承(平坂ユウコ)
画面に二人のトレーナーの姿が映し出されていた。繰り出しているポケモンは、一方がバクフーン、一方がピジョットだ。
「電光石火」
「こっちも電光石火だ」
マイクがかろうじてトレーナーの指示を拾っていた。先に動いたピジョットがバクフーンの上に出たが、バクフーンはそこから十メートルほど離れた位置まで電光石火で瞬時に移動した。
「火炎放射」
「電光石火」
バクフーンがピジョットに向けて炎を噴出させたが、ピジョットは炎が到達する前にバクフーンの上に出た。バクフーンは直上に現れたピジョットに火炎放射を向けようとしていたが、トレーナーの指示で異なる行動に出る。
「ブラストバーン!」
ピジョットの身体の向いていた先、約十メートル上空をブラストバーンが突き抜ける。そこに現れたピジョットはすんでのところで炎の塊を避けた。バクフーン側のトレーナーは新炎≠ニいう二つ名を持つトレーナーだ。直撃しも一撃で沈むことはなかったかもしれないが、ピジョット側は交代もポケモン交代も視野に入れなければならなかっただろう。
「「電光石火」」
二人の指示が重なった。けれどバクフーンは反動で動けない。ほとんど希望程度の命令だ。事実、この命令は果たされなかった。ピジョットは急降下から電光石火、バクフーンを弾き飛ばした。ピジョットは空中を旋回、衝突して崩した体勢を空中で整えようとする。そこへ、
「火炎放射」
飛ばされながらも頭をピジョットに向け、もう一度背中に炎を湛えたバクフーンが百発百中の火を投射していた。普通なら回避も対抗も出来ない至近距離だ。けれどピジョットは持ち前のスピードとレベルの高さでそれを埋めてみせる。
「オウム返し」
炎が届くほんの手前で、ピジョットは同じく火炎放射を発動していた。炎の柱が立ち上がる。ピジョットはそこから電光石火で離脱、バクフーンから距離を取っていた。着地したバクフーンも同様に構えた。数秒、互いに動かなかった。
「煙幕」
バクフーンの生み出す煙幕が、大爆発のあった後のようにその周囲を取り囲みはじめた。ピジョットはトレーナーの指示で空へと飛び上がる。煙幕発動直後であれば電光石火でバクフーンに攻撃を仕掛ける手もあったが、ピジョット側はそれをしなかった。接近を誘う陽動という可能性もあるのだ。煙幕はフィールドの一部を覆い、ピジョットはなるべく煙幕から距離を置いて空中を旋回しはじめた。トレーナーの指示に基づいて煙幕の中から火炎放射がピジョットへと放たれる。膠着を嫌ったのだろう、ピジョットは命じられて煙幕へと走る。火炎放射をぎりぎりで躱すと電光石火で一気に黒い空気の塊へと突っ込んだ。
「電光石火」
バクフーンが地表を駆け、煙幕の外へと出た。ピジョット側のトレーナーの冷静な表情が少しばかり崩れたように見えた。バクフーン側は寸前と変わらず、指示の一つひとつに感情を込めた、必死の戦い方だ。
「ブラストバーン!」
「オウム返し!」
明瞭な声が同時に響き合う。はじめ、このぶつかり合いは先ほどの焼き回しのように見えた。バクフーンに遅れてピジョットが技を繰り出し、ピジョットの眼前でぶつかり合う。けれど、今度はバクフーン側が圧倒していた。打ち消せなかった威力全てをその身に受け、ピジョットは墜ちる。
「次、来るぞ!」
バクフーン側のトレーナーが声を張り上げた。その言葉通り、ピジョットはフィールド墜落直前で翼を広げ、再び空へと舞い上がった。体力の三分の一は削られていたのかなあ、と一緒に画面を見る男が呟くのが聞こえた。ピジョットが体勢を整える間にもバクフーンは反動から脱し、ピジョットを逃すまいとその行き先を確実に視線の中に収めていた。
「電光石火」
ピジョット側が指示を下した。その男は電光石火≠フ二つ名を持つトレーナーだ。単なる電光石火といえど、一撃が重い。その上、既に一回受けている。あと一、二回受ければ体力が危険域まで削り取られるのは明白だった。
「電光せっ」
バクフーン側が命じるより早くピジョットは電光石火を繰り出していたが、バクフーンは自己判断で電光石火を発動、躱す。
「電光石火!」
