まっしろな闇 - 首都にて
Page 96 : 朝の目覚めより
 アランの亡骸をラーナーが目の当たりにしたのは、次の日の朝のことである。
 昨日の雨天が嘘だったような、晴れ渡った朝。透き通った空気は水気を吸い、光を纏って静かに首都を包み込む。空気中に僅かに舞っている塵のきらめきまでまで見えるような、凛とした、涼しい朝の日差し。
 真弥の部屋で抜け殻のように深く眠り込んでいたラーナーが瞼を開けると、ほとんど視界全面に紫色の体毛が広がっていた。大きな耳を垂らして、小さな寝息を立てているエーフィを眺める。白い薄手のブランケットの中に潜り込んで、ずっと隣で眠っていたのだろう。長い睫毛に、絹のような毛並み、額の紅い宝石がちらちらと光る。彼女は優しく微笑んで、起こしてしまわないように緊張しながらそっと気怠い身体を起こした。肩にかかっていた白いブランケットが落ちる。そこで、背後からの視線を感じ振り返ると、反対側の枕元にブラッキーが縮こまっていた。薄暗闇で、月光の輪がほんの僅かに発光し、赤い目がぱっちりと開いてラーナーを見つめている。惹きつける強い眼力に少々怖気付く。彼は何も言わない、動じない。いつも警戒心を露わに立てている耳が垂れて、それに気付くと、なんだか哀しげな様子にも見えてくる。しかし、真っ赤な瞳だけは、強く訴えてかけてくるような力を秘めていた。息苦しくなったラーナーは、軽くその耳を撫でて、顔を逸らす。鎖骨まで伸びた髪が顔に張り付き、その隙間から、カーテンの狭間の光を眺める。何も無い部屋だ。ベッドの他には何一つ置かれていない。部屋の主の気配が一切混じっていない、退屈で、簡素で、清潔な部屋だった。だからこそ、ベッドの脇、彼女から見て足下のに座っている圭の姿に簡単に気付くことができた。既に目を覚ましている、しかし息も殺しているように微動だにせずに前を見ていた。五月雨を正面に置き、鞘を重石にするように、何枚かの印刷した写真を裏返して下に挟み、足を組んで、ただ、前を見ていた。
 圭くん、と声をかけると、漸く圭は気が付いたように、しかし慌てることなくラーナーを振り返った。朝の暗がりで彼は呼吸を再開して、無表情で、おはよう、と、それだけ呟いた。暗い目をしている。おはよう、ラーナーも返して、どうしたの、と、尋ねてみる。うん、頷いて、圭は、視線を落とす。しばらく、彼は何も話さなかった。頭が、ぼんやりとしながら、表面のうすい部分が剥けて冴えていくような感覚で、ラーナーはじっと待っていた。遠くで鳥のさえずりが囁いた。セントラルのようなせまぜまとした建物の密集地でも飛んでいるのだ。とんで、ないている。その声が鼓膜の奥へと通り抜け、沁みていく。ラーナー、と、圭が呼んだ。呼び声に顔を上げると、髪が肩に落ちた。

 心が凍り付いた。

 窓から入る朝の研ぎ澄まされた光に照らされて、アランはリビングの床に横たわっている。首から下には白い布がかけられていて、滲むような赤い汚れや、異様な窪みがところどころにできていた。とても、とても白い肌をしていた。一目見て血が通っていないとわかるまっしろな顔だった。閉じられた瞼、紫色の唇。首の後ろ側に、赤紫の死斑が垣間見える。血や埃などの汚れが殆どそのままにしてあって、渇ききった赤が顔にこびりついている。
 エーフィ、ブラッキー、そして圭や真弥に見守られながら、隣に座り込んだラーナーは、しばらくの間その顔を見つめていた。思いの外穏やかな顔つきをしているようにも見えた。けれど、どれだけ経っても、アランの表情は変わらなかった。
 丁寧に置かれた彼の手に恐る恐る触れて、指から伝わってきた氷のようなつめたさに全身に衝撃が走った。そこで一度動けなくなり、再び動き出すのに時間を必要とした。硬直した彼の指は押しても引いても動かない。何かを求めるようにもう片方の手で顔を包んで、髪をかき上げて、耳に触れて、それでも彼はまるで反応しない。固くなった鼻や唇に指が当たる。呼吸の気配は当然のようにない。黒い睫毛は乾いていて、まばたくことはない。擦り傷を負った頬を包み込んだ。掠れた血にあたると、掌に煤のように付いてくる。全てが絶望的なまでにつめたく、やがて彼女は手を離す。視界にアランの死に顔を焼き付けようとしているように、ずっと瞳を凝らしていた。力無く握った掌に、つめたい余韻がいつまでもいつまでも残っていた。
 まばたいたその瞬間、目からあたたかい涙があたたかい頬に沿って、音もなく流れる。
 それからラーナーは、漸く声をあげて泣いた。




