あかいはな
少女は駆けていた。齢八から十位であろうか、幼い顔立ちを笑顔一色に染めている。彼女は、三つ編みにした一本のお下げを跳ねさせ、朝日の暖かい光を受けて、気持ちよさそうに走る。彼女の姿には、周りの風景、潅木と芝が生い茂る公園から見ると、少々の違和感があった。違和感の元は、その服装。上下、水玉模様の淡い色をした服装。パジャマを着ていた。足にはスリッパを履いている。
風を切る音が耳に届く。草木の香りが鼻をくすぐる。背が高めの芝を踏みしめ、少女は走る。
その後ろにも、駆ける影があった。紫とクリーム色に分かれた毛皮、小さな耳、つぶらな赤い瞳、そして、その存在を象徴するかのような、頭と腰から勢い良く燃え盛る炎。マグマラシ。彼もまた、暁光を受け、気持ちよさそうに走っていた。
ひとしきり駆け回った後、疲れたのか、少女は大の字になって芝生に寝転んだ。その隣にマグマラシが座りこむ。
やわらかい風が、彼女の頬を撫でる。
「あー、気持ちいい!」
少女は暖かな太陽にも負けないような、満面の笑顔で言った。
「うん、とても、とっても気持ちがいい風」
マグマラシが同意した。うんうんと頷きながら、やさしく吹く風の感触を楽しんでいた。
緩やかな時間が流れる。少女は目を瞑りながら、樹のざわめきと、風が流れる音の交響曲を聴いていた。
そんな中、マグマラシはテクテクと二、三メートル程歩き、何かを咥えると、きびすを返して少女の下へ戻ってきた。
「ルーン、どうしたの?」
少女は目を開き、マグマラシを見つめる。
「綺麗な花を見つけたんだ。一つ、摘んできたんだよ」
彼が口に咥えているのは、一本の花。厚ぼったい四つの花びらを持つ、赤い花。全長十センチ程度の、小さな花。
ルーンと呼ばれたマグマラシはその花を、嬉しそうに少女へ贈った。
「ありがと、ルーン」
少女は期待に胸を膨らませた表情で花を受け取ると、目を閉じ、匂いをかいだ。
甘くて酸っぱい、春の香りが鼻いっぱいに広がった。
少女は一人ぼっちだった。引っ込み思案な彼女は、小学校で同級生に声をかける勇気も無く、孤立していた。休憩時間に一言も喋らず、ただぼんやり座って過ごし、昼食時には、仲良しグループごとに集まって談話しながら食事をしている同級生を尻目に、一人で弁当を頬張っていた。家に帰っては、いつも両親の膝元で、寂しいと泣いていた。
そんな彼女を不憫に思った両親は、せめて、流行ってるゲームを持たせ、同級生との話題の種にさせようと、携帯ゲーム機と、一本のゲームソフトを買い与えた。
ソフトの名は、ポケットモンスターハートゴールド。
少女はそのゲームにのめりこんだ。なんとそのゲームでは、ポケモンを連れ歩く事が出来、自分のキャラが走ると、その後ろをポケモンがついてくるのだ。
さらに、連れ歩いているポケモンに話しかけると、様々なリアクションを示すのだ。喜んだり、笑ったり、困った顔をしたり、怒ったり。まるで、本当にポケモンという生き物がそこに存在するかの様。
少女は喜んだ。一人でも、このゲームさえあれば、寂しくは無い。友達がいなくても、私の側にはポケモンがいてくれる、と。
このゲームをするには、友達はむしろ不要だった。
少女は両親に、「友達と遊んでくる!」と嘘をつき、公園へ出かけた。そうとは知らない両親は喜んだ、ついに、少女にも友達が出来たのだ、と。
彼女は嘘を付いた事に一抹の罪悪感を感じつつも、いつも一人で公園に出かけ、遊具の影に隠れて座り、ポケモンとの時間を楽しんだ。
少女が最初のパートナーとして選んだポケモンは、ヒノアラシ。糸目のかわいい、臆病で気弱なポケモン。彼を選んだ理由は、ただ、自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったからだった。
彼女はヒノアラシを『ルーン』と名付けた。かっこいいアニメの主人公と同じ名前。
