まっしろな闇 - フラネにて
Page 102 : 地を這う者たち
 アーレイスでポケモンを従える人間は限られている。誰もがポケモンを持ち、連れ歩き、共に生活をしているわけではない。多少の地域差はあれど人とポケモンの線引きはむしろ強く、それは野生と社会の境界線そのものでもあった。故に、どの町にもポケモンを扱える医者が居るわけではない。ポケモンと一口に括っても、その種族は何百と報告されており、千を超えるとの説もある。全てのポケモンを一律に診ることのできる者はそういない。簡単な治療や体力回復ならば大きな問題は無いが、重症度が高くなるほどそうはいかないのは人間と変わらない。
 キリに向かう途中で立ち寄ったフラネの町にて真っ先に診療所に足を向けると、虫ポケモンは専門外だと言われラーナーは眩暈を覚えた。頼み込んで包帯を換えてもらい痛み止めである水剤を貰い、門前払いにされなかっただけ御の字だったが、考えてみれば当然なもののどこでも治療を受けられるとは限らないというのは思いがけない重石だった。
 出入り口の屋根の下で曇天を仰ぐ。しとしとと降る雨は、正午から降り出したものだ。雨の気配は朝から漂っており長く危惧していたが、結局この町、フラネに辿り着くまで雨粒が落ちることは無かった。
 ラーナーは怯えるような深い溜息をつく。心の澱みは一色に限らない。アメモースの傷口を実際に目にしたのは初めてだったが、それ以上に衝撃的な出来事が焼き付いている。壁にもたれ掛かりながら、欠片を拾うように思い返す。
 水風船のような弾力のある身体に入った忌まわしい亀裂、そこを白い糸が幾度も往復していた。内包された繊維や肉体が鮮明に露出していたのだろう部分は縫われ息を潜めていたけれど、大きく腫れあがり、決定的に足りていない何かが存在していた証である傷だった。
 包帯を取り、傷の具合を確認しようと患部周辺に医師の手が触れた瞬間、アメモースは決壊したように叫んだ。悲痛な金切り声はラーナーが耳にしたことのない類だった。
 たまらず名を呼び近付いたが、目玉を模した触角が力任せにラーナーの頬を弾き、突き飛ばした。歪な羽ばたきでその場を飛び、しかし壊れたように予想もできぬ不安定な軌道を描いたかと思えばすぐに頭から墜落してしまう。床に叩きつけられた音が処置室に響き、そして尚も触角は揺れ、小さな翅は激しく震えた。床を転がるように暴れ回る姿は、悠々と空を滑空していた姿とはまるで対照的で、羽虫が最期に死に物狂いで足掻いている姿と重なった。そしてその目は、抉り出すようにぐるりと向いたその目は、座り込んで呆気にとられているラーナーを捉えた。つぶらで純粋な漆黒の双眸が、はっきりとラーナーを視た。声と視線で訴えかける、なにか強い意志が、彼女を槍の如く貫いた。
 アメモースは、嗚咽を漏らしていた。
 抑えつけられながら即効性の鎮静剤を投与されその場は沈黙したが、ラーナーはアメモースから発せられた衝撃に戸惑っていた。既に痛みなど無いはずなのに、叩かれた頬がまだ熱を帯びているようだった。
 掌に収まっている小さな紅白に視線を落とす。細い手では抱えられないだけのなにかが、無理矢理この中に詰め込まれているのだ。
 途方に暮れるとはこのことだろう。焼き尽くすような烈しさを前にしながら、尚も膜を張っている自分の心が虚しかった。
 不透明な感傷を抱えたままラーナーは傘を差し、エーフィと共にその場を後にした。
