まっしろな闇











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首都にて
Page 93 : 刹那
 穏やかだけれど、たどたどしい緊張感も透けているホテルの一室。丸テーブルの上には赤ワインの入ったボトルと、部屋に備え付けられていたグラスとコップが一つずつ、それに麦茶入りのペットボトルが置かれていた。その脇に斜めに向き合うようにしてガストンとラルフォの二人は座っている。いくらか他愛も無い会話を交わし、ガストンはラルフォの持ってきたワインを丁寧に少量ずつ飲みながら、優しい顔つきで舌触りを確かめた。
「ヒストライトさんも飲まれればいいのに」
「すいません、ひどい下戸なもので。ちょっと呷っただけですぐに倒れてしまうんですよ」
 それならばどうして酒に誘ったのか不自然に思わないでもなかったが、苦笑して丁重に断る人物に無理矢理押しつけるほどガストンは押しの強い人間ではない。そうですか、と肩を竦めながら、少々申し訳ない気分を拭いきれずにまた一口含む。鮮やかな味わいで、少量口をつけただけでも香り高い甘みが広がっていく。彼の好みとしてはもう少し渋みがあっても良いのだが、非常に飲みやすく、後味も伸びすぎることなくさっぱりと溶けていく。
「オーバンさんは今は町の薬局を経営されているんですよね」
 ラルフォは尋ねる。
「まあ……妻が引っ張ってくれているようなものです」
「ご謙遜を。漢方に強いと存じています。僕は分野が違いますし詳しくはないのですが、ポケモンの治療にも応用されていますし、奧が深そうだと」
「ううん、まあ、難しいですが面白いですかね」ガストンは苦笑した。「こう言うと怒られるでしょうが、仕事ですが、趣味でもあるような感覚で。アラン……さっきの子には、何故か格好良く見えたらしいんですけどね。地味で解りづらいし、町医者には煙たがられているでしょう」
「周りにとっては羨ましいのでは?」
「只の薬屋ですよ。有り得ません」
「いいや。あの少年は、見る目がある」
 ラルフォはテーブルで手を組み前のめりになると、探るような視線でガストンを見る。
「あなたは謙遜が過ぎる。正直、トレアスのような小さな町の薬屋としておくのは惜しいですよ」
 ゆるやかに空気が変容する。
「……何故そんなことを?」
 ガストンは不思議そうに尋ねる。
 ラルフォは微笑んで、酒などを入れた紙袋とは別に持ってきていた黒い革の鞄を開き、中から褐色の硝子アンプルを出した。中には液体が入っており、手の動きに合わせて細やかに動く。彼はそれをテーブルの上に静かに置いて、ガストンに差し出した。
 不可解だと言いたげな顔でガストンはアンプルを手に取る。彼の大きな掌にすっぽりと収まる大きさで見た目には一般的なものと変わらない。何のラベルもない。やはりラルフォの意図が彼には理解できなかった。
「見覚え、ありませんか?」
「いえ……これだけ見せられても」
「そう、無理です。しかしあなたは名前を当てるまではしなくとも、解析をし、自分の専門分野である薬草で組み合わせて、そこからほぼ同様の効力の薬を作りました」
 ガストンは顔を顰める。まだ殆ど量を飲んでおらず強いアルコール感もないのに、どことなくいつもより酒の回りが早い感覚がする。しかし思考は十分正常だ。それでも思い至る節がすぐには出てこない。
「……まあ、あなたには特別ではないことのように考えられるのかもしれませんが、私は本当に驚いたんですよ。専門外ですが、そう簡単に成功させられるものではない。特にこれは、強い発作を抑えるためのかなり強力な薬ですから」
 抽象的なことばかりを述べるので余計にあやふやとしているように考えられたが、発作という言葉でガストンの記憶に一つ引っかかる。そういえば、と以前似た物を彼の鞄から探りあてた覚えが薄ら浮かびあがる。しかしそれは更に不信感を深めさせた。回りくどい言い方は、無理矢理誘導させているような雰囲気を醸し出している。