少女は他のポケモンを捕まえる事は無かった。ルーンが居てくれるだけでよかった。タマゴを貰った時もあったが、ルーンとふたりきりで居たい為、すぐにパソコンに預けてしまった。
他のポケモンをルーンが倒したある日、変化があった。光に包まれ、なにやら姿が変わっていくではないか。
それは、進化。ヒノアラシは、マグマラシに進化した。その変化を見、彼女は強い感動を覚えた。マグマラシの瞳は精悍で、尚且つ優しさを多分に持ちあわせていた。少女はルーンに恋をした様に、何度も何度も話しかけた。
少女は、ルーンさえいてくれれば、それでよかった。放課後、登校前、休日に公園にて、絶えず画面の中にいるルーンと触れ合う日々。つまらない授業、少女を見ない女子、いじわるをしてくる男子、両親の祝福の目線、それに伴う罪悪感。嫌な事全てから目をそむけるかのように、少女は一人ぼっちの公園でゲームにのめりこんだ。
ある日、三つ目のジムを突破した頃。少女は、ルーンと共にある場所に辿り着いた。
自然公園。ドット絵で表現された濃い緑の潅木、青々と生い茂る芝、中央に鎮座している大きな噴水……。
少女はその場所に、安らぎを覚えた。ずっと、この場所にいたい、そう思った。
ポケットモンスターというゲームの目的は、ジムリーダーを倒し、四天王、チャンピオンを倒す事である。だが、少女にとってはそうではなかった。ただ、ルーンと共にいる、自然公園の中を走り回る、ルーンに話しかける、それだけで良かった。
少女はその日も、走ってはただひとりの友達に話しかけ、反応を見ては喜んでいた。
薄暗い、閉塞的な公園。傾いた日の光を、背の高い樹が遮る。辺りを照らすのはかすかな木漏れ日のみ。古臭いブランコがギイギイと風に揺れる音が響く。幼い少女は滑り台の陰に隠れて座っていた。彼女の服装は野暮ったいこげ茶のトレーナー、そして黒のロングスカート。その姿は、暗い雰囲気が蔓延しているこの公園に、見事に溶け込んでいた。
少女はベンチに座りながら、ゲームをしていた。小さな両手に余る、携帯ゲーム機を握り締め、嬉しそうにゲーム画面を見つめる。
画面の中では、少女の分身、そして、ルーンと名付けられたマグマラシが居た。ドットで描かれた鮮やかな色彩に溢れる自然公園で、共に走り回る。ひとしきり走り回っては後ろを見て、ルーンに話しかけた。
『ルーンは うれしくて こおどり してる!』
『ルーンは あまえためで こっちを みている!』
少女はルーンの反応を見て嬉しそうに笑い、ゲームの中で何度も何度も走っては話しかける。そんな中、ふと、彼が見覚えの無い反応を示した。
『おや? ルーンが なにか もっている…… もってる ものを もらいますか?』
『はい』『いいえ』の選択肢のダイアログがポップアップ表示された。
少女は期待に胸を躍らせながら、カーソルを『はい』に合わせて、ボタンを押した。
『ルーンは うれしそうに わたして くれた!』
『あかいはなを てにいれた!』
少女は彼の贈り物に、心をときめかせた。そして、あかいはなに思いを馳せた。その花はどんな形をしているのだろう、どんな芳しい香りを漂わせるのだろう、と。
彼女はふと、ゲームの画面から目を離し、顔を上げた。夕暮れ時、誰も乗らないシーソーの青い色が朱色に染まる。風がぴゅうぴゅうと音を立てて暗い公園を通り抜ける。ゲームの中はこんなにも光に溢れているのに、現実には光は無く、酷く寒い。寂しくて、凍えそうだった。
彼女は悲しくなって、ぱたん、とゲーム機を閉じた。
その晩、少女は夢を見た。
少女は目を開けた。眼前に広がるは真っ青な空。その中に白い雲がちらほら、綿飴のように浮かんでいるのが見えた。鼻に濃い草の香りが広がり、ちくちくと芝が刺す感触が掌に心地よく染みた。
少女は不思議そうに上体を上げて、周りをきょろきょろと見回した。彼女の頭には疑問符が浮かんでいた。
ベッドで寝ていたのに、ここはどこ?
