Page 87 : 変貌
母さんと父さんを殺したのは、あの、藤波黒だ。
セルドの淡々とした声がラーナーの中を反芻している。目の前にいる弟の言葉とこれまで共に旅を続けてきたクロの間で心は何度も行き来をする。表裏一体の暴力と優しさに惑いながら、それでも反論しなければならないと思った。セルドの発言が正しいのならクロ達がこれまでラーナーに正確な説明をしてこなかった理由も哀しくも理解できるが、クロは少なくともニノのことを慕っていたようにラーナーは受け取っていた。ウォルタを出る間際に彼は自ら花を携え墓まで足を伸ばしていた。夏の日差し。供えられた赤い花。静止した死の気配が漂う静閑な場所にぽつんと一人と一匹、人間と火の馬。まだ朝の早い時間帯だった。あの行為すらも本当は深い懺悔だったとでもいうのだろうか。それではあまりにも悲痛でならない。
「違う」
「ほんとうだよ」セルドはすぐに返した。「まだあいつをしんじるの」
深い飴色がじっくりと彼女を覗き込む。手首に食い込む爪が生々しく、じりじりと痛んだ。
「痛いよ、セルド」
ラーナーは抵抗するように右手を動かそうとしたが、それ以上の力で抑え込まれる。探るような視線も含めて、記憶の弟と比較して何もかもがおかしく何もかもがちぐはぐだった。首を絞められた感覚と、腹部への一撃が蘇り、ラーナーはぐっと堪えるような顔をした。
「私を殺しにきたの」
彼女自身でも不思議に思うほどするりと尋ねる。縁遠かった言葉を簡単に使えてしまうほど、いつのまにか身につけてしまっていた。よもや、弟に向けて使う日が来るとは夢にも思わなかっただろう。
セルドは冷血な表情をしている。
「そうだといったら、しんでくれるの」
ラーナーは無色の顔を浮かべながら、熱の篭もった瞳でじっと弟を見つめた。静寂は細い耳鳴りのようだった。残り滓のような滴がひとつ、セルドの髪の毛の先から落ちる、その音にもならないような音すら鼓膜に沁みていくようだった。
刹那、部屋に白い閃光が満ちた。やや間を置いて雷の轟音に揺れる。嘗て針のように細かった雨は激しさを増し、怒涛の勢いで地を叩く。
その時、は、とセルドの口から声が漏れる。
「……ははっ」
撫でるような、刺すような、滑らかな声が沈黙をそっと割く。
違う。ラーナーは目を見開いた。
違う。唐突にはっきりと確信した。
「だめだ……ははっだめだがまんできない笑いが止まらなくなってきちゃった、あはっははっ……ふっあははははっははははは!!」
甲高い笑い声が灰色の部屋に異様に響く。
セルドはその小さな身体を捩り、醜悪なほどに口角を上げて、どろりとした舐めるような目線をラーナーに突きつけた。
「わ、素敵な顔。どう? 僕に会えた気分は? どう? 殺されそうになった感覚は? ねえ、教えてよ。ねえちゃん」
最後の改まったような声にラーナーの胸はまた揺さぶられて、顔を歪めた。
「ねえ」セルドは笑う。「ねえちゃん」
「やめて」
ラーナーは歪めた顔で突き返した。
「君はセルドじゃない。……誰」
意志を踏み固めて尋ねれば、ぽかん、と毒素の抜けたような表情をして、セルドはラーナーを見つめる。それから、柔らかく笑んだ。抱きしめたくなるほど懐かしく、引き千切れそうなほど苦しかった。
「弟の顔で弄ぶのはやめて……それだけは絶対に、許さない」
「許さない」
セルドはわざとらしく繰り返して、鼻で嘲笑した。
「お前ごときに何ができて、そんなこと言えるの?」
毒針の一言を最後に、化けの皮が剥がれる。
セルドは口元だけを残して、背中に垂れていた大きなフードを深く被る。そのフードの中から間もなく銀糸が緩いカーブを描きながら伸びてきて、ラーナーは息を呑んだ。分厚い前髪は目元を隠し、首まで覆うような長い髪は灰色の光を反射して、冷たく透けたように輝く。髪の下で少年独特の柔らかく膨らんでいた顎の形も細くなり、立ち上がれば、その背丈まで高く変化していた。そして、肺を隅から隅まで満たすかのように長く息を吸い込む。