「もしかして……藤波黒を知っているんですか?」
 満足げにラルフォは笑う。
「藤波黒、と名乗る者ではありませんが、この薬を使い、同じ発作を抑制していました」
「同じ、発作……」
「藤波黒のことも存じていますよ」
「……どうして」
 何故、目の前にいる嘗ての一端の研究者と、未だに経歴不詳のあの少年が結びついているのか。
「あなたとクロには、なんの関わりが」
「昔に少し」
 昔、という単語が、妖しく光る。あの少年が頑なに話そうとしなかった、彼の謎が隠された秘密の部分だ。思いがけず霧が晴れて鮮やかに風景が広がっていくかのようで、浮ついたような感覚が胸からせりあがる。
「では、あなたは藤波黒のあの発作がいったい何が原因であるかも知っているのですか?」
「はっきりとは。しかし、いくつかの可能性は考えています」
「……彼は、一体何者なんですか」
 ずっと気になっていながら、本人には今更きちんと訊けなくなった疑問を問いかける。
「以前知り合いに彼について血液検査をしてもらったことがありますが、全てエラーが出た……それだけじゃない。クロは……普通じゃない」
「たとえば、火閃とか」
 決定的な単語に、ガストンは酔いが飛びそうになった。
「……あなたは、一体」
「只の研究者ですよ。今も」
 何気ないふりで眼鏡をかけ直した。
「オーバンさん、あなたは優秀な方です」念を押すようにラルフォは強調する。「私は嘗て、ポケモンの、所謂技のメカニズムについて研究を進めていました。ポケモンの秘めている力は底知れず、自分の身を用いて攻撃したり強化したりするだけではなく、別の生体に関与したり、環境に作用する場合もある。技に限らず、進化も奧が深い。あれほど急速に身体を変容させる生き物は他にいません。それは、昔から我々の常識とは別次元にあり、しかし未だ詳細は不明です。しかし、ポケモンには他の生体には無いエネルギーやその代謝機構があると解ってきました。それを内部や外部に作用させ、技の発動、あるいは進化に関わっていると考えています。この、ポケモン独自のエネルギーのことを普段は生命エネルギーと呼んでいるのですが、今、この生命エネルギーの動きの原理、そしてこれを人へ応用できないかを中心に研究を進めています。しかし、研究に人材が足りていないということも事実です。あなたの能力は、もっと必要なところで使われるべきです。共にやってみませんか。それは、あの少年を救うことにも繋がるかもしれない」
 よく回る舌から雪崩のように溢れてきた情報を飲み込んでいくのにガストンは時間を要した。熱弁を奮うラルフォの瞳は、まるで純粋な少年の輝きのように爛々としていた。その姿が印象的でありながら、しかし冷たい気配もある。胸騒ぎがする。人の良さそうな笑顔の裏側にある考えが読めない。どうにも底が見えてこないのだ。救う、と、聞こえの良い言葉を使うけれど、彼は誰かを救うという言葉の重みを人より少しだけ理解しているつもりだった。滑らかに出てくる程に、疑いが広がる。
 返事を待っているのだろうたっぷりとした時間を使って、ガストンはなんと答えるべきかを考え、緩く首を振った。
「なぜポケモンにそう詳しくもないただの薬屋にそこまでおっしゃるのかわかりませんが……」
 忍び足をするように慎重に、ガストンはラルフォを窺う。
「私はそう大した者ではありません。今の生活で満足していますし、すぐに乗れるような立場でもありません」
 冷静に、もっともらしい答えを差し出す。ガストンからしてみれば、得体の知れない誘いだ。生活に不満を抱いているわけでもない。何よりも、厭な予感がした。返事を延ばすこともなく、その予感に忠実に従った。
 それから重い沈黙が伸びていった間に、ガストンの喉はひりひりと渇いていった。
「藤波黒のことも、お教えしますよ」
 冷めた声。息を巻くように自分の話を広げていたラルフォの表情は、つまらなさげだ。
