架かる虹に、君を想う
彼女は待っていた。
じりじりと刺すような日差しが照りつける日も、叩きつけるような土砂降りの雨にさらされる日も。
彼女は待っていた。
びゅうびゅうと吹きすさぶ風に頬を打たれる日も、こんこんと積もる雪に凍える日でさえ。
彼女は待っていた。
幾度と無く思い返しても、決して擦り切れる事無く光を放つ記憶に支えられ。
彼女は待っていた。ただ一つの言葉を信じて。
青々と茂る山林の中、背の高い楓からこぼれる日の光を一身に浴びながら、少年は途方に暮れていた。
彼の背の丈は百三十程。華奢な体躯、彼の足下に転がっている小枝のようにポッキリとおれてしまいそうな程に細い手足、あけびの実を割ったような白くすべすべの肌、そしてその肌を守るかのように延びる紺色の長ズボン。
少年は額に浮かぶ珠のような汗を白いシャツの袖で拭った。初夏だというのに彼は長袖長ズボンという出で立ちであった。
彼がこのような場所にいるのには訳がある。少年は毎日塾に通っていた。学校から帰ると、遊ぶ間もなく塾へと出かける。小学生であるというのに彼は勉強漬けであった。両親にプレッシャーを与えられ、楽しそうに遊ぶ友人を尻目に塾の勉強道具が詰まったリュックサックを持つ。彼はそんな日々に心底うんざりしていた。
だが、塾を辞めたいと袖に縋るも、両親はにべもなくそれを却下した。何度頼み込もうとも答えは変わらない。「お前の為だから」と言い、嫌がる少年を塾へと連れていく。彼の周囲は彩りを失い、何もかもが灰色に染まっていた。
そんな日々に少年のフラストレーションは徐々に溜まっていき、その日、それが爆発した。
塾用のリュックサックを投げ捨て、彼は駆けだした。行く宛もなく、ただ足の赴くままに。横断歩道を越え、公園を越え、ガードレールをまたぎ、木々のアーチをくぐり抜け……へとへとになって、彼は座り込んだ。
彼の気分は爽快だった。胸の中のもやもやは心地よい疲労で姿を消しており、いつになく彼の心は晴れやかだった。
息も絶え絶えに彼は周りを見渡した。背の高いいくつもの樹木が、背の低い彼を見下ろしていた。前にも、後ろにも、まるで彼を取り囲むように。道無き道を無我夢中で駆けた彼は、帰り道を覚えてはいなかった。
結果として、少年は見知らぬ地で迷子になっていた。
少年はごわごわとした草の上に腰を下ろし、大きなため息を吐いた。歩けど歩けど道が開ける様子は無い。先は樹木に遮られて伺い知る事すらできず、町の方向が全くわからなかった。木々のざわめきと鳥たちの鳴き声が、混線した電話をきくように、遠く近く入り乱れて彼の耳に届いた。
そんな時、その音を遮るようにして何とも形容し難い間抜けな音が辺りに響いた。少年の腹の虫が鳴ったのだ。彼は朝食をとって以来、何も口にしてはいなかったのだ。既に日は高くのぼり、正午過ぎを示していた。だが腹が減った所で、辺りにパンや握り飯が落ちているわけもない。彼はもう一度ため息をつき、立ち上がろうとしたその時、頭にこつん、と何かが当たった。
拾い上げてみると、それは彼の手のひらにすっぽり収まる程の大きさの、ひょうたんのような形をした山吹色の木の実であった。
少年が木の実が飛んできたと思われる方向を見上げてみると、そこに、枝に腰掛ける一つの影を見止めた。
アクアマリンとクリーム色にわかたれた、滑らかに光を反射する肌、眠たげに半分閉じたような鳶色の瞳、尾の先についた、そこらに群生する楓の葉の様な装飾。
少年はその姿を、図鑑で見たことがあった。ツタージャだ。しかし、彼は頭にひとつ疑問符をうかべた。彼の記憶が正しいならば、ツタージャの肌は若草色をしているはず。だが頭上から見下ろすツタージャの肌は青みがかった緑色をしており、記憶との細かな差異に少年は首を傾げた。
ふと、ツタージャが何かを持っているのに気がついた。それは、今現在少年が持っているものと同じ木の実。三分の一程にかじられているそれを、ツタージャは一気に口の中に放り込んで咀嚼した。少年は、ツタージャが木の実をわけてくれたのだと、今更ながらに気づいた。
「あ、ありがとう。いただくよ」
ツタージャは少年の言葉に一つ頷いた。少年はそれを確認すると、恐る恐る山吹色の木の実をかじった。小さな口の中にわずかな酸味と甘酸っぱい芳醇な香りが広がり、彼の体中に染み渡っていく感覚をおぼえた。彼はあまりの美味さに大口をあけてかじりついた。あっと言う間に木の実は少年の腹の中に収まった。
