君の欠片をさがして
天辺が霞みがかり、隆々とした岩々が立ち並ぶ霊峰。おおよそ生き物の住みつかぬように見えるその山脈の八合目には、周りの灰色の風景とは一線を画した自然があった。
世間から隠れるようにして存在するその場所では、秋の息吹に染まった広葉樹が群生し、その枝々にはたくさんの熟れた果実が実をつける。澄んだ泉はこんこんと湧きだし、小鳥がせせらぐ声の多重奏が響きわたる。
そんな楽園のような自然の中、モミジの枝に腰掛ける影が一つ。
ちょんと乗った耳に、くりんとした蒼色の瞳。柔らかに光を反射する薄桃色の体表に、もちもちとした大きな足。そして身の丈よりも長い尾。ミュウである。
彼は眼下で気持ちよさそうに泳ぐ水鳥をつまらなそうに見つめ、一つあくびをした。
ミュウは退屈していた。彼の周りにあるのは数ヘクタール程の自然。他の場所と比べ、いくら綺麗だといっても毎日いれば飽きが来るのは当然の事といえた。
かといって外の世界へ行くことは考えられなかった。彼は外の世界で一度、人間に捕まったことがあったのだ。彼自身はその事を覚えてはいなかったが、過去に感じた恐怖は無意識のうちに刷り込まれ、外の世界に向かう足を留まらさせた。
そんな彼の唯一の楽しみは、稀に来る来訪者にいたずらやいやがらせをすること。
ミュウは数ヶ月前に来た人間のことを思いだし、口に手を当ててくすくすと笑った。
その人間は、ミュウが木より大きな化け物に『へんしん』して大きな雄叫びをあげただけで、素っ頓狂な声をあげて失禁しながら逃げ帰っていったのだ。
滑稽なその姿が脳裏に浮かぶ。彼の笑い声が森中に小さくこだまする。ひとしきり笑った後、彼は顔面に退屈の文字を滲ませながらつぶやいた。
「また、なにかおもしろい事ないかなぁ」
その時、耳に届く小鳥のさえずる声に変化があった。その変化は、和やかに語り合う声から密かに緊張感を滲ませる声への変化。それは来訪者の合図でもあった。
ミュウの顔は即座に喜面一色に染まった。そして、これから起こりうるであろう楽しみへの期待で胸をいっぱいにさせながら、その方向へと飛び出した。
飛び初めて数分、小鳥の声と自分の目を頼りに、ミュウは来訪者を見つけた。
来訪者はいそいそと、草原で何かを設置しているようだった。木でできた台のような何か。それに白い紙のような物を立てかけるようにして置いている。
ミュウは小さな体躯を木の陰に隠して、来訪者の姿を見つめた。
まず目に付いたのは自身の物と同じような長い尾。少し灰色がかった白い毛皮、そして頭に被った白いベレー帽。ミュウはその種族の名前を知っていた。ドーブルである。
彼は設置が終わったのか、今度は筆のような形をした尾の先を眼前に持ち、何かを凝視している。その視線の先にあるのは棘のような形をした岩肌が連なっている山岳。
そのままドーブルは微動だにせずじっとしている。静寂の中、そよ風が草むらを撫でる柔らかい音がミュウの耳に届く。変化が無いドーブルの観察に飽きたミュウは、木の陰から飛び出して『へんしん』をした。
土が泡立つような地響きが轟く。鳴いていた小鳥達は一瞬にして飛び去り、ミュウのいる場所からの風圧により、草々は逆方向へ頭を垂れる。草原は、先ほどまでの静けさなど嘘のような情景に様変わりした。
ミュウの体は木よりも背の丈が大きな怪物へと形を変えていた。口には所狭しと生えた牙の先から涎がぽたぽたと垂れ、鋭利な爪は一本一本がまるで丸太の様に厚い。
彼は息を吸い、大きな大きな雄叫びをあげた。
轟音、草のざわめきが彼を中心として渦巻く。声に断ち切られた風は悲鳴のような音をたてる。
ミュウは心の中で、どんな面白い反応をするかという期待ででほくそ笑みながらドーブルを見つめた。
だが、ドーブルは何の反応も示さない。だたじっと山岳を見つめたまま、視線すら微動だにしない。
困惑したミュウは、どしどしと大きな足音をたてながらドーブルの一歩後ろまで近づき、もう一度雄叫びをあげた。
自身の耳をつんざくほどの声量。風圧でドーブルが準備していた木の台が倒れる。
だが、ドーブル自身はびくともしない。
自分の喉の限界まで叫んだミュウは、ひいひいと息を切らしながらも、またもや大声を出した。
「た、食べちゃうぞー!」
それでもドーブルの反応はない。えも知れぬ不安と疲労でミュウの声がしぼんでゆく。
「が、がおー」
やはり、目線は変わらない。声と一緒に心もしぼんでゆく。
「がおー……」
何度も何度もミュウは雄叫びとも呼べない声をあげ続け、その度に声は小さくなってゆく。その声が蚊の鳴く音のように小さくなったところで、ドーブルはようやく反応した。
「ああ、君、ちょっと後にしてくれるかな」
彼は、目線はやはり山岳に合わせたまま、鬱陶しげに言った。
「う……うん」
反射的にミュウは頷き、縮こまる。一緒に『へんしん』も解けてしまい、いつもの姿に戻ってしまう。
草原は静けさを取り戻す。数分とも数十分ともわからぬ時が流れた後、ドーブルはようやく満足したように一つ頷いた後、心底面倒そうな顔をミュウの方へ向けた。
「で、何の用かな」
「じゃなくて! どうして驚かないの!」
ようやく我を取り戻したミュウは、頬を膨らませながら叫んだ。
