Page 68 : 熱
暑い。真夏でも厚着をしていながら、大きな厭わしさを感じることのないクロでもそう感想を述べざるを得なかった。熱気や人気で飽和した空気の中にいることへの不快感。暑苦しい。そう、苦しさが溢れてきていた。自分の外側からの圧力で押し潰されそうだと思った。眩い直射日光、コンクリートの照り返し、ビルの隙間を吹く温い風に、人波の匂いが混じってより濃密になる。
巨大な鉄橋を渡り、クロ達はセントラルの九つに分かれた区域の内の南西区へと足を運んでいた。遂に高層ビルの群衆が目と鼻の先の存在となった今、彼等が辿り着いた地点は繁華街付近であり、周囲には一行とそう年の離れぬ若者も多い。既に彼等の周りには軽食屋や居酒屋、ファッション施設などが並び始めていた。それ故か、ラーナーは華やいだ表情を浮かべて辺りを見ていた。既に秋の色に染まった店頭の服飾を見かけると、思わず足を止めてしまいそうになる。しかしそれに構わずクロ達は進んでいくのだから、止まるという選択肢は無い。でなければ、人の波に呑まれてあっという間に見失ってしまうのだ。
溢れる人の流れと人の声。このまま道を進めば駅も近付き、更に飽和状態となった街並みが待ち受けている。その手前の現在地においてすら、視覚も聴覚も嗅覚も、あっという間に人間の色で塗りつぶされていく。
「ボールの中って、快適って言うよね」
ラーナーは前を歩く二人についていきながら、ふと声をかける。それを耳に入れた圭が振り返り、彼女は言葉を続けた。
「涼しいのかな、それなら羨ましいなあ」
「確かになーあっちいよほんと」
とめどなく滲み出る汗を服の袖で拭いながら、圭は乗りかかった。
三人で並び歩く隣には、ポニータやエーフィ、ブラッキーといった手持ちポケモンの姿は無い。絶対的に人口の多いここではポケモンを連れ歩いている者もちらほらと見かけるが、それも腕に抱いて歩ける程度の愛玩用の小型ポケモンがほとんどだ。ポニータのような大きさが人間に近いポケモンや、エーフィやブラッキーのような希少なポケモンはすぐに人の目につく。身を潜めて旅をしているのだから、無闇に波風を立たせるわけにはいかない。エーフィとブラッキーはボールに入る直前まで抗議の色を示していたが、渋々とボールに戻っていったのだった。そんなエーフィ達の気持ちを汲めば怒られるかもしれないが、自分も心地良い空間に行きたいなどと、ラーナーはふわふわと浮き立ちながらぼんやり考えていた。
「なあクロ、ちょっと休憩しようぜ」
隣を歩くクロに圭は気怠そうに声をかける。しかし、クロの平坦だった眉間には皺が寄せられる。
「まだ町中に入ったばかりだぞ、もうそんなにばてたのか」
「おいおい、元々長い歩きでちょっと疲れてきてる上にこの暑さ、この人だぞ。ラーナーだって休みたいよな?」
「え? ……うん?」
ラーナーは相変わらず熱気と周囲に集中を削がれていたため、唐突な圭のふりを理解できず勢いに押し切られるままに頷く。クロはちらとラーナーの様子を伺ってから、すとんと肩を落とした。
道を逸れて、大群衆から逃げるように建物と建物の間に身を寄せる。少し奥に行くだけで、多少は声が遠くなる。日陰に入ると気持ちばかり楽になったのか、一行は安堵の息を吐いた。
「しかし暑さもやばいけど、すっげえ人だな、ほんと」
圭は呆れたような感心したような声を落とす。
「ね。ぼーっとしてたらどんどん人波に押されちゃうし」
「だよなあ。でもさ、こんだけ人がいてもやっぱ目立つんだな、ほら、この髪。ちらちら視線が来て落ち着かないっての」
「……まあそれはね」
圭は汗で額に張り付いたオレンジ色の髪を摘み、珍しく溜息をついた。
「そう言うわりにはお前、隠すつもりも更々無いじゃないか」
「いやあ、帽子ってさ、暑いときに被ると中が蒸されてるみたいになるじゃん。クロはよく耐えられるよな」
「別に、俺は慣れた」
「まあ確かにそれなら髪隠せるけどさ! でもクロ、ゴーグルつけてるからぶっちゃけ髪は隠せても目立つよな」
「うるさいな」
「あっそれはずっと思ってた。長袖長ズボンは……仕方が無いとしても、ね」
「圭よりはマシだ。ただでさえ髪と目で目立つのに、その赤い上着」
「ああ〜そうやって言い逃れする? まあ否定はしないけどな!」
「開き直るなよ」
