Page 104 : 不在
方角を頼りにして近道のために選んだ荒い林の中を潜り抜け、秋の陽に照らされて凪いでいる湖の表面を木々の隙間から見た時、ラーナーの胸に宿ったのは傷に沁みるような懐かしさだった。奥底からこみ上げてきてくると、まるでここが一つの故郷のような錯覚を覚えた。湖畔の町に滞在したのはほんの僅かだったというのに、何故だろう。或いは、安堵を勘違いしているのかもしれない。首都から歩き続けて辿り着くまでの道のりは長かった。はっきりとした目的地が、しかも既に見覚えのある場所であるというのは、真夏から地続きの旅の中で初めての経験だった。それは彼女が想像していたよりも大きな喜びを与えた。自ら決め、歩き出した旅で初めて辿り着こうとして辿り着いた場所。ここで味わったことを忘れたわけではないし、それもまた胸を痛めるけれど、今は達成感が上回った。
ゴールを目前にして、身体の倦怠感や痛みが和らいでいくのが分かり、足取りが自然と軽くなる。
湖の際をなぞる道はコンクリートで固められていて、その道をぼんやりとどこか夢心地のような感覚で辿る。エーフィが軽やかな動きで剥き出しの防波堤に跳び上がり、湖からほど近い境目を悠々とラーナーに合わせて歩き始めた。
風が無い。今日は天候も比較的良く、水面はとても静かだ。遠い向こう岸の小さな町並みも薄らと輪郭を視認できる。湖畔の町と銘打たれたこの町だが、湖畔という意味ではこの湖を囲う全ての町に当てはまるはずだ。それでもこのキリがその名を持つのは、最も繁栄しているからか、或いは、水神とやらの存在によるものか、もっと別の理由か。
けれどラーナーにとってはこの町こそが湖畔の町に値することは間違いない。
時折自動車が横切っていき、静寂を裂いていく。
長い舗装路を辿っていくと、背の低い白壁の家並みに入ってきて、いよいよ嘗て降り立った風景と重なる。昼間の日差しが白を余計に強調するけれど、その目映さは夏の頃とは異なった。町全体が馴染んだような、ぼやけたような、或いは枯れたような気配が漂っている。
しかし、すぐに以前訪れた時とは明らかな違いに気付く。
建物と建物の間、窓と窓を繋ぐように小さく色とりどりの旗がいくつも吊り下がっており、町を彩っていた。ポッポやムックルといった小型の鳥ポケモンがその旗の紐で足を休めては、飛び立って大きく揺らしていく。各住居の玄関口も掌大程のランプが秋の花と共に飾られている。夜になればランプの灯がともって、夜道を温かく柔らかな光が照らすだろう。
まるで祭りが催されているかのようだ。
町の静かな騒がしさを物珍しい目で眺めながら、ラーナーは道すがらに見つけた電話ボックスに入った。黒い公衆電話に小銭を投下し、鞄の中でいつの間にかくしゃくしゃに潰れてしまっていた一枚の手紙を丁寧に開いた。その中に記された電話番号を、間違えないように慎重に入力する。耳元でコール音が鳴るたびに、緊張で心臓の鼓動が早まっていった。五度目で目を閉じ、耳を傾ける。彼女の記した番号が間違っているとは到底思えなかった。だが、日中なのだ、電話に出られる状況でなくともおかしくはない。
時間をずらしてかけ直すべきか。七度目のコール音まで粘って受話器を置こうと耳から離す直前で、不自然に音が途切れた。
息を詰めて受話器を耳に押しつけた。薄い雑音が微弱に鼓膜を振動させる。電話が繋がっているが、相手からの声は無い。
「もしもし」勇気を出して震えるような弱々しい声を出してみる。「クレアライトです。ラーナー・クレアライトです」
祈るように受話器を握る手に汗が滲む。
「エクトルさんですか」
返答は無い。
寡黙で最低限のことだけ口にするような人物であるとは把握している。とはいえ反応がこうも一切無いと、ミスの無いようダイヤルを押したつもりでも自信が萎んでいく。
向こうで布を擦るような音がした。
『お久しぶりです』
冷ややかな低い声音には聞き覚えがある。威圧感をも与えるだけの不思議な迫力。それだけで、間違いなく本人だと確信し、一気に以前のこの町での記憶が走り抜ける。
