ラプラスの歌
大きな河があった。目を凝らして、ようやく対岸がかすんで見えるほどの、幅の広い河。
男はその岸辺で途方に暮れていた。
向こう岸に渡るただ一つの手段である、大きな橋が工事中なのである。
迂回路は無く、船もない。向こう岸に急ぎの用事がある男は、うなりながら頭を抱えていた。
そんな時、歌が聞こえた。遠い彼方まで響きわたるような澄んだ歌声。
そのソプラノは、慈愛に満ちた子守歌のようであり、嘆き悲しむような鎮魂歌のようにも聞こえた。
男は聞き惚れ、誘われるようにしてその歌が聞こえる方向へと歩いていった。
そこにはラプラスがいた。希少種、絶滅危惧種といわれ、男も図鑑でしかその存在を知らなかった。
歌が響く。人間の声帯では構造上模倣できない高温域の歌声、河の水はそれにより波紋を広げ、ピリピリと振動を空気に、鼓膜に、水面に伝えていた。
唐突に歌がやんだ。ラプラスが男の存在に気づいたのである。どこまでも透き通ったような宝石のような黒い瞳が、男を見つめていた。
「邪魔したか、すまなかったね」
男は礼をし、きびすを返す。野生のポケモンは縄張り意識が強い。刺激しないように、余計なことをせずすぐさまその場を離れるべきだったが、わざわざ頭を下げたのは男なりの歌への感謝だった。
だが、きゅーい、とラプラスは男を呼んだ。不思議に思って振り返ってみると、ラプラスは前足のヒレで自分の背中を指していた。
「乗れ、ということなのか?」
ラプラスはもう一度鳴きながら頷き、自分の背をぽんぽんと叩いた。
ラプラス、優しいポケモン。人を乗せるのが好き。男は図鑑の説明を思い出していた。
「ありがたい、乗せてもらおう。向こう岸まで頼む」
男にとっては渡りに船である。負担をかけないように、ゆっくりとラプラスの背中に体重をかける。
ラプラスは男が乗ったことを確認すると、一つ頷き、水をかいた。
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一昔前、その河にはたくさんのラプラスがいた。河では絶えず澄んだ歌が辺りに響きわたり、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
卑しくも、そこに住むラプラス目を付けた人間がいた。ラプラスは絶滅危惧種であり、高く売れる。一匹辺りのレートは途方もない金額だった。
その結果、人間達にラプラス達は乱獲され、残ったラプラスは一匹のみとなった。まだ幼く、一際体の小さかった彼女は、岩影に身を隠すことができたのである。
家族も奪われ、仲間も奪われ、ただ一匹だけ河に残された彼女は……
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男は上機嫌だった。ラプラスの背中は大変乗り心地が良く、船酔いの心配も無い。何よりうれしい事は、ラプラスが歌を歌いながら泳いでくれている事だ。その歌声を聴くと、大変心地よく、安らいだ気持ちになれる。
その乗り心地は、母親におぶられながら、子守歌を聴いた時と酷似していた。
ゆりかごの中で揺られるようなその感覚に、ラプラスに寄りかかり、男はうとうとと船をこぎ始めた。
だが、その眠気は即座に吹き飛ぶこととなった。服の裾が引っ張られ、男の全身は眠気と共に水で冷却された。秋の終わり、河の水は容赦なく体温を奪ってゆく。
ラプラスに捕まれ、放り投げられたと気づくのに少々の時間を要した。
「何をする!」
思わず男は非難の声を上げた。ラプラスは悪びれるでもなく、動揺するでもなく、男の目をじっと見つめた。
男はその目に得体の知れない恐怖を覚えた。澄み切った瞳は底が見えず、全ての光を吸い込んでいるかのような気さえした。
彼は目を背け、元来た岸へと泳ぎ始めた。
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優しく子守歌を歌ってくれた母は消えた。強く、たくましかった父は消えた。お調子者で、いつもいたずらばかりしていた兄は消えた。川縁の巣は、まだ小さなラプラス一匹には余りに大きく、殊更孤独感を強調させた。