「っはあああぁぁぁ疲れたあ。どこでネタばらししてやろうかと思ってたけど予想してたより長引いて無駄に疲れちゃった。ああでも流石に耐えられなかったよ。あーんまりにも滑稽だからさあ」
セルドだった者は肩を回し首を回す。そのたびに関節が鳴り、元の形へと戻っていく。一通り運動を終えたかのように息をついて、劇的な変貌に表情を強ばらせているラーナーにふんわりと笑いかけた。
「改めて初めまして、ラーナー・クレアライト。僕はロジェ。ねえねえっどうだった。死んだと思っていた弟に会えた時の気分はさあ?」
くつくつ、くつくつとロジェは笑い、長い袖を口元に添える。声も別人だった。中性的な、低いとも高いともいえない声は幼いセルドのものよりほんの少し大人びた雰囲気を帯びている。
「夢を見たでしょ。セルドが生きていたって。喜んだでしょ。嬉しかったでしょ。幸せだったでしょ。そんな顔をしていたねえ。必死な顔でさ。心の底で僕、ずっとおかしくて、笑いを堪えてたよお」
ロジェは顔を傾けてラーナーの顔を覗く。髪に隠れて見えずとも、絶えない笑みがかえって気味が悪く、ラーナーは後ずさりをして離れたかったが、背中は既に壁に触れており逃げ場がなかった。ロジェがしゃがみ込んで顔を寄せれば、その圧倒されるような禍々しさが直に伝わってくるようだった。
「……セル、ド、は」
抵抗のつもりでもあった。ラーナーが震える声で尋ねると、ああ、と目の前のロジェはとぼけたような声をあげる。
「セルド? 死んだよ、当たり前じゃん」
まるで普通に会話をしているかのように、なんでもない日常について話をしているかのように、ロジェはさらりと言った。それから、にたっと嘲け笑う。
「ばっかだね。本当君って底無しの世界一の馬鹿だね。目の前で刺されたの見たんでしょ、それなのにセルドが生きてたって本気で信じたんだあ? 引くわあ。平和ボケして頭が沸いてるんじゃないの。……あのねえ、セルドはねえ……ウォルタで突き刺された後黒の団に運ばれて、身体を丁寧にバラされてね、ニノがセルドに何か仕込んでいるんじゃないかって確認されたの。でもねえ、なあんにもなかった。僕ですらちょおっとだけ可哀想だなあ〜って思ったよ? うふふ、気になったからさ、こっそり見てたんだあ。血液採ってね、ぴりぴりーって皮膚剥がしてさ、丁寧に内蔵を切って取り出して一つ一つ検査して、実験体でもあそこまではなかなかしないよねえ、ああ〜人間ってこんなにばらばらになっちゃうんだあ〜って感心して、ちょっとだけわくわくして、でもこんなにされて切ないなあ可哀想だなあって同情しちゃったよ。ま、同情するっていったってセルドはもうとっくに死んでたんだけど? あは。何もないんだったらいっそ半殺し程度にして実験体に回した方が得だったかもね? その方がいくらかは有意義だったろうねえ? ラーナー・クレアライトの愛しい愛しいセルド・クレアライトくんの無惨な屍体は残念ながら全部ゴミ袋に纏められて団のゴミ処理施設に放り込まれてサヨナラバイバ〜イされちゃった。残念でしたあ。あ、でもちょっと夢見たでしょ? 弟くんに会えて幸せだったでしょ? 僕はねえ、この通り姿形を変えることができるの。声の記録は少ししか残ってなかったけどさ、けっこう平坦に喋ってても雰囲気とタイミングで案外それっぽくなるものなんだよねえ、真似、そっくりだったでしょ。本物の姉が見破れなかったくらいだから完璧だよね。ね、どうだった? 焦がれてた弟と出会えて、その弟に殺されそうになって、かと思ったらそれ全部僕の演技で、結局とうに弟は死んでいて今目の前にいたのは偽物でした〜ってオチの感想はさあ! アッハハハハハハハ!! ねえ聞かせてよ!!」
