な旅路の終着点
 嘗て。エクトルの話を借りれば、今から二十数年前に羽の折れたクロバットを再び飛ばせたというザナトア・ブラウンという女性は、ポケモンの育て屋を営んでいたという。過去系であるのは、今彼女がどうしているかをエクトルは知り得ないからだった。首都にて受け取った情報はほんのかけらほどのものであり、ラーナーは彼女と面会する前にいくつか前情報を得た。
 一つは、老齢であること。
 一つは、気の強い性格であること。
 また一つは前述した育て屋の女店主であったということ。文化と称しても過言では無いほどとりわけ鳥ポケモンとの関わりが根強いこの町だが、種族の偏り無く受け入れていたという。
「どの業界も専門性が推奨されるようになって、例えば鳥ポケモンなら鳥ポケモン専門の、炎タイプなら炎タイプの専門のブリーダーやドクターが多く育ちました。トレーナーもある程度幅広いタイプを扱えた方が有利と思いがちですが、特定のタイプを追求して登り詰める方もいらっしゃいますので一概には言えませんね。相性は自然の摂理ですから覆しようがありませんが、その不利をいかにひっくり返すかは腕が問われるので、研究しがいがあると仰る方もおられるようで」
 以前乗った車よりも随分小柄で小回りの利く自家用車を運転しながらエクトルは意外にも饒舌に語る。助手席に座るラーナーは、清潔な香りのする車内に緊張しながら耳を傾ける。ラジオも音楽も流れていない車内だが、エクトルの淡々とした声には具合が良かった。が、途中で不意に言葉を止め、小さく咳払いをした。
「話が逸れましたね」
 とエクトルは話題を戻す。
「あの方はどんなポケモンでも受け入れますがその分ご苦労もなさっていました。とはいえ、キリに住んでいる分鳥ポケモンに強いのは当然です。クロバットもそう」
 右に緩く曲がるカーブを抜けて、トンネルに入る。一気に暗くなり、点々と等間隔で灯る電灯が道標となる。
「飛べなくなった鳥ポケモンは多くの場合が事故によるものなのでその場で死ぬことも珍しくありませんが、生き延びてもその後が容易くないのは解るでしょう。そうした鳥ポケモンも進んで引き取っていました」エクトルは長い息をつく。「そういう、なんでも受け入れてしまうところを利用したトレーナーもいましたが。残念ながら、看取りもせずに預けたまま放置した例も数知れなかったそうなので」
 ラーナーは唇を薄く噛む。
 トンネルを抜け、太陽光がさっと視界を白く灼いて目を細めた。キリの中心地からは離れ、湖からも距離がある。人気も無く、車窓からの景色は春に蒔いて育ったのであろう小麦畑が広がっている。成熟しつつあり重たくなった実をもたげて、褪せた黄金の波が風にゆったりと揺れている。窓を開けていると、穀物の香りを含んだ風で肺を満たしたくなるような開放感があった。
 ザナトア・ブラウンは長い田園風景の向こう側に住居を構えているという。少し不便な場所ですね、とラーナーが言うと、そうですね、とエクトルは溜息混じりに返した。もう齢七十を過ぎているはず、と先程話をしたばかりだった。
「もっと利便の良いところに住んでもいいようにも思いますがね」
 ラーナーはエクトルの横顔を見やる。変わらない表情だったが、吐き出される言葉には、ザナトアへの労りが含まれているように思われた。彼とザナトアなる人物の関係性は未だ不透明だが、声の裏には慈愛が染み込んでいるような気がしてならなかった。
 本当は優しい人なんですよ、と以前彼について評した彼女の穏やかな横顔を思い返す。とりわけ主君には厳しい皮肉を浴びせ続け、冷たい印象を持たせる言葉を使っていたエクトル。不器用な人間なのだろう。言葉が不必要に尖ってしまう類の。清閑な顔つきを、ラーナーはしみじみと見つめた。
 会話が途切れたまま、小高くなった丘の手前で停車する。ラーナーのみ外に出て、開いた窓を隔ててエクトルと顔を突き合わせる。
「本当に会っていかれないんですか」
 ラーナーが念を押すように尋ねると、エクトルはすぐに肯いた。
「電話越しで充分です。貴方はアメモースのことだけを考えてください」
「……はい」意志の堅さにラーナーは静かに折れた。「送ってくださって、ありがとうございました」