少年は満足げに、ぽんぽんと満たされた腹を二度叩き頭上を見上げると、ツタージャがじっと少年をじっと見つめているのが見て取れた。その眼差しには僅かながら期待の色が灯っていた。恐らく少年が食べている間ずっと見つめていたのであろう。目が合ったツタージャは、気恥ずかしさのためか、ぷいと視線を逸らした。
少年の胸中にへばりついていた、迷子になってしまったという不安は、そのかわいらしい姿にきれいさっぱり吹き飛んだ。
彼はにっこり笑って声をかけた。
「ね、君もひとり? だったらさ、一緒に遊ぼうよ!」
その声に、ツタージャはそっぽを向いたまま一つ頷いた。
「もーういーいかーい」
少年のその声に反応して、ツタージャの甲高い鳴き声が山林に響く。少年は大樹の方を向いて閉じていた目を開いて、声のした方向へと走り出した。
ツタージャに出会った日から、少年の灰色の日々は鮮やかな色彩に彩られた。彼は怪しまれない範囲で塾を休み、山林へ出かける。山の中でできた小さな友達との密会は、少年にとってスリル溢れることであったし、学校でのしがらみや勉強から解放される一時は貴重であった。そして何より、ツタージャの存在が彼の心に火をつけた。
ツタージャはあやとりや剣玉、追いかけっこ、そして今やっているかくれんぼといった少年の提示する遊び、そのどれもに目を輝かせる。いつも最初は興味なさげにそっぽを向くが、その瞳の輝きは隠せない。そして、遊んでいる最中に時折みせる眩しいほどの笑顔が少年をひきつけて離さなかった。いつしか彼にとって、ツタージャの存在はとてつもなく大きなものになっていた。
「さーて、どこに隠れてるのかなー」
一人と一匹だけのかくれんぼ。心底楽しそうに少年はツタージャを探す。目を皿のようにして、きょろきょろと。高い場所から照りつける太陽が、その光を木漏れ日として土に投げかけた。
大体ツタージャの隠れる場所は決まっていた。大樹の陰、掘った穴の中、背の低い樹の上、枯れ木の洞の中など。少年もツタージャも、相手の隠れ場所のパターンを覚えたせいか、かくれんぼを開始して、たいてい五分以内に見つかってしまう。
今回も少年はすぐにツタージャを見つけることができた。ツタージャは枯れ木にできた洞の中で小さく縮こまっていた。少年は、見つけた!と声をかけようと思ったが、ふと、その胸中にいたずら心が芽生えた。このまま放っておいたら、ツタージャはどんな反応を示すのだろう。
彼はほくそ笑みながら、木陰の隅でじっと様子を見ることにした。
五分、風に木の葉が揺れる音が響く、ツタージャは身じろぎ一つせず、じっとうずくまっている。十分が経ち、ツタージャの変化のなさにしびれを切らして飛び出そうと思ったとき、反対側の草むらから、がさがさ何かが動く様な音が鳴った。
瞬間、ツタージャはかたかたと大きく震えだし、小さな体をより小さく縮こまらせた。何かに怯えているかのように。瞳をぎゅっと閉じ、凍えているかのように体を震わせる。
あまりの震え様にかわいそうになった少年は、ばっと木陰から飛び出して叫んだ。
「ツタージャ、見つけた!」
その声に顔を上げたツタージャは、少年の元に走りより、両手でぽかぽかと叩いてきた。
「ごめん! ごめんってばツタージャ」
少年はしゃがんで、両腕で顔をかばう。へそを曲げたツタージャはそんな少年の腕にのっかって彼の頭を何回も何回も叩く。重みに体を支えられなくなった少年は後ろに倒れる。その少年のマウントポジションをとってまだツタージャは彼を叩き続けた。
「だからさ、ごめんって……」
笑いながら叩かれていた少年の声が凍った。自分の腕の間から覗くツタージャの下腹部には、五針程の荒い縫い跡があった。縫い跡の周りの皮膚は、大きくひきつっていた。まるで、人間の手で皮膚を切除した後に、縫い合わせたかの様に。
ぬかるんだ土を踏む不快な感覚が、底の薄い運動靴を通して足の裏に伝わり、少年は顔をしかめた。が、その顔はすぐに淡い笑顔に変わる。もうすぐツタージャといつも待ち合わせる大樹の前。ツタージャとの邂逅を思えば、自然と顔がほころんでしまう。が、彼はそんな自分を恥じるようにかぶりを振った。
彼にはある考えがあった。いつも自分に安らぎを与えてくれるツタージャに、恩を返したい。ありがとうの気持ちを表したい。言葉でも、物でも、何でもよかった。ただ、感謝の気持ちを伝えたかった。しかし、ありがとうと伝えるだけでは味気ない。良い考えが思い浮かばない。彼がかぶりを振ったのも、感謝を伝える手段が思い浮かばない事に対する焦りのせいでもあった。