クロは呆れながら、居心地の悪さを感じたのかゴーグルごと帽子を外す。湿気を含んだ髪の毛は、圭やラーナーと同じように汗で肌に張り付いている。しかし、日陰にいると彼の特徴である深緑の髪も瞳も、黒に染まっているかのようだった。綺麗な髪だな、とラーナーはふと改めて感じた。帽子を外すとそれはよくわかって、風に流れる様は時に目を奪われる。共に生活をしてきて、クロが身だしなみを気にしている素振りなど欠片も無いが、深緑の髪はなだらかに揺れる。見た目に関していえば使い古したゴーグルもそう。肌身離さずつけるその理由も彼女は今も知らない。
そんなことを深々と考えていることなどクロや圭が知るはずもなく、汗がひいてきた頃に圭は再び会話を始める。
「なあ、なんか行くあてはあるのか? これじゃ無駄に時間と体力浪費するだけだぜ。行き場所が無いなら俺、ちょっと……」
それはラーナーも考えていたことだった。このままあても無く歩いていてもきりがない。
矛先のクロは殆ど感情を顔に出さずに頷いた。
「多分だけど、ここには真弥さんがいる」
「は」
ほぼ間伐を入れない勢いで圭の喉から大きな声が飛び出した。歓喜でも失望でもなく、驚嘆そのものであった。
「あれ、そういえば、言ってなかったっけ」
逆にクロは圭の反応の大きさに驚いたようだった。対して圭は頭を激しく左右に振って必死で否定する。
「聞いてねえ! まじかよ!」
「まやさん?」
圭が不審な眼差しになった一方、ラーナーは疑問符を表情に浮かべる。彼女にとっては全く聞き覚えの無い単語・名前であった。
クロはまた一つ頷いて、腕を組みながら何故か溜息を深くついてみせた。
「けっこう有名な話ではあるんだ。長らくここに住んでいるって……死んでなければ多分、今も」
「いやまあ、生きてるだろ」
「俺もそう思う」
「……ごめん。まやさんって誰?」
ラーナーは尋ね、クロと圭は思わず互いを見合う。それからすぐには彼等からの返答はやってこなかった。二人とも彼女の質問の答えるのに戸惑っているようだった。喧騒の最中で切り取られたように、彼等の間では数秒の沈黙が佇む。
「うーん、なんていうか、昔の仲間?」
均衡をゆっくりと破ったのは圭だった。相変わらず悩んだ表情を浮かべたままだが、クロも首を縦に振って同意する。
「そうだよなあ。うん、ちょっと別格だったけど。すっげー強いんだよ、規格外で」
「規格外って、クロや圭くんも規格外だとは思うけど……」
「ははは、気にすんな」
圭は軽く笑って躱す。ラーナーが追うように言葉をかけようとする前に、話に勢いがついてきた圭はすぐに口を開く。
「ああ、クロにとっては人生の先輩って感じなんだぜ」
「……ん、人生の先輩!?」
突然藪から飛び出したような人物像に、ラーナーは反射的に大きな声をあげた。彼女の中で、真弥という人物が急に大柄なイメージとして色付く。驚きに興奮すら覚えたラーナーだったが、当人のクロはむしろ顰め面になる。
「それは大袈裟すぎ」
クロは露骨に不満を声に籠めて諌めようとしたが、圭は相変わらず飄々としたままである。
「いやいやーそうだろ、真弥さんが居なかったらまず今のお前居ないしさ。ま、そもそもここに俺達いないだろうけど」
「? それって、どういう」
「ああもう、いいよ。とにかく……頼りにはなる人だよ」
無理矢理話の軌道を逸らそうとするクロは、最後に溜息混じりに真弥という人物についてフォローを加えた。
「会えば分かる」
そして、即座に釘を刺す。
「それじゃ、よくわからないけれど」
話が進むのを嫌がり始めた圧力に屈せず、ラーナーは半ば呆れた声で追撃する。圭は苦笑し、ふと思いついたように身を乗り出した。
「でもさ、真弥さんここにいるんだったらあっちから来てくれるんじゃないか? あの人クロのこと気に入ってるんだからさ」
再度、しかし更に重い、沈黙。
曇り始めていたクロは止めの一撃でも食らったかのように、一瞬で顔を引き攣らせていた。
「気持ち悪い……その言い方を誤解を生む」
辛うじて絞り出したような声は、圭を恨みがましく思っているかのようにトーンが低い。
「まあまあ、真弥さんが俺達に加担してくれるならこれ以上心強いことはないだろ」
最早クロとラーナーの心情変化を読もうとしていないのか、圭は自分の言葉を撤回することもなく明るい調子で声をかける。その流れに乗りきれないクロだったが、圭には悪気も深い意味も無いと悟り、一度空気を落ち着かせるように間を置いた。
「それはそうだけど、あの人気まぐれだからそう上手くいくかどうか」
「そこをお前がうまく誘導するんだろうが!」
「分かってるけどさ……」
