Page 101 : 静かな旅路
記憶は薄れ、いつか消え去っていく。
月日が感情を洗い流し忘れたことすら忘れ、まるで無かったものとなるのなら過去に意味は無いといえようか。楽しかったこと、嬉しかったこと、笑い合ったこと、心の躍った瞬間とは、煌めいては消えてしまう、まるで流星のようだ。真夜中に光るは夢の跡。満天の夜空に浮かぶ思い出には手が届かない。胸に重く沈み存在を刻むのは、昏い記憶の方だった。澱んだ残滓はこびりついて、責め立てるように脈を打っている。傷口が熱を帯びて痛むのと同じように澱みは心に牙を立てる。
「どうしてひまわりがすきだったの?」
幼い弟が嘗てそう尋ねてきたことを、今でも彼女は記憶の片隅に留めている。何度目の命日だったか。決まり事のように向日葵を用意する姉に向けて純粋な眼差しが向けられた。
クレアライト姉弟は実の親との思い出が欠けている。物心が殆どつかないうちに父母は彼等の元から離れ、幼少期の記憶はエイリー夫妻と共にある。顔の潰れた父母の遺体と対面した瞬間も朧気で、布がかけられた顔は強烈に心の隅に蹲っている。それは少し先に生まれたラーナーも変わらない。
「わかんない」
彼女はそう言って苦い笑顔を浮かべた。
肌身離さず身につけている形見に手を添えながら、子供達は手探りの疑問の答えを求めていた。どちらもその答えを持ち合わせてはいなかった。そして、触れてはいけないのだと幼心に思っていた。
真夏の朝に命日は訪れる。割れた時計が示していた時刻だ。横転した車が崖の下まで転がり、全身を強く打ち付けられ、硝子や枝や岩肌が突き刺さり車体に潰された二人は、嘗てその直前までは生き、その時間を境に死んだのだ。事故だと教えられ疑いを持たなかった。殺されたなど考えもしなかった。彼女の知らぬ母親の姿は彼女の知らなかった人々の方がよく知っていて、過去の母親が照らし出されていくほどに長い間信じていたものが根本から覆されていった。
事実など与り知らぬ子供達は年が巡るたび向日葵を墓前に供え手を合わせた。鮮やかな黄金の花は生命力に溢れていて、死者に供えるにはあまりに煌びやかである。それでも手向け続けたのは両親の好きな花だったからだ。それは一体誰に聞いたのだったろう。何故だったのだろう。知らないまま触れないまま頑なに続けてきた、清閑な儀式のようでもあった。
今となっては何もかもが彼女には疑わしい。
とうに動き出していた歯車は積年の思念を抱き、遙か遠くのいきもの達を狂わせ繋ぎ合わせた。そしてあの真夏の日、少年と少女は引き寄せられたように出逢い、共に旅をした。
そして多くの血が流れた。
花は枯れ、幻は消える。
水底にいる彼等は浮き上がらない。水面から顔を出して世界に触れ傷つく未来を恐れた。傷を負うことから逃げるように、息を潜め、やり過ごすように祈るように底へ沈んでいく。
誰も居ない。
ここは、ひとりきりの居場所だ。
*
長い銀の鉄橋を渡った先、セントラルを囲む広い住宅街を抜け、更にその周囲に広がっている工業地帯を抜けていくほど、首都の空気は消えていく。無秩序に立ち並び、無味乾燥としたビル群を随分と長く歩き続けたら、やがて喧噪が嘘だったような郊外地へと出ていた。点々と小さな工場を遠くに据え、くたびれたような古びた家やアパートが道ばたを占領する。競い合うように連なっていた高層ビル街とは全く異なった雰囲気だ。殆どが灰色の壁をしていて、その色合いは漂う侘しさを余計に強調する。
華やかなセントラルに隣接しながら、その気配すら匂わせない。
首都へ向かう時、だんだんと騒がしさを増していく景色の移ろいに少なからず胸を高鳴らせたものだった。ラーナーは無表情で古い家並みを通り過ぎていく。目に映るものが褪せていた。少しでも早く首都の空気から逃れるために、休まずに数時間以上歩き続けている。
あの時首都を、そしてラーナーを照らし出した容赦のない太陽は天頂まで届き、これから傾こうとしている頃合いだった。怪訝な顔でブラッキーと度々目を合わせていたエーフィが、不意に主人の服を咬む。下から引き留められたラーナーは弛緩した表情で振り返り、立ち止まる。じくじくと血の滲むような疲労が沸き上がっていたけれど、知らぬふりをしていた。それを牽制するような手持ちの力強い視線に、観念して瞼を伏せた。