空は硝子のように綺麗に澄んで晴れ渡り、先程までの雨が嘘のように思えた。が、それを美しいと思う考えは、ああでもない、こうでもない、という考えに押しつぶされ、腕を組んで悩んでいるうちに大樹の前まで着いてしまった。
「ごめんツタージャ、待ってた?」
見慣れた青緑の姿に向かって少年は声をかける。だが、ツタージャの様子が普段と違う事に気づいた。いつもは腕を組んでたり枝の上で寝ていたりするのに、今日はやけにせわしない。短い両腕を上下にパタパタと振っている。焦っているかのように。
ツタージャは少年の姿を確認すると、一気に距離をつめ、少年の片手を握って駆けだした。必然的に彼はツタージャに引っ張られる形となる。
「わ、どうしたんだよツタージャ」
少年のその声に返答はなく、かわりにツタージャは流し目で少年を一瞥した。
ツタージャの足は速く、少年は何度も前につんのめりそうになりながらついてゆく。足を踏み出すたび、ビチャビチャと水混じりの土が跳ね、彼のズボンを泥で汚した。視界が変わってゆく。いつも遊んでいた場所は木漏れ日に照らされ、光に溢れているのに、今彼らが走っている場所は背が高い樹木が所狭しとばかりに鬱蒼と茂り、昼間だというのに光を通さない。
どれだけ走っただろうか。少年が息切れを起こし始めた頃、目の前に光が射した。
瞬間、ツタージャの手は離された。
「ツタージャ、走るの早いよっ」
少年はひいひいと言いながら座り込み、ツタージャに対して再び文句を言おうと口を開いたが、彼の口は次の句を告げることはなかった。
彼の目前に広がるのは吸い込まれそうな程澄んだ空、そしてその中で一際鮮やかに輝く
「虹……」
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色に透明感のある輝きを見せる光のアーチ。それは遠く大きく、途方もない荘厳さと美しさを魅せた。少年は虹を見たことは数度あれど、これ程までに大きく、きらびやかな虹は見たことがなかった。
少年はツタージャがこの景色をみせるためにこの場所へ連れてきたのだと気づいた。急いでいたのは、虹が消える前にこの美しさを共有したいと思ったため。彼はツタージャに礼を言おうと隣にいるツタージャの方を向き、
そして目を見開いた。
ツタージャの体表より、瞬きながら発せられる何色もの光。その半分ほどは緑と青だが、その閃々たる輝きを包み込むかのように淡く光る赤、橙、黄、藍、紫の五色。ツタージャの姿がチカチカときらめく光にライトアップされているかの様。光の洪水に覆われた、目を細めるその横顔が、瑞々しいその肌が、少年の視線を釘付けにして先の虹に決して劣らずその瞳に焼き付けた。
ふと、彼の頭の中を図鑑の説明がよぎった。『通常色の何万分の一かの確率で色違いのポケモンは自然発生する。彼らはぼんぐり等の暗所から光量の大きい場所に出る時、眩しいほどの光を放つ』
惚けたようになって彼はため息と共に声を漏らしていた。
「綺麗……」
ツタージャは得意げに口の端をつり上げながら少年の方に向き直った。が、彼の目線から、その言葉が自身の事を指しているという事に気づくと、頬を熟れたリンゴのように真っ赤に染めてそっぽを向いた。
徐々にツタージャの放つ光量が落ちてゆく。数秒かけて光は周りの景色に溶けるようにして消えてゆく。その間少年はずっとツタージャの方を見つめたままだった。見つめられたツタージャはちらちらと少年の様子を伺い、その瞳が未だ自分を捉えていることが分かるとまたそっぽを向く。光が消えた後も、少年はずっとツタージャを見つめていた。
「ね、ツタージャ。君は虹に似ているんだね」
沈黙を破るように少年は口を開いた。
「僕さ、ずっと君に何か贈りたかったんだ。僕の灰色の生活に色を付けてくれた君に、感謝を込めて」
少年は何か思案するように、一瞬だけ目を閉じた。
「ずっと考えてたんだけど、何も思い浮かばなかったんだ。でもさ、今思いついたよ」
ツタージャは赤く染まった顔が恥ずかしいのか、少し顔を伏せたまま少年の方へ向き直る。
「君に贈るものは、名前」
風に揺れる木々の葉は、潮騒の様な音を一帯に響かせた。
「虹のように綺麗な君には、虹、他の国の読み方のrainbowから抜き出して……」