「質問を質問で返さないで欲しい。まあ、親切心で答えてあげるとするならば、幼稚な遊びに付き合ってる暇はないからだ」
「よ、幼稚……!」
ドーブルは倒れてしまった木の台を立て直しながら言った。
「あれほどの質量がいきなり現れるなど、『へんしん』以外にあり得ないだろう。それ以前に、あんな興味津々の目で見つめておいて、気づかれないとでも思っているのか君は」
唖然とするミュウの顔を一瞥し、ドーブルは続ける。
「僕にはやらなきゃならない事がある。こうやって喋っている時間も惜しい。わかったら、どこかへ行ってくれ」
しばらくわなわなと震えていたミュウは、何も言い返すこともできずに
「お、おぼえてろよー!」
と半べそをかきながら、逃げ帰る事となった。
ドーブルは絵を描いていた。山岳を、大樹を、青空を。すさまじい速度で描きあげてゆく。キャンバスには色鮮やかな世界が溢れんばかりに広がっていた。
彼はまるで魔法のようにキャンバスの中へ世界を切り取ってゆく。
ミュウはそんな彼の姿を見る度にいたずら、嫌がらせを仕掛けた。次の日も、その次の日も……
しかし何をしても、ドーブルは眉一つ動かすことはない。相手にされることもない。絵の具を溶く為の水をぶちまけても、すぐに泉から水を汲んで来て何事もなかったかのように再開する。パレットをどこかに隠したとしても、場所を最初から知っていたかのように事も無げに見つけ出し、再び絵を描き始める。ミュウは思いつく限りのいたずら、嫌がらせをしたが、ドーブルはそれを気にも留めることはなかった。
その日もミュウは思いつく限りの嫌がらせを実行に移したが、そのどれもが空振りに終わった。彼は万策尽きて、ドーブルが絵を描いている姿を、彼の後ろから見つめていた。
鮮やかな朱色に染められていくキャンバス。力強く根を張る幹、輝かしいほどに光る沢山の紅葉。彼は夕焼けに染まるモミジの樹を描いていた。
「ね、ね、どうしてこれだけ邪魔されても、ここで絵を描き続けるの?」
かねてより気になっていた事を、ミュウは聞いた。
ドーブルの反応はない。彼は黙々と絵に色を染み込ませる。
「ねぇ、ねぇってばー」
ミュウは地面からふんわりと浮いた。そして回り込んでキャンバスの上部に座り、筆が動くのを邪魔するかのようにして、脚をぶらぶらさせた。自然、彼はドーブルと向き合う形となる。
ため息をつきながらドーブルは答えた。勿論、しっぽの先にある筆を止めることはない。
「君に理解できるとは、到底思えないが……」
ドーブルは一瞬、何かを頭に思い浮かべるように、目を閉じる。
「この場所で、僕の夢が果たされる。そんな予感がするんだ」
そして一息おいて、ゆっくりと噛みしめるようにして言った。
「『芸術』を見つけるっていう夢がね」
それを聞き、ミュウは首を傾げる。
「ね、『げいじゅつ』って何なの?」
「やれやれ、そんなことも知らないのか君は」
ドーブルは再びため息をつく。
「芸術っていうのは、多々解釈があるけど……僕が探している『芸術』は、見るだけで心が暖かく、幸せな気分になるものだ」
彼は何事か確信するかのように、一つうなづいた。
「そんな絵を、僕は描きたい」
話し込んでるうちに、自らの筆が止まっている事に気づいたドーブルは、自らを恥じるようにして頭を振り、絵筆を再び動かし始めた。
「へぇ……そうなんだ」
思案するようにミュウは顎に指を当てて、考える仕草をする。その数秒の後、彼は、すばらしい名案を思いついた!と言いたげな笑顔で、ドーブルに笑いかけた。
「じゃあボクが君より先に芸術を見つけるよ! そうしたら、悔しいでしょ!」
それを聞き、ドーブルは呆れたように嘆息した。
「はぁ、勝手にしなよ」
どうせ無理だと思うけど、と彼は付け加えた。
その次の日から、ミュウの直接的な嫌がらせはぱったり止んだ。その代わり、ミュウがどこからか絵筆とキャンバスを持ってきて、ドーブルの隣で絵を描くようになった。
ミュウは嫌がらせのために、ドーブルよりも先に『芸術』を見つけるため、絵を描くことに決めたのだ。もし、ドーブルより先に『芸術』を見つけたなら、彼はどんな顔をするのだろう。そんな事を頭に思い浮かべ、ミュウは頬を緩ませながら絵を描く。
ドーブルはいつもの如く、ミュウがまるでそこに存在していないかのように扱ったが、段々と、段々とその様子が変化していった。
「あれー? おかしいなぁ、消えないなぁ」
その声に、ドーブルの筆が止まる。
ミュウは首を傾げていた。彼は、乱雑に絵の具の塗り立てられたキャンバスに向かって、何かをこすりつけていた。
その手に持っている物は消しゴム。彼はさぞ不思議だと言わんばかりに、その頭上にハテナマークを浮かべ、必死に消しゴムを擦りつける。
乾いていない絵の具が、その手にへばりつく。色の境界線が滲んでいく。それを横目で見ていたドーブルの肩がプルプルと震え出す。
ミュウは絵を描く度いつもいつも頓珍漢な事をしていた。本人は真面目に絵を描いているつもりだから、なおさら始末に負えない。いや、そもそもその行為を絵を描くと表現してよいのだろうか。水を含ませていない絵筆に絵の具をそのままぶちまけ、キャンバス全体にへばりつける行為は、絵を描いていると言っても差し支えがないのだろうか。その後に水をキャンバス全体にぶちまけ、草原に絵の具を垂れ流す行為は?