ピジョットがバクフーンの後方五メートルほどの位置に現れる。バクフーンがピジョットに向き直そうとしたとき、ピジョットはほとんど間髪を入れない電光石火でバクフーンを突き飛ばす。今度はバクフーンも技を繰り出す余裕はなく背中からフィールドへと落下した。それでもすぐに立ち上がり、ピジョットを探す。ピジョットは上空に出て、光を吸収しはじめていた。
「ゴッドバードが来るぞ、電光石火用意!」
バクフーンに電光石火を覚えさせたのは、このトレーナー対策だと聞いたことがある。現に今、このバクフーンは電光石火を覚えてはいないらしい。スピードに対抗出来るのはスピードだけだということなのだろう。ピジョットは光を集め終え、ゴッドバードの発動体制に入った。けれどピジョット側のトレーナーが命じたのは、電光石火だった。
「電光石火ッ」
ピジョット方の指示が終わらない内にバクフーン方も同じ技を命じたが、けれどピジョットの方が早かった。溜め込んだはずの光を発散させながらもバクフーンをフィールドに叩き付け、空中で一回転する。まだ光を残していた。バクフーンはというと、次がどんな技であっても足を止められた以上、避けるのは難しそうだった。
「ブラストバーン!」
「ゴッドバード!」
二人のトレーナーが同時に命じた。バクフーンはすかさず立ち上がった。すごい気迫だ。光となって突撃してくるピジョットに向けて口を開き、炎の塊を撃ち出そうとする。その時の距離、わずか数メートル。ピジョットは構わずバクフーンへと突き進んだ。
「モンスターボールの支配」事件
承(平坂ユウコ) 一
私達が西暦一九九九年トレナーズリーグ・セキエイ大会、つまりカントー・ジョウト地区大会の決勝戦の録画を観ている最中、来客を告げるインターフォンが鳴った。私はリモコンで映像を止め、相方、高野(コウノ)タダヒコと目を合わせる。いわゆる2DKのダイニング、玄関まで遠くともなんともない部屋だが、私もタダヒコも互いに暑さにやられて動きたくなかった。客が誰かも分かっているのだが、とにかく動きたくはない。二人ともトレーナーだが、家に戻れば一転、椅子かベッドに根っこをはやして部屋に籠もっているインドア派だ。無言のままじゃんけんをする。グーとグー、チョキとチョキ、パーとパー、中々決まらない。今度は声に出して互いに手を出す。チョキとグー。私の負けだ。首を振って玄関へと向かった。
「お邪魔しますよー」
玄関で迎えた女性が言うと、ダイニングの方からどうぞーという声が届く。彼女はほのかに笑い、私は彼女をダイニングへと案内した。相変わらずタダヒコはソファに根っこをはやしていたが、少しばかり姿勢を正している。彼は彼女を見るなり、
「お久しぶりですね、高須川さん」
と挨拶をした。私達は一通りの挨拶と言葉を交わし、彼女、フリーライターの高須川(タカスガワ)コイさんと私は食卓に並んで座った。
「前は気付かなかったけれど、珍しいものがあるね。それベータ?」
タカさんが指さしたのは、電源のついているビデオデッキだった。彼女の言う通り、そのビデオデッキはVHSよりも高性能ながらも戦略的な失敗を重ねて敗退、いまやテープの調達も困難というベータマックスだった。さっき見ていたような録画はほとんどベータで私の家族が録画していたため、私もベータを高値で買ってきて使っていた。私はそのことと、ちょうど一時停止中となっている試合を見ていたこと、その試合が九九年セキエイ大会決勝戦であることを伝えた。ふうん、と彼女は言って、それは誰と誰の試合なのか、と尋ねた。私やタダヒコはワカバタウンの出身なのでこう言われれば伝わるのだけれど、タカさんはそうではなかった。そのことに質問を受けて始めて私は気付いた。
「電光石火<gキワシティのシンヤと、ワカバの新炎<純Jバタウンのキネワの試合です」
「ああ、そういうこと」
得心したかのように彼女は頷いた。マスタークラスが競うトーナメントまではまだ時間のあるこの時期、普通ならマスタークラスのトレーナーの名前を聞く機会は少ない。これどこの最近、ワカバの新炎≠フ名前だけはよく聞くようになっていた。私の住むここ、コガネシティで起きた事件の影響だ。犯人の口走っていたことからこの事件は、「モンスターボールの支配」事件という名前で呼ばれている。事件の発生から二ヶ月近くが経っていて、裁判も始まった。新炎≠フ名前もこの事件を収拾した人物の名前として、そして犯人・髪結(カミユイ)リュウの人物像を描く上で重要な人物として時折聞くようになっていた。