 フラネの町は長い草原帯を抜けた場所にある町で、白い壁と色とりどりの屋根が特徴的な町並みだ。それまで続いていた閑散とした風景の中にぽっかりと浮かぶような町は、田舎町だが愛らしい情緒がある。煤汚れたような深い色をした煉瓦造りの道路が町全体に張り巡らされているが、濃縮したように建物が連なっているためにどこも道が狭い。ラーナーは入り組んだ迷路のような町だという印象を持った。見た目は可愛らしいが、気を抜くとどこにいるのか解らなくなってしまいそうだった。だが、人口が少なく路地が狭い分人目には付きにくい。隠れ場所が多いようで、そのことはラーナーを安心させた。
 音も無く降る雨の中を進んでいると、思考が明滅する。アメモース。宿。服装。食事。それから、じゅくじゅくと泡立つ音を立てている足下。雨の中を進んでいれば尚更だ。気になって仕方が無い。
 町をぼんやりと彷徨っていると、青果店、肉屋を始めとした商店の集まる広場に出た。中央には巨大な樹が枝を伸ばしており、象徴的な佇まいをしている。樹を中心とした花壇は季節の花が植えられており、柔らかい桃色や紫色がしっとりと初秋を彩っている。雨に濡れる様は艶やかでもある。広場には買い物籠を手に品定めをしている者もいれば、浮き足立った表情でカメラを構える者もいる。全体に漂う和やかな賑わいは鬱屈とした雨模様を感じさせない。
 霧雨のような人々の他愛もない会話を横にラーナーは壁を沿うように広場を歩き、どこにも立ち寄らなかった。店先に並ぶ彩色豊かな食べ物が目に付いたが、視界が濁っているように見ただけでうんざりした。首都を出てから、結局まだまともな食事をしていない。腹を空かしているはずなのに、全身が静かに拒否をしている。
 広場から幾つも伸びている道の一つに足を踏み入れた。
 再び狭い路地に入り声が遠くなったところで、ラーナーはひたと足を止め顔を上げた。
 こじんまりとした白壁の建物だが、店頭に貼り出された一枚の大きな写真が目に入ったのだ。
 険しい岩肌と真っ白な雪。辺りを薄らと漂っているのは霧のようにも雲のようにも見える。そしてあまりにも鮮やかな青い空。上空ほど濃い色になり、繊細なグラデーションが一切の汚れを知らぬ澄んだ空気を想像させた。雪山の写真だった。それも山頂だ。中央には、爽快な表情で高々と両拳を突き上げている男性の姿が写されている。
 ラーナーは何故だかその写真に釘付けになってしまう。
 山などまともに登ったことは無いが、雪山の険しさは言われずとも納得できる。切り立った岩肌は大自然の牙そのもので、美しさと同時に畏怖を感じさせる。凍える世界なのだろう、写真で満面の笑みを広げガッツポーズをしている彼も、背中を覆い尽くすような巨大なリュックサックを背負い、顔が埋もれているような防寒具を着込んでいる。
 どこだろうか、素直に疑問が浮かび上がり目を凝らすと、写真の隣の扉が開き危うく声をあげそうになった。
 写真よりもやや丸みを帯びた男性が、店内から顔を覗かせた。
「お客さん?」
 尋ねられ、ラーナーは心臓を高鳴らせながら思わず曖昧に首肯した。そうか、と彼は笑う。笑窪が深く、ほっとするような笑い方をする人だった。がっしりとした体つきだがどこか草臥れ、三十か四十代程の外観に見える。
「いやね、あんまり夢中になってるようだったから、ちょっと気になりまして。僕も入り口近くにいて、たまたま見えたから」
 そう言って顎で入り口を指す。扉は全面硝子張りになっていて、室内がよく見えた。中にも同じような山の写真が何枚か壁に飾られ、棚に並べられている商品も登山を想像させるものばかりである。
「ご迷惑でしたか」
「まさか。単に珍しくて」男性は腰に手を当て、隣に立つ。「山、登るんですか?」
 ラーナーは即座に首を横に振った。
「そうじゃないんですけど、目に入って」
「そうですか、ここは登山向けの物しか置いてないけれど」
 不意に、はっと彼は目を丸くししゃがみ込んだ。
「驚いた……エーフィだって」