水でへなへなにふやけた、絵の具をぶちまけられたキャンバスは絵画といえるのか?
ドーブルはそんなミュウの行為を気にするまい、気にするまいと思いながら、自分の絵の方に集中しようとするのだ。しかし、絵を愛する彼は隣で行われている野蛮な行為を無視することができずにいた。『絵を描く』その行為自体に泥をぶちまけるかのような侮辱に、彼のフラストレーションはどんどん貯まってゆき……。
「あ、破けちゃった」
消しゴムで擦りすぎたキャンバスが音を立てて破れる音と同時に、ドーブルの堪忍袋の尾が切れた。
「いい加減にしろ!」
ドーブルは大声で怒鳴りつけた。そして、持っていた絵筆、即ち自らの尾を地面に叩きつけ、つかつかとミュウの眼前に歩み寄る。彼のその目は血走り、全身は耐えかねたようにわなわなと震えていた。彼の白い毛皮に若干の赤が混じっているようにさえミュウの目に映った。
「絵の具が消しゴムで消えるわけが無いだろう! 間違った箇所は乾かした後、下地の色で塗りつぶせ!」
そんなドーブルの姿を見て、ミュウの口元が緩んだ。
いつも感情を表さなかったドーブルが怒っている。何をしても関心を殆ど示さなかった彼が怒りを露わにしている。その事は、嫌がらせが成功したという事を示していた。もっとも、ミュウ自身には嫌がらせをしているという自覚はなかったのだが。
ともあれ、ミュウはついついうれしくなって、笑顔になってしまったのだ。
「何がおかしい!」
その笑顔をみるなり、ドーブルの勢いは益々ヒートアップしてゆく。
「本当に! 君は! 僕を怒らせる天才だな!」
「そうでしょ! 僕って天才なん……」
「黙れ!」
ドーブルの語勢に押されて ミュウの誇らしげに張った胸がしぼんでゆく。
「そもそも何だこの絵は! 海中を泳ぐツチノコのアルビノか!」
「え、あの空に浮かんだ雲だよ」
その答えを聞き、ドーブルはがなりたてながら笑った。
「雲! 雲と来たか! こいつは傑作だ! どこの世界だったら空に浮かぶ白い原色の固まりがあるんだ!」
言うなり、彼は新しいキャンバスを用意し、乱暴にミュウの眼前に置いた。
「もういい、そこに座って筆を取れ! 僕が一から教えてやる!」
その日から、ミュウはドーブルに絵を教わることになった。最初は嫌がらせのために絵を描いていた彼も、ドーブルの教え方が上手いこともあり、みるみるうちに絵を描く行為に夢中になった。絵を描くことが楽しくて、楽しくて仕方がなくなっていった。空を、泉を、木々を、あらゆる景色を絵に描くと、飽き飽きしたと思っていたこの場所がどうしようもなく美しく、愛おしく感じられた。彼はもういたずらや嫌がらせをしようとは考えなくなった。
彼に絵を教えるドーブルにも変化があった。『楽しさ』という餌がぶら下がっているとはいえ、ミュウはとても真剣にドーブルの話を聴く。まるでスポンジに水が染み込むような早さで知識を吸収してゆく。その姿勢に、ドーブルは感心した。
そしてなにより、絵を描くときにミュウがみせるまぶしいほどの笑顔が、彼の荒んだ心をほぐしたのだ。
「あ、あの雲、わたあめみたいでおいしそう」
「君は相変わらず一次欲求が強いね」
そよ風が優しく二匹を撫でる。様々な草達が煽られ揺れる。暖かな日差しを浴びながら、彼らは並んで絵を描いていた。
二匹の被写体は透けるような青空、その場の標高が高いせいで、雲の位置は驚くほど低い。手が届きそうな程近い積雲は大きな存在感を持ってミュウの瞳に映る。彼にはそれが、とてもおいしそうに見えた。
「ねードーブル。空を飛んで食べにいこうよー」
ミュウは無邪気に笑いながら雲を日光の輝きと共に彩る。
「無茶を言わないでくれ。僕は君と違って飛べない」
彼の左方でドーブルは筆を動かしながら文句を言った。
同じ風景をモチーフにしているというのに、二匹の絵には大きな違いがあった。ドーブルの絵は、まるで空間ごと切り取って張り付けたかのように、繊細で実在感のある絵。ドーブルの絵はある意味完成されていた。それのに対してミュウの絵は乱雑であった。良く言えば動きのあるタッチで、描きたいものだけを描いているかのよう。事実、積雲の周りにある細かな巻雲は申し訳程度に色を置いているだけ。それでも、ミュウの絵にはこれからの可能性を感じさせた。
ミュウはにこにこと、太陽を思わせる笑顔でドーブルに語りかけた。
「絵を描くのって、楽しいね」
誰も来訪者が訪れる事無く退屈だった日々は姿を消した。今あるのは新しい発見に満ち満ちた日々。ミュウはドーブルに感謝していた。楽しくて、楽しくて、幸せで胸が一杯になっていた。
「ずっとずっと、こうしていられたらいいね、ドーブル」
風がここにある時間の流れように、穏やかに通り過ぎる。ミュウは喜びを顔一杯に表現した。
「ああ、そうだね」
くすり、とドーブルも笑ったように見えた。
日差しが泉に跳ねてキラキラと踊る。水のせせらぎは耳に心地よく響く。
二匹は並んで絵を描いていた。その日のモチーフは小さな泉。二匹はさらさらと色を重ねてゆく。