ロジェの高らかな嗤い声が灰色の部屋をきんきんと揺らす。
滝のような怒濤の発言に、ラーナーは初め圧倒され続け、一方的に聴いている他なかった。惨状を喜々として話すロジェの神経を信じられなかった。ウォルタでの細やかながら煌めいていた思い出も、懐かしく焦がれていた寂しさも、全て泥だらけの靴で踏みにじられていった。首を絞められるより腹を殴られるより、ある意味生々しい感覚だった。愕然とし、ロジェがひとり嗤い続けている正面で、内容を理解するのに時間を要した。ゆっくりと砂時計が落ちていくように、少しずつラーナーはロジェの言葉を噛み砕き、なんとか自分のものにしようとする。しかしそうするほど、惨たらしい弟の最期を理解してはならないという抑止と、沸々とした静かで攻撃的な怒りとが乱暴に混ざり合い絡み合い殴り合い、腹の底から噎せかえるように腫れあがっていく。
銀色の髪が揺れる。瞳はラーナーからはよく見えなかったが、覗き込まれているのは鼻の角度と威圧感でよく解った。
「傑作な顔だなあ。憎悪の眼。僕を殺すかい? 殺したいほど憎いでしょお。でもね、僕は決してセルドを殺した本人ではないということを念頭に置いてもらいたいなあ。つまり君が僕を殺したいと思うことは君の八つ当たりに過ぎないわけだ。どうしようもなく行き場が無いねえ」
ラーナーは歪んだ顔をしてから、固く結んでいた唇を弛める。
「……クロのことも、本当は嘘?」
「ん。……ああ、親を殺したのはっていう話? あれは本当だよ。……あはっ嘘だっていう顔してるね」
ロジェは肩を揺らしてから、不意に笑みを消す。その落差だけでラーナーは悪寒に震えた。
「認めない。自分の気に入ったものだけを正しいとする。お前ってさ、どうせ自分の手を汚すことを認めようとしないんでしょ。きれいできれいできれいすぎて大っ嫌い」
ロジェは吐き捨てて、ラーナーの胸倉を掴んだ。息が吹きかかるほどの距離感だった。
「ついでに教えてあげるよ。信じる信じないは勝手だけど、本当のことだってことだけ言っておいてあげる」
ラーナーの手首を一瞥する。ぐっと握られた彼女の拳の傍に、白いブレスレット。素肌には、爪の跡と、ブレスレットの跡がしっかりと残されている。先程ロジェの手が強く締め付けていたせいだ。
「そのブレスレットには昔から発信器が取り付けられていてね」
ロジェは底の深い口振りで話し始める。
「かつてはニノが、そして今はお前がどこにいるかが完全に団に筒抜けになっていたの。だから、今まで足をなかなか掴めなかった笹波白……ああ、つい。藤波黒と名乗っているんだったね。その、藤波黒と一緒に旅をしてくれたおかげで僕たちは二人とも纏めて居場所が解ったし、しかもそこに紅崎圭が加わることで彼の動向も知ることができるようになった。紅崎圭が一体どこにいるのか、というのは長く不明だったけれど、彼がリコリスに滞在していたというのもつい先日ようやくわかった。……不思議に思ったことはなかったの? この短期間で、団が接触してくることが多かったことについてさ」
ロジェの口が再び三日月の形を象る。
「お前のせいだねえ。お前が一緒に旅をしようとしなければ、彼等を巻き込まなくて済んだ。暢気にいたいけなヒロインっぽく被害者面して旅についていってただろうけれど、実はお前がいたことで他の仲間の情報を団に垂れ流してくれていたわけだ。なんにも力を持たない足手纏いのくせに、僕たちに協力してくれさえいた。そっちからしてみればお前超いらない人間なんだあ。いいかい、お前は巻き込まれたんじゃない、巻き込んだんだ。今日のこの作戦だって、お前がいなければ成り立たなかった。ああ、その点ではむしろ感謝しなきゃね。ふふ、ありがとねえ。さて、今頃他の人たちはどうしてるかなあ? ほんと、全然来る気配ないよねえ。何かあったらそしたら一体誰のせいかなあ……ばらしちゃおっかなあ……あっでも死んでたりして! もうどうしようもないねえ! くっは、あははははは! はあーーーたまんないねえ素敵な喜劇だなあ! うふ、ふふ、あっははははははハハハハハハハハハハハハハハ!!」