 ガストンは口を開こうとして、刹那、視界が一瞬明滅したような感覚に襲われた。まだグラス一杯分も飲んでいない。それほど度数も高くない。酒には強い方だと自覚しているぐらいである。この量で酔うのは珍しいことだった。
「いえ……彼のことは気になります、が」
 急に、ぐるりと視界が回転する。頭が振り回されたような目眩。
 違和感は留まらなかった。
 急に手先が痺れたように痙攣すると、腹の中が暴れる感覚がして、咽までむかむかとした轟きのような嘔気がせりあがってきた。耳が遠のいて、幾度かの咳を経て、急速に身体状態がおかしくなっていることを自覚せざるを得なかった。目眩が一層ひどくなっていき、平衡感覚を失いテーブルにしがみつくようになだれていた腕が滑る。グラスの倒れる鋭い音。それを掻き消すほどに激しく噎せる。胴体を駆けめぐる吐き気に耐えきれずに嘔吐した。淡い色をした吐瀉物は異臭を放ち、テーブルの端から滴り落ちていく。全身に強い硬直が襲いかかり、グラスを巻き込み頭から床に落ち、身体がみるみるうちに自由を失うのが解った。せめて空気を求めるように何度も咳込んだが、口からは止めどなく残滓のような胃の内容物が出て行くばかりで、まともに呼吸ができない。やがて、身動きどころか、身体の中が痺れていき、至る場所の感覚が失われていく。細胞が酸素を失い、平衡を失い、戦慄くような身体の抵抗があっという間に収束していく。
 ラルフォは一切の動揺もせず、黙って立ち上がり、少し距離を置いてガストンの様子を観察していた。生物が壊れていく様は、劇的で、他では得がたい空虚と興奮を抱く。
 約二年前、笹波白がアーレイスのリマに住んでいるオーバン家に潜伏しているとの情報が入り、団から刺客を送ったことがある。結果として返り討ちにされたが、笹波白の消息は再び失われ、オーバン家はリマを去った。暫くはオーバン家も観察対象となったが、笹波白が現れる気配はなく、探りを入れる限り黒の団のことは何も知らない様子で、完全に関係を絶ったとして見送っていた。しかしその後、バハロにて、ウォルタで逃がしたラーナー・クレアライトに笹波白が同行していたと、バジルの証言から判明。すぐに、トレアスに引っ越していたオーバン家に身を寄せていることが判った。あの事件を経ても尚、彼等はクロに手を差し出したのだ。衝撃的ではあった。身を引いていれば、殺害までは至らない未来もあっただろう。一層深く笹波白と繋がり、しかし発作抑制薬を独自に調製し笹波白を援助しているという内事情を知ってから、ラルフォはガストン・オーバンの手腕に少し興味を寄せていた。団の基本規則としては、黒の団を知る虫は叩いておかなければならない。元は李国の二大組織の片割れ、アーレイスでも裏で幅を利かせられるようになったとはいえ、力を維持するのに油断はできない。
「来てくださる雰囲気があれば、無理にでもお招きしたいと思っていたんですけどね」
 話しかけながらも、既に気を失っているのか、倒れ込んだガストンからは返事がない。抵抗もみられなかった。
 駒になりそうな気配が無ければ、処理するのみ。
 机に置いたアンプルをポケットにしまう。テーブルの端から赤黒いワインの滴が落ちて、ガストンの服に染み付いた。
 不穏な動きにはとうに気付いている。牙を剥く前に、持ち駒も居場所も奪ってあげよう。そうして気付くだろう。逃げ場など何処にも無いということに。


 *