 男性の顔が興味深げに輝く。まるで新しい発見をした少年のような純粋な表情だ。
 顔を近付けられたエーフィは二叉の尾を揺らし、動揺している様子が無い。エーフィは感情の機微を繊細に感じ取れるポケモンだ。彼から向けられた感情に悪意が混ざっていないことが見て取れる。
「君のポケモンですか」
「はい、一応」
「トレーナーとは恐れ入るな。良かったら、触っても?」
 どうぞ、と促すと、男性は優しい手つきでエーフィの巨大な耳の後ろをさすり、それから頭全体を掴むように大きく撫でた。大きな手だった。甲の隆起が荒々しく、一本一本の指が太い。
「まさか生きていてエーフィに会える時が来るとはなあ」
 大袈裟だと思いラーナーは口元が僅かに緩んだ。けれどそうなのかもしれない。エーフィとブラッキーはどこに行っても物珍しい視線を集める。当然のように自分はこの二匹を連れているけれど、自分の方が異端なのかもしれない。正確には、彼等に出逢い育て上げた両親の方が。
「ありがとうございます。急に悪かったね」
 長い胴体をゆったりと撫でてから、満足げに男性は笑い、徐に立ち上がった。ラーナーとは頭一つ以上の差がある。見上げた勢いで写真が目に入り、気になった。
「この写真の人は」
「ああ、僕です」
 やはり。ラーナーは達成感に満ちている写真と現実の男性を無意識に見比べる。照れ臭そうに男性は苦笑いを浮かべた。
「結構前の写真ですけど。五年以上前かな」
「どこの山ですか」
「シルビア山脈。西に連なっている山脈の中でも険しい山です」
 ラーナーは唾を呑み、改めて写真を見る。
 険しくも美しい山並み。白い断崖絶壁の向こうには、遙かなる青が、絵の具で一気に塗りたくったように広がっている。白と青で構成された中で高々と拳を突き上げている一枚が、なんとも爽やかだ。どんよりとした雨が降っている今、余計に華やかに浮かび上がっている。
「最近は小さな山ばかりだけど、この山を登頂できたのは今でも誇りでね、でかでかと主張してしまうんですよ」
 でも、と前置きをする。
「自分で言うのもなんですが良い写真でしょう。アピールするには良い一枚です」
「じゃあやっぱりお店も」
「そうですね。見ていきますか?」
 ラーナーは自然と頷いた。
 招かれた店内はアウトドア向けの商品が所狭しと置かれ、棚と棚の間は人ひとり分でいっぱいになる狭さだった。男性は身体が大きいので、余計に窮屈のようだった。
 入り口正面の壁際にはずらりと服がかけられている。レインウエアから下着の類まで、僅かな隙間も埋める品揃えであった。部屋を仕切るような棚にはヘッドライトやコンパスなど細々とした商品が並べられ、ラーナーはしげしげと眺める。
「あ」
 店内を移動しながら、ラーナーは声をあげる。部屋の奥にはトレッキングシューズや本格的な登山靴が並べられていた。
「靴を探してるんですか」
「あ、いえ……はい」
 狼狽えながら辛うじて肯定すると、男性は嬉しそうに靴の商品棚の前に立つ。
「女の子だからなあ。むさ苦しいデザインばかりで申し訳ないんですが」
「あの、私、山は登らないんですけど」
「わかってます。でも、しっかりした靴が欲しいんでしょう」
 胸の奥が引っ込むような感覚がした。
 僅かな狼狽を見て、男性は豪快に笑った。
「なんとなく只者じゃないような気がしたんですよ。間違っていたかな」
 これだけのやりとりで、何を感じ取れるというのだろう。ラーナーは疑問に思いながらも、曖昧な表情を浮かべた。
「修行の旅かと」
「修行」
 思わず繰り返してしまい、その雰囲気から間違っていたとすぐに判断したらしい。
「漫画の読みすぎか」
「いえ……でも、旅はしています」
「あ、やっぱり?」