「なーに弱気になってんだよ。真弥さん誘いこめたら大収穫だぜ!」
「そりゃあ……」
「クロならあの人のこと説得できるし、というかむしろここはクロじゃないと! いけるよな!」
拳を握りしめて強く言い寄ってくる圭。何故語気に無駄な程勢いがついているのかクロは理解できなかったが、基本的に気丈なクロも既に動揺していたこともあり瞬く間に気圧される。
「……それは、そのつもりだけど」
「よっし、じゃあこの件は任せた!」
勇気づけるというよりは誘導していくかのような会話の収束地点で言い放ったのとほぼ同時、圭はクロの丸まっていた背中を勢いよく叩く。痛いとクロが反射的に漏らしたのとほぼ同時に、圭はショルダーバッグの外ポケットに手を突っ込んでいた。そしてすぐに目的の物を探し当てる。ハイパーボールである。その中身は言うまでも無く、彼の唯一の手持ちポケモンであるエアームドだ。あえてポケモンをボールにしまって移動していた彼等であるのに、予期せぬ圭の行動にクロもラーナーも面食らう。
小さくなったボールが、スイッチを押すことで掌大に膨らむ。
「俺さ、この首都に来たらここに入院しているミアの妹に会いに行こうって思ってたんだ」
クロとラーナーは一瞬その固有名詞に反応できなかったが、少し間を空けて、ミアとは圭がリコリスで居候していたルーク家の次女であることに気が付いた。滞在中で殆ど話題に挙がることはなかったが、ミアには双子の妹がいると聞かされていた。生まれつき病弱で、母と共に首都にいる、と。
故に、圭がやろうとしていることはクロ達には理解できた。彼は長い旅路の先に首都の地に立ち、自分の望みを叶えるために居ても立ってもいられなくなったのだ。エアームドの背に乗り、今すぐにでもその場所に行こうとしているのだろう。
止めたところで止まらないだろう。圭と短期間だけ共に過ごしているラーナーでも分かることだった。
軽い溜息をつきながらも、理解したクロの表情は穏やかであった。
「好きにしろよ。俺達はちょっと近くをあたってみる。夕方辺りには一度落ち合おう」
「オーケー、どこで?」
圭の問いに僅かに考えを要し、数秒間クロを間を置いた。
「さっき通った橋の元の近く」
「アバウトだな、いいけどさ。よし、じゃあそういうことで。ラーナー、なるべくクロの近くから離れるなよ」
「……うん、分かってる」
先日のキリでのラーナーの単独行動の件を踏まえての圭の言葉は、ラーナーの胸の中にゆっくりと刺さる。しっかりと頷くと、圭は満足したように微笑んで、その場でボールの開閉スイッチを押した。傍に見慣れた光が着地、すぐに象られる大きな鳥の姿。鋼の翼が煌めいた。一同の中で一番の身長を誇るエアームドは、この狭い場所では、その体は少々窮屈のようであるが、姿を現しただけで大きな存在感を表す。
「エアームド、飛ぶぞ! ここから行けるよな?」
圭は朗らかに言い放ち、エアームドは嬉しげに目を細めて頷いた。よし、圭は満足げに笑い、翼を浅めに開いたエアームドの僅か後ろに回り込むと、そこから背に手をかけて軽々と跳び乗った。見惚れる程鮮やかな運動神経だとラーナーは一連の動作を目の前にするたびに実感する。
「じゃあまた、後で!」
僅かに見下ろした姿勢から圭は声をかける。エアームドは両の足に一気に力を籠め、狭い環境下で最大限に翼を広げて地を蹴った。鋭い羽ばたき、巻き起こる風。向かうは正面、ビルの隙間を突き抜ける。丁度その先にほんの僅かに顔を出した太陽の光が目に飛び込んできて、クロ達の視界が眩む。思い切り飛ぶには難しい空間だが、さすがはよく訓練されたポケモンと言うべきか、まるで物ともしない。軽やかな動きでうまく翼を畳みつつ、翔け上がる。影を抜けて、日光を反射する鋼の翼。遠くなっていく圭をクロとラーナーは遠巻きに見つめる。まるで太陽に向かって飛んでいるようだった。
眩しい。クロは簡潔にそう感じた。同時に、針が触れたようなほんの僅かな痛みが内側に走った。
ビルの隙間を抜け、エアームドは向かって左方向へと消え、完全に姿が見えなくなってからふと思い出したようにラーナーは口走る。
「でも、圭くん病院の場所分かってるのかな」
彼女の発言を聞いてからクロも気が付き、表情を固めた。独り言のような疑問符は彼等に沈黙を与える。時は既に遅し。当人はビルの向こうへと旅立っている。
「分かっていないだろうな」
クロは僅かに苦笑を口元に浮かべた。同意するようにラーナーの表情も緩み、深く頷いた。