 住宅街を寄せ集めているこの北区は、セントラルとはいえ中心地を逸れれば人気があまり無い。そんな中、更に人のいない狭い路地を曲がりくねり、水たまりを走り抜ける音が夜に響く。北区の地理にはまったく明るくないが、なるべく人目に付きづらい場所を選んでいるつもりである。しかし、あの仄暗く追う気配が拭いきれない。一方、無理矢理引いているアランの体力は限界に達していた。息切れは擦り切れ、足取りは重く精彩を欠いている。どこか隠れられる場所が必要だ。圭は走りながら建物を模索し、やがて一件の、青いビニールシートで囲まれたビルが目についた。足を止め、見た目よりずっと重く丈夫なシートを全身で担ぐように一気に押し上げると、直上遥か高くまで組まれた鉄骨と、その奥に建物の壁が現れる。渇いた鉄の臭い。工事現場のようだ。捲った所からアランも内側に呼び込み、ブルーシートと鉄骨の間を沿って歩いて行く。僅かな夜の光すらも閉ざされ内部は穴の中に飛び込んだように真っ暗で、目の前すら満足に見えなかった。アランは足下に気をつけながら後を追う。やがて、鉄の骨組みが空いて、その奥に、裏口と考えられる簡素な扉の前で止まる。新しく作った建物というより、古いものを取り壊そうとしている雰囲気が漂っていた。アランの腕を離してドアノブを捻るが、当然のように鍵が閉まっている。丁度頭上に位置するところに透明な板が張ってあるが、そこから光は漏れていない。
 激しく肩を上下させて胸が痛いほどに呼吸困難に陥っているアランは、思わず鉄棒にもたれかかった。頭に血が回る。熱と汗が噴き出した。水溜まりなどで身体が汚れていたが最早気にもしていない。むしろ、身体の内側から沸き上がってくる熱を冷やすために水に飛び込みたいくらいである。ようやく訪れた休憩に安堵するのも束の間、突然傍から強烈な音がして、弾かれるように顔を上げた。圭が背中から扉に体当たりした音だった。さすがに扉は固く、すぐに彼は跳ね返される。
「クソッ」
 焦りを露わにしてもう一度彼は扉に飛び込んだ。激しい音の中、相手は年期の入っているもののようで、扉は軋むように悲鳴をあげている。
 何を無茶なと信じられない心持ちでいたアランも、一心不乱な圭の姿に酔ったように突き動かされた。乱れた呼吸のまま、ふらりと立ち上がる。
「俺も、っ手伝う」
 気負いとは裏腹に、疲れ切った声は擦り切れていて頼りなかった。圭は驚いた顔をしたが、すぐに引き締め黙って頷く。
 圭の隣にアランが並んで、扉を睨みつける。
「せーの!」
 圭の張り上げた合図に従って、同時に扉に体当たりした。全身の骨まで響くような衝撃が襲ってきたが、それと同時に扉が部屋の中へと倒れ込み、圭とアラン諸共、床に突っ伏した。
 痺れる痛みを堪えるのに必死なアランだったが、三度もその痛みを味わったはずの圭は素早く立ち上がり、またアランの腕を掴んだ。
「早く行くぞ! ぼけっとすんな!」
 アランの目が回る。肺がいくつあってもこいつにはついていけない。
 現在は使われていない廃ビルのようで、まだ殆ど工事は進んでおらず、全く人気が無い。床には埃が敷き詰められており、走り抜くとそのたびに塵が舞う。夜目が利くのだろうか、疾走する圭の足取りに迷いは無い。廊下を走り抜くと突き当たりに階段があり、迷うことなく圭は階段を選択する。アランには階段など地獄でしかなくぎょっとする思いだったが、文句を言える状況ではない。
 三階まで一気に駆け上がると、階段はまだ続いているようだったが上には行かず、廊下に入った。やがて、奥まで行った適当な部屋の扉に手をかけると、鍵はかかっておらず、そのまま入ることができた。
 部屋の中は物は殆ど全て撤去されているせいかだだ広くぽっかりとした印象の部屋で、暗闇も相まって随分と寒々しい。部屋の端に机のようなものが設置されていたが、その他には特に何も見当たらないシンプルなものだった。圭はアランを放り投げるように部屋に入れたので、そのままアランは床を滑るように転がっていった。圭は素早く扉を閉めてその場にうずくまり、扉の向こうに耳を澄ませる。
 床に打たれた埃だらけの身体をいたわるように、アランは荒い息をしてゆっくりと動く。圭の人扱いは荒々しく多少の腹立たしさもあるが、脳が沸騰したように熱く、言葉が出てこなかった。必死なアランとは対照的に、圭は至って冷静だ。額から汗は流れているし多少は息もあがっているが、疲れ果てぼろぼろになっているアランとは雲泥の差である。
