まっしろな闇 - フラネにて
Page 103 : 取捨選択
 置物と化したアメモースを無言でモンスターボールに戻し、狼狽するラーナーの膝にブラッキーの前足がそっと乗り込む。
 ラーナーはやつれた視線を落とす。至近距離で上向く彼の瞳には迫力がある。美しい血溜まりのような表面に映る自分の姿を見つけた。瞳は鏡となり、見つめ返してくる。まだ僅かに濡れた髪が乱れ肌に糸のように張り付き蜷局を巻き、浮かべているのは無の表情。そんな現実、見たくもない。徐に腕を回し、漆黒の肢体を抱き顔を埋めた。嫌がる素振りも無く、ブラッキーは主の好きにさせる。
 いつも人肌よりも高い体温が今ばかりは同じような温度でいる感覚だった。ラーナーの感度が狂っているのか、早朝の肌寒さにブラッキーの肌も冷めているのか判別がつかなかった。高台の壁から青みがかった薄い影が伸びて彼等を隠している。薄暗い朝の中で同じだけの温もりを共有した。温かいとも冷たいとも思わぬ等しさだった。
 ラーナーは時間が必要な気がしていた。決定的に壊れてしまったものを受け入れるための時間を、自分にも、アメモースにも。けれどそうすれば、心はそのまま石化していつまでも動かなくなってしまう予感がした。弛緩した状態で横たわり、気の早い冬眠に落ちて、そのまま目覚めない。それは魅力的であり興味深かったけれど、空の深井戸へ墜ちていくような恐ろしさもあった。
 どちらが動こうとしたわけではなかったが、不意にブラッキーが身を震わせた。それを合図にしたようにラーナーは腕を離し、青い影の中で顔を上げた。いつのまにか朝の光が強さを増していた。
 灰色の厚い雲は未だ町の上空を覆っている。空は昨日より明るく雨雲らしさは無いが、晴れる気配も無い。昨日の雨で一段と冷え込んだようだ。雨が降り風が冷めるほどに秋は深まり、同時に冬は忍び足で近付いてくる。建物の間を埋める空気は湿り、閑静な冷たさが程良い塩梅であった。
 人々が目を覚まし、町は静かに活気を取り戻していく。ラーナーは紛れ込むようにフラネで過ごす残り少ないひとときを旅の準備に費やした。
 ポケモンフーズを一袋、青果店の片隅に並んでいるのを見つけ、古着屋で上着となる紺のマウンテンパーカーを含め、いくつか服を見繕った。昨日、例の店主に身なりを指摘されたこともあり、いっそのこと纏めて一新してしまおうと考えた。アイボリーの長袖のシャツにデニムの短いパンツ。以前穿いていたものと似ているが、裾が広がり愛らしさもある。黒いハイソックスを合わせ、もっと冷え込んだらタイツを穿いてもいいだろう。
 古着屋から出てラーナーは長い息をついた。陽に晒され雨に打たれ風に吹かれてきた服は靴と同じく色褪せ草臥れていて、役目を終えたとここらで終止符を打ってもいい頃合いだ。
 服を購入した際に貰ったビニール袋に纏め、結局あの店に足先を向けた。昨日となんら変わらず、店先で西の最果ての写真が待ち受けていた。
 タイミングが良いのか悪いのか、相変わらず他には客が居ない。ラーナーの姿を目視するや否や、店主は待ち構えていたかのように嬉しげに立ち上がった。
「いいじゃないか、似合ってる」
 古着とはいえ以前に比べれば随分真新しくなった服装に親指を立て、挨拶もそこそこにすぐに本題へ移る。
「昨日、あれから探したんだけど」
 と言いながら、せかせかとした手つきでレジカウンター上に重ねていた箱を横に並べ、一つずつ開けていく。
「取り寄せればもっと可愛いものもあるんだけどな。これは結構前に新しいシリーズが出て店に出さなくなった物。でも充分使えるし、一度見るといい」
 用意されたのは二種類。
 白い薄手の包装紙から姿を現す。片方は黒地のスニーカーで、もう片方はベージュのショートブーツだ。男物と比較して小柄な造りになっており、足に馴染みそうな雰囲気だった。
 約束してしまったから来た消極的な気持ちだったが、改めて品を前にすると身が引き締まる。わざわざ用意してくれたのだ、きちんと見なければ申し訳無いという後ろめたさもあった。決意を固めたようにスニーカーを手にとって、小さな声を漏らした。
「どうした?」
「いや……」