ドーブルは心地よいぬるま湯に浸かっているような安心感に包まれていた。散々鬱陶しいと思っていた隣の無邪気なポケモンが、今では自分の愛弟子であり、隣で共に絵を描いているという事実。
彼は苦笑した。世を捨てて、ただ『芸術』のみを求めて訪ねたこの地で、この様な安らぎに包まれるとは思ってもみなかったからだ。
もちろん『芸術』を描くことは諦めたわけではない。だが、それと同じように、この宝石のような美しい時間が大切に思えてならないのも確かだった。
そういえば、とドーブルの頭に以前よりあった疑問がふと浮かんだ。
「君、ちょっといいかい」
「んー、いいよー」
彼は隣にいる薄桃色のポケモンの種族名を知らなかった。
「すまないが、僕は君の種族名を知らない。呼びにくくて仕方がないから、教えてくれないか」
「うん、ボクはね……」
愛弟子は何の気無しに言った。
「ミュウっていうんだ」
ドーブルの頭が一瞬固まった。からかっているのではないかという考えが頭をよぎったが、隣でにこやかに筆を走らせる愛弟子にその様子はない。
ミュウ、幻のポケモン。幻故に、その姿を見たものは殆どおらず、言い伝えの中にすら正確には残っていない。一説によると、すべてのポケモンの始祖であり、永遠を生きるポケモン。
その知識と、隣で無邪気に筆を走らせるポケモンとが一致しなかった。
「君、何年くらい生きているの?」
疑わしげにドーブルは質問を重ねる。
「んー、覚えてないなぁ。多分、ずっとじゃないかなぁ」
その言葉でドーブルは確信した。彼がミュウであるという事に、偽りはない。
彼は知っていた。長年を生きる伝説、幻といったポケモン達は、皆須くして、百年以上昔の事を覚えてはいない。
生き物の脳の容量は限られている。脳を持つ生き物の宿命として、百年以上記憶を保つことはできない。限られた脳という器の中、古い記憶を持っている状態で新しい記憶を入れようとするならば、頭がパンクしてしまうからだ。
彼らは新しいものを見る度、聴く度、自然と古い記憶は滑り落ちてゆく。そのくせ、本能で自分が長年生きていることを確信しているのだ。
「そうか、君が……」
未だ信じられないとでも言いたげな顔で、ドーブルは愛弟子、ミュウの顔をまじまじと見つめた。
「どうしたの? ドーブル」
ミュウはドーブルの様子の変化に違和感を感じ、心配げに顔をのぞき込む。
「いいや、何でもないさ」
ドーブルは頭を振った。隣にいるポケモンが何者でも関係ない。それは、今二匹で絵を描いていることに比べれば、些事に違いがなかった。
数え切れない程の季節が移り変わる。変わらず、二匹は並んで絵を描いていた。変わったことと言えば、ドーブルの身体がが細く、小さくなっていったことだ。彼の光をまぶしく反射していた白い毛皮は艶を無くし、顔には皺が刻まれていた。
さらに月日が流れる。ドーブルはちょっとした事ですぐに疲れてしまい、二匹が共に絵を描ける時間は徐々に減っていき……ドーブルが倒れた事で、零になった。
夜、りんりんと鳴く鈴虫の声が遠く聞こえる。月の光があまり届かない洞窟の中、その奥地。ミュウは貯蔵している木の実を両手一杯に取り出した。そして一つ頷いた後に、ドーブルが寝ている場所へ向かっていた。ドーブルはちょっと長い風邪にかかってるだけで、沢山食べてちょっと休んだら元気になる。ミュウはそう信じていた。
ミュウは『老い』の存在を知らなかった。ミュウは『死』の存在を知らなかった。親というものも、生まれた故郷も、ドーブル以外に友達がいたのかいなかったのかすら知らなかった。自身が老いることも死ぬことも無く、ずっと一匹で生きてきたのだから当然ともいえた。
彼は抱えた木の実を落とさないようにしてよたよたと歩き、寝床へたどり着いた。
だが、そこにはあるはずのドーブルの姿はなかった。不思議に思って辺りを見回すと、求めていた姿を見止めた。
先ほどまで寝ていたドーブルが歩いて、外へと向かおうとしているではないか。
「ドーブル、どこへ行くの」
「ああ、気晴らしに外で絵を描こうと思うんだ」
ドーブルは立ち止まってミュウの方を向いた。その顔に先程まであった疲労の色は、だいぶ薄れているように見えた。
先ほどまで寝ていたというのに、急に動いて大丈夫か心配になったミュウは声をあげた。
「こんな時間に? ボクも行くよ!」
ドーブルは静かに首を振った。
「いや、大丈夫、元気になったんだ。それに、ひとりで絵が描きたい気分なんだ」
その声を聴き、ミュウは安心した。彼の声には張りがあり、表情もいつもより元気そうに見える。
ミュウはうれしくなって飛び上がった。
明日からまた、一緒に絵が描ける。明日は一緒に何を描こう? モミジかな? 泉かな? 大きな岩かな? それとも…… 嬉しそうに思案するミュウの顔は晴れやかだった。
「ミュウ、その前に、ちょっと顔を見せてくれないか」
「うん? もちろんいいよ!」