 リビングと廊下を繋ぐ扉に当てつけられた、白濁とした半透明のガラス板から差し込んでいる朝の光だけが彼等を照らしていた。廊下の端にも届かない自然光は十分な明るさとはいえず、薄暗くて窮屈な場所で膝を抱えて縮こまっている。
 黙って寄り添うエーフィとブラッキーに挟み込まれながら、慟哭の果て、涙が枯れて出てこなくなるのにも随分と時間がかかった。圭に渡されたタオルは大量の熱い水分を吸い込み、彼女の手の中で草臥れている。どれだけの時間泣いていたのか、どんな風に泣いていたのか、ラーナーにはまったくわからなかったし記憶も無かった。泣くのに疲れて、身体に残っているものを吐き出しきるようなか弱い嗚咽を繰り返しながら、意気消沈して廊下に座りこんでいる。
 圭は何も言わず、ラーナーに向かい合うように斜め前の位置に座って、彼女が落ち着くのを待っていた。圭自身も、一晩を超えて冷静な心持ちでいながら、どこか現実味がなくて、確実に時間が回っているのが不思議なくらいだった。振り返れば昨日は地獄と比喩しても過言ではないような一日だったが、それが終わったという実感がない。まだ、昨日という時間は引き延ばされ続けていて、今はそのロスタイムを過ごしているような気分だった。度重なる破壊の強襲に、気持ちの整理がつかないのだ。
 ラーナーはずっと押しつけるようにしていたタオルから顔を上げる。涙や鼻水の跡が残った、ひきつった顔はひどいもので、弱々しく痛々しい。
「……どうして」
 充血した目、その周りまで赤く腫らして、ラーナーがぽつりと絞り出す。
「どうして……アランくんが……ガストンさんやエリアさんまで……」
「……」
「昨日まで普通に喋っていたのに」また声を詰まらせた。「どうして」
 セルドの時と同じだった。或いはクラリスの時とも同じだった。歩いている道の途中で急に穴に突き落とされたように、どうして前触れもなく別れがやってくるのだろう。
「……ごめん」
 居たたまれなくなって、遂に圭はその言葉を零した。
「俺がもっとしっかりしていれば、アランは救えたかもしれない。あの時、俺が離れなかったら」
 また選択を誤ってしまった、と。
 一瞬だった。確かに、廃ビルに転がり込んであの疾風が来るまでに、奇妙なほど長い時間があった。それを不思議に思わなかったのは、多分、アランと言葉を交わしていた時間が心地良かったせいなのだろう。カンナギ襲撃の際殺し回っていた時と似て、感覚が麻痺していた。しかし、その裏で確実に屠るために彼等はじっと牙を翳していた。圭がアランの傍を離れたのは、格好の餌食となった。
 ラーナーは首を激しく横に振る。
「圭くんのせいじゃない。それに……」
 足下を見る栗色の双眸は、底なし沼のように暗い。
「後悔したって、アランくんは戻ってこない」
 彼女に渦巻いている感情をひとまとめにしたような一言が圭に突き刺さって、思わずぞっとした顔でラーナーを見た。彼女の視線が上がり、深い瞳に引きずり込まれて身動きがとれなくなる。
「ねえ」
 別人のような、声。
「……クロのところに、行きたいな」
 力無くラーナーは立ち上がり、蹌踉めいた微笑みを浮かべた。まったく笑っていない瞳がとても危うげに佇んでいる。
 再び遺体と相見える覚悟を決めて、荷物を取りに重い足取りでリビングへと戻って間もなく、彼女は異変に気がついた。待ち構えているはずのアランの遺体が跡形もなく消えているのだ。いつも通りの清潔な部屋で、真弥が開け放った窓辺に立って煙を吐いていた。冷酷な横顔に、ラーナーの全身が粟立った。しかし、ラーナー達を振り返ると同時にその気配は消えて、いつもの飄々とした顔つきに戻る。
