まっしろな闇











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首都にて
Page 98 : あの空のむこうがわ
 ひどい顔だ。ラーナーは鏡に映る自分の姿と向き合って一番に、そう思った。泣きはらして腫れた瞼の下には充血の気配の残る両眼。頬は垂れ下がり、重たい心をそっくりそのまま反映している。
 まだ、一日は始まったばかりだという事実が俄には信じ難かった。濃密な時間、突然の喪失、鮮烈な告白、疲弊し、底で渦巻いていた感情すらも絶えていた。
 真弥は無の顔つきをしていた。君の両親を殺したのは、俺だよ、と。最早ラーナーには返す言葉も無ければ沸き上がる感情も無かった。恐ろしく静かだった。彼の自白の直後、鋭くて巨大な針が心に突き刺さって、なにもかもを断った。ふつん、となにかが振り切れてしまった。
 アランのつめたさが蘇り、ガストンの写真が過ぎり、エリアの笑い声が響き、セルドの顔が瞬き、両親の遺影が立ち塞がった。
 クロをすべて信じることができなかった。
 閃光が眼球の中で裂けて、ラーナーの身体が戦慄く。白く清潔な洗面台にしがみついて、気味の悪い音が腹から呻いて、耳まで痺れて呆然とした表情で、刺激臭を放つ黄褐色の塊が底を埋めているのを見た。酸の味にぐらりと揺れるのを感じながら、蛇口を捻ると水はヘドロに埋もれていき、覚束ない動きで口の中を濯いだ後、萎れた手を洗う。そうしているうちに証拠は消えて、誰もが顔をしかめるような臭いだけが周囲にへばりついていた。冷水が排水管を通って流れていく。その様をじっと見つめる。まるで開けっ放しにさせられた人の口みたいだと思った。水を嘆願してあんぐりと大口を開き、流水は食道を通っていく。このまま流し続けたら、窒息してしまうのではないだろうか。まるで殺しているみたいだ。そこまで想像して、ラーナーは考えを遮断する。異様な思考の生々しさに、慌てて水を止める。
 化粧室を出て、鞄を置いている待合室に戻ろうとして、足を止めた。圭の顔も真弥の顔も見たくなかった。誰とも声を交わしたくない。逃げるように身を翻し、看護師とすれ違い、何も考えずに病室の並ぶ廊下に差し掛かると、ちょうど遠くで歩いている姿に目を留めた。昨日の鬱蒼とした天候とは打って変わって今日の日柄は良く、窓から差す白い陽光は明るく室内を照らす。遠くからでも特徴的な髪の色はよくわかる。
 クロ、いや、白だった。病衣のみ纏っていて、身軽である。ベッドを抜け出して、針も引き抜いて、どこに行こうとしているのだろう。まっすぐ続いている廊下の途中の三字路を、ラーナーから向かって右に曲がっていく。
 不審に思ったラーナーは小走りで追いかける。足を引きずるような鈍々とした歩き方だったからすぐに追いつけるだろうと踏んで、同じ場所を曲がると、奥にある部屋へと入ろうとしているところで、扉を閉める音が廊下にひっそりとこだました。扉の上には赤いランプがついており、非常口を示している。非常階段へと向かったのだ。どこに行こうとしているのだろう。絶対安静を通告されているにも関わらず、人目を潜って抜け出して、何をしようとしているのか。
 ラーナーが扉を開けると、白は一段一段丁寧に、息を乱しながら上がっていた。手摺りを強く握りしめる後ろ姿が曲がっており、背後からでも苦しげな具合が伝わってきた。
「クロ!」
 反射的に、あまりにも当然に、いつもの名前を叫んでいたことにも気付かずに、慌ててラーナーは白の元へと駆け寄り思わず腕を掴んでいた。その手に火閃が握られていて、眉を顰める。同時に白は凄まじい勢いでラーナーを振り返った。至近距離で相まみえた彼の顔は、怯えと驚きを混ぜたような表情をしている。ああ、そうだ、クロではないのだと、思い出した。遅れて、ガーゼを張り付け傷でまみれているのに端正で、慣れたもののはずなのに、見とれてしまう。しかし、包帯の下、額から脂汗が滲んでいるのを目の当たりにする。身体に鞭打っていることは明白だった。