 動揺を隠すように努めたが、次の言葉は出てこなかった。
 ほんの些細なことだ。靴底、アウトソールの部分に沿ってラインが引かれている。緑の一本線。手元で回すと一周する。視界の中で妙に浮かび上がってくるようだった。
 これは駄目だ。
 寒気のような電光が神経を走り抜いた瞬間を耐え、指先に神経を集中させ何事も無かったように静かに箱に戻し、ショートブーツを手に取る。
「履いてみてもいいですか」
 相手が快く了承するとは解っている。ラーナーは昨日と同じ要領で椅子に座り、履いて、黒い靴紐を軽く締める。立ち上がって、数歩歩いてみてすぐに確信めいた瞬間が訪れた。
 見た目と違って軽く、靴底が柔らかい。けれど足裏をしっかりと受け止めて、僅かな跳ね返りがある。
「それは靴底がラバーになっているんだ。比較的柔らかいけど、弾力性があって安定している」
「はい」
 踵を床に叩きつけ、足先の余白を確かめる。教えてもらったやり方だ。歩き続けているとだんだんと足が浮腫んでくるから、少し余りがあるくらいで丁度良いらしい。親指ほどの隙間がある印象だ。しかし左右から締められているため然程気にならない。実際に歩く時には前のめりになっていくのだから、問題ないだろう。ベージュの色合いも和やかで悪くない。
 もう悩むことも億劫だった。
「これにします」
「そうか」
 長い時間をかけて迷い続けた昨日とは正反対の決断力に、承知した男性はにこやかに笑って、余ったスニーカーをしまおうとする。ラーナーは反射的に緑のラインを視線でなぞった。目敏くそれに気付き、片付ける手が止まる。
「これは試さなくていいかい」
「はい」
 即答すると、男性はやや躊躇いながらも、頷いて蓋を閉めた。
 名残惜しくはないが、一抹の淋しさが過ぎりつんと奥底が痺れた。何もこんなところにまで出てこなくてもいいだろうなどと思いながら、考え過ぎだと鼻を鳴らして自嘲したくなるところを抑え込んだ。まるでこれではたちの悪い呪縛だ。
 箱は隅に追いやられ、告げられた値段に驚いた。値切った覚えも無いのに、値札に書かれた定価よりずっと安価だった。
「いいんだ。メーカーに返品し損ねて倉庫で眠っていたものだし。浮いた分は他の旅費に使うといい」
「どうして」咄嗟に飛び出した動揺を一度呑み込んでから、続ける。「親切にしてくれるんですか」
 元々、却って不信になるほど目をかけてくれていた。偶然他の客がいなかったとはいえ、これでは何か見返りを求められてもおかしくはないと彼女は内心訝しんでいた。
 男性はふむ、と顎に手をやる。薄らと無精髭が生えていて、触ったら肌に食い込みそうだった。
「言っただろう、同業者の匂いがしたって。それじゃ理由にならない?」
「なりません」
「真面目だな、困った」
 さほど困った様子も見せないで、ううん、と唸り窓をちらりと見た。
「表の写真、あるだろう」
 ラーナーは頷く。
「あれを眺めている時、なんだか珍しくて話しかけてみたけど。話をしていても、険しい表情が変わらないから不安になってね」
 そんなこと。
 そうだっただろうか。
 改まって指摘されると、隠しているつもりだった傷を簡単に見抜かれてしまったようで息が詰まる。胸の芯が冬の北風に当てられたように瞬時に凍てついていく。
「放っとけなかった」
 少年のような顔で、また笑う。
「そういう物好きなおっさんがいると思ってくれればいい。俺も若い頃に旅をして山を登った。今はここに足を落ち着けて、時々小さい山に散歩に出かけるくらいだけど。君はまだ随分若いし、単に応援したくなった。それだけ」
 朗らかに言ってのける男性を前に、ラーナーは絶句した。
 近寄られすぎている、予感がした。
 目の前がくらくらする。いっそ素っ気なかったなら楽だろうに、愚直なまでの優しさを素直に受け止めるのは、つけ込むようでこちらが悪者のようだ。良心とも虚栄心ともいえるものが鈍く痛む一方で、一切の疑問について見て見ぬふりをしてその恩恵を受けたくもなる。これまでの旅を顧み、そしてたった少し一人で旅をしていても解る。生きていくだけでもお金はかかるし、急な出費もある。それは決して軽視できない。