ラーナーの目前で爆発する、金属音のような嗤い声。
彼女は、一見して、冷めていた。ただ沈黙し、じっとロジェを見つめている。その内側では、栗色の奥底では歪んでいる沼のような感情が、蠢き出していた。
だらりと下がった腕の先、手の力はほどけていた。急に手首が重くなったような気がした。
何に愕然としているのか、何に憤ればいいのか、何を傷つければいいのか、何にこの蠢きをぶつけたらいいのか、濁流のような異種の感覚はラーナーの手を持て余す。心は内出血を起こして黒ずんでいるかのようだった。ロジェの口から浴びせられた衝撃の重なりに言葉を失い、吐き出し口を見つけられずに、嘲笑に耽るロジェを眺めていた。
――出入り口の扉が強く放たれる音が印象的に響いた。
雨の音が大きくなる。ロジェもラーナーも徐に振り向き、訪問者を目視する。雨に濡れ、向こうからの逆光を背中に受けながら、底光りしている金色の炯眼を二人は目の当たりにした。
真弥だった。しかし、ラーナーの見たことのないような重い雰囲気を背負っていた。
ロジェはへえ、と粘っこい声をあげる。
「こんなに早く突き止めるなんて、意外だなあ。流石きもいほどセントラルに根を張り巡らせているだけあるねえ」
「それだけきいきい汚い声で笑っていれば、俺じゃなくても気付くだろうさ」
ロジェの口元が硬直した。
「いいからさっさと彼女から離れろ。こっちも暇じゃないんでね」
彼にしては低い声音で言い、右手を翳した。袖が持ち上がりその影の中に、黒光りする腕輪の存在をラーナーはその時改めたように視認した。
しかしロジェは離れようとはしない。寧ろ、抱えるようにラーナーの胸倉を強く引いた。二つの身体は密着し、首が締め付けられたラーナーの顔が険しくなる。
「離さなければ? 知っているよ。お前の力は強い。それ故に、大きすぎて繊細な加減はできない。お得意の鎌鼬を放ってみなよお。ラーナー・クレアライトも犠牲にするのも構わないのならね。ふはっ」
相変わらず軽快に舌を動かしているロジェの傍ら、ラーナーは胸倉を強く捕まれていて喉が引き締められていたが、不思議と張りつめるような緊張は薄れていた。腫れ上がった心のその下にはがらんどうになった空洞が佇んでいた。深みにはまったまま、ロジェに対して明確な抵抗も見せない。
その様子を眺めていた真弥は肩を落とし、右手を、一直線に横に払った。
真弥の動きを認めた途端、ロジェは俊敏に動く。前へラーナーごと伏せると、鋭い風が、彼等の頭上を、一瞬で駆ける。けたたましく硝子の割れる音が雷のように部屋を貫き、ラーナーの悲鳴があがった。壁の近くにいたラーナーとロジェにも、細かくなった破片が雨のように降り注ぐ。フードを深く被りほぼ全身を布で覆っているロジェと違い、薄着のラーナーには細かい硝子が降っては簡単に突き刺さり、白い素肌にちらちらと赤い血が膨れあがる。
硝子が割れたことで部屋に入り込む雨音はより明確なものへと変貌した。床に星が散らばったかのように、外からの光を受けて硝子の残骸が煌めいている。ロジェの影で恐る恐る顔を上げたラーナーは、その光景を呆然と目の当たりにした。たった一人平然と立っている真弥は凛としていた。あらゆるものを踏み潰してきたような気配と覚悟が滲み、途方もなくおぞましい存在のように目に映った。
凍てついた沈黙を、ロジェは浅い笑い声でそっと破く。
「さっすがあ」
徐に身を起こす。三日月はひきつっている。
「冷酷無慈悲で名高い奴はやることが違うね。今の、避けてなかったらラーナーも死んでたよお?」
「繊細な加減ができないからな」
真弥は鼻でせせら笑う。