「落ち着いた?」
 優しげに尋ねられ、ラーナーはおずおずと頷く。そっか、と笑い、窓枠に煙草を押し付けて火を消した。
「煙草なんて吸ってたのか」
 驚いた風に圭は尋ねる。
「いや、これが随分久しぶりなんだよね。でも、古いせいかな、湿気っていてあまり良くない」滓となった煙草をざっくばらんとした庭に捨てる。「そういえばココには連絡ついた?」
「ん……うん、一応」
「なんて言ってた」
「会いたいとは言っていたけど」
「余計なことには巻き込むなって?」
「寝言は寝て言えって。よく意味がわかんなかったけど」
 真弥は吹き出し、おかしくてたまらないといったように肩を震わせていた。
「わからなくていいよ。ここのことは話した?」
 どうして真弥が笑っているのかわからず、もやもやとした表情を浮かべながら圭は頷いた。
「あと、病院のことも」
「オッケー。ノエルの件も落ち着いたし、それなら、クロのところに行ってても大丈夫かな」
 開け放っていた窓を閉めて、薄手のカーテンをかける。
 まるで日常を過ごしているように繰り広げられている会話を、ラーナーは怪訝な思いで見つめていた。何故、普通でいられる。三人も一気に此の世を去って、そのうちの一人の死体はこの場に先程までいて、でもいなくなっていて、それは普通ではなくて、とても不自然であるはずなのに、どうして圭も真弥も平然としている。会話が途切れ、沈黙したやわらかい歪な空間に石を投じるように、ラーナーは口を開いた。
「真弥さん、あの」恐る恐るラーナーは真弥を見る。「アランくんは」
 奇妙な間が入る。
「ああ」
 一瞬迷った顔をしていたが、ポケットに手を入れて、掌に収まるだけの大きさの黒いカプセルを出した。ラーナーも旅で活用していて馴染みのあるそれは、彼女のものとは型が違うようだが、モンスターボールの技術を応用したとされる、道具カプセルだった。
「ここ」
 と、言う意味を、ラーナーは理解できなかった。隣で、圭の表情は凍り付いている。
 瞬時に張り詰めた空気を物ともしていないのか、真弥は軽く笑った。
「道具カプセル、知らないわけじゃないでしょ」
「知って、ます、けど」
 狼狽しながら、だんだんと恐ろしい予感が頭のてっぺんめがけて立ちのぼってくる。
「解りやすく言った方がいい? あの少年の死体はここにしまってある」
 見せびらかすように手が揺れる。
 対する言葉を持ち合わせていないラーナーは、わけのわからないまま立ち尽くした。
「昔、道具カプセルに遺体を入れて放棄されてたっていう事件があったの、知らない?」
「いえ……」
「そう。割と話題になったんだけど、あんまりニュースは気にしないタイプかな。道具カプセルが世に出始めて少し経った頃、川岸に埋められていた道具カプセルの中身を確認したら人間の死体が出てきたっていう話。ま、死んでしまえば物も同然だしね、確かに。で、結局、誰がやったのかも不明で、迷宮入り。それ以来、カプセルは改良されて、血液反応のするものは入れられないようになり、改良前のカプセルは回収された」
 けど、と真弥はどこか愉しげに手元のカプセルを軽く投げた。
「裏では未だに出回ってるんだよね。勿論皆が皆死体を隠蔽するためではないけれど、これもそう」
「……どうするんですか」
「壊す」
 ふわり、また、浮かんだ。
「死体ごとカプセルを破壊する。完全に粉砕すれば、中身も共に砕ける。彼の死体が手元に残っているのは分が悪い。世間には行方不明の扱いとして消えてもらう」