ただ一匹のみ残された彼女は、湿った岩肌に肌を寄せ、いつまでとも無く涙を流していた。
そんな時、ある思い出が頭をよぎった。母親に歌を教えて貰ったときの事。歌が好きだったラプラスは、母親にたくさんの歌を教えて貰ったものだ。その数は数十、楽しい歌や勇気の出る歌、悲しい歌、ジャンルは多岐に渡った。
だが、一曲だけ、なかなか教えて貰えない歌があった。全ての歌が好きだったラプラスは、母親にその歌を教えてくれとせがんだ。母親は、渋々その歌の断片を少しずつ教えてくれた。何日もかけて、ラプラスはその歌を覚えた。
母親は歌を教え終わった後にこう言った。
『この歌は全編通して歌ってはダメ。聴いた者全てを滅ぼしてしまう。いい? 決して、歌ってはダメよ』
母親の真剣な表情と、その歌の真相に、彼女は震え上がった。
その歌の名は、ほろびのうた。
自然と、ラプラスの口からその歌は流れていた。
ラプラスは弱く、臆病だった。人間から家族を取り返すこともできない。だが、一匹きりでは生きていくこともできない。だから、死ぬ道を選んだ。
歌は巣全体に響く。観客はいない。一匹のみのコンサート。暗く、鎮魂歌のような悲しい旋律が反響し、幾重にも音が重なりあう。彼女の嘆きと絶望は誰にも届かず、彼女自身の耳に何倍にもなって帰っていった。
歌が終わる。彼女はまだ生きていた。歌ったほろびのうたは、最後の一小節だけ欠けていた。彼女の母親は、娘の身をおもんばかって最後まで教えなかったのだ。
ラプラスの身に変化はなかった。小さな角も、小さなヒレも、肉厚の尻尾も、何一つ欠けてはいなかった。
消えたのは彼女の心。種族の前提である、やさしいポケモンである、という部分。定められたラプラスの枠組み。終わりまで歌われる事の無かったほろびのうたは、彼女の良心と優しさと臆病だった心を滅ぼした。
彼女は、さも嬉しくて仕方がないというように、壊れた心で笑った。彼女の瞳は、まるで何も知らない赤子の如く澄み切っていた。
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男は必死に水をかきながら呟いていた。何故だ、何故だ、と。ラプラスは優しいポケモンである。これは間違えようもない事実。どの図鑑にもそう書いてある。人を襲った前例もなく、無条件で人を信頼し、その背に乗せるポケモン。そのはずだ。その枠からはずれることなどあり得ない。たとえどんなことがあろうとも、そのせいで種族自体が絶滅しようとも。
だが、実際にあのラプラスは男を投げ出した。人は水中で息はできず、冷水に長時間つかると体温を奪われ、死に至る。そんな水にあふれる河で人を投げ出すなど、襲うことに同義であった。まるで、ラプラスの皮をかぶった別のポケモンの様。
幸いにして、男は泳ぎが得意であった。陸地はみるみるうちに近づいてゆく。米粒の様だった岸辺の岩が少しずつ大きく見えてゆく。あと100メートル程。もうすこしだ、と男は安堵した。
瞬間、男の右腕は動かなくなった。
何故?男が自らの腕を見遣ると、肩口から指先まで、氷に包まれていた。
後ろを見る。ラプラスが迫っていた。口から冷気を垂れ流しながら肉薄していた。その口から白く光を乱反射しながら輝く光線が発射される。それは男の左足に直撃し、その感覚を失わせた。
「や、やめろ」
陸地は近い。辛うじて残った左腕と右足で水をかく。だが、ラプラスの口からは容赦なく第三射、第四射が放たれた。それは残った左腕と右足を根本から凍てつかせ、男は首元まで水に沈んだ。
それでも何とか沈むまいとあがき、腕と足を無理矢理に動かす。ぽきり、右腕はあっさりと根本から折れて赤い断面を覗かせた。血は出なかった。
「あ……あああ」
男は岸辺を目の前にして沈んでゆく。顔に絶望を張り付けて、深い河の底へと。彼が最期に見たのは、ラプラスの爛漫と咲き誇る花のような笑顔だった。