その疑問は、彼女の後ろに座る姿を見とめた瞬間に、跡形も無く吹き飛んだ。
「ル……ルーン?」
流線型の身体、紫とクリーム色に分かれた毛皮、小さな耳、つぶらではあるが、精悍さと優しさを兼ね備えた瞳……そこにはルーンがいた。ニコニコと笑いながら、彼女を見つめていた。
「ようこそ、よく来たね」
目をまん丸くして言葉に詰まる少女へ、ルーンは語りかける。
「君を、待っていたよ」
ゲームの住人であるはずの彼は、紅く燃える炎を風にたなびかせながら、座る少女に寄り添った。
炎が直接少女の身体に当たっても、全く熱いという事は無く、柔らかな温もりが伝わってくるだけだった。
驚愕により暫し硬直していた彼女は、その温もりで我に帰ったのか、弾かれたようにルーンに抱きついた。
「うわあ」
少女は感嘆の声をあげる。彼の毛皮はすべすべでやわらかい。少女の手が、ふさふさとした毛に埋もれる。ルーンは、気持ちよさそうに目を閉じていた。
ひとしきりルーンを撫でた後、少女は満足したように嘆息を付いた。
「ふふ、僕の毛皮は気持ちいいだろう」
彼はにこやかに笑いながら少女に言った。
「うん、とっても」
少女は幸せの渦中にいた。触れたくて、近寄りたくて……想ってやまなかったルーンが、自分の腕の中に居るのだ。
木々のさえずりが聞こえる。それに気付き、少女が周りを見渡すと、この場所が、見覚えのある場所だという事に気付いた。大きな噴水は絶えず水しぶきをあげ続け、背の低い草が生い茂る。眩しいほどに太陽は輝き、少女とルーンを照らしていた。
この場所は、自然公園。光に溢れた場所。ゲームの中では、ドット絵で表現されていたものが、少女の目の前でまるで現実のように息吹いていた。
あどけない笑みを浮かべて、少女は立ち上がった。
「走ろう、ルーン!」
ルーンは、待ってましたとばかりに頷いた。
少女は目を覚ました。ルーンと共に過ごした時間は瞳の裏に鮮やかに残っており、とても夢だとは思えないほどだった。
彼女は「友達と一緒に登校するんだ!」と両親に告げ、朝早めに出かけた。そして薄暗い公園のベンチに座り、ゲーム機の電源をつけた。いつもと同じように自然公園を駆け回り、ルーンに話しかける。すると、彼女は驚きに目を見開いた。
『おはよう。これからよろしくね』
ルーンのセリフとして、そうダイアログに表示された。
少女は嬉しそうに笑った。夢の中で見た事は、本当にあったことなのだ、と。
『うん、君は笑顔が一番だ。君が笑ってくれると、僕も嬉しい』
ドット絵のルーンは、一つ跳ねて笑顔を表す吹き出しを見せた。
少女はその晩も、その次の晩も夢を見た。夢の中は現実より、遥かに輝きに満ちていた。ルーンが居るからだ。夢の中は、彼とふたりきりの世界。誰も邪魔する者など居ない。
毎晩見る夢の中でも、一人ぼっちの公園でのゲームの中でも、少女は飽きることなく駆け回る。ルーンを引き連れて、嬉しそうに。
ルーンは優しかった。彼の身体のぬくもりは暖かく、性格も同じように、お日様のように暖かかった。
だが、それ故、少女にある感情が芽生えた。
「ねぇ、ルーンは、どこにも行ったりしないよね」
ある日、少女は夢の中で、彼にそう問うた。
彼女に芽生えた感情は恐怖。今が幸せすぎて、いつか、幸せが自分の掌から零れ落ちてしまうのではないかという恐怖。
少女は臆病だった。臆病だからこそ、今ある幸せに、不安を覚えた。漠然で、何の根拠も無い不安。
「大丈夫だよ」
ルーンは、怯えた様な色を見せる彼女の瞳を見て、答えた。