「今里(イマザト)キネワって、やっぱりよく知っているの?」
「ええ、まあ。あの人はワカバ出身のマスターで、私達は二人ともワカバ出身ですから。
それにトレーナーズリーグ上位者というのもワカバじゃかなり久しぶりだったみたいですよ。だから新≠ニいう字がついている」
なるほどねえ、と彼女は呟く。
「それで、今回はやっぱりこの事件に関しての取材ですか」
「うん」
「珍しいですね、高須川さんがこんな事件の記事を書こうだなんて」
「事件にはあんまり興味ないんだけどね。でも支配≠考え直すのは良い機会だし、それにこの裁判の裁判長、わたしの知り合いのお父さんだからちょっと気になってね。それで専門家の意見も聞くことも含めてやってきたわけだよ高野くん」
別に専門ではありませんが、とタダヒコはぼやいた。
タダヒコは今年の春、大学院を卒業した。今はコガネシティ内の大学で非常勤講師をしている。どういう分野なのか、私にはよく分かっていないのだけれど、人文科学系の研究をしているらしい。私、平坂(ヒラサカ)ユウコは普通に大学の学部を卒業してからコガネシティで働いている。私達はいわゆる幼なじみというやつで、この春からこの部屋で一緒に暮らし始めた。共にポケモントレーナーでもあって、私がB2級、タダヒコがB3級のランクだ。アマチュアトレーナーとしてはごくありふれた、普通のトレーナーだ。
「細かい話はまた後でにしましょう。それよりもお願いしていた件、大丈夫かな?」
大丈夫です、と私は答えた。
二
コガネジムは大通りに面した一等地に建っている。代々、ノーマルタイプを専門とするジムでノーマル技やノーマルポケモンの戦い方について指導を受けに来るトレーナーが多い上、元々ここは大都市だ。ポケモンジムとしては、たとえばカントーではヤマブキにならぶような大所帯だ。私やタダヒコも時折、このジムで指導を受けたり、ジムにやってくる街や旅の途中のトレーナーとバトルしてポケモン達と自分を鍛えている。だから当然、ジムトレーナーの何人かとは仲良くなるし、ジムリーダーは無理でもサブリーダークラスの人なら知り合いも出来る。私達三人は、うだる暑さの中、ジムに程近い喫茶店に入った。中では目的の人物が既に席を取っていて、私達はその人物に遅れたことを詫びつつ席に着いた。
ウエイトレスに注文を頼んで、先にやって来ていた彼、丸田君とタカさんの自己紹介が行われた。丸田君は二十代前半で、トレーナーランクはA5級。コガネジムのサブリーダーをかれこれ数年努めている。普段は気弱な所もあるが、ポケモンバトルともなれば一転、押しの強い戦い方で主導権を握ってしまう手強い相手だ。コガネジムに何人かいるサブリーダーの中でも、最もジムリーダーの信頼が厚いのではないかと私は見立てている。
「わざわざ時間を取らせてすみません」
タカさんが頭を下げる。丸田君はいえいえ、と手を振った。気弱というよりは、少しばかり他人に対して臆病なだけかもしれない、と思えなくもない。
「それで、どんなことをお答えすれば良いんでしょうか」
今回の事件は、コガネジムトレーナーである佐伯(サエキ)テンペイが亡くなった。亡くなった佐伯はポケモンの扱いが悪く、ジムリーダーから咎められていて、本当はサブリーダーに就くだけの実力があるのにジムリーダーがそれを許していなかった。このことが、犯人である髪結とのいさかいの原因になった、というのがメディアや検察の推測だった。このため、彼らコガネジムは佐伯に関する取材や調査を何度も受けている。実際、事件後の数日はジムが休みだったし、再開されて通うだけの私達が記者から質問を受けることもあった。