 簡単な別れの言葉を交わすと、車は再び動き出す。以前乗せられた車よりも幾分小回りの利く車体は、その場で滑らかにUターンすると、背を向けてラーナーから離れていった。距離が伸びる程に、不安が増幅していき締め付けてくるのを感じた。
 殆ど障害物の無い平地を走る車が随分と遠くまで行ったところで、ラーナーは丘を振り返る。斜面に沿って緩やかな階段が用意されているが、首をかなりの角度まで上げてようやく上が見えるような、長い石段だった。ラーナーでも思わず辟易する程なのに、高齢の主人ともなれば外に出るだけでも大変では無いだろうかと、会ったこともない人物を案じた。
 意を決して階段を上がり始める。長い旅路で歩き慣れているラーナーではあったが、終わりの遠い段差の連続には蓄積した疲労が響く。疲労だけではなく、まともな食事をとれず空腹が続いていることも確実に身体を傷つけていた。中腹で既に足を止めたくなるような息切れに見舞われる。それでも引力に寄せられるように、太股から足下にかけて鈍い痛みがまとわりついてくるのを堪えながら、漸く頂点に辿り着くと、広い放牧地帯に目を奪われた。
 ラーナーの顔の高さほどまである柵が稜線に沿って並んでおり、広大な土地を囲っている。それに沿って空へ向けて刺さるような草が揺れていた。からりとした秋の快晴の下では空気が澄んでいて、遙か遠景の山の連なりまではっきりと分かった。高い秋の空と、彩度を抑えた緑の景色が視界いっぱいに広がり、長い階段の先で開けた景色に暫しラーナーは見惚れてしまう。
 足下に視線を移せば、階段の傍から、罅割れの目立つ煉瓦道が草原の中に埋もれている。十メートル程の隔たりの先で、石造りの古い一軒家が建っていた。その建物は一階建てで低い屋根をしているが、その奥にもいくつか建物が連なっていた。その中の一軒の、二階の窓から、ポッポが顔を覗かせて来訪者を不思議そうに見つめている。
 風の音ばかりが鳴っている中、呼吸を整え、胸に静かな高鳴りを潜ませて芝生に埋もれた道を歩く。建物にはすぐに着き、茶褐色の扉の前に立つ。見回せば、扉の傍に鈴がかけてある。文字通り呼び鈴だろう。意を決して鈴から垂れ下がった糸を揺らすと、その小ささからは予想だにしない大きな音が響いて、胸の奥が縮んだ。
 唐突な鈴の音の影響で、辺りが静まりかえったような錯覚に襲われた。
 返事も物音も無い。留守だろうか。
 一分経ったか経たないかという頃合いに、再度鳴らそうかと手を伸ばしたところで、突然錠の開く音がした。
 背筋を正し、開かれた扉の隙間を見下ろす。見下ろしたのは、相手がラーナーよりも頭一つ分ほど背が低いからだ。
 腰の少し曲がった老婆は真っ白な髪を短く切り揃え、首にはペンダントのように老眼鏡を提げている。皺の中に埋まったような細い瞳を更に細くして、ラーナーを凝視する。鋭い視線の的になったラーナーは萎縮しながら挨拶をすると、老婆は軽く鼻を鳴らした。
「あんたがあいつの言ってたアメモースのトレーナーかい?」
 きびきびとした第一声で、ラーナーの肌はひりついた。
 あいつとエクトルが等号で繋がると気付くのには僅かに時間を要した。厳密に言えばアメモースのおやトレーナーではないのだが、細かな諸事情はこの際必要無く、ラーナーはおずおずと肯いた。
 独居だという話であり、名乗るまでもなく、ザナトア・ブラウンその人だろうと察しがついた。
 この人が、とラーナーは思う。
 この老婆を求めて、たった一人、首都を出て旅を続けてきたのだ。
「あの」
「もうこの仕事は辞めたって話は知ってんだろ。あんた、いい度胸してるね」
 隠されることもない声の棘が痛く、ラーナーは二の句を継ぐことができない。嫌悪感を露わにした老婆は溜息を吐き、後ろ手に扉を閉める。
「で。あの坊やは来ていないのか」
「坊や?」
「あいつだよ。エクトルさ」
 そういえば、幼少期に世話になったのだと話をしていた。ラーナーからしてみればエクトルは立派な大人だが、そのエクトルを簡単に坊や呼ばわりしてみせるザナトアに面食らう。
「来てません」
「は。礼儀の一つくらい覚えたはずだろうに。仕方が無いね」
 吐き捨てると、腰に手を当ててラーナーを強烈な視線で見つめる。
「本来なら門前払いさね。だけど、あいつに免じて話は聞いてやる」