 ラーナーは固唾を呑む。
 このひとは、いったい、なにをいっているんだ。
 淡々と真弥は言うばかりで、ラーナーの頭の中にきちんとした言葉として入ってこなかった。
「正直、この二日間は暴れすぎたからね。暫くはおとなしくしておきたい」
「そんな」漸くラーナーは声をあげたが、随分震えていて彼女のものではないかのようだった。「自分達の都合でアランくんをどうかするって、そんなこと……せめてきちんとしたお墓に入れてあげなくちゃ」
「墓、か」
 真弥は鼻で笑った。
「なんだ、意外と整理のついたことを言うね。それとももう彼の死から吹っ切れたのかな」
「真弥さん」
 亀裂の走りつつある間を取り持つように圭が声を挟んだ。
「ラーナーの気持ちも考えてやってくれ……そんなこと、今このタイミングで言わなくてもいい」
「圭くんは」揺れていた目が圭を捉えた。「納得できるの。こんな、こと……」
 矛先を向けられた圭は押し黙った。ラーナーの顔はますます青ざめていく。
「……待ってよ、冷静になって。そんなの許されるわけがないじゃない」
「ラーナー」
「死んじゃったんだよ。アランくん、死んじゃって、こんな、急に、……殺されて……そんなアランくんにこれ以上手をかけるって言うの? 冗談はやめてよ」
「違う、違うんだ」
「何も違わない!」
「――ッ俺だって嫌だ! だけど!」
「嫌なら嫌って、なら、止めようよ! なんで! こんなの絶対おかしい!! アランくん――アランくん、死んじゃったんだよ――ガストンさんも、エリアさんまで――あんなの、ひどすぎる、ぜんぶひどすぎる。みんな、何もしていない。なのに、なのに」
「だけどラーナー、わかってるだろ、元凶は、黒の団だ。怒る先が違う」
「……違う、そういう問題じゃないよ。ぜんぜん、そういうことじゃない。……みんな、命を、なんだと思ってる」
「……ごめん。でも、真弥さんの言うこともわかるから」
「何がわかるって言えるの!」
「だから!」
 悲痛な声に、また悲痛な声が重なった。
「下手に表に知られるとまずいんだ。火事のせいで、オーバン家の周りはしばらく騒ぐから危ない。アランの死体があって、俺達に疑いがかけられるような事態になったら、最悪だ」
「でも! ……でも、証拠にもなるかもしれないでしょ。黒の団を表に出す……そうだよ、そうしたら、わざわざ、殺すなんて、そんなことをしなくても、団を倒せるかもしれない」
「まあ、無理だろうね」
 真弥が即座に口を挟み、二人の視線を集めた。
「あいつら尻尾を隠すことは上手いから。今回の凶器は樹木だし、そんなの言ったところでまず信じないでしょ。それにね、一番の問題はこの人達を殺したのが誰か、俺達じゃないかって疑われること自体じゃない。そういうことをきっかけに、俺達の存在を表に晒す、そこなんだよ。……まあ、要はさ、面倒なことになるくらいなら、その前に消してしまうのが一番楽で手っ取り早くて確実ってこと」
 言いくるめるような真弥の言葉をじっとラーナーは聴いていた。
 どくどくと鼓動がやたらと速く大きく波打ち始める。言葉を失い、ラーナーの中に代わりにふつりふつりと泡が立ち始めた。煮え始めの、細かな水泡が浮かび上がり、急激に熱がこみ上げてくる。この心臓の音は、きっと全身が沸騰している音だった。
「なんて、言い方、するんですか……」
 拳を握り、心の内を爆発させないように堪えているようだけれど、とても隠しきれてはいなかった。