ジム側もジムトレーナーの発言を制限することは出来ても、さすがに挑んできたり指導を受けに来たりする通うトレーナーの口をコントロールすることまでは出来ない。このため、協会の指示なのだろう、ジム側は事件に関する広報担当者としてジムの事務方トップを据えた。メディアのジムとのやりとりは全てこの事務職員に任せられた訳なのだけれど、タカさんは現場の人間から話を聞きたい、と私達に頼んできた。そこで私が丸田君に直接頼んで、この取材をセッティングした。ジム側は当初渋っていたが、タカさんが興味関心を煽る目的で取材をしたいわけではないことを納得してもらった上で、やりとりは全てジムに提出することを条件に許可してもらった。
「いくつかありますけれど、答えやすいところから伺います。佐伯さんはトレーナーとしてはやはり優秀な方だったとか」
そうですね、と丸田君は頷いた。私達も見聞きしただけだったが、同意する。
「リーグ大会に出ていればかなり良い成績を確実に狙えたと思います。準優勝とかも出来たかもしれませんね。ここ最近だと、俺も彼との勝敗ではほとんど五分五分……いやちょっとだけ俺の方が勝っていたかな、くらいです」
婉曲的に自分の実力をアピールしているようにも見えるが、そうではないだろう。彼なりの正直な評価なのだと思う。
「それは、どういう種類の強さなのですか? 作戦が上手い、臨機応変に対応出来る、ピンチに強い。色々あると思いますが」
「うーん、彼の場合はポケモンの強さが際立っていましたね。戦術とかは俺達サブリーダーと比べればちょっと足りないんですが、ポケモンが強い」
「それは、あなたのポケモンよりも強いということですか?」
「ええ、まあそうです。単純なレベルでは俺のポケモンより強いと思います」
ジムのサブリーダーとして、ジムトレーナーのポケモンの方が強いと認めることに抵抗はないのだろうか。そんなどうでも良いことを私は考える。そんなことは特に気にしないのか、それともトレーナーとしての実力は自分の方が上だということでバランスを取っているのか。その後もタカさんが質問をいくつかして、丸田君が答えるというやりとりが続いた。その間、私とタダヒコはウエイトレスが運んできたコーヒーをちびちび飲みながら黙っていた。
「最後に、先程、丸田さんは佐伯さんの場合、特にポケモンが強かったと仰っていた。このことについて伺いたいのですが」
「はい」
「先程の仰り方だと、佐伯さんの場合、ポケモンのレベルが高いからサブリーダークラスの強さがあった、という風に聞こえました。この解釈で間違っていませんか?」
彼は、しばらく答えなかった。取材が始まって三十分近く経っているが、これまで少し考える様子は見せても答えに困るという姿はなかった。その彼が何も言わない。その反応そのものが、タカさんへの答えになっていた。丸田君は、実感として有していた「戦術は弱いがポケモンは強い」という事実を私達の前で言った。答えはもう出ている。タカさんはそれの厳密な解釈を聞いたに過ぎない。どれが答えになるかではなく、どう答えるか。悩むならその点しかない。言い回しを考えなければならないような答えは、表現や解釈の違いさえあれ、実質的に彼女の問いの答えが是であることを示している。
「そう、ですね。それで間違ってはいません」
丸田君は、諦めたようにそう答えた。
「二人に聞きたいんだけど」
喫茶店からの帰り、私達は事件の現場へと向かっていた。喫茶店とジムとはそう離れていないし、ジムと現場もすぐ近くだ。歩いて十分もかからないくらいの距離だった。私とタカさんは並んで歩いていて、タダヒコが先導していた。タカさんはそのタダヒコにも聞こえる声で訊いてきた。
「どうして被害者、佐伯はそこまでしてサブリーダーになりたかったんだと思う?」
タダヒコはすぐにサブリーダーになれば収入が安定する、と答えた。続けて私も何年か努めれば別の仕事やジムリーダーになりやすくなる、と答えた。数回頷いた後、トレーナーとしての意見が聞きたい、と彼女は言った。それくらいだったらタカさんでも分かる、ということだだろう。B級トレーナーとして、アマチュアながらもポケモンバトルをする者としての意見を知りたい、ということだ。
「タダヒコ、バトルする相手の質、というのはどうかな」
「ああ、それは誰か言っていたね」