 緊張していた圭だが、暫くしてもなんの音も聞こえてこないことを確認して、小さく安堵の息をついた。
「助かったのか?」
 アランが怯えながら問うと、圭は即座に首を横に振った。
「まだ安心できない。静かにしていよう」
「……解った」
 そのまま圭は壁に背を委ね、そこから遠慮がちに距離をとって、アランも同じ壁沿いに縮こまるように座った。
 沈黙が長く続いた。重い沈黙だった。耳を立てる。訪問者の気配を少しでも早く察知しようと聴感を研ぎ澄ませる。荒い息は整ってきても、土砂降りのような脈音が一番大きい。走行中はある種夢中になっていたが、こうして止まって息を殺していると、足の鈍い恐怖感が追いつき、暗闇と一体化して纏わり付いてくる。自分の中に押し込めて耐えるように、アランは服を握りしめた。
「怖いか」
 心臓が飛び跳ねた。アランは俯かせていた顔を上げ、右へ視線を向けた。圭がじっと見つめている。静かにしようと言ったのは自分の方なのに。不思議に思いながら、素直に頷いた。
「このままやりすごせたらいいんだけど、流石にそううまく行かないよなあ」
 そうやって話す声も外に聞こえてしまうのではないかと不安になり、アランは忍び足で近付き、隣に座る。
 目は順応してきたが、相変わらず絶望的なまでに暗い。ひとかけらの音も、深いような、浅いような、遠くから聞こえているのか、近くから聞こえているのか、よくわからなくなる。
「……どうして、こんなことになったんだろう」
 からっぽな声。囁きも相手の耳に届いてしまう、沈黙と距離。影に包み込まれて、気も随分弱って、しかしどこか開けっぴろげな心持ちでもあった。非日常的な温度差。どこまでも深い暗闇にたったふたり。心の間をあやふやにし、繋げてひとまとめにしてしまうような空気感が秘められている。
「クロに……俺たちに関わってるから」
「関わってるっていっても」
「前にも襲撃があったんだろ。話は聞いてる」
「でもあれは……師匠達や俺というよりクロを狙ってたってあいつは言ってた」
「クロとお前等同時だろ。発作抑えてること、所詮その程度ってさっきは言ってたけど、クロの命助けてやってるってことだからな。……俺たち、奴らにとっては標的対象だ。殺さなきゃいけない。そんな奴と関わってしかも匿ってたとなれば奴らには十分すぎる理由になる。それがたとえ直接的には団と関係のない奴であっても。それに……」
「それに?」
「クロを一気に追い込もうとしてるのかもしれない。もしもいなくなれば、クロは発作を抑えられなくなる」
 アランは押し黙る。言葉が浮かんでこなかった。
「お前、さっきまで東区にいたんだよな」
「……うん」
「どこから見張られてたんだろうな……それか、俺の方がつけられていたか。昼間も突然だったし、首都は危険だって正直よく理解していなかったかも。こういうことなのかな。どこにいても黒の団の目があるみたいだ。お前の師匠も不安だけど、それより今、これからどうするかを考えないと」
 長い息を吐き、五月雨を握りしめた。
 落ち着き払った雰囲気が、逆に異様だった。アランの心はずっと震えていて立ち上がることすら勇気がいりそうなものだというのに、圭はむしろ冴え渡っていくような気配すらあった。
「怖くないのか?」
 思わず、尋ねていた。圭は不思議そうで、まるでどうしてそんな当たり前のことを、とでも言いたげな顔だった。
「……どうだろう」
 自嘲気味に笑った。
「昔はもっと怖かった気がする。慣れかな」
「慣れって……」
「もっと酷い殺し合いをしてた」
 息を呑む気配。強過ぎる言葉に対してというよりも、強過ぎる言葉を平然と使いこなす圭に対して言葉を失った。
「その時のことが、今この時を支えてる。黒の団にも立ち向かえる」
「……でも、死ぬかもしれないんだろ」
 圭は微笑んだ。擦り切れても壊れても決して表情の変わることのない人形のような痛ましい笑い方をする。