「邪魔物みたいな言い方……あんまりですよ。どうして。どうしてそんな風に言えるの、そんな考え方どうしてできるの! ただの物じゃない、昨日まで、生き、生きてた、話してた……ずっとずっと優しくしてくれた、ただそれだけだった、あんなに優しいひとに……言いたいこと、わかる気もするけど、でも、わかりたくもない。そんなのは、アランくんへの冒涜で、こんな理不尽な目に遭ったのに、そんな冷たいこと、できない、やっちゃいけない……!」
「ラーナー、落ち着いて」
「落ち着けないよ……ごめん、圭くん、私、許せない。命を弄ぶような行為は、もう、……もう、絶対に許せない」
 ラーナーの眼にはっきりとした炎がついて、圭の足が竦んだ。
「そんなの、黒の団と同じだ!!」
 轟いた声。
 重い沈黙が流れて、ラーナーは急に水の中に飛び込んだようにしずかになった。
 ごめんと言い掛けて、飲み込んだ。都合良く謝るなと、言われたこと。それ以上に、ここは譲ってはいけないような気がしたのだ。絶対に、心の底から、許してはいけないと思った。けれど、明らかにショックを受けている圭の表情を見ていると、ラーナーは後ろめたい気持ちになった。ああ、どうしたらいい。こんな、押し寄せる感情をどこに流したらいい。涙でだって流しきれなかった、どろどろとしたものを吐き出したところで何も変わらない。何も変えられない。胸の奥がまたつかえて、息苦しい。
「なら、君が持っておくかい」
 真弥が、呟いた。
 差し出された道具カプセルと真弥の言葉が合わさって、ラーナーの奥が、さっと冷えた。
「死体ごと破壊して彼の死も無かったことにする、俺がこれを持っている限りは、そうするよ。はっきり言って彼とはまったく面識がないからそこになんの感情も沸かない。だから躊躇しない。嫌と言うのなら、君がこれを持っておくか。どうするかは君が決めればいい。カプセルに入っていれば腐敗の進行は遅くなる。君の言うように墓を作るのでも、見つからないようにひっそりと隠し持っておくのでも、いいんじゃない。何をしたってそれは正しくなるさ。ただ、これを持つということは、ある種の責任をもつということでもある。何も言わずに土に埋めれば、端からすれば死体遺棄と同じ。持っておくなんて、言うまでもないよね。誰かに話せば、疑われるだろう。黒の団も知れば放っておけないはずだ。君に背負う覚悟があるかい。君の大切な友達、身内でもない他人の死を、手にする覚悟が」
 ひとつひとつが、責めるように突き立てられる。
 ラーナーは、死体が入った道具カプセルを見つめ、離せなくなる。思考が入り乱れる。乱雑に散らかりながら、長い沈黙を破ることができずに硬直し続けた。
「無いでしょう」
 真弥はぽつりと言って、カプセルを握りしめた。
「そんな恐い顔をするなよ、ブラッキー」緊張をほどき、笑う。「意地悪な言い方してごめんね。そんなの重すぎて俺だって背負えないよ」
「――」
 何か言いたかったけれど、何も出てこなかった。
 ラーナーにわかるのは、自分の弱さ、そして、どこかが歪なのではなく、何もかもがおかしいという、それだけだった。
 今にも跳びかかって噛み付いてやらんとばかりに毛を逆立たせ、真弥を歪んだ形相で睨みつけているブラッキーの頭を撫でて諫める手が、ぎこちない。
 クロ。
 ここで、あの、傷だらけの少年に甘えてしまうのは、負けなのだろうか。彼を追い込む一端となった自分には、許されないのだろうか。あまりにも都合が良すぎるのだろうか。でも、ひとりでは、とても、戦えない。
 クロ。
 助けて。