誰だったかは忘れたが、前にコガネジムでトレーニングをしていた時に誰かがサブリーダーの一人に聞いていた。どうしてサブリーダーになったのか、と。その時に答えがこれだった。ちょうどタダヒコも私もその場にいて、なるほど、と得心したのを覚えている。
「どういうこと?」
私は簡単に説明をする。ジムトレーナーとなることのメリットは、ジムリーダーから直接指導を受ける機会がたくさんあることと、ジムに挑んでくるトレーナーと数多く戦えることだ。半面、挑戦者の質はばらばらだから、練習にもならないようなバトルもしなければならない。けれどサブリーダーになれば平のジムトレーナーを破った者と戦うことが多いので無意味な戦いをせずにすむ。絶対数が少なくなるので大きく上回るという程でもないが、時間に対するパフォーマンスが平のジムトレーナーよりは良い、という趣旨のことを私は説明した。
「電光石火<gキワシティのシンヤも、セキエイ大会に出る何年か前にトキワジムでサブリーダーをやっていたらしいですよ。だからマスター1級1位まで手が届いたんだ、とかなんとか」
「そうなんだ」
「相応の実力さえあればやって損はない、ってその人は言っていましたね」
ジムトレーナーになれさえすれば、とタダヒコは小さく付け加えた。そうね、とタカさんも同意した。サブリーダーはジムトレーナーの中からジムリーダーが任命する。だからサブリーダーになるためにはジムトレーナーになる必要があるけれど、ジムトレーナーになれるのはジムリーダーから見込まれた人間だけだ。私のランクはB2級だけれど、私と同等かそれ以下のランクでジムトレーナーをやっている人はいる。現時点での実力では私の方が上でも、見込まれた彼らの方がほとんど間違いなくより上位のランクへ登ることになる。当然だ。彼らの方が才能があるということになるのだし、そもそも彼らはジムリーダーからの指導を直接受ける。ランクが上がらないはずがない。私がジムリーダーから教えてもらおうと思っても、まず無理だ。ジムリーダーは一人しかいなくて、挑戦者とのバトルもある。ましてやコガネジムともなれば尚更だ。キキョウジムやヒワダジムのような小所帯なら少しくらいは機会があるのかもしれないが、コガネジムではほとんど見込めない。ジムトレーナーになれるかどうかの時点で、大きな差がある。
もちろん、ジムトレーナーでランクが私より上の人は多くいるし、サブリーダーともなれば教えるのも上手な人がほとんどだ。ジムリーダーから教えてもらうかどうか、は本当は問題ではないのかもしれない。だけれど、私達には、やっぱりジムリーダーから教えてもらうのが上達への早道だという感覚がある。サブリーダーが五の勝つ方法と五の負けない方法を知っているのだとすると、ジムリーダーは十の勝つ方法と十の負けない方法を知っているはずで、多くを知っている方から教わりたいというのは当然の気持ちだと思う。だから、サブリーダーになれるかどうか、というのは私達にとってそうさほどの違いではない。サブリーダーになれるかどうかではなくジムトレーナーになれるかどうかの方が隔たりは大きい。丸田君が答えた内容を思い起こすと、佐伯がそこまでしてサブリーダーになろうとしていた、ということを感覚的にすぐ理解するのは難しそうだった。
「ここが事件の現場です」
現場はそうだと知らなければ通り過ぎてしまうような街中の一角だ。事件から数日は警察が立ち入り禁止のバリケードテープを張っていた付近も今では普通に人々が歩いている。もちろん、じっくりと周囲を窺えば痕跡はいくつか残されている。どれだけの力を加えたのか想像もつかない程に窪んでいたアスファルトも今では補填されてちょっとした凹凸になっているだけだ。正面のビルの壁は補修工事中で足場と防音のための幕が組まれている。ブラストバーンで焼かれた鉄筋コンクリート製の壁は、先週までブルーシートで覆われていた。協会とビル運営会社との間で補償について話がまとまったことでやっと工事に入ったと地方紙に書かれていた。