「どうしてもその不愉快な口を潰してやりたくなってね。しかし、流石に団員らしく、反射神経は良さそうじゃないか。なら、どれだけ撃っても避けられるよな」
「あっは、冗談きついなあ」
「どうだと思う」
余裕ありげに、真弥は不敵な笑みを浮かべた。
そして、一瞥する、真弥の視線とラーナーの視線がぶつかった。
試すような合図だった。自分で切り抜けなければなんの意味も無いような圧力がラーナーにかかる。その時凍結していた彼女の思考が漸く回転しだした。ラーナーは目線のみを動かして床に滑らせ、二つの罅割れたボールを見つけた。風に煽られた影響か大きく移動しており、ラーナーから見て左側にて静かに佇んでいた。ロジェは真弥の方に意識が向いていて、変わらずラーナーの服を掴んでいるが、先程と比較すれば緩い。唾を呑み込む。ボールをとり、真弥のもとへ向かう、その道筋を頭の中に描く。しかし、ロジェの言葉が雑音のように思考を害する。脳内は混濁していた。だめだ、と息を吐く。現在何よりも優先すべきは、ロジェの元から離れることだと強く自分に聞かせる。道筋。ラーナーは目を光らせた。
しかし、ラーナーの身が硬直したのを察したのか、ロジェは彼女の後ろ手を拘束し同時に床に叩きつけた。ラーナーの頭蓋に衝撃が走り、その頭の上からロジェのもう片方の手で抑え込まれ、圧し掛かられるように捕らえられる。
「変なこと考えないでよねえ」
床に散っていた硝子が頬に食い込む。頭蓋骨が軋んでいるかのように容赦なく痛み、ラーナーは苦悶した。
伏せられたラーナーからは見えぬ位置で、ロジェの髪、銀色に靄がかかっていくように一本一本が塗り変わっていく。髪先に色の浸食が進むほど、緩いウェーブがかかった彼の癖のある髪はまっすぐに伸びていく。長い髪とフードに隠れた鼻が、唇が、輪郭が淡く変化していく。
不審に思った真弥が再び手を動かそうとした時、ロジェはフードを払い、その顔を露呈させた。
真弥の表情が硬直した。
ふ、と笑う。角砂糖が溶けていくような、甘く穏やかな笑み。フードが外れ膨らんだ栗色の髪はラーナーの色素と酷似している。目つきも、ラーナーより少し鋭くも、しかしよく似ている。草臥れた顔つきでありながら、どことない品の良さが芳しい、大人の女性の顔立ちだ。雨の光を浴びて、どこか儚げな線を描く。
時が止まりしんと静まったかのような空気の中、ラーナーの頭を抑えつけていたロジェの手が背後に動く。腰を探り何かを取りだそうとしていた。その動き、自分への圧力が少しでも弱まった瞬間を、今度こそラーナーは逃さなかった。鋭い視線を床に向け、両手を広げようと力を込めて前に転がるように動いた。彼女に気が付いたロジェが咄嗟に締め付けを強化しようとしたが、気付いた真弥が険しい顔つきで右腕を後ろに引いた。
「乱風」
言うと同時に腕を前に押し出すように動かすと、急速に部屋を膨らますかのような風が巻き起こり、部屋中を縦横無尽に吹き荒れた。窓枠は痛々しい音を立て、硝子は先ほど割れた部分から更に罅が広がり、痛烈な音を立てる。
ラーナーもロジェも唐突な暴風に煽られて無防備に大きくよろめいた。ロジェの手がラーナーから離れ、堪えるように床にしがみつく。暫くは二人ともそのまま動けなかった。風があまりにも強く、立つことすらままならなかったのだ。その風に硝子の欠片も乗って、猟奇的な現象へと変貌する。
少々威力が収まってきた頃、ラーナーは風に押されるように壁へと飛び込んだ。髪が狂ったように暴れる中、周りを見渡し、視線を留める。壁に沿うようにして、二つの割れたボールが風に押され壁に向けて震えている。ラーナーは壁に背中を沿うようにして動く。不安定な足取りで転びそうになりながら、抱き締めんとするようにボールに覆い被さった。腕の中、破壊されたボールが二つ。ほっとした顔をして、しっかりと掴み取る。指に罅が食い込んでも、既に傷だらけの彼女には些細なことだった。