安堵と緊張が同時に喉を通り抜けていって、生唾を呑んだ。
『この電話番号は、お嬢様に教わりましたか』
「あ……はい」
刺々しい口調に気圧されながら返答すると、受話器越しに溜息が聞こえてくる。
『解りました。それで、用件は』
感慨に耽る暇も他愛も無い談笑をする隙も無い。ラーナーもそれに乗じた。もう一枚手にしている、首都を出る間際に青年から貰ったメモに視線を落とす。つらつらと整った字体で書かれた手紙とは打って変わり、お世辞にも綺麗とは言えない走り書きの、まさにメモという言葉が当てはまるものだ。
「ザナトア・ブラウンという方を知っていますか」
返ってきたのは長い静寂であった。
僅かな溜息の後、返答が来る。
『存じ上げておりますが』
釣り餌に獲物が引っかかったような感覚に、ラーナーの胸が高鳴った。
「本当ですか」
『ええ、キリではそれなりに有名ですから』
「その人に会いたいんです」
『え』
珍しく狼狽の気配が露呈し、前のめりになりそうになったラーナーも瞬時にそれを察知した。
『……何故ですか』
冷静さを取り戻した声で尋ねられ、一呼吸を置く。
「昔、羽を失くしたクロバットをもう一度飛ばせることができたと聞きました。だから、会いたいんです。アメモースが、一枚翅が折れてしまって、飛べなくなったんです。もう一度飛ばせてあげたいんです」
『アメモース?』
疑うような声音。彼は鋭い人間だ。ラーナーの手持ちがエーフィとブラッキーのみであることを覚えているのなら、多少の違和感を覚えてもおかしくはない。しかし、事情を説明するのに今は時間も覚悟も足りていない。
「また追って説明します。とにかく、できるなら、その人に会わせてほしいんです」
『会うこと自体は、出来なくもないでしょうが』どこか歯切れの悪い口調だった。『承諾されないかと』
「どうして」
受話器を強く握りしめ、耳を澄ませる。
唯一の希望、ただそれだけを求めてここまで来たのだ。そう簡単には手放せない。
『……私も詳しくは存じませんが、羽を失くしたポケモンを再度飛ばせることに成功したのは、そのクロバットだけだったはずです。今、彼女がどうされているかは分かりませんが、恐らくもう手を引いているかと』
ラーナーは思わず足下で二又の尾を揺らしているエーフィに目配せした。
長い電子音が割り込んできた。通話終了が近いと報せる合図だ。ラーナーは片手で小銭を探る。
『ひとまず会って話しませんか。事情があるようですし、私も慎重になりたい用件なので』
「はい」
『今はキリにおられるので?』
「はい。キリの、駅に向かったら分かりやすいですか」
『いえ、以前お嬢様とおられた湖沿いの自然公園があったでしょう。あそこで落ち合いましょう。場所は覚えていますか』
自信があったわけではないが、湖畔に向かえば見つかるだろう。肯定し、すぐに会うとのことで約束をとりつけた。
「時間は大丈夫なんですか」
今更ではあるが、唐突にも関わらず妙にフットワークが軽いのが気にかかった。
『……ええ。以前より自由がきくようになりましたから』
皮肉めいたような言葉だった。
自分の旅の形が変わったように、周囲も変わっているのかもしれない。そんな火花のような予感を嗅ぎ取って、ラーナーは何も言えなくなった。
『それにこの番号にかけてきたら、すぐに駆けつけるよう言われておりましたので』
「……クラリスに?」
『はい。では後ほど』
そこで通話は途切れた。
ゆっくりと受話器を置き、ラーナーは長い息を吐く。
息の苦しくなる電話だった。目的も果たせるかどうか、雲行きが怪しい。しかし糸が完全に切れたわけではない。
鞄にメモをしまい、アメモースの入ったボールを見やる。フラネで飛行を試み失敗して以来、アメモースは諦めたように動かなくなった。暴れ回る気配も無く、無気力がそのまま生き物の形を成しているかのように、いつボールから出しても暗い表情を浮かべている。
飛べるようになったら、とラーナーは思う。そうしたら何かがきちんと噛み合って、うまくいくような予感がするのだ。
電話ボックスを出て、湖畔へと足先を向ける。元の道を辿り再び湖を前にし、自然公園に歩みを進めた。