少年は緊張した面もちで一呼吸だけ息を大きく吸って吐いて、告げた。
「レイン」
ぷるぷると肩をふるわせるツタージャ。その顔はうつむいたままで、少年には表情を伺い知る知ることができなかった。彼は不安げに言葉尻を震わせた。
「あれ……気に入らなかった? 君、女の子だからかわいい名前を考えたつもりだったんだけど」
ツタージャはその言葉に首を何度も何度も振って、少年の胸元にとびついた。
その瞳から止めどなく溢れる涙が、少年のシャツを濡らしてゆく。それに気づいた彼は、ツタージャのふるえるアクアマリンの小さな体を、ぎゅっと抱きしめた。壊れてしまわないように、優しく、優しく、慈しむように。
それからというもの、少年はレインと名付けたツタージャと、いつも一緒にいたい、と願うようになった。ある時は深夜遅くに親が寝静まったのを確認して山林へ出かける、またある時は塾を体調不良と偽り出かける。少年は一度、レインを捕まえたいと思ったが、彼は小さく頭を振った。ぼんぐりの実はこの周辺に生えておらず、希少なせいで値段は驚くほど高い。しかし、彼が頭を振った理由はそれだけでは無い。彼は、レインとどこまでも対等でいたかったからだ。対等の友達という関係が、捕まえることで崩れるかもしれないと思ったからだ。
少年は幸せだった。レインも同じく幸せだった。彼らが生まれて、お互いに出会うまでの年数を全て足しても、彼らの一瞬の邂逅に遠く及ばない。幸せは彼らの心に深く深く染み渡っていった。
だが、そんな日々も長くは続かない。
ある時、少年が塾を休みがちになっている事が親に発覚した。塾の講師が、体調不良という事で塾を度々休む少年を心配し、親に電話をかけたのだ。
少年はいくら説教されても、いくら問いつめられても、山林とそこでできた友達の事に関して、頑として口を割ることはなかった。しかし、それがかえって彼の両親の神経を逆撫でした様で、塾がない時間は家庭教師を呼ばれることとなり、塾や家庭教師の授業を休んだら、すぐ親の耳にはいるよう徹底された。
彼らは昼間に出会うことが出来なくなった。
ある日の早朝、少年はその事をレインに伝えると、彼女は少年から顔を反らした。きっと、悲しんでいる顔を見られたくないのだろう。少年は彼女の考えを理解していた。少年はそんな彼女を励ますように空元気で声を張った。
「でもさ、でもさ、夜や早朝は遊べるよ! ばれてないからね!」
レインもまた、そんな少年の心遣いを理解していた。彼女はもう悲しんでないと言うようにして、少年の瞳をじっと見つめ、大きく頷いた。
秋、楓の葉はすっかり朱色に染まり、葉の先から朝露の滴を垂らした。空がまだ白んでいない早朝、彼らは、会える時間が少なくなってしまったことを忘れるようにして追いかけっこをしだした。嬉しそうに、小さく嬌声をあげながら。
いつまでそうしていただろうか、山の谷間から太陽が顔を出し始めたとき、少年の先を走っていたレインの足が止まった。どうしたの? と少年が声をかけようとしたが、それからの彼女の様子に口が動かなかった。
レインは震えていた。両手で目を覆って屈みこんでいた。歯の根がかみ合わない、小さくがちがちがちがちと鳴る音が、その恐怖のほどを雄弁に語っていた。
どうしていいかわからず固まっている少年の目の端に白い影が映った。そちらに目をやって、凝らしてみると、それは人だった。白衣を着た、年の頃三十ほどの大人。ぼさぼさになった頭を片手で掻きながら、もう片方の手はポケットに突っ込んで、口に火のついたたばこをくわえている。向こうは少年とレインに気づいていないようだった。だるそうに大股で落ち葉を踏みしめて歩いていた。
「あー、面倒臭ぇな。またデマ情報掴まされたか」
その男の呟きが、がさがさといった草をかき分ける音に混ざり少年の耳を小さくかすめた。レインの震えがより一層大きくなる。
少年の頭の中で、レインが今尋常で無く怯えている理由、彼女の下腹部にある痛々しい傷跡、そして何かを探している、山林という場に不釣り合いな白衣の男、それらのバラバラの情報が一本の線につながった。
恐らく、レインはあの男の元から逃げてきたのだろう。色違いである彼女の光は、時たま並の宝石を遙かにりょうがする輝きをみせる。彼女の腹部の傷跡は、白衣の男がそれを研究しようとして皮膚の一部を剥ぎとったせいだと……そこまで考えて、少年の胸にとてつもない吐き気がこみ上げてきた。そのおぞましい行為の情景が、頭の中でぐるぐると回り続けた。刃物を手に迫る男、怯えるレインを押さえつけ、乱暴に刃物の切っ先を彼女の腹に押しつける。響く痛ましい彼女の悲鳴、鮮血に塗れる刃物……。