「優しいな」
 懐かしげに枯れた声。夜に、さびしげに溶けていく。
「俺、そういう優しい人達が傷つく方がよっぽど辛い。お前は全然解ってないだろうけどさ、自分のためだけに生きてて、生きるためなら何をしても構わないって疑わなかった奴がこんなこと思うようになったなんて、奇跡中の奇跡なんだぜ。……巻き込んだのは俺たちの方。俺たちが犠牲になって済むのなら、傷ついたって汚れたって構わない」
 細く、渇いた風が、圭の強ばった唇の隙間から過ぎていった。
「否定しないで、俺達にだって少しくらい、かっこつけさせてくれよ」
 決して逃げ道のない距離で、切実な懇願がアランを掴んだ。
 それすらも許されないのなら、認められないのなら、否定されるのなら、ここにいる意味を失って、ぬくもりを知った故に得た喪失感にいつか堪えきれなくなるかもしれない。汚れた手にも染み付いたと思い込んだ穏やかな光は跡形もなく、皺だらけになった千代紙はその事実を物語った。もう海に飛び込んでしまったのだ。泳ぐほどに、遠ざかっていく。創りあげたかたちは荒波に砕けて、殻の中にある生々しい血と暴力が正体を現し、残る。それでも。鮮やかな記憶が淘汰されていくとしても、底にある誓いまでも見失いたくはないのだ。
「お前みたいに頭がいい奴は、頭で誰かを救うことができる。だけど、俺は、俺やクロみたいなのは、こういう形でしか誰かを守れない。これしかできない。これは俺の恩返しでもあるんだ」
「そんなことない」
 即座にアランは言い切った。幾分辛い顔をしていた。
「できることなんて山ほどあるんだからもっとまともな方法で恩を返せよ……傷つくことは望んでないそうまでして守ってほしいなんて思ってない」
「お前なあ、今自分がまさに殺されようとしてるって解ってるのか? すげえお人好しな上に、理想ばっかり言うのな」
「理想論でいいだろ。そういう自己犠牲精神がムカつくんだよどいつもこいつも全部自分だけでなんとかしようとする顔しやがって……なんでだよなんでそうなるんだよ。ふざけんな。犠牲ってなんだよ。死んでもいいわけねえだろ」
「おい、泣くなよ」圭は肩を揺らした。「変な奴だな、ほんとに」
 でもな、と落とす。
「俺は死んでもいいなんて思ってない。……絶対に帰りたい場所があるから」
 アランの顔が上がる。まっすぐとしてぶれないオレンジ色の瞳を見据えた。
 すぐ傍。だからこそ強い意志が見える。直接触れているように伝わってくる。深淵にあるのは、覚悟の重みか、修羅場を潜り抜けてきた経験の重みか。ああ、そうか、生きてきた場所が違うんだ。生きることに文字通り必死な場所で生きてきて、誰かを殺すことも躊躇わない。だから、彼等は刃を突き立てることを疑わない。それが普通だった。日常だった。だとすれば。それはおかしいと。間違っていると。こちらの常識で頭ごなしに否定しても、通じ合えるはずがなかったのだ。本当の意味では信じていないなんて、お互い様じゃないか。
「お前さ」感嘆混じりに呟く。「十分かっこいいよ」
「だろ?」
 真面目な調子で褒めたのに、即座の返事は冗談めいた風。調子のいい奴。そう言っては台無しだ。不意打ちで、アランの中心あたりが緩くほぐれ、呆れたような、毒気の抜けたような息を吐いて、虚空を眺めた。
「……クロは、生きたいって思ってくれているのかな」
 自嘲を含めて、自分をまったく顧みない存在を想う。
「……さあな」
 と、圭の目つきが変わる。座り込んでいた腰をあげて、扉に耳を当てる。不意に高まった緊張感にアランもつられて動こうとしたが、圭は即座に手を上げて制する。
 アランも神経を研ぎ澄ませて耳を立てるが、殆ど何も音は聞こえてこない。
「足音がする」
 圭はぼそりと呟き、アランの背筋に寒気が走る。
 五月雨に指を添えながら、逆の手で鞄をまさぐりポケギアを取り出す。
「俺が引きつけて時間を稼ぐ。なんとか遠くへ誘導するから、頃合いを見て逃げろ。そのポケギアに、真弥って人の電話番号が入ってる。その人がなんとかしてくれるはずだ」