殆ど車道しかない道を進んでいくと、やがて整備された白い歩道へと出る。雄大な湖を眺めながら散歩のできる贅沢な遊歩道帯だ。ここも心なしか人が多い。道に等間隔に備えられた街灯に、町中で見かけた情景と同じように花が添えられている。道に沿って一列に並んだ花壇に、成熟しようとしている稲穂のような植物がお辞儀をして茂っているのも印象的だ。車道と逆側に目線を移せば、ポッポが点々と湖上を飛び回り、水面と空の成す青い景色を眺めている人達が並んでいる。時間の流れ方が少しだけ遅れているような長閑な雰囲気が町全体をくるんでいる。
遊歩道の先に見覚えのある広大な芝生が一面に広がる自然公園へと辿り着いた。
のんびりと浮き足立った町の中で、周囲を見張るような目つきのネイティオを隣に据え、黒スーツを着こなしてだんまりとベンチに座り込み、小型のノートパソコンを打ち込んでいる彼は異質だった。座り込んでいても、体格の良さが背中越しに伝わる。派手ではないが、存在感があるのだ。
あの人はもう居ないのだ。男の背中を遠目に見つけたラーナーは改めて思いを致す。白く塗られた柵に寄りかかって明るい話も暗い話も交わしたあの人は。あの人達は。
ネイティオの首が不自然なほどぐるりと回り、大きな瞳に捉えられたラーナーは硬直する。いち早く感知したネイティオに気が付き、エクトルはパソコンを畳み振り返った。
現れたラーナーとエーフィを確認して、会釈をする。手本のような綺麗な所作だ。
「まさか戻ってこられるとは思っていませんでした」
出会って早々の言葉にしては棘があるようだが、以前と変わらない無表情を浮かべている。私もです、とラーナーは力無く流した。
居場所を迷っていたところに、促され、ラーナーは隣に浅く座る。居心地の悪さに腰から頭まで痺れるようで、背筋を伸ばす。その間にエクトルは鞄にパソコンをしまった。
「お仕事中にごめんなさい」
「いえ、休暇中なので」
「休暇?」
目を丸くしたラーナーは改めてエクトルを観察するが、群青のネクタイを形良く締め、皺も殆ど無いスーツをしんと伸びた姿勢で着て、嘗てキリで出会った時と印象は変わらない。その外見に休暇という弛緩した雰囲気はまるで感じ取られなかった。
「纏まった休みなんて随分取っていないので、結局仕事をしておりますがね」
他にやることもないですし、と付け足した。
「そういうものなんですか」
「さあ。私が欠けているだけです」
欠けている、という自虐の含まれた言葉にラーナーは口を噤む。それから、欠けている、と心の中で反芻した。
ぎこちない空気が流れている脇で、エーフィはネイティオの隣に歩いていき、二匹は目を見合わせる。ネイティオの表情は彫像のように変化が無い一方、エーフィは腰を下ろして尾を揺らし二人の様子を見守る。
「本題に移りましょう。アメモースは今居ますか」
「はい」
ラーナーは膝に鞄を乗せると、アメモースの入った紅白を取り出し、開閉スイッチを押す。閃光と共に同じ地点にアメモースが姿を現す。包帯を巻かれ翅を一枚失ったアメモースは触角を垂らし、やつれた様子で光を失った瞳をエクトルに向けた。
負傷したアメモースを前にエクトルの表情は静かに曇る。
「可哀想に」
口元で呟き、手を組む。
「……確かにあのクロバットは飛べるようになりました。飛べなくなった鳥ポケモンは珍しい話じゃありませんから、それ以来貴方と同じように彼女の腕を求めてキリの内外からトレーナーが訪ねてきました。けれど、結局クロバット以外を飛ばせることはできませんでした」
「それで、今も」
「今のことは分かりませんが、もう随分前から受け入れなくなったはずです」
「そう、なんですか」発する言葉が堅くなる。「あの、クロバットの話っていつのことなんですか」
暫し考え込む横顔に、望郷に似た雰囲気が滲んだ。
「二十……五、六年程前でしょうか。お嬢様が生まれる前ですから」
思わぬ過去の話にラーナーはたじろいだ。当然、彼女も生を受けていない頃のことになる。同時に、平然と語る目の前にいる人物が急に一回りも大きな人間に見えた。