「僕は、ずっと君の傍に居る」
「だから、笑って。君が悲しい顔をしていると、僕も悲しい」
少女はおずおずとルーンの毛皮を撫でた。そして、そこに彼が居る事を確認するかのように、彼の身体を抱きしめた。
ルーンの息遣いが聞こえる。心臓の鼓動が聞こえる。暖かな体温が伝わってくる。彼の優しさが、ぬくもりが、少女の恐怖を溶かした。
少女は、安心したように笑った。
一ヶ月が経った。少女は変わらずルーンと共に過ごした。少女は放課後、誰よりも早く家に帰り、両親に嘘をつき、ゲーム機を持ってどんよりとした公園へ駆ける。そして、日が暮れるまでゲームをして、家に帰る。その後は食事と風呂を済ますと、宿題もおざなりに、すぐにベッドに入る。ルーンと一緒に過ごす時間を、少しでも多くとるために。
自然公園の中央、大きな噴水が水滴を散らす。光が水滴に反射して、キラキラと宝石のように輝く。水しぶきが力強く打ち上がったかと思うと、ばしゃばしゃと音を立てて落ちてくる。水は散る。まるで意思を持っているかのように踊る。
少女とルーンは噴水の縁に座って、その様を見上げていた。
「きれい……」
少女は言った。ルーンが隣にいるだけで、ただの噴水がこんなにも美しい。一人で見る噴水なら、きっと、こんなにも綺麗には見えないだろう。夢の中はいつでも、現実より色づいていた。
「うん……本当に」
ルーンは目を細めて、小さく呟いた。その声に覇気はない。彼の視線の先には噴水があったが、彼の瞳にはそれが映っていないようにも見えた。
少女は噴水から目を離し、そんな彼を心配そうに見つめた。
彼の様子がおかしくなったのはいつからだろうか。彼は何かを思案しているかのように、遠くを見つめる。少女は何度もその理由を尋ねたが、いつも困ったような笑顔ではぐらかされた。
「ね、ルーン。私は、笑顔だよ」
少女は、ルーンに白い歯を見せた。彼は以前、「君が笑ってくれると、僕も嬉しい」と言った。だから、彼女は彼女なりに、にこやかな顔を見せることで、彼を元気付けようとしたのだ。
その意を察して、少女に心配をかけたことに気づいたのか、ルーンは慌てたように笑顔をみせた。
「うん、僕も、嬉しいよ」
いくら表面では取り繕っても、彼の炎の陰りは、隠せなかった。
次の日、少女がほの暗い公園でゲームをしていると、思わぬ来訪者があった。
「お、またお前、ここでゲームしてんのか」
幼い少年。短パンにランニングシャツといった、いかにも活発そうな出で立ち。どんよりと陰気な空気を漂わせる公園には不釣り合いであると言えた。
彼は、少女のクラスメイト。少年はいつでも人の輪の真ん中におり、絶えず大勢の友達に囲まれていた。
少女は彼に一瞥をくれると、興味など、まるでないと言わんばかりに、ゲームの画面へと目線を戻した。
「なんだよ、無視すんなよ」
少年は少しだけ不機嫌そうにして、口をとがらせた。
「なー、お前がやってるの、ポケモンだろ? ちょっと見せてみろよ」
彼はそう言ってゲーム画面をのぞき込もうとしたが、少女は、見られないようにゲーム機の背面を少年へ向ける。
「少しくらい、いいじゃねーかよ」
ぶつくさと少年は文句を言った。
少女は相変わらず、ゲームの中でルーンと駆けていた。光あふれる自然公園で、ひたすらに。
少女にとって、ルーン以外は平等に無価値であった。
だが……。
『ほら、見せてあげなよ。友達ができるよ』
ゲーム機の中で、ピョンピョンと跳ねながら、ルーンがそう言った。
瞬間、少女の感情が爆発した。
「あっちへ行って」