彼は自分の体が石になってしまったかのように、腕も、足も、指一本でさえ動かす事が出来なくなっていた。彼に出来たのは、ただ呆然と男が通り過ぎるのを眺めることだけだった。
「ね、レイン、どうしよっか」
レインの耳に少年の震える声が届いた。
そこは高台。かつて彼女が少年にレインと名付けられた場所。山間から少しだけ顔を出した朝日が彼らをか細く照らしていた。
レインは顔を上げず、うつむいたまま声を発することはない。あまりの悲しみと恐怖に心がきりきりと音を立てて軋む。
彼女の心には、冷たく、ひとりぼっちである研究所の一室に連れ戻されてしまうという恐怖があった。それは汚泥の如く胸の奥底にへばりつくように溜まった。だが、今の彼女にとって一番怖い事はそれでは無かった。何より、何より怖いのは、いつでも彼女の心を優しく暖かく包んでくれた少年との別離。もし、彼を失ってしまったらと想像しただけで、恐怖に震えが止まらない。
「僕、あんまりここに来れなくなったし、君もここにいたら見つかっちゃう」
徐々に太陽はのぼり、その全像を現し始めた。自然と辺りは白み、暖かな光に包まれる。凍えるように震える彼女の体を若干の暖かさが覆った。
「虹だ……」
少年のその声に、彼女は顔をあげた。瞳に溜まった大粒の涙は、ぽろぽろと何滴も何滴も哀しみとしてこぼれてゆく。
先日の虹ほどは大きくもないが、それは確かに虹だった。目をこらさなければ届かないほど遙か遠く、おぼろげに光る七色の橋。
「ね、知ってる? 虹は幸せの象徴なんだって」
レインは少年に背中をなでられているのを感じた。手のひらから確かな温もりが伝わってくる。彼女はそれに身をゆだねて、赤子をあやすかのような少年のささやき声に耳を傾けた。
「だから虹に似てる君はさ、誰よりも幸せになれると思うんだ」
少年の言葉は不思議な説得力を持って、彼女の頭に染み渡っていった。少年は信じているのだろう、純粋に彼女が幸せになれるという事を。だからこそ、レインはその言葉を心の底から信じることが出来た。
「あそこに、虹が架かってる、あの場所なら、きっと幸せになれる」
指をさした先はかすむほどに遠い。いくつもの丘陵を越え、竹林を抜け、川を渡った先にある高く険しい山嶺の麓。
少年の声が止まる。木々の葉のざわめきが彼女の耳にやけに大きく響き、その中で小さく少年の呼吸音が届いた。長い沈黙の後、少年は意を決したように、はっきりとした口調で言った。
「一緒に逃げよう、レイン」
彼女は涙に塗れた目を見開き、少年の方を向いた。朝日に照らされた彼の顔は決意の色に染まっていた。その目線は彼女の瞳から一寸たりとも逸らされる事はない。
「一緒にあの場所で、幸せになろう」
繰り返すその言葉に、レインの恐怖は塵も残さず溶けて消えた。少年と一緒なら怖くない。彼と一緒ならば、どんな労苦も、どんな苦痛も越えていけるだろう。嬉しくて、嬉しくて、新しい涙が次々と堰を切ったように溢れてくる。研究所での苦しい生活や逃亡の日々、それらの負の思い出の全てを、少年の一言が相殺して消し去り、それでもなお有り余るほどの幸せを彼女の心に与えた。
レインは溢れ続ける涙を拭った。そして少年の瞳を真っ正面から見つめ返し、花が咲くような満面の笑顔で大きく頷いた。
少年は足取り軽やかに帰路へ着いた。親が未だ寝静まっているのを確認して、忍び足で自分の部屋へ入る。
彼の心はかつて無いほど晴れやかだった。レインとの新しい生活に胸を躍らせているうちに、学校も塾もあっと言う間に終わり、いつの間にか夜になっていた。
彼女との出立は翌日の早朝。少年はにやにやと頬をゆるませながら塾の勉強道具が入ったリュックサックの中身を全て机の中に押し込み、新しく多彩な物を詰め始めた。学校の帰りに買った缶詰め、缶切り、コンパス、地図、植物図鑑、ライター……。いつしか少年のリュックサックはパンパンになっていた。いつも彼を憂鬱な気分にさせていた塾用のリュックサックには、彼の夢と希望がいっぱいに詰まっていた。彼の心を代弁するかの様に、溢れんばかりの。