立ち入り禁止と、出入り口にロープがかけられた空き地を囲むフェンスに背中を預け、道端に座り込んだ。足下には若草色をした雑草が生い茂り、先日の雨粒がまだ薄らと残っていて服を湿らせたが、然程気にすることなくラーナーは息をつく。
そういえば、昼食をとっていなかった。思い出したように鞄を探り、銀色のチャックパックに入ったポケモンフーズを取り出し、エーフィとブラッキーに与える。手で掬いあげたところに彼等はかぶりつき、そしてゆっくりと味わった。噛み砕く硬質な音が彼女の耳元で聞こえるようだった。随分と腹を空かせていたらしい。ラーナーは無言で頭を垂れながら、二匹の食事を眺めた。夜明け前から行動を始めた彼女も朝から何も口にしていないが、胃の底はざらついたように麻痺していて、夢中になって食べている二匹を見ていてもまるで食欲は沸いてこない。彼等の食している固形食は見た目が質素で、むしろ欲は遠ざかるばかりだ。
目の前をトラックが通り過ぎ、人間が通れば視線を集め、居心地の悪さが目立った。胸が浮かぶような心地で、行動していなければ逸る気持ちを抑えられない。少しでも早く、少しでも遠くへ行かなければならない。食事を終えたらすぐにその場を立ち退いた。
ブラッキーをボールに納めたのは、それから少ししてからのことだ。
「疲れた?」
ラーナーは月の獣に尋ねる。黒い身体には汗が滲み、いつになく表情がぼんやりとしていた。
彼は首を横に振ったが、咎めるようにエーフィが鳴いた。まだ先は長い。頑なな性格をしたブラッキーだが珍しく早々に折れた。安堵故か、ボールに吸い込まれた時の身体は緩やかなものだった。
「エーフィは大丈夫?」
真新しいモンスターボールを鞄にしまいながら尋ねると、太陽の獣はゆったりと頷いた。優しげな挙動には余裕がある。ラーナーは微笑み、一匹を不在にして再び歩き始めた。
長い旅路になるのか、それともどこかで途切れるのか、そんなことをぼんやりと考える。
先が見えず暗闇の中を進んでいるなど今に始まったことではない。しかし妙な心のざわつきは息を顰めていた。しっかりしなければ、とか、ひとりきりになるのが怖い、とか、誰も失いたくない、とか、彼女の中に浮かび上がっていた必死な感情は自分でも不思議になるほど跡形も無く消え去っていて、草木も生えず風も吹かない砂漠のようだった。
延々と歩き続けていると、新たな町の気配を実感させるように再び建物が増えてきて、人通りは多くなっていく。途中、水を買う以外ではどの建物にも立ち入らなかった。エーフィを物珍しげに見る目が気になり、大通りを避ける。できるだけ人の少ない細い道を選んでいると、身体の奥底に疼く殺意の籠った記憶が瞬き、背中越しに刃物が振りかざされている予感が過ぎって何度か青褪めた顔で振り返った。しかし狭い路地はシックな色合いの建物に左右を囲まれ、他人がぽつりぽつりと歩いているだけだ。物騒なイメージは空振りで終わるばかりだが、漠然とした不吉な予感を拭うことはできなかった。
当然のように町を満たしている穏やかな日常からはみ出しているようで、喉が掠れた。よろめく心持ちで水を含むと、熱を含んだ身体に冷感が染み渡り、少しばかり気持ちが落ち着く。早く町を抜けてしまおうと、速度をあげた。
狭い路地を抜けると丁度首都へと続く電車の停車駅に辿り付く。それを横目に、ぱらぱらとした人波をかいくぐって足早に通り過ぎ、線路に沿うように歩く。
やがて、耳に踏切の音が薄らと流れ込んでくる。
何台か車両が脇に走り込んでこようとしたところで、息を詰める。
鎖骨をやや過ぎたところまで伸びた髪は轟音と風で大きく靡き、圧倒的な機械の力に飲み込まれてひとたまりもなく肉片として散る瞬間を少しだけ想像し、足を止めた。指先が痺れていく。遠のいていく青空。不器用に笑んだ壊れた顔。あの時もそんなことを考えていた。一瞬で全てが終わるはずだった。豪速で通り過ぎていく窓は、屋上から落ちていくほど景色が加速していく様子と似ている。
行き先とは反対方向へひた走る列車の音が遠のいていき、彼女は暫く立ち尽くした。
ああ。
傷は生温かかく、まだ忘れられるはずがない。思い出と割り切れるほど簡単に解ける鎖ではない。
動かなくなった主人を忖度してか、ゆらゆらと二叉の尾を揺らしながら青筋の通った顔を覗き込んでくるエーフィに笑いかけようとして、うまくできなかった。引き攣った笑顔はエーフィの表情を硬直させた。
そんな顔をしないで、と言おうとして辛うじて呑み込む。
「行こう」