「ど、どこに行こうとしてるの? 部屋に戻って安静にしていなきゃ」
「……」
 白は目を伏せて黙っている。
 そういえば、彼は李国語を喋っていた。まさか、アーレイス語が解らないのか。気付いて、ラーナーは愕然とする。
「……大、丈夫」
 辿々しいアーレイスの言葉が出てきた。ラーナーは目を丸くしながら、息を吹き返す。そういえば、最初圭が名前を呼んだあの時も、アーレイス語だった。解らないわけではない。クロとの記憶が繋がっている印でもあった。
「行かせて。上に、行かなきゃ」
 そう言って、また一段上がった。
「待って、どこに行くの?」
 留める手に引かれ、白はラーナーを目の端にとめる。
「……零のところに」
「零?」
「待ってるんだ……」
 笹波零を指していると気付くのに、時間はかからなかった。
「零はずっと待ってる……ぼくのことを、空の向こうで待ってるんだ。だから、早く行ってあげなきゃ。きっと、すごくさみしがってる」
 階段の先へと視線を向ける。淡くて遠いずっと先の方に目を奪われているような横顔。真意を測りかねていたラーナーが、急にぽんと一つの答えに辿り着いたのはなぜか、彼女自身もわからなかった。
「まさか、死ぬつもり?」
 尋ねると、白はラーナーをおもむろに振り返って、浅く微笑んだ。
 ラーナーの背筋が凍りつく。握る手に力が籠もった。
「だ、だめ! 何を……そんな、絶対だめだよ!」
「なんで?」
「なんでって……」
 まるで純粋な子供のような顔だった。同じ顔なのに、同じ声なのに、まったく違ういきものだった。
「零に会いたいんだ。行かせてよ」
 まじりけのないきれいで傷だらけの笑みに悪寒が走る。彼は本気だった。本気で考えていて、そこになんの疑問も躊躇いも浮かんではいない。理由の問題ではない。どうにかして止めなければならない。
「死んだって、決めつけちゃいけないよ。まだどこかで生きているかもしれないのに」
「ううん。だってこれだけの時間クロが探しても見つからないのに、一体これ以上どこを探すの?」
「それは、」
「いないんだよ」白は断言する。「それに、たとえば万が一に生きていたとしても、だって、どうせ、みんな死ぬよ。いつかは、みんな死んで、零に会える。ね、お願い、行かせて。手を離して」
「だ……だめ……」
 あまりにも純粋な感情にあてられて、ラーナーは視線を泳がせた。
 そんなラーナーを前にして、白は不思議そうな表情をした。階段を下り、自然な動きで彼女の顔を覗きこんだ。目と鼻の先。濃厚で殆ど真っ黒な瞳孔も、その周りを囲う深緑の光彩の筋の重なりも、とてもよく見え、手に取れるようだった。あのひとは絶対に入りこもうとしなかった距離感を踏み越えて、同じ顔でまったく見たことのない表情がすぐそこにある。たじろぎと恥じらいに思考が止まり、深淵を観察され、透明で鮮やかな深緑に掴まれてラーナーは目を離せなくなった。互いに暫く動かず、考えてから、白は口を開けた。
「だったら……一緒に死ぬ?」
 唐突な、誘い。
「え……」
 白は無邪気に笑った。クロと同じ顔が、無邪気に笑った。
 右の指がラーナーの頬に触れた。包帯をとっていた。痛々しい指で何かを拭うようになぞって、そのゆるやかな軌跡、触れたところから電撃が走り、麻痺していく。透明な深緑の瞳は栗色の瞳から少しも逸れない。
「とても沈んだ目をしているね。たくさん、辛いんでしょう、我慢してきたんでしょう。すごくわかる」
 心臓の大きく弾む感覚がした。
「生きることが苦しいなら、無理をすることないよ。死んだ方が、ぜんぶ忘れた方が、ずっとずっと、楽だ」
「ちが……」
「死ぬのが怖いのなら、傍にいてあげる。きみは、クロの大切なひとでしょう。それくらいしか、ぼくはきみにしてあげられない」