 随分と年上だろうに、ぱっと華やいだ顔が何故か子供らしい。
「エーフィなんて珍しいポケモンを持ってるし、プロトレーナーの中には強い野生ポケモンとの出会いと自らの鍛錬を求めて修行の旅に出たっていう話もあるから。他の国では、そう珍しくもない所もあるらしいしね。とはいえ、アーレイスでは確かに聞かないし、現実離れした浪漫だからなあ」
 親密な雰囲気でまくし立てる男性の前で、平然とした顔を繕いながらラーナーはどきどきしながら話を聞いていた。旅をしていると正直に話してしまったことを後悔した。どこかするりと自然な物言いで懐に潜り込んでくるような雰囲気が、突いてほしくない部分に触れてしまうのではと気が気ではなかった。
「それほど重装備じゃない方がいいかな。かといって、ウォーキングシューズだと心細いだろうか」
 ラーナーの心配をよそに、彼は熱心に勤しんでいる。
 独り言なのか話しかけているのか判別のつきづらいような口振りで、男性の頭より少し高い位置に掲げている靴を一足取る。スニーカータイプだが生地が厚く、今ラーナーが履いているカジュアルなデザインよりもずっと無骨だ。しかし黒地に白いラインが二本入っているのがアクセントになっていて、小洒落てもいる。
「どこでも歩けるものがいいだろうな。サイズは?」
「……三十七です」
「あるかなあ。ちょっと待ってて」
 靴を足下に置くと、男性はレジカウンターの奥の部屋へと入っていった。
 残されたラーナーは軽くなった肩を落とし、壁一面に整然と並べられた靴を眺める。黒、灰色、茶といった落ち着いた色合いのものが多いが、中には蛍光色が全面に出された主張の強い種類もある。ラーナーにはデザイン以外の細かい違いが解らない。スニーカーデザインもあれば、ベルトで締めるタイプもあり、ブーツもある。試しに男性が床に置いていった一足を手にとってみると、今自分の履いているものより重量感があり、靴底が殆ど曲がらず驚いた。こんなもので長距離を歩けるだろうか。勿論歩かずに電車などの乗り物を駆使する方法もあるが、町で人との擦れ違いすら怯えることがあるのに、密閉空間で他人と暫く同じ空間を共にしたら、と考えるだけで背筋が震える。
 それに、これではいざという時走れるかどうか。
「おまたせ」
 扉が開き、男性はいくつか白い箱を抱えて戻ってきた。
「履いてみた?」
「いえ。でも、ちょっと重そうだなと」
「最初はそうかも。履いてみるとまた印象が変わると思うよ。サイズあったから試してみる?」
 なんだかあれよあれよと流されているようだ。ラーナーはエーフィに一瞥すると、彼女は涼しげな顔をしていて、むしろ何故か楽しそうな印象がある。
 ラーナーは提案に乗って近くの木椅子に座り、スニーカーを脱ぐ。雨中を歩いていたからだろう、穴が出来た影響で中までびしょ濡れで靴下も足首まで水が浸透していた。見るも無惨な姿に言葉が出ない。人目に晒しているのだから尚更たちが悪い。
 だが、それほど気に留めてないように男性はしゃがみ込んでせかせかと箱から真新しい靴を出し、準備を進めている。
 とはいえ、少なくともこんな足で試し履きをするのは憚られる。ラーナーは鞄から使い古したビニール袋を取り出し濡れた靴下を放り込んで、急いで予備を履く。
「随分履き込んだんだね」すっかり汚れたスニーカーを一瞥し、男性はゆったりとした表情を浮かべた。「その靴を見て、きっと靴が欲しいだろうなあとか、随分と歩いてきた人なんだろうなあとか思った」
「それだけで?」
 ラーナーは目を丸くする。
「勿論靴だけじゃない。エーフィもそうだけど、膨らんだ鞄とか、服もどことなく着古している感じとか……あ、気を悪くしたなら申し訳ないけど」