代わりの言葉は、穏やかに努めた。
線路はやがて緩やかなカーブを描いて歩道からは離れていく。ラーナー達はアスファルトで舗装された道を進む。草の香りが辺りに膨らんでいる。すぐ傍を茫々に伸びた背の高い雑草がずっと続いているからだ。淡い黄色の蕾が点々と膨らんでいて、道をささやかに彩っている。ラーナーはふと顔を上げ、また広くなってきた空の青が、水で薄めたような色になりつつあるのに気付いた。左方向で西日が強くなりつつあり、横切る雲の群衆は緩やかなオレンジを強調する。眩い陽光を受けて輝く栗色の瞳を細める。
「遠くまで来たね」
噛みしめるように呟くと、エーフィはしみじみと頷いた。足下からは、一人と一匹分、墨の色をした影法師が伸びて道を横切っていた。
穏やかに夕陽に焼かれながら、名もよく知らぬまま町を越え、一日中歩いたおかげで首都からは随分と離れた場所で、休憩がてら持ち合わせのアーレイス全土の地図を広げる。ただ町中を歩くのとは趣が異なり慣れないが、嘗て横で眺めた目の動きを思い描きながら、ラーナーは行く道を定めた。首都へ向かう際に使ったのは基本的に幹線道路を使うもので、道の駅や小さな町など身を休める場所も多く点在している。しかしキリとを繋ぐにはやや大回りとなっており、より直線的な道は他にもある。やや険しくはなるが、行きとは別の道を辿ることにした。丁寧に地図を畳み、決心した顔つきで前を見据えた。
人気はぐっと減り、住宅も見えなくなる。舗装道路は終わり砂のざらつく道が続くようになり、周囲は手つかずの草原が奔放に広がり、道からやや離れたあたりからやや小高くなって木々が重く重なるように群れを成している。正面には、遠くの山や森まではっきりと見える。今日は良い天気だが、明かりがない分暗くなるのも早い。既に夕陽は山の向こうへ沈もうとしており、沈黙の夜はすぐにやってくるだろう。
足元も悪くなり、先日の雨はまだ姿を消しきれていない。深い水溜まりに足を入れた途端、冷たさが足下で泡立ち胸まで嫌悪感が到達した。右足を上げて見てみるとスニーカーの底が僅かに剥がれ、黒い靴下が露出していた。これまでまともに省みなかったが、灰色のスニーカーは今や元の姿を留めていない。擦りむいたような泥の痕が目立ち、全体的に布が擦れて薄くなっている。一目見て使い込んだと解る。履き潰し、知らぬ間に死んでいたようだ。ラーナーは肩を落とし、歩みを進めた。歩くたびに足の裏で水が足を浸食し、一気に気怠くなる。殆ど休み無く歩き続けてきたラーナーも流石に疲労困憊だった。乳酸の溜まった足から込み上げる痺れるような現実感が無心を削いでいき、身体の痛みは無視できぬものになっている。執着するように歩き続け、薄暗く先がよく見えなくなってきた頃、漸く観念したようにラーナーは足を止めて、急激に下がってきた気温に身を震わせエーフィを見下ろす。辺りはすっかり暗闇に包まれようとしていた。
野宿は何度か経験しているが、夜を越える準備について頭から抜け落ちていた。けれど焚火を起こすには、いつも炎を寄越してくれた存在が居ないことに気付くのに時間を要さなかった。適当に集めてきた枝葉を重ね、最後に炎を吐いた火の馬は隣に居ない。
どうしたものか、考えることすら出来なかった。ひとまずは道を外れ、少しだけ坂を登ったところで木の根元に荷物を下ろすと、木の葉に阻まれて一層夜が深まる。探せば落ち葉や枝は集められそうだが、何分着火元が無い。枝を擦り合わせる方法が浮かんだが、手探りでやって出来るとは到底思えず早々に諦め根に腰を下ろした。緊張が解かれ、見て見ぬふりをしてきた疲労感が雪崩のように襲いかかって、耐えられずに寝そべる。草のにおい、夜の香りに包まれて、とうとう動けなくなった。
地面に倒れこみ草原の中で暫く息をしていると、大地と一緒くたになって自分との境目が消えていく。確かにここにいるのに、ここにいない。暗闇が深まり物の輪郭が失われていくほど、存在感が薄れていく。
しかし、エーフィが眠たげに身を寄せてきたので、ラーナーは瞼を開く。眠っていたような感覚だった。美しい宝石のような紫紺の瞳に、心底草臥れたと頬の落ちたラーナーの顔が映る。ラーナーは獣の頭を乾いた手で撫で、ビロードのような滑らかな毛触りを掌で確かめた。きっと、この獣がいなければこのまま夜を過ごしていただろう。
「ごはん、食べなきゃ、か」