 白の腕を握っているラーナーの手に、頬を包んでいた右手がそっと乗る。雪に触れるような、柔らかくて優しい触れ方だった。悴んでいる心を温かくほどくような、或いは抱きしめるような、そんな類の優しさを感じてラーナーは泣きそうになる。もう、壊れかけていた。必死に線を越えることを堪えているところなのに、線の向こう側から、まっしろな優しさが手を差し伸べている。
 怖くないよ。一緒なら、平気でしょう。
「いこう。あの空のむこうがわに」


 *


 空色の小さなボストンバッグから白い光が飛び出し、着地し、形を成すは黒色の獣。
 鮮やかな赤い瞳は室内をぎょろりと見渡した。やはりどこにも今の主の姿はなく、待合室に居る他人の視線が一斉に突き刺さるのを肌で感じた。他人などどうでもいい。気になるのはただひとりの所在のみだ。
 荷物を守っていた圭の驚いた顔を知ろうともせず、ブラッキーは空気を嗅ぎ、怠惰で鬱陶しいいくつもの人間の臭いの中から、自身の嗅覚に叩き込んできた彼女の香りを探す。制そうとする声を無視し室内を歩くと、ひとつかみの余韻が過ぎり、視線を上げた。待合室からほど遠くない化粧室へ足を走らせる、一筋、ほんの僅かに残っている足取りを辿っていたが、急げば失ってしまう。慎重に、床に鼻を当てて嗅ぎ分ける。中から出てきた女性に悲鳴をあげられても一切気にすることなく、見えない足跡を手探りで求め、ゆっくりと歩く。執着にも等しい感情は底知れぬ集中力を引き出した。殆ど消えかかった面影を追いかける、その後ろを圭が追う。何度も呼び止める声は耳には届いていても心に届いていない。
 亀よりも鈍い速度で這うように歩いていると、やがて廊下の三字路に辿り着く。まっすぐ進もうとして、横に逸れていることに辛うじて気が付いた。耳を立てても、静寂に与り知らぬ雑音がまみれているだけで、彼女の声は聞こえてこない。鼻の頭は燃えているようだった。その中、主の形だけを求めていたところに、僅かな別の匂いを嗅ぎ取った。それは獣もよく知るものだった。二人の道筋が重なる。それはいつものことだ。主の旅には常に彼の存在が付き添っていた。しかしその日常が今は疑わしい。自分の手の届く場所に戻ってこなかった彼女は、一体、彼と、どこに向かっている。
 鬱々とした廊下の行き止まりで、立ち止まり、顔を上げた。赤い光。まるで、警告のような赤い印。
 嫌な予感がした。
 ブラッキーは振り返り、歯を剥き出しにしてついてきていた圭に叫んだ。勿論その言葉は圭に分かり得ないのだが、驚愕した圭も只ならぬ緊張感を感じ取っていたのだろう。非常階段へと続く扉を開けると、ブラッキーはその隙間へと体当たりをするように突撃し、凄まじい勢いで階段を駆け上がり始めた。非常事態なのだと直感で理解した圭も焦燥に背を叩かれ、すぐさま追いかける。
 月の獣は冷たい空気を切り裂いていき、噛みつこうとするばかりに、主人の灰色の背を求めて必死に走る。走り抜ける。
 今は亡き者の声が急かす。烙印のような母親の願い。
 今度こそ、絶対に。


 *


 掴んでいたはずの手はいつの間にか掴まれていて、ラーナーも握り返して、流されるように二人は五階からゆっくりと遙か上まで、屋上までやってきていた。鍵は開いていた。なんだかすべて仕組まれているようだと彼女は思った。
 全身を突き抜けるようなからりとした乾いた風だった。頭上に広がっているのはどこまでも澄んだ雲一つない蒼い空。
 白は決してラーナーの手を離さなかった。おうとつのはっきりとした手を握りながら、そういえばクロの手をこうして握ったことなんてなかったなと彼女は思い返した。手を繋ぐことなど、想像したことがなかった。気恥ずかしさも喜びも沸き上がってこず、至って淡泊、不思議と無心で、静かだった。