 慌ててラーナーは首を横に振ると、男性は肩を揺らして笑った。
「まあ、一番はなんとなく同業者の匂いがしたってとこかな。さ、どうぞ」
 足下に差し出され、ラーナーは僅かに胸が高鳴った。
 するりと足を入れると、新品独特の、足を引き締めながらもぱりぱりと弾き返すような質感がした。そこで改めて、自分がどれだけ今の靴を履き潰してきたかを実感する。
 両足を揃え、すうっと立ち上がる。やはり靴底が堅く、厚い分背が伸びたような気になった。試してみると案外重みは感じない。膨らんでいる分、急に足が大きくなったようなアンバランス感が可笑しかった。
「いいね」
 満足げに言いながら、彼は素早い手捌きで靴紐を締める。一つ一つの動作が早いが、急いでいるというよりも、最初の一歩を躊躇せずに踏み込める性格なのだろうとラーナーは思った。自分に自信を持ってて、その自信に揺らぎの無い確信を得ている人。
 促され歩いてみると、重みが安定感を生み出しているような気がした。数歩離れ、また戻る。確かめるように、じっくりと一歩一歩を踏みしめる。
「どう?」
「思ったより歩きやすいです」
「それは良かった」
 また少年のように笑った。表情だけを見ると、気軽で隙のある雰囲気が、彼が一回りも二回りも年上であろうことを忘れさせる。
「でも、底が堅いのがやっぱり気になります」
「こんな平らな床だと余計ね。でも、たとえば岩道とか滑りやすい道だとやはり違う。元々履いていたこのスニーカーだと地面のでこぼこが直接伝わるから、足が疲れやすくなる。それでなくとも足は体重に耐え全身を支えているものだからね。これだと底が衝撃を吸収してくれるから足に疲労が溜まりにくいんだ」
 熱の籠もった説明を聞きながら、ラーナーは相槌を打つ。元々疲れやすいのは体力が無いこともあろうが靴のせいでもあったのだろうか、などと考えるが、そもそも比較対照は無尽蔵の体力をもっていたことを思い出し、すぐに自ら消し去った。
「それに生地が厚く防水加工もしてあるから、雨や雪にも強い。うん、悪くないと思う。まあ、一番は君が気に入るかどうかだ」
 ラーナーは逡巡して、顔を上げる。
「他も履いてみていいですか?」
「勿論」
 靴を脱ぎながら棚を仰ぐ。基本的には男性を対象としている品揃えなのだろう、一目で大きいと解るサイズばかりが揃っている。こじんまりと左側に女性向けの靴が寄せられていた。
 いくつか履いてみたが、これで良いと踏ん切りがつかない。値段もそう簡単に出せるようなものではなく、彼女を萎縮させた。
 想定外に真剣に打ち込むうちに独特の疲労感が押し寄せてきて、方角を見失ったような気分に陥る。
「ちょっと考えてもいいですか」
 出直したい、という意を込め、苦い思いでそう切り出すと、男性は嫌な顔一つ見せずに頷いた。
「まだこの町に?」
「とりあえず、今日はフラネに泊まるつもりです。でも……明日雨が止んだら出ようかと」
「そうか」
 男性は少し残念そうな表情を見せ、やや考え込む。
「明日、出る前にもう一度来ないか?」
 引き留める提案に、ラーナーは睫毛を伏せた。
 彼の柔和な言動や雰囲気には、無理矢理売り込もうという強い下心も絡みつくような強制感も滲んではいなかった。しかし却ってそれが小さな違和感を抱かせる。が、正面から向けられる期待の視線もあって熟考する間もなく、ラーナーはふらりと一つ頷いていた。
「そうか」あっさりと嬉々とした表情を見せた。「明日までに店の奥に掘り出し物がないか、探しておこう」
 ラーナーは目を細めた。
 別れの挨拶を簡素に済ませ、店を出る。不思議だった。べたべたと付き纏ってくるような粘着感は無く、適度な距離感で接してくる。居心地が良いとは言い切れないが、悪くもない。出来るだけ人に会いたくなかったはずなのに、再訪問の約束まで交わしてしまった。