タカさんがコンパクトデジタルカメラを取り出したけれど、あんまり写真そのものにこだわりはないらしく、数枚撮って終わりだった。彼女は道の端、ビルの壁の下で手向けられていた花とサイン色紙の前に座り、手を合わせる。タダヒコと私も倣った。花の一輪でも持ってきた方が良かったかな、と少し反省した。瞑っていた目を開けて色紙を見てみれば、その色紙には佐伯テンペイの名前と、そして彼のミルタンクの名前が書かれていた。文面は簡素だった。簡素ながらも、文字の運び方から悔恨の念を感じた。小さく、か細い文字だ。左下に贈り主の名前がいくつか書いてある。一番最初にはジムリーダーの名前があった。
「こういうのを見ると、同じ事件は繰り返してはいけないと思いますね」
タダヒコが言った。タカさんが頷く。
「そのために、ちょっと話をさせてくれるかな」
ものによりますけどね、タダヒコはそう答えた。
三
家に戻って私とタダヒコは食事の準備をした。その間、タカさんは丸田君の取材のまとめ作業を行った。三人分の食事とお酒の準備が整い、私達は和やかに夕食を採った。タカさんは元々、私達とは縁もゆかりもないような人だ。たまたまタダヒコが定期購読していたメールマガジンにタカさんのメルマガがあって、タダヒコが質問を送ったのが交流のはじまりだった。この付き合いはかれこれ一年近くになって、タカさんが私の部屋に来るのはこれで三回目だ。過去二回とも、タカさんと、泊まりに来ていたタダヒコは真面目で難しい話をしていた。私はタダヒコとは違って学者でもなければ、タカさんと違ってジャーナリストでもない。一会社員だ。だから二人が話し込むと私には分からないことがたくさん出てきて、ついていけなくなることがしばしばある。それでも私は二人の話に必死でついて行った。分からないことは尋ね、疑問は口にした。幸い、タダヒコもタカさんも私の質問を億劫がらずにきちんと答えてくれる。
「ポケモンの扱いが悪かった、というよりもポケモンの鍛え方が厳しかったというのがまだ現実に寄った言い方だと僕は思いますね」
「そういう解釈を超えている気がするなあ。だってジムリーダーに怒られていたんでしょう、ポケモンの扱いが悪い、って」
私達は、佐伯テンペイがどうしてミルタンクに襲われたのか、その点について再検証をしていた。これまで報道で佐伯は、「ポケモンの扱いが悪かった」と言われていた。それがモンスターボールを破壊されたとはいえ、ミルタンクの攻撃を受ける原因になったのだ、と解説されていた。けれど今日の取材を通じて、佐伯はその必要性に迫られていた、という背景が見えてきた。事件に関する関心の中心は加害者・髪結の人物像や裁判中の発言にあったため、佐伯がどうしてミルタンクに襲われたのか、その根本原因はあまり重視されてこなかった。タカさんはこの点について掘り下げてみたいと言っていた。
「でもジムトレーナーをやめさせたりする程のレベルではなかった」
佐伯がサブリーダーになりたいと思っていたのは、丸田君も証言していた。なりたいのになれなかった。ポケモンの扱いが悪い、とジムリーダーから咎められていたからだ。
「そんな爪を切るみたいに安易にやめさせられるわけないよ。再三注意してやっと出勤停止に出来るとか、そういうものだと思うよ私も。
そこで止めななければポケモンがすぐに死ぬ、というまでには行っていなかったし、ましてやポケモンがトレーナーを襲うなんて誰も想像出来ない」
「世の中、難しく出来ているもんですね」
「いや、高野くんが簡単に考えすぎているだけだと思う。学者さんの悪い癖だよ」
「名目はバトルやトレーニングでも、実質的にはいじめだったり虐待だったり、だなんて話はトレーナーにつきものじゃない」
「でも実際、佐伯のポケモンはかなりののレベルに達していたわけだし」
「結果としては、ね」
そういうものですか、とタダヒコは呟いた。彼の解釈が分からないわけではない。佐伯はポケモンと共に勝ち負けを喜び、悔しがることの出来る人間なのだと丸田君は明言していた。ポケモンに命じて戦わせて、その痛みを思いやることの出来ない人間ならジムトレーナーにはなれないと彼は言っていたし、私達もそうあって欲しいと思う。だから、佐伯本人の気持ちの問題としては、虐待やいじめというような認識はなかったはずだ。トレーニングの一環だと本気で思って、ポケモンに厳しく接していたに違いない。