少年は駆けていた。溢れんばかりの希望を背負い。向かう先は彼女の元。横断歩道を越え、公園を越え、ガードレールをまたぎ、木々のアーチをくぐり抜け……辿り着いた。
待ち合わせ場所である大樹の前には彼女がいた。珍しいアクアマリンとクリーム色の肌、木漏れ日を受けて燦然と、艶やかに輝く。レインは、ここにいるよ、と言うように手を大きく挙げた。
少年はその手を掴んだ。
「行こう、あの場所へ」
その言葉に、レインは光溢れる笑顔で頷いた。
彼らは歩き出す。一緒に遊んだ場所を巡るように。かつて出会った楓の群生する場所、かつてかくれんぼをした枯れ木の洞。彼らは懐かしくなって、どちらかとも無く笑った。
空は綺麗に晴れ渡っていた。紅葉に溢れた光指す天蓋はステンドグラス。敷き詰められた朱色の落ち葉はバージンロード。彼らが遊んだ森は緑溢れるチャペル。木々のざわめきはまるで一人と一匹を祝福する拍手喝采の様にも聞こえ……
「ようやく見つけたぜ、ツタージャ」
その全てが瞬時に色を無くした。
少年はいつかと同じく、金縛りにあった様に動けなくなっていた。心臓の鼓動だけがバクバクと耳にうるさく響き、頭の中で、どうして? という言葉が何度も何度も浮かんでは消えた。
「おー? 見ねぇガキがいんな。ま、どうでもいいか」
白衣の男が煙草をくゆらせながら、にやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべて歩み寄ってくる。少年よりも遙かに高い体躯が迫ってくる。
レインも同じくして動けないようだった。繋いだ手からがたがたといった震えが、恐怖が伝わってきた。
「さ、帰るぜ」
男がレインに手を伸ばす。彼女の恐怖にひきつった表情を見て、ようやく少年の体は動いた。
彼は、彼女に触れようとする男の腕に飛びついた。
「何しやがる!」
男が腕を一振りしただけで、少年の華奢な体が派手に弾き飛ばされる。落ち葉と小石が彼の腕に幾筋もの擦り傷をつくった。全身を強く打ちつけたせいか、彼の足はがたがたと震え立ち上がることが出来ない。
「は、いっちょ前にナイト気取りか。悪ぃがこいつは俺のだ」
男はにやつきつつ少年を一瞥すると、再びレインに向けて手を伸ばす。レインは嫌々と首を振るが、手を無理矢理握られて、引きずられてゆく。その瞳に浮かんでいるのは、涙。哀しみに満ち満ちた涙。
少年はそれを見て叫んだ。言葉にならない声で、喉が枯れる程に。震える足を手のひらでたたきつけ、立ち上がる。
そして彼は背負っていたリュックサックを、男に向かって投げつけた。
「おわっ!」
男はそれを腕で防ぐ。当たった衝撃でリュックサックの蓋が開き、中の物がとび出した。一生懸命積めた荷物、ツタージャと共に過ごす生活を描いて詰めた希望、その全てが。
男が怯んだ隙に、少年は再び男に向かって飛びつき、レインを掴んでいる手に思い切り噛みついた。さらに男の顔に爪を立てて力の限りひっかく。
「このクソガキ!」
たまらず男は彼女を掴んでいた手を離し、噛みついている少年の顔面に拳を喰らわせた。またもや少年は弾き飛ばされる。が、彼は即座に立ち上がり、レインと男の間に立ちはだかった。彼は咥内に広がっている、ずるりとした皮膚と自らの鼻血の味がブレンドされた固まりを吐き捨てる。
解放されたレインは悲痛な面持ちで、森の奥と少年の顔を交互に見つめた。
「逃げて!」
少年は彼女を横目に見て叫んだ。彼の涙と血にまみれた顔は決意を湛えていた。
「僕も必ず行くから、あの場所に!」
そして小さな、頼りない体で再び男に飛びかかる。だが、今度は少年の腹に、男のつま先が突き刺さった。内蔵は悲鳴を上げ、口の端からとしゃぶつを溢れさせながら少年はうずくまる。そんな少年に容赦なく男の蹴りが浴びせかけられた。
少年は痙攣する両腕で力の限りその足を掴み、叫んだ。
「はやく!」
その言葉に小さく頷き、レインは駆けだした。一人と一匹で歩むはずだった落ち葉の道を、虹が架かる山嶺の麓までの道を、一匹きりで。一度も彼を振り返る事無く。
「離しやがれ! あいつが一体いくらしたと思っていやがる!」
言い、男はくわえていた煙草の火を躊躇無く少年の白い腕に押しつけた。
皮膚を焼かれる刺すような激痛に顔を歪めながらも、少年は男のその指に噛みつく。ぎりぎりと噛みちぎる程に。命を懸けてでも離さない、そう叫ぶ様に。
彼女の背中が見えなくなっても、いくら殴られ、蹴られようとも……少年は噛みついたその口を、しがみついたその腕を、決して離すことはなかった。