言うなりミュウはドーブルの眼前まで歩み寄った。洞窟の入り口からかすかに射す月光が、ドーブルの顔を陰影深く映しだす。
「ありがとう、ミュウ」
ドーブルは笑っていた。幸せそうに、目尻に大きな皺を浮かべて。
朝、小鳥の鳴く声が耳に優しく届く。ミュウは草でできたベッドで目を覚まし、一つ伸びをした。ふと昨晩の事を思い出して隣を見たが、そこにドーブルの姿は無い。
ああ、まだ絵を描いてるんだね。
そう彼は思った。ドーブルは熱中すると時間を忘れてしまうのだ。彼は画材道具を抱えて、ドーブルの足跡を辿った。
足跡は続く。澄んだ水をたたえる泉を越え、日溜まりをこぼす森を抜け、出会った日の草原へと繋がっていた。
そこで、ミュウはドーブルの白い姿を見つけた。
ミュウはその背中に声をかけようとして……息を呑んだ。
「ドーブル!」
ドーブルは倒れていた。ミュウは駆け寄り、彼の紙のように軽い体を抱き起こした。冷たい感覚が手のひらを包む。
「ドーブル、ねえ、起きてよ! ねえってば!」
彼の腕がだらんと垂れ、その手の平から尾が音を立てて滑り落ちる。
「ドーブル……」
いくら揺すっても返事はない。目を開けることすら無い。死の概念を知らないミュウにも、もうドーブルは動かない、そう悟るのに時間はかからなかった。
ミュウの瞳からは涙がぽたり、ぽたりと垂れ、腕の中のドーブルの体を濡らす。小さな水たまりがいくつもいくつも形作る。朝の光は水滴に反射してきらきらと輝く。
いつまでそうしていただろうか、ふと、ミュウは何かに導かれるようにして顔を上げた。そこには、キャンバスいっぱいに描かれた、自身の笑顔があった。
「君は、『芸術』を見つけるんだよね」
ミュウの体ががたがたと震える。収まりかけていた涙が、再び堰を切って溢れ出す。
「なら、何でボクの顔なんて描いてるんだよ……」
腕の中のドーブルは答えない。彼は口の端を上げ、笑っているようにすら見えた。
「ねえ、どうして……」
ミュウは泣いているのに、絵の中のミュウ自身は笑っていた。まぶしい程に輝く太陽のような笑顔。ドーブルが描いたそれはきっと、彼にとっての……。
二匹が出会った日のように、草原に吹く風が柔らかくミュウの頬をなでる。静寂の中で彼は俯き、ドーブルとの思い出を反芻していた。出会った日、ドーブルをどうやって困らせようかとばかり考えていた日々、そして、彼が語る夢を聞いた日。その中で、ミュウは自身の夢を見つけた。
ミュウは涙を乱暴に腕でごしごしと拭い、顔を上げた。
「ボクが君の代わりに、『芸術』を見つけるよ。そうしたら……」
彼の瞳は涙に濡れながらも、確かに決意の炎を灯していた。
数え切れないほどの月日が流れる。ミュウは『芸術』を探していた。ドーブルが探していた『芸術』を必死に、何かに追われるようにして探していた。彼は青く高い空を描いた。彼は美しく輝く泉を描いた。彼は生を謳歌する小鳥を描いた。目に見えるもの全てを描いた。それでも『芸術』は見つからない。見るだけで、心が暖かくなり、幸せな気持ちになる『芸術』が、影も形も見あたらない。それでもミュウは絵を描き続けた。絵を描いている時だけが、ドーブルを失った悲しみを和らげさせた。
小さな芽が見上げるほどの大樹に姿を変えるほどの長い年月が過ぎる。彼は変わらず絵を描き続ける。その中で
不意に、その日は訪れた。
ミュウはいつもの様に絵を描いていた。その日のモチーフは泉。その途中、遙か昔ドーブルと一緒に描いた日を思い出しているうち、とある違和感を感じた。ドーブルの顔が、なかなか思い出せない。
ど忘れかな? と頭を巡らせる。ドーブルと出会った日を、彼の夢を、共に絵を描き続けた日々を……思い出せない。
彼の全身から冷や汗がどっと溢れ出した。
どんな宝石よりも美しく輝き、どんな宝物よりも大切な記憶が 薄く、小さくなってゆく。ドーブルの顔がかすんでゆく。
彼の脳内にある記憶領域は限界を迎えていた。脳のパンクを防ぐため、無意識は古い記憶を自動的に削除していく。彼の意志に関係なく、どんな大切な記憶であろうとも。
「イヤだ!」
ミュウは叫んだ。
「ボクは、君を忘れたくないんだ!」
初めてだった。失いたくない記憶があると知ったのは。記憶を失いたくないと願ったのは。
彼は筆を強く強く握った。そして白いキャンバスに向かい、筆を踊らせる。気が狂ったような速度で。
消え去りそうな記憶から、在りし日に並んで絵を描いた自身とドーブルの姿を描く。波一つ立たない水面のような、静謐な雰囲気を漂わせたドーブルの姿を描く。猛り燃え盛る炎の如く、眉をつり上げ怒声を張り上げるドーブルの姿を描く。穏やかな午後の陽気の中、空を見上げるドーブルの姿を描く。かすむような淡い月光の中。笑うドーブルの姿を描く。
何枚も何十枚も何百枚も描き続ける。筆を握る手に血が滲む。日が落ち、辺りが真っ暗になっても描き続ける。日が昇る。忘れてしまう恐怖に突き動かされて、彼は描き続ける。何日も何日も、眠ることすらせずに。