 借りを作るのも、自分の痕を残していくのも、気が引けた。けれど、意地を張れる程の自信ははなから存在していない。暫し考えた後に結局相手の言葉に甘えることにした。
 言い値を払い、役目を果たした古いスニーカーは服の入ったビニール袋に押し込んで、代わりにその場で改めて履く。容易に解けてしまわないようにきつく靴紐を結ぶ。新しい服に、新しい靴。伸びた髪。変容していく当たり前に小さな感慨深さを覚えながら、ラーナーは立ち上がった。
「もしもまたフラネに来ることがあったら寄ってくれよ」
「はい」
 別れ際に軽く手を振る男性にラーナーは会釈して、狭苦しい商品棚を潜り抜け外に出ると、後ろ手に扉を閉めた。
 閉じた音を慎重に聞き届ける。
 終わった。
 余韻も消えたことを確認すると、安堵と疲労がどろりと混ざり合い、背中から浸食してくる。
 たどたどしい足取りでひとまずは入り口から離れ、長い沈黙を味わう。伸びやかな青空が広がるシルビア山脈の頂を最後に一瞥し、静まりかえった外の世界に足を踏み入れる。
 警戒を擦り抜けて男から滲んできた優しさは、扱いに迷う暴力性があった。
 あれは魔性の毒だ。
 綺麗なものは爛れた胸中には過剰な眩さだった。正直なところ、後味を噛みしめるような別れにならずに済んで安心した。無意識下でだんだんと足を速める。薄情だと後ろ指を刺されても構わない。貰ってしまった恩の味が薄くなってしまえばいい。背負うものは出来るだけ少ない方がいい。
 フラネは昨日と変わらず鮮やかで窮屈な様相である。色彩を愛する町は絵本の世界のようだ。旅をしていたと彼は言った、そしてこの町が気に入って住処を構えたのだと。果たして自分はいずれ留まる場所を見つけるのだろうかとラーナーは想像しようとして、出来なかった。故郷ではないどこかは通過点に過ぎず、かといって故郷に帰る姿も想像出来ない。ならばこの旅は一体どこに辿り着くのだろう。どこにも辿り着かずに永遠に続いていくのだろうか。
 西に出る道へ抜けるために迷路のような町を進むと、道端に石造りの小さな囲いがあり、中には住民が捨てているのだろうごみが溜めてあった。ごみ捨て場は日常が露わになって腐った臭いが足下から浮かんでいる。紛らわせるために、古い服や靴が詰められて膨らんだ死骸袋をごみ溜めの一角に押し込んだ。
 自由になった手を叩いて埃を落とす。埋もれた過去に未練は無い。要らないものは捨てて代わりのものを身につける。外側を固めていくほど、武装を進めているようだった。
 新たな装いを翻し、細い煉瓦道を潜り抜けていく。
 もう、二度とこの町には来ないだろう。
 だからラーナーは最後まで名前を聞かず、相手も名前を聞いては来なかった。彼は多分、解っている。旅先で巡り会う一期一会の奇跡を。そして多くはもう二度と交わらないということを。
 町外れまでやってくると、細い川を渡るこじんまりとした橋に到着する。橋の向こうは町を囲う草原帯が広がり、髪を撫であげる秋風が何にも遮られずに吹いている。フラネと別の町とを繋ぐ細い土の道が、秋になって色素の薄まった草原の中をすうっと一筋通っているのだ。斑模様の曇天が視界いっぱいを占拠する旅程は退屈だが、この道を進んでいけばいずれキリに繋がる。
 振り返るな。前に進めばいい。
 ラーナーは二つのモンスターボールを開き、対の獣を呼び出す。
「行こう」
 冷めきった顔つきで言う。
 二匹は戸惑うような濁った表情を浮かべ、互いに目を合わせる。声を交わさぬ会話がなされたような瞬きの後、一方は同意するように一声鳴き、一方は沈痛な面もちで俯いた。

■筆者メッセージ
フラネ編終了です。爪痕と旅立ちをテーマに、随分短い章となりました。
首都編から引き続き重い展開が続いており読み手からすればどうなのだろうとどきどきしておりますが、いかがでしたでしょうか。幸か不幸か、暗さは続きます。
次章もお付き合いいただければ大変喜びます。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
( 2018/12/17(月) 10:46 )