 そういえば名前を聞いていなかったし、あちらも尋ねてはこなかった。が、大した問題ではないだろう。そのぐらいの距離感が良い。あまり自分をどこにも残したくない。
 再び傘を差し、店の正面に堂々と飾られた写真をもう一度背中越しに振り返る。
 西の山脈。
 彼はそう言った。胸に針が刺さったようだった。
 狭い路地を歩き、町で一番大きな広場へと戻る。交通の便は悪いが、可愛らしい町並みが人気を呼ぶのか、土産物を全面に押し出した観光向けの店も並んでいる。そういう場所に行けば、宿の案内をしてくれる場所もある。嘗て教えられたことだ。できるだけ安い場所、と釘を刺すように言われた記憶が蘇る。
 素泊まりで一泊。町のはずれでひとまず宿を取ると、肩の荷が下りたように安堵する。築年の長い宿独特の古びた小汚さがあり、小さな一人部屋は簡素なベッドが部屋の大半を占領しているが、野宿に比べれば充分贅沢だ。寒さと雨を凌げればそれ以上は望まない。ラーナーはベッドに頭から倒れ込んだ。どっと疲れてしまった。
 どうして明日も行くと約束してしまったのだろう。苦い後悔が広がっていく。
 あの男の、不思議な吸引力に惑わされてしまったのなら、こんなことではいけないと思う。簡単に流されても、簡単に懐に入り込まれてもいけない。
 だらだらと時間を弄ぶうちに窓の外は暗くなり、電気も点けずにいたので部屋も丸ごと黒く塗りつぶされていく。あまりにも自然と暗くなっていったので、ラーナーは暫く暗闇に気付かずに時間を過ごした。
 靴。服装。食事。そしてアメモース。
 追い立てるように頭の中で流れていくけれど、総じて怠くて仕方がない。
 結局そのままラーナーは眠りに落ちた。ポケモン達も、今度は誰も起こさなかった。彼女から迸る不可侵の膜を破ることはできなかった。
 早朝に目を覚まし、窓から差し込む薄明に彼女は眉を潜め、時刻を確認しまた倒れ込む。
 夜も降り続けていた雨は止んだようで、風の音も無い。
 無為に数分を過ごしたラーナーは、よろめきながら堅い窓を開け放つ。雨は止んだが上空は分厚い雲に覆われている。幾分冷えた空気が肌を刺し、いよいよ目が冴えた。正面はすぐに他の建物があって、身を乗り出して周囲を見渡す。細い道に面し、左の方に行くと確か階段があって、町の中心部へと続いていく。湿った朝の空気は霧がかかったように静かだ。ひっそりとまだ眠っている町。自分だけが息をしているようだった。
 今なら誰にも気付かれることなく町を抜け出せる。過ぎった思いつきに、ぎゅっと窓枠を握る。
 しかし、あの写真の突き抜けるような青空が過ぎって、ラーナーの足を掴んだ。
 シャワーを浴び、髪をタオルで挟み込むようにして乾かした。朝に清めると全身の細胞が起きあがるようだった。これから始まる一日を生きる気合いのようなものが泡のように浮かんでくる。頼りないけれど、ちょっとだけ前を向くような泡。
 部屋を出て階段を降り、宿の玄関に出ると既に従業員の姿があり、宿泊費を払い宿を出た。
 ポケモン達をボールで休ませたまま、冷ややかな朝のフラネを歩く。宿を出て左の道ではなく、右の道を選び、なだらかな坂を昇っていく。まだ乾かない靴の裏から煉瓦道のおうとつが伝わり、昨日店で聞いた話を思い返した。
 長い階段を昇っている途中でふと振り返ると、左右に壁に挟まれながらも色鮮やかな屋根が立ち並ぶ町並みが奥の方で広がっていた。縦に長い額縁に飾られた絵のようだ。もう少し高台へ行こうと思い、階段を登り切り、左の方へ。当てもなく歩いていたが、偶然建物が途切れて町を見下ろせるような空き地に辿り着く。急に視界が開けて、ラーナーは朝に眠るフラネを眺望した。