いくつの日が昇り、落ちたのだろうか。ふと、絵を描き続けていたミュウの筆の動きが、止まった。
「ボクは、誰を描いていたの」
キャンバスの中で自身と共に絵を描いている『誰か』にミュウは語りかけた。
「君は、誰なの」
彼の頭から、大切な思い出が消えていた。
「どうして……どうしてボクは泣いているの」
涙は止めどなく流れる、耐えようのない喪失感が彼を襲う。なぜ悲しんでいるのか、なぜ泣いているのか、その答えは一行に見つからない。
「ねえ、教えてよ」
キャンバスの中の『誰か』は黙して、何も語ることは無かった。
彼は捜していた。何を捜しているのか、いくら考えても答えは見つからなかった。
それでも彼は捜していた。自分自身の半身を無くしたかの様な喪失感が胸を占めていた。自分自身の半身を無くしたかの様な悲しみが胸を占めていた。半身を無くしたまま、生きていく事はできない。
故に彼は捜していた。
絵を描くことで、捜していた。
草々がそよ風に揺られてさざめく。春の日差しは柔らかく照り、若草に活力を与える。
ミュウは絵を描いていた。キャンバスいっぱいに草原を表現する。絵筆は意志を持っているかのように縦横無尽に駆け巡る。
そんな彼の後ろから声がかけられた。
「見つけましたわ」
ミュウは筆を走らせる腕を止め、振り返った。
「この高く険しい霊峰の奥地……人を襲い、喰らう者がいると言い伝えにありましたわ。それは、貴方ですわね!」
まず目に付いたのは頭上より生える二本の触覚、その頭には大きな帽子のような葉を被っており、腰からのびる葉はまるでスカートかマントの様……ハハコモリは端の欠けた葉の様な腕でミュウを指した。
「その悪辣非道な行い、天が許しましても、わたくしは許しませんわ!」
溌剌とした甲高い声が草原中に響きわたる。
「そう、なんだ」
ミュウさして興味はなさそうにして、顔を伏せた。
そんな彼の様子を見たハハコモリは、勢いよく指した腕を所在なさげに下ろした。
「張り合いがありませんわね。大変かわいらしい姿をしてらっしゃいますが……言い伝えの化け物は、本当に貴方ですの?」
彼女はため息を一つ吐いて首を振った。
「思い出せないんだ」
ミュウは呟いた。
「とても、とても大切なことなのに」
一言、一言、悲痛な声を絞る様に吐き出す。
「どうしても、思いだせないんだ」
パレットに涙が落ちる。隣あった絵の具が混じり合い、マーブル模様を作り出した。
泣いている彼の姿にハハコモリは、ばつが悪そうな顔をして頬を一つ掻いた。
風が静寂を運ぶ。ミュウの嗚咽だけが辺りにこだまする。
何か考えるように俯いて目を閉じていたハハコモリは、沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「はあ……いいですわ、貴方が自らの罪を思い出すまで」
触覚を葉のような腕でかき上げ、再びミュウを指した。
「わたくしが監視して差し上げますわ!」
ミュウは毎日絵を描く。それ自体は今までと変わりがなかったが、その後ろに付き添う影が一つ。ハハコモリ、彼女は絵が完成していく過程をじっと見つめ、時折感心したように息をもらしていた。
ある日、ハハコモリは言った。
「わたくしにも絵を教えてくださいません?」
特に断る理由も無かったので、ミュウは頷いた。
「でも、君はボクを倒すんじゃなかったの?」
ハハコモリは顔を伏せて呟いた。
「……いえ、もう、それは良いんですわ」
一拍の後、彼女は伏せていた顔を上げて、満面の笑みを浮かべた。
「だって、もっと素敵なもの、見つけたんですもの」
その日から、ハハコモリに絵を教える日々が始まった。彼女はたどたどしい手つきで絵を描く。だが、その眼差しは真剣そのもの。彼女はめきめきと腕を上げ、いつしかミュウの隣で絵を描くようになった。
ハハコモリは、凛としつつも暖かな雰囲気でミュウを包む。彼女の隣にいると、安らぎで胸がいっぱいになる。ミュウは、胸にぽっかりと空いていた穴が少しふさがる様な感覚を覚えた。
二匹は並んで絵を描く。鮮やかな色彩でキャンバスを彩る。それは、どこかであった情景のような気がして、ミュウは笑った。ドーブルとの記憶をなくしてから、初めて笑った。
そよ風が並んで絵を描く二匹を撫でる。空は低く、積雲が大きな存在感を持ってミュウの瞳に映る。
彼はその光景に既視感を覚えた。
「ずっと、ずっと昔に、こんな風に雲を描いていたような気がする」
ミュウは空を見上げ、思い出せない過去に思いを馳せた。
「あのわたあめみたいな雲を、こうして、並んで……」
ハハコモリは筆を止めて、ミュウに囁いた。労るように、やさしく。
「思い出したい時は、目を閉じてみるといいと思いますわ」
言い、自ら瞳を閉じる。
「目を閉じる事は、追憶の証ですもの」
その言葉に、ミュウは首を小さく二度振った。
「閉じたよ、何回も、何回も。でも、ダメだった」
彼の胸にある穴が、ヒュウヒュウと音を立てる。
「もしかして、ボクはもう思い出せないのかもしれない」
悲しみで、彼の瞳にかすかな涙がにじむ。