そうして改めて顔を上げたとき、ロジェの姿を目の当たりにして慄いた。風に煽られる長い栗色の髪。激しく波が立つように狂い踊っていた。その中にある見覚えのある顔が、網膜に焼き付く。
「ラーナー!」
真弥の呼び声がラーナーの意識を即座に引き戻した。ばち、というどこかで聞き覚えのある静電気のような音が耳に入ってきた。顔を上げると、青白い小さな稲妻が空気中を走っていた。電撃の記憶が蘇ったのは一瞬のことだった。ふ、と色を失ったような顔をしたラーナーと、ラーナーの気付かぬうちに登場した宙に浮かぶオレンジ色をした奇怪な生き物の目が合った。けたけた、と笑い声が聞こえてきそうなその生物は電磁波を撃とうとし、しかし貫かんとするような風の刃がそこに飛び込む。鋭い風をその生物は回避しようとしたが寸で間に合わない。刃に巻き込まれ、壁に激突し内包していた電撃が溢れた。建物が軋む。稲妻から逃げるようにラーナーは立ち上がると、体勢を低くしたまま真弥の元へと走り出した。身体のあちこちに切り傷ができていても、刺さったままの硝子が動くたびに刺さり込んでも、無視をするように駆ける。栗色の髪の女性が手を伸ばす。ラーナー、と呼んだ、その声は、ロジェのものだった。目に見えるものが正しいわけではない。それを身を以て知ったラーナーは、相手を苦しげに睨みつけ、目を逸らした。彼女は混乱を極めていた。わけがわからなかった。一刻も早くこんな地獄からは抜け出したい一心だった。ラーナーへと伸びるロジェの手を弾くように、二人の間を鋭い風が引き裂く。真弥の援護は強烈で、その接近した煽りでラーナーの身はバランスを崩したが、それでも必死で前を見て、腕を伸ばせば、手首に巻き付けたブレスレットごと、真弥の大きな手が握りしめた。
「及第点だ」
真弥は笑いかけた。その顔でラーナーは救われたように強張っていた心が緩み、勢いのまま身体中の緊張が溶けていく。そこから真弥はラーナーを引き寄せると、流れるように右腕を前から後ろへと大きなU字を描くように素早く振り回す。その腕の動きに合わせるように鋭い風がコンクリートを削ぎ、度重なる衝撃に耐えかねたのか、遂にその一瞬でぱっくりと爆発したように割れていく。黄色い悲鳴をあげたラーナーの腕を無理矢理引いた。二人揃って、崩れそうになっている出入り口から雨の中へと倒れ込むように飛び出す。全身が濁った水溜りに濡れる。真弥は即座に起き上がると金色の視線は後方のビルを突き刺し、俊敏な動きで下から上へ、斜めにその爪が大きく引っ掻くように空を切り裂いた。
部屋どころではない、建物ごと突き抜けるような圧倒的な突風はやがて竜巻となる。眼光の鋭い真弥を一瞥して、全身を風に乱したロジェはしかし面妖に白い歯を見せ、壊れたように高らかに嗤い始めた。
建物はロジェと朱色の生物を呑み込んであっという間に瓦解していき、落雷にも劣らぬ凄まじい轟音が周囲に張り裂ける。崩壊する建物は当然外にもその瓦礫が転がっていくが、ラーナーは呆然としてか恐怖によるものか全身が震えたまま動けなかった。そのラーナーを真弥は強制的に引っ張りあげ、彼女の腕を肩に回す。しかし、著しく消耗したのか脂汗を額に滲ませ、疲弊した様子で立ち止まる。真弥の青褪めた横顔をラーナーはすぐ傍で見てしまって、彼女自身にも余裕など少しも残されていないにも関わらず、大丈夫ですか、と反射的に声をかけていた。弾かれたように真弥はラーナーを驚いた顔で振り返り、それから優しげにほどけた表情をしてみせた。軽い息をついてから力を入れ直し、漸く走り出す。慌ててラーナーも震える足取りで走りながら、引かれたようにふと後ろを振り向いた。今も尚崩壊していくコンクリート。耳を塞ぎたくなるような音なのに、耳の奥にロジェの嗤い声がはっきりと縫いつけられていた。