「圭は」
「言っただろ。俺は死なないよ。絶対に」
 笑った。
 有無を言わさずポケギアを押しつけると、圭は扉に手をかけ、最後にもう一度アランを見やってから、一回り大きくなったような背を向け飛び出した。
 外に出ても、相変わらずの黒い空間。足下のざらつき。闇と同一化しながら、雪の肌は透けるように浮き上がる。彼の予想した通り、先ほどの黒の団の女性は階段を上がって廊下まで来ていた。殆ど足音は消していたが、間一髪察知できたようだ。昔馴染の鋭さと比べれば足下にも及ばないが、自分の五感も捨てたものではない。
 彼女は初めて合間見えた時から少しも変わらない表情で、両手にナイフを携え、圭に焦点をあてる。圭も扉を閉めると、刀を抜き、その名を紡ぐ。暗闇に揺らめく、蒼白い光が手元を照らし、波紋のような影が落ちる。
 クロとの組み手、昼間のバジルとの戦闘、半殺しにあったクロ、そして先程彼女と交えた一瞬、現実を物語る。強くはないのだ。しかしここを退く理由にはならない。怖くはなかった。五月雨のつめたさが全身の隅々まで透き通っていく。水の幻影が脳裏に映り視界と交わり、そのままなぞるように力を放出する感覚を思い描く。正面に構え、彼女の前に立った。
 走り出した瞬間と、どちらが先だったか。
 先ほどまで圭が入っていた部屋の中で何かがけたたましく割れる音が弾け、沈黙が続いていた建物に必要以上に響き渡る。驚愕した圭は身動きを止め咄嗟に振り返った。衝撃からの長い余韻がコンクリートの隙間まで澄んでいく、その間にアランの悲鳴が聞こえて、耳が凍り付いた。
 再度圭は扉を荒々しく開けて、その部屋の光景を前にした。
 正面の窓は破られ、部屋の内側には硝子が力なく散らばっている。破片ばかりできらめく床に立ち、腕を前にかざしている、バジル。窓の外から伸びた木の幹、枝。歪に曲がりながらいくつにも分かれ、しかし、それぞれまっすぐに、突き刺さる先は。
 圭は生唾を呑んだ。写真のように網膜に焼き付く。
 壁に張りつけられ項垂れながら痙攣しているアラン。口から流れる血。戦慄く瞳をぐわんと開けて、呆然と立ち尽くす圭を、視た。
「……け、……、……」
 最早言葉ともとれないようなひっくり返った僅かな声で、名前を呼んだ気がした。
 バジルは伸ばした腕を引く。アランの身体を刺す木がざわつくように動き、刺した隙間から鮮血が零れる。串刺しにされたまま、アランの身体が浮かびあがった。
「やめろ!!」
 圭は悲痛な叫びをあげて、同時にアランも呻く。バジルは上げた腕を叩き付けるように動かして、そうすれば枝がしなりその先に掴んだままの獲物を床へ背中から叩き付けた。轟音と共に膨れあがる埃。枝達はずるり彼の胸から抜けて、飽き足らないように、一つの剣を形成するように集まると、崩れ落ちるアランにまた襲いかかる。やめろ、叫ぶ声も出ず息を止めたまま圭は走りだしたけれど、とどめを刺さんとするその一撃は速度を落とさない。やめろ。声にならない声の裏側、ひん剥くようなオレンジに映る、垂直に落ちる枝、再び胴体を貫く様。切り取り線。暗闇の中で蠢くアランの影。突き刺さった枝を圭は切り裂いた。先端を失った枝は勢いを失い、動きを止める。五月雨を片手に携え、ぐったりとしたアランを抱え込んだ。
 嫌だの代わりに、名を呼んだ。
 太いまざまざとした枝が胸に深く刺さっていた。身体の至る所を抉るいくつもの穴から血溜まりが広がり、あっという間に圭の足下まで浸食する。躊躇せずに胸の傷口を抑え込んだが、手には荒々しい心臓の脈動が伝わってくるばかりで指の隙間からは血が溢れる。まるで止まる気配が無い。血は背中からも流れだしているのがわかった。バジルの放った攻撃は、背中まで貫通していた。時折鋭い痛みに身体が戦慄いて、跳ねるように肉が動く。鼻には目が回るような鉄の匂いが膨れ上がって、身体中を汚染していく感覚がした。塞がっていく。目の前が真っ赤になって、真っ黒になっていく。ぼたぼたぼたと。どろどろと。動脈と静脈の断線、破裂。ひとの内側は外に溢れ激動する。いのちの炎が燃え盛っている。轟々と、死に物狂いで燃えている。