 石造の欄干にもたれ掛かる。
 綺麗な町だ。
 素直にそう思った。灰色の曇天だからこそ、カラフルな屋根の色がそれぞれ強調されるようだった。あらゆる色が町中を彩っている風景は立体的な絵画のよう。子供が思いつくままにクレヨンで塗ったような愛らしさもある。
 こんな町もあるのだ。まだ知らない空があって、知らない場所がある。
 もうじき町は起き上がるだろう。溶け込む間も無く自分は出て行く。キリへはフラネから更に西へ進む必要がある。
 気が熟すまで暫し堪能していたラーナーは、ふとした勇気でアメモースを外に出した。
 閃光を払い、地面に着地したアメモースは眠たげだ。昨日の荒れた行動の気配を微塵も感じさせない。いつものアメモース。マイペースで、気ままで、悠然としていて、誰にもとらわれない自由なアメモース。
 ラーナーは彼を抱き立ち上がると、共に凪いだ町を見渡した。
 烈しく暴れ鋭く睨みつけた姿が彼の本性だろう。彼は元々野生で生まれ育った。詳しい経緯をラーナーは知らないが、何かがきっかけで旅を始め、それでも尚アメモースは大空に解き放たれ、また戻ってきた。時に血生臭い炎の中を翔けた。あの間にある繋がりを、モンスターボールを通じた主従関係のみで片付けることは難しい。
 誰かが消えて、多くの糸が途切れた。ラーナーもアメモースも等しく。そうして生まれた希薄な繋がりにどんな名前を付けたら良いのだろう。
 黙り込み物思いに耽っていた、次瞬。
 三枚翅が震え、前に乗り出したアメモースは緩んでいるラーナーの腕を突き放した。
 え、と、彼女が声をあげる間も無く唐突に腕の中から離れる、翅をばたつかせて、空を、飛んだ、飛ぼうとした。背中。薄い逆光。高台では、青白い陽光に照らされた町がよく見える。遠くまで見える。硬直した。下まで、一体、どれほど。
 こんなの一瞬だよ。
 一瞬で、ぜんぶ終わる。
 ぞっとするような透明な顔が、笑って、透明な声が、近い場所から聞こえる。
 咄嗟にラーナーは腕を伸ばした。指が辛うじて触角を掴む。
「だめ! だめ!!」
 悲鳴のような叫びと共に、体重を背中にかけて引き戻した。後ろから倒れ込み尻餅をつくと、アメモースは縫いぐるみのように手から滑り落ちて後方へと転がっていった。
 翅を素早く震撼させるけれど、壊れた動作は不気味ですらあった。三枚翅の羽ばたきは収まらず、鋭い風の群れを呼ぶ。銀色に輝く歪な旋風が巻き起こり、乱雑に煉瓦の表面を抉った。ラーナーは思わず顔を覆う。その隣で、銀の鱗粉に紛れ込むように白い閃光が鞄から飛び出し黒獣がアメモースに襲いかかった。風を切り裂き、一瞬で四つ脚が相手の体を地面に縫いつけ、同時に風は収束する。
「ブラッキー! 落ち着いて!」
 喉を低く唸らせ組み伏せたアメモースを威嚇するブラッキーだったが、主人の声にハッと血眼を見開く。踏み潰しているのが仲間と解るやいなや、息を留めた。
 気まずい余韻に冷や汗が流れる。
 ラーナーの耳元では荒々しい鼓動が鳴り止もうとしない。迂闊だった。あまりにも軽率だった。ずっと遙か奥に霞むまで続いている町の光景は、自由な飛翔を最上の喜びとするアメモースに突き付けるには残酷だと何故気付けなかった。
 ブラッキーは恐る恐る離れたが、殆ど不発に終わった銀色の風をもう一度起こす気は無いようで、アメモースはその場に倒れ込んだまま動かない。それぞれの息遣いが随分遠い。唾を呑む音すら躊躇われるような冷たい沈黙に誰もが痺れてしまったようだった。
 飛べないんだよ、アメモース。
 私達は、飛べないんだ。

( 2018/11/28(水) 20:47 )