「ありがとう、ございます」
 圧倒されながら辛うじて礼を述べるが、老婆は腕を組んでまるで気を許す隙を与えなかった。単純なやりにくさに戸惑いながら、急かされるようにラーナーはアメモースの入ったボールを取り出した。
 腕を丸め、胸に向かってボールを開く。腕の中に閃光が照射され、質量が瞬時にもたれかかってくる。自慢の触角を垂らして草臥れた様子のアメモースが姿を現し、ザナトアの乾いた眉間に更に細かな皺が刻まれた。
「この、翅が一枚欠けてしまって」
「そんなことは見れば分かる。随分衰弱してるじゃないか」
 皺だらけの手がアメモースに伸び、素早いが程良い強さで身体のあちこちを触れる。
「熱は無いね」
 窪んだような黒い目を開かせ、首から下がった老眼鏡をかけると、茶褐色の瞳をじっと凝らす。
 腕を下ろし、ラーナーに視線が移る。明らかに不信が満ちていた。
「なんだい、話にならないよ。栄養不足かね。ちゃんと食事をさせてやってるのか。こんな状態まで放っておくとは何事だい」
 向けられたのが矛先だとすぐに理解し、ラーナーの白い顔色が更に青褪めた。波風を立たせたくはないが、狼狽える様子は余計に相手の神経を逆撫でする。
「すいません……」
「なんで謝るんだ。そうじゃない。ここまで弱らせた理由を聞いているのさ。飛べなくなったポケモンは確かに総じて弱るけどね、トレーナーがいるとなれば話は別さね」
「それは」
 ラーナーは続けようとしたが、言葉が出てこなかった。
 飛べなくなったアメモース、拒絶を示すアメモース。食事を喉に通そうとせず、焦りを感じなかったわけではなかったが、強制はできなかった。どうしたらいいのか解らなかった。以前足を痛め一時は入院という大事にまで発展しそうになった火馬に対して少年が何をしていたのか、うまく思い出せなかった。
 痛み、翅の喪失、主人との離別、ラーナーのトレーナーとしての未熟さ、アメモースが病む理由はいくつも思い浮かぶが、説明できる気はしなかった。これまで何度も味わってきた感覚だ。無闇に他人に曝せる内容ではなく、そして真に理解されることもない。
 しかし紛れもなく、殺されようとして、死に目を見た。
 事故でも、野生同士の争いでもなく、明確な悪意を以て下された暴力だった。彼女は現場を目にしたわけではないが、眼を逸らしたくなるような傷跡が全てを物語ったし、容易に想像が出来る程には血にも暴力にも直面してきた。血生臭い凄惨な出来事を、ラーナーは口にするのをどうしても躊躇った。
 思考が混濁して、端から見れば不審だっただろう。ザナトアは鼻を鳴らし、家の中に戻る。
 扉の閉められた音で我に返る。見捨てられたのか。取り残されたラーナーは途方に暮れたが、さほど時間を待たずに老婆は戻ってきた。手には掌に収まる大きさの半透明のチューブが握られている。中身の液体は夕陽を薄めたような色をしている。
「栄養剤だ。飲みな」
 蓋を開け、アメモースの口元に寄せた。
 アメモースは弱った黒い双眸を行き来させる。老婆と、チューブの先端との間を。ザナトアの表情は厳しいものだった。
「飲みなさい。このままだと死ぬよ」
 生々しい言葉にラーナーの背筋が冷えた。
 ザナトアの迫力に押されたのか、言葉を理解したのか、アメモースはやがて諦めたように先端を啣えた。皺だらけの手がゆっくりとチューブを押し、栄養剤が流し込まれていく。
 途中で、堰を切ったように激しく噎せた。不安に駆られたラーナーを横目に、慣れているのだろうザナトアは一度休息を挟むと、同じ行為を繰り返した。
 長いようにも短いようにも感じられる奇妙な緊迫した時間だった。ザナトアは根気強く、何度も一呼吸をつかせながら、最後の一滴に至るまでアメモースに飲ませた。その一部始終を、ラーナーは固唾を呑んで見守る他無かった。
 空になったチューブを灰色の上着のポケットに突っ込むと、アメモースはすっかり脱力し、ザナトアは長い溜息をついた。
「本来ならここで保護すべきところだ」
 アメモースに注力されていた視線が、再びラーナーへと移る。それにはアメモースには向けられていなかった感情が苛烈なまでに存在している。怒りだ。怖じ気付く程の混じりけの無い怒気。