モンスターボールの中で休んでいるポケモン達も外の空気を吸わせる必要があるだろう。鞭打つ思いで身を起こすと、荷物の中を探り、並んだ三つのボールを暫し見つめ、逡巡する。
主に黙って連れてきてから、対面するのは初めてとなる。中身の入ったボールを二つ手に取ると、背中に嫌な汗が滲んだ。しかし相手は生き物であり、顔を背け続けるわけにもいかない。
意を決して二つの開閉スイッチを同時に押した。
闇夜に眩い光が炸裂し、次瞬には二匹の獣がラーナーの隣に着地した。休息を得たブラッキーは凜と立ち上がったが、翅を一枚失ったアメモースはやはり空に跳べず地に落ち、そのままバランスを崩して、ゆるやかな坂すら止まれずに転がっていきそうになったところを慌ててラーナーは腕を伸ばした。
淡い空色の身体に手が触れた途端、アメモースは小さな悲鳴をあげた。ラーナーの肩が跳ねたが、傷口に触れたせいだとすぐに理解した。
「ごめん!」
反射的に謝ったがそのまま転がすわけにもいかず、ラーナーは慎重にアメモースの身体を包むと、坂を上って再び巨木の根元へ座り込んだ。
夜に浮かぶようなブラッキーの黄色い文様と、空から広がる淡い月光のみが僅かな明かりとなった。お互いの顔を漸く認知できるような小さな光を共有しようと、くるまるように身を寄せ合う。
細い両腕に包まれながら、アメモースは暫し忙しなく周囲を見回し、やがて円らな両眼を恐る恐るラーナーに向けた。
黒い瞳が戸惑いを浮かべている。
勝手に主人から引き剥がし連れてきた事実を改めてラーナーは自覚した。
「痛む?」
包帯の巻かれた翅の付け根を見ながら尋ねると、やや間を置いてからアメモースは首肯した。
「そうだよね」
触れるのは憚られた。かと言ってラーナーにはどうすることもできなかった。鎮痛剤が投与されていただろうが、一日以上時間が経っていれば効力が切れるのも仕方が無い。
昼間に食べさせたものと同じ固形飼料を三匹に与える。アメモースは動かすこともままならぬほど痛みが酷いのか、噛み砕くことができない様子で口に入れようともしない。暫し考えた末、手元の石で叩き割り粉々にしてみたが、アメモースは何も言わず、やがて首を横に振って食事を拒否してしまった。仕方なくラーナーは諦め、幹に脱力した背中を預ける。
ポケモンと人間は言葉を交わすことができない。アメモースは黙ってラーナーに身を委ねている。ふわふわと目の前で揺れる大きな触角をラーナーはぼんやりと見つめる。無防備に抵抗の無い様子からはアメモースの感情を汲み取ることができなかったけれど、腕の中からは責められているような気がした。ラーナーは言葉に表さず、流れに身を任せ沈黙を貫く。誰の目にも明らかな隠し事を抱えているようだった。夜風の囁きは木の葉を揺らし無音をより強調する。誰も音を出さず、耳をすませ、見て見ぬふりをするような時間を過ごすほどに不在が明らかになる。息苦しくなる沈黙だった。
ラーナーはぬくもった息を吐き、鳥肌の立った白い腕をさすった。火が無ければ身を温めるものも無い。朝と晩が冷え込み確実に秋の気候は深まりつつあり、丸一日歩き続けた身に堪えた。次の町に着いたらアメモースを病院に連れて行き、新しい靴を買おうと思った。上着を見繕ってもいいだろう。どこまで続くか判らぬ旅だが、とっくに夏は終わってしまったのだ。冷え込む季節に合わせていかなければならない。
外にブラッキーを残してラーナーは道具カプセルから濃紺の寝袋を出す。夜は始まったばかりだがこうも暗くてはやれることもない。何よりも酷い倦怠感に抗うほどの余裕は残されてはいなかった。
きっと長い夜になると当初覚悟していたが、寝袋に身を埋めてから寝入るまでは早く、意識する間も無くじっくりと深い眠りに落ちていった。
その夜は夢を見ず、次に目を覚ませば朝日が出てから既に時間が経っていた。半日以上も眠っていたらしいことを懐中時計で確認し、ややあっけにとられながらもふらりと立ち上がる。周囲は朝露で濡れ、昨日とは表情を変えてどんよりとした曇り空だ。
静かだった。
時は波となり、破綻した日々を平等に流していく。
ラーナーは身なりを軽く整え意識して空気を吸った。湿った香りが肺に沈み込み、澱んだ雲はやがて降り出す雨を予感させる。僅かに速まる歩行に合わせてエーフィは軽やかに隣につき、ブラッキーも後を追った。一人と二匹の足音は幾分静かで、世界から置き去りにされているかのようだった。