小さく呟く。少年は、訝しげな表情をして彼女を見た。
「あっちへ行ってよ!」
大きな声で、少女は叫んだ。ビリビリと空気の振動が辺りを震わす。
少年は驚いたように目をまん丸に開いたが、すぐに気を持ち直したのか、
「ちぇー。つまんねーの」
と捨て台詞を残して、公園から去っていった。
ルーンには悩みがあった。最近彼の様子がおかしかったのは、そのせいだった。その悩みとは、他ならぬ少女のことである。
少女はルーンと出会ってから、ずっと授業は上の空、休憩時間でも、ひとりぼっち。たまに誰かから話しかけられても、その声に返事する事はない。宿題すらまともにこなさない。さらには、両親に嘘をついてまで、公園でゲームをする。
少女は、明らかにルーンに依存していた。
ルーンは、彼女が自らひとりぼっちになろうとするのが悲しかった。だが、そのことを注意したら、きっと彼女は激高するだろう。激高したあげく、しまいにはマグマラシを拒絶するだろう。無理もない。彼女はまだ、十にも満たない子供なのだ。
彼自身も、少女に嫌われたくなかった。故に、悩みが胸に重くのしかかっても黙っていた。たとえ、自分に元気がないことで、少女に心配されたとしても、悩みを打ち明けることはなかった。
だが、それではいけない、とルーンは今日の出来事で確信した。彼女はこのままでは、ずっとひとりぼっち。たとえ、自分が嫌われたとしても、言わなくては……。
「今日は、君に話があるんだ」
夢の世界で、少女が目を覚ますなり、炎をたなびかせながら、ルーンはそう切り出した。
真剣な彼の瞳に、少女は少しの驚きを感じつつも頷いた。
「どうして、公園に入って来た子と話さなかったんだい? 友達になれただろうに」
その言葉で、一人と一匹の間に沈黙が走った。風が芝を撫でる、さわさわといった音だけがふたりの間を流れた。
「私には、ルーンがいるから、それでいいもん」
少女は、俯きながら、言葉を搾り出した。顔が伏せているため、その表情を伺う事は出来なかったが、きっと、悲しげな表情をしているのだろう。
彼の心が、ちくりと痛んだ。でも彼は、言葉を発する事をやめなかった。
「ダメだよ。それじゃあ……」
彼は深呼吸をするように、大きく息を吸い、続ける。
「それじゃあ、君は、いつまで経ってもひとりぼっちじゃないか」
その言葉に、少女は顔を上げた。瞳からは大粒の涙がこぼれていた。彼女は泣いていた。歯を食いしばりながら。
「違うもん! ルーンがいるから、ひとりぼっちじゃないもん!」
彼女の言葉は悲しみに満ちていた。嗚咽を口から断続的にもらしながら、ルーンに向かって声の限りに叫んだ。
風の音はもう聞こえない。彼女の悲痛な叫びだけが、ルーンの耳をつんざいた。
少女は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼に尋ねた。
「どうして? どうしてそんな事言うの? ルーンは、私のことが嫌いなの? 嫌いだから、そんなことを言うの?」
そんな彼女を見て、彼は今にも泣きたい気持ちになった。今すぐでも、大好きだ、と言って、抱きしめたかった。
だが、それを理性が止めた。そうするならば、彼女はずっとこのまま……。
だから、彼は。
「……僕は、お母さんに嘘をついてまで、僕と一緒に遊ぼうとする君は」
「自分から、望んでひとりぼっちになろうとする君は」
「……嫌いだよ」
彼は俯き、口に苦々しい物を感じながら、辛らつな言葉を吐き出した。
ルーンは顔を伏せたままだった。彼女の顔を見るのが怖かった。
