ヒトカゲのマッチ
少年はマッチに火をつけた。
硫黄の香りが漂い、灯りのない川辺を照らす光がともる。
その光を見て、ヒトカゲは笑顔を浮かべた。
ゆらゆらと揺れる小さな炎を、彼は食い入るように見つめていた。
少年はそのマッチの火で、持っていた線香花火に点火しようと、火を近づける。
だが、火は点かなかった。少年は落胆したように言った。
「あーあ、湿気てら」
そしてマッチの火も消える。かすかな残り香を残し。ヒトカゲは肩を落とした。
「ほら、ヒトカゲ、お前もやってみろよ」
少年はマッチと線香花火をヒトカゲに手渡した。
それを受け取り、ヒトカゲは大喜びでマッチを擦った。
そして、その火を線香花火に近づける。
やはり、湿気た線香花火に火はつかなかった。マッチの火が消える。ヒトカゲはマッチ箱からもう一本マッチを取り出し、火を点けた。
何度も何度も、彼は線香花火に火を移そうと、マッチを擦り続けた。
十数年が経った。少年の小さかった背も、見違えるほど大きくなった。もう少年とは言えない。彼は青年となった。
ヒトカゲは、ヒトカゲのままだった。
小さな背も、優しげな瞳も変わらなかった。
青年は、いつまで経っても進化しないヒトカゲに、しびれを切らしていた。
「ヒトカゲ、いい加減に進化したらどうだ?」
青年はヒトカゲに語りかけた。
ヒトカゲは小さく首を横に振った。
ヒトカゲは、怖がりだった。進化して、自分を失うことが怖かった。
そして、彼は優しかった。進化することで、気性が荒くなり、主人を傷つけることを恐れた。
青年は何度目かのヒトカゲのその答えに落胆した。
さらに年月が経った。青年は壮年となり、逞しかった肉体は少々の贅肉に覆われた。
ヒトカゲの背は少しだけ小さくなり、肌は皺にまみれていた。
ただ瞳だけが変わらず、あのころと同じ色を灯していた。
「ヒトカゲ、頼むから進化してくれ。このままではお前の寿命が……」
壮年は願うように言った。
ポケモンの寿命は、進化していれば長くなる。だが、進化せず、幼年期の姿のままでは、長い間身体を保てない。
寿命は迫っていた。如実に皺にまみれた肌が、丸くなった背が語っていた。このままでは、後何年も持つまい。
だが、ヒトカゲは小さく首を横に振った。あの頃と同じように。
ヒトカゲは、わがままだった。自分のままでいたかった。ヒトカゲのままでいたかった。
そして、彼は優しかった。その爪が、その牙が、主人を傷つけることを何より恐れた。
壮年は悲痛な色をその顔ににじませていた。
それから数年の時が流れた。壮年は中年となり、すっかり身体は贅肉で包まれた。
ヒトカゲはもう立てなくなっていた。目を開けることも出来なくなり、床に倒れ伏していた。
その命がまだあることを知らせるのは、かすかな呼吸音と、尻尾のか細い炎だけだった。
「ヒトカゲ、お願いだ。進化してくれ。何でもする。お願いだ、ヒトカゲ」
中年は今にも泣きそうな声で呟いた。
ヒトカゲは幸せだった。今まで、ずっとヒトカゲでいられたことが、変わらずにいられたことが、主人を傷つけずにいられたことが。何より、主人の側にいられた事が。
だから、彼は満足げに首を横に振った。
そして、尻尾の炎は煙も出さず、すっと消えた。
「ヒトカゲ!」
中年が叫ぶ。返事はない。炎のない尻尾が、その生命が消えたことを伝えていた。
中年は涙を流し、慟哭した。頭をかきむしり、床に頭を打ちつける。
その時、中年はポケットにマッチが入っていることを思い出した。
「そうだ……」
もしかしたら、これでヒトカゲの尻尾に炎を灯せるかもしれない。ヒトカゲの命を取り戻せるかもしれない。
ズボンが破ける勢いでマッチを取り出し、火をつける。
「点けよ……頼む、点けよ……」
祈りながらマッチの火を尻尾にかざす。炎は灯らなかった。そしてマッチの火も消える。
「くそっ!もう一回だ!」
彼は何度でもマッチを擦る。一心不乱に火をつけるその姿は、奇しくも、あの日のヒトカゲに似ていた。
幸せだったあの日、線香花火に火を点けようと、マッチを何度も擦っていたヒトカゲに。
「あーあ……湿気て……ら」
マッチは尽きた。尻尾に火が点くことはなかった。
あの日少年だった中年は、もう動かなくなったヒトカゲの手に、燃え尽きたマッチをそっと握らせた。
「ほら……ヒトカゲ……お前も……」
言葉は、涙でかすれて続かなかった。
「ヒトカゲ、マッチは後一本しかないぞ。大事に使えよ!」
少年の言葉に、ヒトカゲは大きく縦に頷いた。
ヒトカゲはマッチを擦る。ポッと小さな音を立ててマッチに火はともった。
そして、慎重に慎重に線香花火を近づける。
一秒、線香花火には何の反応もない。
二秒、マッチの火が頼りなく揺らぐ。
三秒、ああ、まただめか、と少年が落胆しかけたその時。
小さな小さな破裂音が一つだけ聞こえた。
そして堰を切ったように、バチバチ音を立てて線香花火は火花を散らし始めた。
「やったな!ヒトカゲ!」
少年の言葉に、ヒトカゲは得意げな笑いを浮かべた。
夏の川辺、闇夜に灯る光が一つ。
線香花火のかすかな光は、少年とヒトカゲの笑顔を、優しく照らしていた。