「解っていたかい。この子はこのままにしていたら死んでいたよ。冗談じゃなくてね」
 胸の奥が震える。
 絶句するラーナーは辛うじて首を横に振るしかなかった。
 重苦しい沈黙が軒下に保たれる。八方塞がりで、逃げ場所がどこにも無い。
「忘れた頃に連絡をとってくるくらいだから、どんなものかと思えば」苦々しさを滲ませる。「飛ばせるなんて以ての外だ。こんな状態にさせるトレーナーのポケモンの面倒を見るなんて御免だよ。帰りな」
 下された決定に、目の前が暗くなった。懇願する暇を与えるつもりも無いのだろう、ザナトアは玄関扉を開いていた。待って、と多少なりとも呼び止めることはできたろうに、ラーナーはそれをしなかった。正しくは、出来なかった。放心したように動けず、目の前で力強く扉が閉められた音をあっさりと聞き届けた。
 潜んでいた風の音と草原の波の音が再び耳に飛び込んできて、長い静寂が訪れたのだと察した。
 ほろほろと、硬直した心が瓦解して砂がこぼれていくような感覚がした。
 飛べるようになったら。
 飛べるようになりさえすれば、うまくいくような気がしていた。疼いている齟齬も、晴れない心も、ポケモン達とのぎこちなさも、まるでとんとん拍子になめらかに解決すると、淡い幻想を抱いていた。
 やっぱり、とラーナーは暗い表情で呟いた。
 見下ろした先、足下で蟻が真新しい靴を這い上がるのをぼんやりと見つめる。茂った雑草の中に埋もれる煉瓦は濃厚な影の下で罅割れて、少し足に力を入れると亀裂が広がりそうだった。
 アメモースのことだけを考えてください。エクトルは別れ際にラーナーにそう短く伝えた。彼はどこまで見抜いていたのだろう。アメモースを一目見た直後、可哀想に、と彼は零し、頑なに難しい顔を崩さなかった。単純に翅が無い点だけを指した言葉ではなかったのかもしれない。彼は何を考えているのか掴み所の無い面がある。ザナトアは初見の一瞬で看破した。今、誰よりも長くアメモースの傍にいるラーナーでも気付かなかったことを。
 本当に、気付かなかった?
 生臭い問いかけが自らに降りかかる。視界がぼやけ、眩暈を覚えた。崩れ落ちそうになったところを辛うじて踏み留まった、その踏ん張りも判別がつかない。
 力無く踵を返す。
 それから後のことを、ラーナーはうまく記憶できていない。
 ぼんやりとした表情でアメモースを抱いたまま、どうやってあの長い階段を下っていったのか。景色が、空が美しい薄蒼を帯びていたような、雲が細かったような茂っていたような、山の緑が濃かったような薄らいでいたような、眼下に広がる穂の黄金が優しかったような、すべての草一本一本の影が濃厚だったようなささやかだったような、光が淡かったような眩しかったような、全てが曖昧であった。
 眼の醒めるような冷えた秋風が髪を大きく揺らした時には、登るのに苦労した長い階段を殆ど下っていた。足を止め、強風に煽られる小麦畑を見た。
 アメモースを抱く力が、弱くなる。
 殺そうとしていた。
 それが意図せぬところでも、いなくなってしまったら、彼女の手から離れたら、そうしたら楽になる。それは確信として胸にあった。それならば、果たして無自覚だと断言できるか。
 離したかったんだろう。
 違う。
 疎ましかったんだろう。
 違う。
 邪魔だったんだろう。
 違う。
 己の内側でひしめく、黒く濁るまでに混ざり合った感情では、自問自答のどちらが本心か区別がつかない。
 胃の奥が、きりきりと、薄ら痛む。幾重にも連なる切り傷に血が滲んでいるようだ。震える息を吐き出すのと同時にゆっくりとしゃがみ、耐えかねたように階段に座り込むと、自然とアメモースをより包み込む形になる。何故だか無性に笑いが込み上げてきた。本当のおやから離してまで、アメモースを再び羽ばたかせるために、助けるためにここまで来たはずなのに、いつのまにかアメモースを殺そうとしていた。こんな自嘲する他無い出来事がどこにあろう。しかし彼女の表情は微動だにせず、伸びた髪の下で影になった無表情のまま、心の中で嗤いながら、しにたいとそよかぜのような囁きを漏らせば、身体は鈍く熱をもった。
 ほどなくして、破れたように意識は暗闇に堕ちた。

( 2019/02/12(火) 21:15 )