少女の嗚咽が聞こえる。それは、彼が一番聞きたくなかった音。胸がかきむしられるように痛む。その痛みは、心の痛み。恐らく、身体を八つ裂きにされようとも、その痛みとは比べるに値しないだろう。
「あっちへ……行ってよ」
少女は、うずくまって、泣きじゃくりながら言った。涙をぬぐう事もせず、大粒の涙が何粒も何粒も芝にたれる。葉に乗った水滴は、頬を流れる涙のように、重力にしたがって地面へと零れ落ちた。
ルーンは、少女から逃げるようにして、その場を後にした。
少女の心には、裏切られたという思いが重くのしかかっていた。朝起きて、食事をしても、その思いが軽くなる事は無い。彼女の心には、ぽっかりと穴が開いたようだった。
母の「今日も友達と一緒に登校するのよね?」という言葉に押されて、彼女はやることも無いというのに、朝早くから学校へ行った。
学校では、ひとりぼっち。誰も彼女に話しかける者などいない。孤独は、少女の心を寒くさせた。寒くて凍えそうだった。暖めてくれる炎が、側にいて欲しかった。
少女は学校が終わると、歩いて家に帰った。その足どりは鉛のように重かった。
家に帰ると、母が思い出したように言った。「あら、今日はお友達と遊びに行かないの?」
その言葉に背を押され、少女はゲーム機を持ち、気が進まないが、公園へ向かう事にした。
少女の感情を現しているかのような、薄暗く、鬱々とした公園。彼女は、ベンチに座っていた。手には、電源が入っていないゲーム機。
少女は凍えていた。季節は春の半ば。既に肌寒い時期は過ぎている。にもかかわらず彼女は凍えていた。寒くて寒くて、体を震わせた。
彼女は電源の入っていないゲーム機をじっと見つめた。このゲーム機の電源を点ければ、ルーンがいる。彼女のたったひとりの友達。ひとりぼっちな彼女の、唯一の温もり。
彼を拒絶したのは、彼女自身であった。だが、少女はもう孤独に耐えきれなかった。ゲーム機の電源スイッチへ指を伸ばし、電源を点けた。
「おーい、また会ったな」
その時、公園に招かれざる来訪者があった。
活発そうな少年。憂鬱に佇む少女とは、正反対の存在。
「じゃーん、今日は俺も持ってきたんだぜ、ポケモン」
少年は、ゲーム機を見せびらかすように少女に示す。
だが、少女は少年から顔を背けた。
「だから、無視すんなって」
少年は注意を引こうと、彼女の手の中にあったゲーム機を取り上げた。
「か、返してっ!」
少女は立ち上がり、少年の腕にすがりつく。身長差のせいか、ゲーム機に手は届かない。だが、彼女は体重をかけて、全力でゲーム機を取り返そうとした。
「お、おい、危ねぇだろ」
「返して、そこには、そこには!」
少女の両手に引っ張られる様にして少年の体が傾く。少女はつま先立ちになって手を伸ばし、ついにゲーム機に指先がかかった。
「あっ」
無理矢理に引っ張られたゲーム機は、少年と少女の手から、滑るようにしてこぼれ落ちた。地面にそれが叩きつけられる様が、スローモーションのように、彼女の目に映った。
「ああっ!」
少女は土に汚れたゲーム機を拾い上げ、大事そうに胸に抱きしめた。瞳に涙をためながら俯く。
「お、俺のせいじゃねーぞ! お前が悪いんだからな!」
少年は、彼女の姿から目をそらし、公園から走り去った。
少女はいつまでも俯いていた。ひとりぼっちでゲーム機を抱えながら。電源が点いていることを示すランプは、消えていた。
少女は泣きながら家に帰った。その姿に両親は驚き、理由を聞いたが、彼女は答えなかった。食事も風呂もいい加減にすまし、一人の部屋に籠もった。