「いいえ、そんなことはありませんわ」
ハハコモリはミュウに近づき、泣く赤子をあやすかのように彼の頭を一つ撫でる。
「貴方には絵がありますわ。記憶の欠片を絵に表現する事ができるかも……」
風が凪ぐ。彼女の触覚が微かに揺れた。
「でも、目を開けてしまったら、せっかく集めた欠片が散らばってしまうかもしれませんわね」
「じゃあ、どうやって」
ミュウは何か、期待するような眼差しをハハコモリに向けた。
「そうですわね……」
ハハコモリは思案するように顎に手を当て、一つ俯いた。
「目を閉じて描けたなら、もしかしたら」
荒唐無稽な話に、ミュウはくすりと笑った。
「無理だよ、目を閉じてたら、筆にどの色が付いてるのか、何を描いているのかすらわからないじゃないか」
「ええ、そうですわね」
ハハコモリも、ミュウにつられて笑った。
「雪だ……」
ミュウのその言葉に、ハハコモリは空を見上げた。
低い曇天、ちらちらと舞い落ちる雪の結晶、日の淡い光を受けてかすかにきらめく粉雪。
それを見て、ハハコモリは自分が捨てられた日のことを思い出した。
雪がしんしんと降り積もる夜、彼女は人間の主人に捨てられた。
この悪鬼が住まうといわれる霊峰の奥地にきたのも、化け物を倒し、主人を見返してやるためだった。
でも、今は、そんなことはどうでもよかった。彼女はここで大切な居場所を見つけた。
ハハコモリはミュウに後ろから抱きついた。
「ふふ、あったかい、ですわ」
暖かく幸せなこの場所で、ミュウの温もりを感じる。彼女は目頭が熱くなるのを感じた。
「どうしたの、ハハコモリ」
「いえ、とても、とても貴方が暖かくて、幸せで」
雪は降る。まるでフラワーシャワーのようにひらめきながら、二匹へと舞い降りる。
ハハコモリは冗談めかして微笑んだ。
「瞳から幸せが溢れただけですわ」
「ふふ、なにそれ」
二匹に降り注いだ雪は、儚く溶けていった。一瞬の光を残して。
二匹は並んで絵を描く。季節がいくつもいくつも過ぎる。時は無情に流れてゆく。
ハハコモリの姿が細くなってゆく。艶やかな光を放っていた、全身に纏う葉の数々は徐々に皺にまみれ、しおれてゆく。それでも彼女は幸せそうに笑いながら絵を描く。ミュウは猛烈に嫌な予感を感じつつも、ハハコモリと同じように笑いながら絵を描き続けていた。幸せをかみしめるように、それが一時のものだと知っているかの様に。粉雪のように儚く溶けてゆく事を知っているかの様に。
彼らが出会って十何回目の春であろうか、穏やかな風が流れる草原の午後。絵筆を握りながらハハコモリは倒れた。
「ハハコモリ!」
彼女が倒れる姿を見たミュウは、絵筆を投げ捨てながら駆け寄り、彼女の羽のように軽い体を抱き起こす。
「ふふ、砂時計の砂は落ちきってしまいましたわね」
少し残念そうな声色でハハコモリは言った。彼女はしわくちゃになった葉のような腕で、ミュウの頭を慈しむように撫でた。ミュウは涙を瞳に溢れさせながら、震えた声を漏らした。その言葉に何の疑問も持たずに。
「君も、ボクをおいていくの」
ハハコモリはその言葉を聞くと、一瞬大きく目を見開き
「今、確信しましたわ」
そして、苦痛に喘ぎながらも、にこやかに笑った。
「きっと、貴方の捜しものは見つかりますわ」
ハハコモリは葉の先でミュウの涙を拭う。
「貴方の記憶は、確かに貴方の中に残ってますわ……大切にしていたんですもの、当然ですわね」
ミュウの涙は拭った先から次々と溢れだし、ハハコモリの頬をも濡らす。
「ただ、それは他の記憶に砕かれて、散らばってるだけ。小さな、小さな欠片になって」
ハハコモリは、ミュウの目を正面からじっと見つめた。
「『むしのしらせ』、ですわ。お役に立ちまして?」
そして彼女は弱々しい、仄かな笑顔を浮かべた。その姿に感極まってミュウはハハコモリを力一杯抱きしめる。その腕はガタガタと音を立てて震えていた。
「役に立ったよ、役に立ったから……お願い、ハハコモリ」
おいていかないで。震える腕は語っていた。
ハハコモリは瞳を閉じて、彼の耳元で囁いた。
「また、思い出の中で、お会いしましょう。何度でも、何度、でも」
ミュウの頭を撫でていた腕が、だらんと落ちる。枯れ木の最後の一葉が落ちるように、音も立てずに。
「ハハコモリ?」
彼女の声は無かった。しんと静まる草原の中、風の音だけが響いていた。
ミュウは絵を描いていた。大切な友達、ハハコモリの絵を。一匹きりで、朝も昼も晩も、休むことなど知らぬ様に。また忘れてしまう。また大切な記憶が消えてしまう。その考えに追われるようにして、ハハコモリを描き続ける。在りし日に並んで絵を描くハハコモリの姿を描く。凛とした表情でこちらを指すハハコモリの姿を描く、しんしんと積もる雪の中、瞳に涙をためながら笑うハハコモリの姿を描く。キャンバス一杯に描く。