「バジル」
 激しい静寂に満ちた部屋に凛とした少女の声がして、圭は視線を上げた。廊下と部屋を繋ぐ出入り口に、あの黒髪の女性が立っている。
「疾風」
「先生から連絡、あった」
「わかっている。俺も向かう」
 疾風と呼ばれた彼女は踵を返し、何事も無かったかのようにその場を立ち去った。危うく挟み撃ちとなるところだったが、存外あっけない退場である。決して顔色を変えなかった彼女の意図は読めない。が、今はアランだ。時間は相手が死にかけていようと平等に確実に進んでいく。
 場に残ったバジルに圭と戦う意志は無いのか、発動を解いた。暴力的に動き回った木は、何事も無かったかのように沈黙し、二人の様子をじっと眺めた。
「惨めだな」
 バジルが軽蔑の視線を送りながら言い放つと、圭は彼を厳しく睨みつける。互いに、激しい非難の色をぶつけ合った。
 視線を先に逸らしたバジルは圭に背を向け、割れた窓枠へと足をかける。かん、と鉄を踏む音は、ビルを垂直に囲む鉄骨を示す。気付かれないように気配を消して外から近付いていたのか。
 足音が遠くなっていくほど、部屋の静けさが濃厚に強調されていく。
「う……」
 囁く声が呻くように漏れる。その声は己の傷をますます開く。圭は慌てて腕の中に視線を落とした。
「い……っ」
「何も言うな」
 震える声をかける。血を吸って重たくなった長い上着を、アランの指は朧げな動きで掴んだ。
 切れた喉から掠れる呼吸は断続的だ。膨れあがろうと肺や腹が動いてもそのたびに痛みが走るのだろう。必死に痛みを抑えようとしているかのようにゆっくりゆっくりと掠れた息遣いをする。
 どうして。
 つい先程まで、この壁に沿って、不思議な暗闇の心地良さに抱かれ、手を差し出し合うような話をしていたはずだ。その手を離した刹那に、血は乱暴に全てを塗り尽くしてしまった。影を潜めていた暴力に抵抗する間もなく薙ぎ払われていった。途方も無くなって、圭の目の前は呆然と霞んでいく。その視界の中、アランの口が仄かに動く。
「……し、しょ……、……おば、さん、……らな……く……ろ……」
 泡のような譫言を、今度は圭は止めなかった。波紋のように焦点の揺らめく目に圭がどれだけ映っても、彼はきっと別のなにかを見ている。細切れの息と雑音が交じり、口許で落ちる。
「……………………も……と……、……――……」
 水底のような深い静寂で耳を必死にそばだてる。身体を貫く痛みか、感情的なものか、アランの瞳に膜が張る。まばたきのすぐ後に、出なくなった言葉に代わるように溢れ、血と混ざって歪む。冷めていくのを止めるように圭は自分の体温を押し付けるけれど、彼から零れるものばかり熱く、腕の中で身体が急速に衰弱していく過程が伝わってくる。無音の中を進んでいく。この感覚を知っている。覚えている。遠のいていく感覚がする。すり抜けていく感覚がする。どんなに引き留めようとしても。容赦なく彼方の静寂に吸い込まれる。
 どうして。
 引っかかっている指が。
 どうして。
 どうして。
 どうしてこんなにも。
 どうしてこんなにも無力で。
 静かに。
 脈動する。闇の中、彼の温度はしろくなっていく。


 *


 ――速報です。今夜二十時頃、トレアスにおいて火災が発生しました。……トレアス郊外における住宅街にて、近隣住民から、住宅から爆発のような音がし、火がでていると消防に通報がありました。現在も激しく炎上しており、消防隊による消火活動が行われています。火元はガストン・オーバンさんの自宅とみられ、併設している薬局の他、隣接する住宅にも燃え移っている模様です。繰り返します――

( 2016/10/21(金) 00:31 )