少女は思った。私にはルーンしかいない、と。私の居場所は、彼の隣にしかない、と。
彼女はルーンに謝ろうと、ゲームの電源を点けた。ランプは灯る。
しかし、現れたゲームの画面に、彼女は愕然とした。
「はじめから……?」
いつもゲームを始めるときに選択する、『つづきから』が無い。少女は半狂乱になって、何度も何度も電源を点けなおした。
だが、結果は同じ。何度スイッチを入れ直しても、ルーンに会うことはできない。彼女はベッドの中で途方に暮れた。
そのしばし後、少女は思いついた。
「そうだ、夢の……夢の中なら!」
彼女は一縷の望みにかけるように、ベッドに横になった。
気分が高揚しているというのに、すぐさま彼女は眠りにつくことができた。
彼はかつて、少女と同一だった。彼が生まれたのは、少女があかいはなに憧れを抱いた時。その感情が、マグマラシに宿った。
彼の感情は当初、少女と一致していた。だからこそ、『君が笑ってくれると、僕も嬉しい』と言ったのだ。
しかし、共に過ごす一ヶ月のうちに、彼自身の自我が芽生え始める。ひとりぼっちの少女を想う彼は、ある決断をした。
それは、別れの決断。
夢の中の世界で、少女は目の前の光景に絶句した。
美しく輝いていた空はモザイクがかかったように歪み、気持ちよく吹いていた風は、ビリビリと不愉快な音を立てながら舞っていた。足下は雲の上のように頼りなく、体重をかける度に沈み込んだ。
その中で、少女は焦燥感に駆られた顔で、走りながら唯一の友達の姿を探した。
「ルーン!」
ルーンは座っていた。その姿は陽炎のように頼りなく揺らいでいた。少女は躊躇無く彼の体を両腕で抱きしめた。
「よく、来たね……。君を、待っていたよ」
彼は、瞳を虚ろにし、息も絶え絶えに言った。
「今日は、お別れを、言いにきたんだ」
彼のその言葉に、少女は驚愕と悲哀に幼い顔を染め、いやいやと言うように首を振った。涙が一滴二滴、こぼれ落ちる。
「ごめんなさい、私が、私が、ゲーム機を落としたから……」
彼女はうわ言の様に、謝罪の言葉を繰り返す。そんな彼女を見、ルーンは悲しそうにして、震えた声で囁いた。
「違うよ、君は、悪くない。落ちたのは、きっかけに過ぎない。僕は、データの崩壊を、止めることができた。だけど、しなかった」
ごめんなさいと繰り返す、彼女の口が止まった。
「僕がいると、君は友達を、作れない。現実では、君は、ずっとひとりぼっち……」
「ここは、夢。僕も、夢。夢は、いつか醒める物。それが、今。だから、悲しまないで」
ルーンは少女の瞳を真っ正面から見つめながら、喉奥から言葉を絞り出した。
「いや……いやだよ、ルーン……」
涙で歪んだ少女の顔が、さらに悲痛な色に染まる。
彼の姿が揺れる。ノイズがかったように不確かにぼやける。
「君は、これから、たくさんの友達をつくるんだ。僕のことなんか、忘れちゃうくらいに、たくさんの」
モザイクがかった空が、白く滲む。風が止む。足下が緩んでゆく。
「たくさんの友達と遊んで、いっぱい、いっぱい、笑顔の花を、咲かせるんだ」
「君なら、できるさ」
ルーンの炎も揺れる。今にも消えそうにゆらゆらと。
「そのはなむけに、君に、贈り物が、あるんだ」
少女の手に、何かが手渡された。
それは、花。赤い花。彼女が一番好きな花。ルーンの炎にも似た暖かい色を持つ花。
「嫌いなんて、言って、ごめん。僕は、君のことが……」
「……大好きだ」