「そんなに前の話だったんですか」
「ええ。なので余計に驚いたということもあります。噂がまだ残っているとは」
一瞥する視線に非難や憐れみの色が滲んでいるような気がして、ラーナーは肩を狭めた。
「自分で調べたわけじゃないんです。知り合いが教えてくれて、それに縋ってきてしまって」
「そうですか」
「でも、アメモースを飛ばせてやりたいのは、本当なんです」
口調に力を込める。
当事者は理解しているのかしていないのか、彼女の膝で黙り込んでいる。弱り切ったその様子を横目で見やり、エクトルは沈黙した。
「正直なところ」苦言を呈するように続ける。「私自身はあまり気が進みませんが」言葉に迷い、選び抜いたものを慎重に発しているような口ぶりだった。「希望を託したくなるトレーナーの気持ちもあるでしょう」
ラーナーが視線を上げると、相変わらずエクトルは難しい顔つきをしていた。
「私は事情がありその方とは会えませんが、話はしておきます。うまくいくかは分かりません。後は貴方次第です」
徒労に終わることも覚悟していたところに、僅かな光が差し込んだようだった。可能性は残されている。芯から広がる安堵に腰が抜けてしまいそうになり、ほっとエーフィに視線を投げると、相手も微笑んでいた。
「ありがとうございます」
声を絞り出すと、エクトルは首を振った。
「大したことではありません」
「いいえ、本当に有り難いです。危うく、何のためにここに来たのか、水の泡になるところだったので」
「頼りにするのは構いませんが、後先は考えた方がいいですよ」
直球な意見にラーナーは面食らい、そうですよね、と弱々しく返した。
「それに安心するにはまだ早いです。私の話を聞いていただけるとも限りません」
「エクトルさんのお知り合い、なんですか?」
彼の眉間が僅かに歪む。
「何故」
「なんとなく、そうなのかなって」
気分を害しただろうかと萎縮したが、次の瞬間には彼の表情は元通りになっていた。
「……昔お世話になっていた時がありました。ですが、もう長らく会っていません」
ネイティオを見やり、指に力を籠めた。
「あちらはもう私の顔なんて見たくはないでしょうし、私も合わせる顔がありませんから」
含みを持たせた言葉が気にかかる。
ザナトアという人物と彼の間に存在しているのであろうただならぬ気配に、これ以上踏み込んではいけない過去を想像させた。
「……なんだか」ラーナーは顔色を窺う。「元気が無いですか」
エクトルは細い漆黒の目を少しだけ丸くして、鼻で笑った。
「失礼。話しすぎると良くないですね」
「何があったんですか」
「特には。お嬢様の元を離れたというだけです」
水流のようにさらりと打ち明けられた事実は、ラーナーに与える衝撃の大きさとしては充分だった。
絶句したラーナーを振り返る男の淡々とした表情からは、感情が見えてこない。
「貴方こそ、以前より弱っていらっしゃるように見受けられます。あの二人の少年はどうされましたか。アメモースも貴方のポケモンではなかったはず。別行動をされているので?」
ラーナーはぐっと喉の奥を引き締める。
痛いところを躊躇無く突いてくるが、当然の事項だろう。出会った時から違和感を抱いていたに違いない。彼女たちを知る誰かからいつか必ずこの質問が来ることなど、とっくに理解している。
エクトルはラーナーを観察するが、彼女の顔色は何一つ変わらなかった。晴れも曇りもなく、寸分も変化の無い表情で口を開く。
「あの二人は今首都にいます。元々、一人で旅をするはずだったんです。漸く本来の形になった、ただそれだけなんです」
呪文のように言い切り、黙り込んだ。そうですか、と呟いたエクトルもそれ以上は追随しなかった。
深く尋ねられるほどお互いに親密な関係でもない。この短期間の変化についてそれぞれで疑問を抱いたまま、しかし干渉しなかった。少なくともラーナーにはそれをするだけの力が残されていなかった。欠けている、エクトルの発した言葉を再び思い返す。欠けたのは彼だけではない。ここにいる誰しもが、きっとどこか欠けている。