 痛みに耐えながら白はラーナーの手を引き、屋上を囲んでいるフェンスの前に立つ。白の脳裏で、クロの記憶が蘇る。雨が叩きつける中、枷場の怒号と鞭の音が響き、弄ばれるように殴られ蹴られ傷つけられた痛みの記憶。払うように左手に持っている火閃の名を呼んでみる。円筒から刃が飛び出し、炎が刃を覆うように彼の手元で燃え上がった。恐怖が走って思わず投げ出してしまいそうになる。しかし、ポニータの炎はとても穏やかで淡く、熱くもない。暫し見つめ、そして、振り上げる。命をいくつも貫き切り裂いてきた刃が老い耄れた針金に当たって、炎は金属を痛めつけ、力を入れれば、叫びのような軋む音と共に斬れていく。何度か斬りつけ、遂にフェンスが大きく四角に象れて、そのまま引っ張り、用済みとなった金網を右方向へと力無く棄てる。軽い衝撃音が空中へ吸い込まれていって、人間が通れるだけの空間が出来た。阻むもののなくなって広がった向こうは、無秩序な建物群が眼下に敷き詰められている世界だった。
 ラーナーの冷えていく指先を、白の指が絡みつくように包んだ。彼女は隣に立っている彼の顔を見上げる。白は疲れたような幸せそうな顔で、笑いかけている。間に流れていく空気が特別な香りを含んでいて、まるで秘密を共有しているような背徳感が、益々彼等の心を凍りつかせていく。
 こうして得るものが本当の幸せなのだろうか。
 白が先に跨いだ。フェンスの奥にある足場はぎりぎり人間が一人立てるほどしかなく、ふとした拍子にすぐに落ちていけそうである。
 白は急かそうとせず、凛と立ってラーナーを待っている。
 ラーナーは白の右手を標にするようにフェンスを跨ぎ、まったく違う世界の空気を吸い込んだ。彼女を支えるのは、三十センチほどのコンクリートの足場と、留めるように右手に引っかけている金網と、白の手だけだった。急に、吹き付ける風が強くなったような気がした。目の前にあるのは、建物群と、立ち尽くすような圧倒的に広い空。首都でもこんなに空は広がっているのか、と呆然とする。
 垂直下方向をちらと俯瞰して、心臓が持っていかれそうになる。遙か彼方、どうしようもなく遠く、眼下に、敷き詰められた灰色のコンクリートの色が見える。静かに佇んで堅くなって、待っている。建物の側にある花壇が指で掴めそうなほどに小さい。なんて遠い。あそこまで到達するのに、どれだけの時間がかかるのだろう。そして到達した瞬間に、どれだけの衝撃が、痛みが、頭を、身体を、すべてを、破壊するのだろう。想像しきれない恐怖が急にラーナーの全身を熱く焦がしていき、立っている感覚すらわからなくなる。
「ラーナー」
 凍えた耳に道しるべを示すような白の声が聞こえてきて、ラーナーは顔を上げた。あどけない顔がラーナーを覗き込んでいる。
「大丈夫?」
「……あ」
 白は片手に持っていた火閃を後方に雑に捨てる。床を跳ねる金属の音が美しく世界に響く。
「怖い?」
 躊躇いながらも、ラーナーは恐々と僅かに頷いた。その動作の一つ一つも震えていて、とても収まらなかった。
「……少しだけ、こっちに身体を向けてもらっても、いい? ちょっとだけでいいから、ゆっくりでいいから」
 そう言い聞かせながら、彼は彼女の肩に触れて、金網を掴んでいたラーナーの指が抜けて、ひゅっと、そのまま落ちてしまうのかと、全身が震え上がった、そのすべてをまとめて包む厚みに、息を止めて、硬直した。抱擁されていると気付くのに、時を要した。髪に重なる、細い髪。胸にひりつく鼓動。自分とはまったく別種の固い身体。細いと思いこんでいた彼の体つきは、彼女の考えていたよりずっと男らしく、淡い輪郭は急に太い線となって、ずっと細くてやわらかい彼女を包んだ。息づかいはとても穏やかだった、それが、耳元のような、自分の中のような、どこともつかない、とてもとても近い場所から聞こえてくる。
「震えてるね。ほんとうに怖いんだね。大丈夫、ぼくがここにいるでしょう。大丈夫だよ、生きる長い道のりに比べたら、こんなの一瞬だよ。一瞬で、ぜんぶ終わる」
 自分にも言い聞かせているようだった。けれど、白の心は固まっているのか、怯えている様子はなかった。