気が狂った様にして描く。筆を握りしめて描く。握った手に血が滲む。かさぶたができる度に剥がれおち、手のひらから血がポタポタと垂れる。それでも彼は描き続ける。疲労で筆を握ったまま倒れる。その度、飛び起きてまた描き続ける。ハハコモリと過ごした日々を、脳裏に鮮やかに描きながら。
時が過ぎる。幾百もの季節が流れたある日、ミュウの手の平から筆は音を立てて滑り落ちた。
「君は、誰なの」
彼は絵の中で自らと共に絵を描いている『誰か』に語りかけた。そう、遙か昔と同じように。
「またボク、忘れちゃったんだ」
痛みを伴う喪失感が彼を襲う。胸ががらんどうのようになり、そこを風が音をたてて通り抜けてゆく。悲しみが吹き抜けてゆく。
「でも、これだけはわかるよ」
ミュウはキャンバスの中にいる『誰か』の顔を見つめ、一粒の涙を流した。
「君は、ボクの友達だったんだ」
彼は悲しみに口をひきつらせながらも、笑った。そこには、一つの欠片があった。
彼は捜していた。大切な友達を捜していた。大切な記憶を捜していた。大切な夢を捜していた。
胸にぽっかりと空いた二つの穴、そこに収まるものを捜していた。
彼は欠片を捜していた。散らばった欠片を捜していた。
絵を描くことで、捜していた。
ミュウは知っていた。欠片が自分の頭の中にあることを。記憶ではなく、知識として知っていた。その確信が、頭の中にある欠片を見つけていく。絵を描くことで見つけてゆく。ドーブルから貰った絵の技術、ハハコモリから貰った確信、ミュウの中にあるそれらが欠片を見つけてゆく。
それは夕日に赤く染まるモミジの大樹にあった。それは月光を受けて仄かに光る洞窟にあった。それはかすかにきらめく、粉雪が降りそそぐ草原にあった。絵を描く度、頭の中にある欠片は集まってゆく。幾年もの時間をかけて集まってゆく。
彼はたくさんの欠片を大事に大事に、胸の中にしまった。一つもこぼしてしまわないように。
空に浮かぶ、大きな大きな綿飴のような積雲。
草原に吹く風はミュウの頬を撫で、通り過ぎてゆく。照る春の日差しは、彼の全身に柔らかく降り注ぐ。
彼はキャンバスに筆を走らせる。力強いタッチで草原を鮮やかな若草色に彩る。空を透けるような青で彩る。大きなわたあめの様な積雲を透明感のある白で彩る。
描き終えると、ミュウは空を見上げた。いつか見たわたあめのような空。感じる懐かしさに、彼の頬を一筋の涙が伝った。
思い出の欠片は言った。
『目を閉じて描けたなら、もしかしたら……』
彼は驚いたように一瞬瞳を大きく開けた。
そして一つ頷くと、瞼を閉じた。それは追憶の証。
筆を握る腕はぴくりと動き、キャンバスへと向かってゆく。何かを描こうとする。
ミュウはひとりでに動く腕に、身を任せた。
『絵を描く』何万回も何十万回も繰り返したその行為。何百年も、誰よりも絵を描き続けた彼の腕は覚えていた。どの場所に、どの色が置かれているか、水を含むタイミングはいつであるか、そして今、何を描いているのか。
集めた欠片は形を作る。パズルのピースが噛み合うように、一つ一つがぴったりと重なりあい、組みあわさってゆく。
名残惜しいような余韻を残し、筆は動きを止める。
ミュウは目をそっと開けた。
瞬間、彼の心が脈動した。心臓が激しく動き出し、血が全身を勢いよく循環する音が耳にうるさいほどに届く。指は激しく震えだし、筆と触れ合うパレットはガタガタと音を立てた。
そこには大切な友人がいた。ドーブル、ハハコモリ。気が狂う程に求めてやまなかった存在。彼らがのキャンバス中で、満面の笑みをうかべている。眼前に広がる草原と積雲を背にして、幸せそうに笑っている。
遙か過去、忘れまいと何百枚も描いた彼らの絵、それらを描いた経験は覚えていた。その経験が手を引くようにして、集まった欠片から記憶を創り出した。
記憶が頭の中を走馬燈のように走り抜ける。幸せだった日々が頭の中を所狭しと駆け回る。
ミュウは全て思い出した。瞳から涙がこぼれ、頬を伝う。胸に空いていた二つの穴が、充実感と共に塞がる感覚を味わった。
ふと、彼はキャンバスに描かれた彼らの間に、ちょうど誰かが入るような隙間があることに気づいた。
ミュウは知っていた。そこに、何が入るのか。
彼は震える腕で筆を握りなおし、パレットから色を掬い出して、何かを描き始めた。
さらさらと音を立てて筆は動く。色は一つの形を成してゆく。
それは太陽の様な笑顔。ドーブルの描いたものと寸分違わず同じ、ミュウの笑顔。
描き終えると、役目を終えたと言わんばかりに筆が手の平からこぼれ落ちる。
「ねえ、ドーブル、ハハコモリ」
ミュウはキャンバスに向かい、語りかけた。
「ボクはこの絵をなんて呼ぶか、知ってるよ」
キャンバスではドーブル、ミュウ、ハハコモリが並んで笑っている。幸せでしょうがないといった風に。生を謳歌するかの様に。
「だってこんなに暖かくて、幸せな気持ちになるんだもの」
彼の涙は止めどなく流れ、頬を伝い、顎の先から落ちてゆく。
「きっと、この絵は、『芸術』っていうんだ」
涙で顔をくしゃくしゃにしながらも、ミュウは笑った。キャンバスに描かれた、太陽を思わせる笑顔で。