 *


 八時前、ラーナーは圭と共にアパートを出て、今にも蹌踉めきそうな覚束ない足取りでクロのいる診療所へと向かった。特に代わり映えのない、マンションや宿舎の連なる道を歩いていると、通勤や通学のために足早に勤しむ老若男女と行き交う。最寄駅は反対方向だ。大きな流れに逆らうような形で、二人とも俯きながら道の端を歩く。途中都会の真ん中に蹲っているような公園で、コラッタに餌を撒いている親子と、萎れた身なりの男達がベンチに座っている姿を横目に流し、昨日は十分で歩いた道のりを、二十分程かけて、そのビルに辿り着いた。
 古びたエレベーターに乗って、五階まで上がる。密室は緊迫しており、機械音が重苦しく響く。扉が開くと、白色の優しげな明かりに照らされた診療所へとそのまま繋がった。
 朝の慌ただしさと気怠さの混ざった空間に、ぱたぱたと足音が鳴っている。
 既に話を通しているのか、通りがかった女性に声をかけただけで中へと通された。あっさりとした対応にラーナーは少々面食らいながら、肩を狭めるようにして廊下を進む。口論の尾を引きずっていて、二人の間には気まずい空気ばかりが流れている。結局終始互いに口をきかないまま、奥の部屋へと辿り着いた。
 クロは目覚め、アラン達の死を伝えてあることはラーナーも把握していた。しかし、その後改めて話すのに、あの息苦しい部屋で、一体どんな顔をしていればいいのだろう、考えながら、表情を変えるような器用な真似のできる余裕も無いと気付く。隠れることなく相対する他無いのだ。諦め、迅る気持ちを抑え込み、ラーナーは扉に手をかけた。
 横開きの扉を滑らせると、彼がベッドから起きあがっているのに気が付いた。扉から正面の方に窓が設けられており、朝の白い光が部屋を包み込んでいる。昨日の、傷だらけの、立っているだけで締め付けてくる圧倒的な空気が、雰囲気を変えている。彼は窓の外に顔を向けていた。緑色を貴重としたいつもの服装ではなく、灰色の病衣を着て全身にはガーゼや包帯を纏っている色褪せた外見であるせいか、雰囲気が普段以上に落ち着き払っているような、儚げな色をしていた。朝の光に吸い込まれて、そのまま融けていきそうだとラーナーは思った。光に惹かれるように、黙って、身じろぎせずに外を見ている様子が、なんだか一枚の絵になっているように美しかった。
「クロ」
 ラーナーは名前を呼んだ。
 しかし、彼はまったく動かなかった。
「……クロ?」
 もう一度、今度はやや大きな声で呼んでみても、やはり彼は動かなかった。少しくらい身じろぎしてもいいだろうに、素振りすらない。まるで石のように固まって、しんと黙って外を眺め続けている。ラーナーもつられて窓外に目を向けるが、特に変わった景色もなく、光に照らされ起き上がろうとしているセントラルの日常的で無機質な建物が奥に並んでいるだけだった。
 隣に立っている圭に視線を流すと、彼も怪訝な顔をしていた。
「気付いてないのかな」
 耳打つと、圭は首を傾げる。
「ぼーっとしてるにしても抜けすぎだろ……ゆうべも殆ど黙り込んでたけど話は聴いてたし、起きながら寝てんじゃねえの」
「寝てたらあんな風に背筋は伸びないよ……なんだろう、なんとなく雰囲気が違う気がするんだけど、気のせいかな」
「雰囲気……」
 訝しげな顔のラーナーは、近付いてみようと部屋に入った。
「待って」
 急な制止に、彼女の足はすぐに止まる。振り返って、目を丸くした。
 圭の鋭い視線が彼へ突き刺さる。朝の光。融けていくような淡い身体の線。雰囲気が、違う。暫し考え込みながらラーナーの何気無い言葉を繰り返すと、圭の中で何かが合致し、息を詰めて、一歩前に出た。

「白?」

 耳を疑ったラーナーは、圭の言葉を理解するのに時間を要し、示す意味を察すると、すぐに彼を見た。

「白なのか?」

 再度圭は尋ねる。
 その肩が揺れた。
 光の中から戻ってくるように、彼は振り返り、顔が露わになる。深緑の髪。深緑の瞳。ガーゼと包帯。白い肌。まったく同じ。まったく変わらない見かけ。否定をせず、驚いたように、垢の抜けたあどけない表情を浮かべている。ぴり、と異種の静寂がラーナーの肌を弾く。

 彼――笹波白が、そこにいた。

( 2016/11/05(土) 16:30 )