「昔ね、ぼくが怖くて、辛くて、泣いていた時、零がこうして温めてくれたんだ」
 抱きしめる力が強くなる。
「優しくて、元気が出て、勇気が出た」
 ラーナーは、震えの落ち着いた腕を、彼の腰に回して、それから背中に這わせて、顔を埋める。どうして立てているかもわからないほどあまりにも不安定な場所で、ふたり、歪に不自然に重なる。こんなにも確かな存在なのに、やはりおぼろげで、彼はずっと過去に居る存在だけに浸っていて、離してはならなくて、表面を撫でる風は冷たくて、内側の接している部分は熱くて、それは生きているということで、彼も彼女も生きていて、まだ、生きていて、それは、このまま共に落ちていくより、ずっとずっと尊いものであっていいはずだった。
「やっぱり、だめだよ……」
 白の病衣に埋める顔が歪んで、そのまま涙が触れていく。
「死んだら、それでおしまいなんだよ……そんなの……クロだって、きっと、こんなこと望んでいない……!」
「……」
 埋もれた声が中で膨らむ。
 このひとは、クロの身体だけれど、クロではない。抱きしめているのは、笹波白であって、藤波黒ではない。白が見ているのは、考えているのは、笹波零ただひとりだけ。今までクロが必死に手探りで未来を生きようとしてきたその道が、こんな形で終わっていいはずがない。クロのいないところで、クロ諸共死んでしまうことなど、あっていいはずがない。
 そう思うのに。
「きみに何がわかるっていうの」
 冷徹な一言に、ラーナーの胸が凍った。
 すうと息を吸って、白とラーナーが触れている部分、肺が膨れる感覚が、彼女にも直に伝わってくる。
「クロの痛みは誰よりもぼくが知ってる。もうクロは限界だった。もう終わりにしたいと本気で思っている。生きていても、ぼくたちは、報われない。求めているひとはどこにもいない。誰よりも、ぼくが知っている、わかってあげられる。ぼくたちは不自由で、自由や幸福はすべて捨てて手に入る。それなら痛みに耐えて生きる意味なんてどこにもない」
 白の、ラーナーを抱く、その強さが、質量が、墜ちてくるように増す。
 彼の身体では支えきれないほどの絶望が圧し掛かっている。ラーナーは、自分とそう変わらない年端で、笹波白或いは藤波黒の抱えている、彼女の手に負えない苦痛を前にして、死を決意するに至る絶望の深さを前にして、絶句する。すぐに取り除いてあげられるほど簡単なものではない。そんなことができるなどと自惚れてもいないし、それこそ虫の良い思考だ。もうわからなかった。なにもわからなかった。痺れた脳では、抱きしめられた身体では、まるで拘束されているようでなにも考えられない。
 広々とした二人だけの唯一の世界を突き破るような、鉄扉を勢いよく開く音が屋上に響く。
「ラーナー! 白!」
 焦りに満ちた圭の声。フェンス、向こう側。相擁する二人は、圭を見て、圭はその二人を見て、表情を凍らせた。彼の隣で、同じように思わず立ち尽くしたブラッキーが、必死の形相で走り出した。
「なに、やって……こっちに来い! 落ちるぞ!!」
 ブラッキーも呼応するように叫んだ。悲鳴だとラーナーは思った。圭の、ブラッキーの切実な声がいつのまにか胸にまで届かない。今彼女を抱いている優しい靄が彼女の目を塞いでいるかのようだった。
 何も怖くなかった。
 白の注意が逸れた瞬間を感じ取った直後の彼女に迷いは無かった。彼の肩に手を当てて、そのまま、捻るように、力を込めて、突き飛ばす。
 重なった身体がまっぷたつに割れた。
 彼は身体のバランスを失い、内側へ倒れる。
 彼女も身体のバランスを失い、外側へ倒れる。
 瞬間は、永遠のように、ゆっくりと流れる。
 倒れゆく白の視界で、ラーナーの顔はぎこちなくわらっていて、コンクリートの向こうへと背中から落ちていき、最後、小さなつまさきが消えていった。

( 2016/11/13(日) 02:25 )