ルーンは、痛苦にその表情を歪ませながらも、笑った。
「私も、私も大好きだよ、だから……」
行かないで。少女のその言葉は、かすれて声にならなかった。
ルーンは彼女に抱きつき、あかいはなのような笑顔を咲かせて、少女の耳元に囁いた。
「大丈夫だよ。僕は、ずっと……」
瞬間、少女の視界が、真っ白に染められた。
少女はベッドから起きあがった。視界が涙で歪み、目を開いても、何も見えなかった。
「ルーン……」
彼女の呟きは、ひとりぼっちの部屋に空虚に響いた。
その時、少女は自分が手に、何かを持っている事に気がついた。
涙を拭い、手を広げる。
そこには、あかいはながあった。ルーンから贈られた、あかいはな。彼が、少女の隣に居た証。
四つの花弁を大きく広げ、太陽の光を一身に受ける花。
その姿が、ルーンを想起させて、少女はあかいはなを抱きしめた。離したくないといいたげに。再び溢れる涙を拭おうともせず。
甘くて酸っぱい春の香りが、部屋いっぱいに広がった。
少女は、朝早く学校へ出かけた。胸の内ポケットに、赤い花を傷つけないようにしまって出かけた。
教室に着くと、同級生が数人で遊んでいた。少女が椅子に座る。
それを見て、数人の輪の中から、一人の少年が出てきた。
短パンにランニングシャツといった出で立ちの、活発そうな少年。
彼は余所を向き、頭をかきながらばつが悪そうに言った。
「悪かったな、ゲーム機、落としちまって」
少女は、小さく首を横に振った。少年はその姿をちらと見た。
「な、待ってるから、一緒に遊ぼうぜ」
少年は少女の答えも聞かずに人の輪の中に戻っていった。
少女には花があった。ルーンから贈られたあかいはな。彼がくれた勇気。
だから、彼女はもう、怖くなかった。席を立ち、歓談している同級生の輪に近づいて、言った。
「みんな、何してるの? 私も混ぜてよ!」
薄暗い公園、木漏れ日が申し訳程度に地面を淡く照らす。少女は過去を思い出すように目を閉じながら、ベンチに一人で座っていた。
あれから数年が経っていた。少女の長く艶やかな黒髪が、風に揺れる。彼女は高校生になっていた。
少女はルーンが言った通り、たくさんの友達をつくった。いつでも人の輪にまざって笑っていた。凍える様な寒さも、姿を消していた。
それでも、少女がルーンのことを忘れる事はなかった。彼女の初めての友達。彼はいつまでも心の中に残っていた。
彼女がルーンを思い出したくなったときは、かつて、ゲームをしていた公園のベンチで座る。
少女は、目を瞑って思い出を反芻していた。
「大好きだよ、ルーン。ずっと、ずっと」
幼き日の少女は笑顔で言った。ルーンも、爛漫と咲く花のような笑顔で、頷いた。
「僕も、君のことが大好きさ」
言い、彼は少女に飛びついた。暖かい毛皮が、少女をとても暖かい気持ちにさせた。
少女は永遠を信じていた。この宝石のような一瞬が、永遠に輝くことを、ただ純粋に信じていた。
「ルーン、私は今、笑っているよ。友達も、沢山、いるんだよ」
高校生となった少女は、口角をあげた。閉じた瞼の端から、涙が流れ落ちた。
「だから、だから、ルーン……」
震えた声は涙で続かない。彼女は、無理矢理に笑顔をつくりながら、過去に思いを馳せた。
その時、嗅いだことのある香りが、微かに漂った。
『大丈夫だよ。僕は、ずっと……ずっと、君の傍にいる』
少女は驚き、涙を拭いながら目を見開いた。そこには誰もいなかった。だが、残されたものがあった。
残香。少女が大好きなあの香り。
甘くて酸っぱい春の香り。
あかいはな。