その後、少年は警察に捕まった。罪状は『器物損壊罪』。他人の財物を壊したり、捨てたりした時に適用される罪状。それはポケモンを逃がした場合にも適用される。彼はだんまりを決め込むつもりだったが、散らばった荷物の中の学生証からあっさりと身元は割れた。
捕まったとはいえ、彼は小学生。初犯の上、学校での生活態度に問題が無かった事もあり少年院行きは免れた。しかし、両親は近所の白い目から耐えきれず、少年を連れて遙か遠い場所へ引っ越しする事となった。
少年は引っ越すまでに何度も何度も、逃げて虹の架かる地へ向かおうとした。だが犯罪を犯し、格段に厳しくなった両親の監視の目をかいくぐる事は出来ず、「約束したんだ!」と叫ぶ少年の声は黙殺された。
彼は虹の架かる地へ行けぬまま、遠い遠い土地へと引っ越した。
柔らかく、甘い香りをはらんだ風が吹き抜ける。さわさわと春の香りが山林を駆ける。楓の群生地を越え、鬱蒼とした背の高い樹木が生い茂る地帯を越え、高台へと吹き渡った。
自然の作り出した高台の上、風を受けて立ち止まるは年の頃十八程の青年。長い手足にそれを包む白い長袖のシャツと紺色のジーンズ、背負った小さなリュックサック。彼の肌は透けるように白く、柔らかに光を乱反射した。
彼の視線の先には虹があった。遠くかすむ山嶺にかかっている虹。淡く揺らめくように輝き、架かる七色の橋。約束の場所。彼の瞳に涙がたまった。その景色は遙か昔、遠い思い出の彼方で見たものと微塵も違いはなく、彼女が隣にいるかのような感覚を覚えた。
「今行くよ、レイン」
そして青年は足を踏み出した。彼女の足取りを辿るように。かつて交わした約束を果たす為に。
少年は引っ越した後、何度も家出をした。虹の架かる場所に行くために。だが、小遣いをほんの少しも貰っていない少年は、何百キロも歩いて行かなくてはならなかった。当然、たどり着くことは出来ず、家出をした数だけ途中で警察に補導された。
幾度と無く家出をする少年に対し、両親はより束縛を厳しくしてゆく。だが、ある時から少年はぱったりと家出をしなくなり、人が変わったように勉学に打ち込み始めた。
最初の頃は疑っていた両親も、少年の上がってゆく成績に懐疑の心は薄れはじめ、数年後、彼がとある有名大学に受かった時には、犯した犯罪や家出のことなどきれいに頭から消え去っていた。
だが、彼は諦めたわけではなかった。今、自分の足で行くことができないのなら、親に電車賃を出させればよい。しかし、警戒心を強めた今の両親に出させる事はかなわないだろう。ならば、警戒心を薄めてやればよい。両親の理想とする優等生を演じ続ければ……。彼は虎視眈々と機を待っていた。
そして、大学の入学式が行われたその日、彼は失踪した。両親に渡された多額の生活費を手に。
彼は大きくきらびやかに輝く虹を見る度にレインを思い出した。彼女の恥ずかしげに伏せる顔、すねてそっぽを向くしぐさ、そして光を受けて七色に燦然と光り輝くその姿。瞼の裏に彼女と共に過ごした日々を浮かべた。戻る事のできないその日々に、彼は涙を流した。
彼は小さく儚げに輝く虹を見る度に、レインと交わした約束を思い出した。一緒に幸せになろうという約束。必ず行くと叫んだ言葉。未だ果たせぬその約束に、彼は涙を流した。
今、かつて少年だった青年は一人と一匹で歩むはずだった道の上にいる。希望で胸が躍り、疲労など微塵も感じない。彼は期待ではやる足に身を任せた。
青年は駆けていた。胸一杯に希望を抱え。向かう先は約束の場所、虹の架かる地。いくつもの丘陵を越え、薄暗い竹林を抜け、広い河川にかかる橋を渡り……辿りついた。
レインはとぼとぼと、少年と共に歩む筈だった道を一匹きりで歩いていた。涙を流し、しゃくりあげながら。ふらふらと頼りない足取りで歩き続ける。
彼女は胸にぽっかりと穴が開いた様な喪失感を感じていた。最後に見た、研究員に飛びつく少年の姿が瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
流れる涙を拭おうともせず、幽鬼の様な生気の抜けた表情で歩き続けていると、いつしか険しい山嶺の麓、虹の架かる地に辿りついていた。
そこはどこか、少年と出会った森に似ていた。モミジの葉が柔らかに日光を遮り、敷き詰められた赤い落ち葉の上に日溜まりを作り出す。そこはまるで、少年と初めて出会った楓の群生地の様にも見え……ふと、彼の言葉が頭に浮かんだ。
『僕も必ず行くから、あの場所に!』
レインは伏せていた顔を上げた。涙を乱暴に拭い、前を向く。その瞳には、決意の炎が灯っていた。少年はきっと約束を守ってくれるだろう。少年はきっとこの場所まで来て、私を幸せにしてくれるだろう。
彼女は周辺に群生するモミジの中で一番背の高い樹木に登り、枝に腰掛けた。この場所へ着た少年を真っ先に見つけられる様に。約束が果たされる日を夢見て。
そして長い長い歳月が流れる。
レインは大きくきらびやかに輝く虹を見る度に、自らの名前が贈られた日を思い出した。真っ直ぐに見つめる少年の瞳、触れる彼の暖かな温もり、彼が贈ってくれた名前。在りし日の安らぎに、彼女は涙を流した。
レインは小さく儚げに輝く虹を見る度に、少年との約束を思い出した。『一緒にあの場所で、幸せになろう』 その言葉、その情景がありありと脳裏に浮かぶ。在りし日の喜びに、彼女は涙を流した。
秋、紅葉が赤く染まり、天蓋が鮮やかな色に染まる。冬、白い粉雪が降り積もり、木々に雪化粧を塗り付ける。春、顔を出す新芽と甘い風の香りが春の息吹を伝える。夏、青々と茂る緑は強い日の光を受けて、一葉一葉がまるで宝石のように輝く。数え切れないほどの季節が巡る。気の遠くなるほど長い孤独の中、彼女は待っていた。
じりじりと刺すような日差しが照りつける日も、叩きつけるような土砂降りの雨にさらされる日も。
彼女は待っていた。
びゅうびゅうと吹きすさぶ風に頬を打たれる日も、こんこんと積もる雪に凍える日でさえ。
彼女は待っていた。
幾度と無く思い返しても、決して擦り切れる事無く光を放つ記憶に支えられ。
彼女は待っていた。ただ一つの言葉を信じて。
青年は、まるで自分が学校帰りにレインと待ち合わせているかの様な錯覚に陥った。山嶺の麓はレインと出会った楓の群生地と瓜二つ。柔らかく射す木漏れ日、馬の毛の様にごわごわとした草、遠く近くさえずる木々のざわめき。
あまりの懐かしさに、彼は瞳を閉じ、口から一つため息が漏らした。
そんな彼の頭に、こつん、と何かが当たった。
拾い上げてみると、それは木の実であった。彼の手に小さく収まるような山吹色の、ひょうたんのような形をした木の実。青年は強烈な既見感に駆られて、上を見上げた。
まばゆい日差しに目が眩む、彼の心臓は早鐘のように耳にうるさく響き、血はまるで別の生き物になったかのように動き出していた。目に入った信号と記憶の中に存在する姿との不一致に彼の精神は暫し混乱し、落ち着くのに少々の時間を要した。
そこにはレインがいた。アクアマリンと若草色、クリーム色に分かたれた、なめらかで艶やかなその体表、大きな鳶色の瞳、ヨモギの葉にも似た、尾の至る所から生える装飾。ジャローダとなった彼女は、出会ったときと同じようにして、彼を見つめていた。
レインのかすかに潤んだ瞳は、何か語りかけるように青年を見つめる。彼は彼女の意図を瞬時に理解し、言った。
「ありがとう、いただくよ」
彼女の幸せは彼と共に過ごした日々にこそあった。彼の幸せは彼女と共に過ごした日々にこそあった。だからこそ、出会った日をなぞる事で、これからの日々が昔日の様に幸せに満ち満ちる事を願ったのだ。
青年は木の実にかじりつく。わずかな酸味と、甘酸っぱく芳醇な香りが口いっぱいに広がった。懐かしいその味に青年の涙腺が緩んだ。成長した彼は、三口程であっと言う間に食べ終わり……。
そして再びレインを見上げる。
ぽたり、ぽたり、水滴のしたたる音が小さく響く。彼女は目の幅の涙を流し、時折しゃくりあげながら青年を見つめていた。
それを見た青年の頭の中を、幼き頃の思い出が走馬燈のようにして駆け巡る。共に遊んだ日々、彼女の笑顔、彼女の輝き、彼女の涙、別離の悲しみ。そして今、再び出会えた喜びに、彼の瞳から溢れ出すものがあった。
青年の喉がひきつる。次から次へと溢れ出す暖かな雫で彼女の姿がにじむ。その姿はまるで虹のように霞み、輝いていた。
「ね、君もひとり? だったらさ……」
彼の掠れた声がこだまする。射す木漏れ日は光のベール、小鳥達のさえずりはウエディング・ベル、遠い日に交わした約束の場所、虹の架かる地は光溢れるチャペル。一人と一匹はまるで、将来を誓い合う新郎新婦の様に見つめあい
「一緒に遊ぼうよ、レイン」
レインは顔をくしゃくしゃに歪ませながらも、大きく頷いた。