もちろん、丸田君が嘘をついた可能性や、彼や仲間達が佐伯テンペイを読み違えていた可能性もある。でもそれを言い出したらきりがない。佐伯は亡くなっているのだし、丸田君が本当のことを言ったかどうか、確認するのには困難を伴う。だったらその上で、推測を立てるのが現実的な解答作成手順だ。
「これは勝手な推測ですけれど、」
二人の視線がこちらを向いた。ちょっとばかり緊張する。
「佐伯はポケモンの扱いが悪い、と言われても実感出来なかったんだと思います。むしろもっと強くなればサブリーダーになれると思い込んだ」
何を言われているのか、佐伯には理解出来なかった。本人は優しくしているつもりだったのはずだ。ポケモンバトルは、ポケモンとの交流手段の一つだと誰かは言う。一人のトレーナーとして、その通りだと思う。でも佐伯にとっては、少なくとも亡くなる直前の彼にとっては、共に戦うことよりも勝敗、あるいは厳しいトレーニングを課すことがそれになっていた。
佐伯の年齢は、髪結とそう変わらない。トレーナーランクも同じA5級だ。ポケモントレーナーとしての限界が見えてくる年齢であるのと同時に、あと一つだけでもランクを上げれば割の良い仕事にも就きやすくなる。私自身はB2級、アマチュアクラスのトレーナーだけれど、その焦りは私でも分かる。私だって、かつてはポケモントレーナーとしての仕事を選びたかったのだから。そういう焦りの中で、自分が頼ってきて、正しいと思って、トレーナーとしての最大の心の拠り所であるポケモン達との関係性、その全てを佐伯は否定された。「ポケモンをもっと労れ」と、労っているつもりの人間に言っても意味がない。それを理解しろ、というのがそもそも難しい。私だったら、もし私が佐伯と同じ立場だったら、出来ないと思う。
だから、佐伯はもっと間違った方へと進んだ。強くなれば、ジムリーダーから認めてもらえる。強くなれば仲間から認めてもらえる。そうすれば、自分はサブリーダーになれると、そう思った。思い込もうとしたのかもしれない。
「つまりサブリーダーになれなかったから焦ってさらにポケモンを厳しく鍛える悪循環に陥っていた、と」
タダヒコはすぐに同意を示してくれた。タカさんはメモを取り、見つめている。お酒が入っていて私の思考は少しばかり空回転が増えているのだけれど、タカさんにはそんなことはないのかもしれない。お酒を飲もうと眠かろうと、考えるべきことは考えつく人のように見える。これは、私がそうありたいからそう見えるだけかもしれないけれど。
「その考え方が一番しっくりくるのかもなあ」
彼女はいくつかメモを取った後、そう呟いた。他の可能性も浮かんだようだった。そのいくつかの他案との比較は、彼女自身が後日やるはずだ。
「そもそもの問題として、どうしてジムトレーナーの多くはB級トレーナーで、サブリーダーはジムリーダーが推薦するジムトレーナーからの昇格制なんだという話なんですけどね」
考えてもみなかったことだった。タダヒコの指摘は確かに、考えてみればその通りだ。ジムトレーナーはトレーナーを指導し、時に対戦相手となるトレーナーだ。教える技術も必要になるし、それなりに強くなければならない。小さい頃からずっとそれが当たり前だったから疑わなかったけれど、サブリーダーならともかく、一般トレーナーと同じくらいの技術しか持たないトレーナーが教える側に回る、というのは確かにおかしい。
「ジムリーダーと同じように、公募制にするってこと?」
「そういうやり方もあると思うよ」
「それは、どうかなあ……」
しかし私もタカさんも、素直に納得することは出来なかった。
「無理だと思うよ、それは」
「どうしてですか?」
「理由は二つ。一つ目は、財政上の問題。そう沢山、ジムトレーナーを正規雇用するほど協会も余裕はないでしょう。二つ目は、誰もがジムトレーナーになれることでトレーナー全体のレベル底上げを狙っている。ジムトレーナーになるための競争を生み出す。それはポケモントレーナーを増やし育成する、という協会の目的にもかなう」
私も同意を示す。タダヒコは背もたれに身体を預けて、腕を組んだ。うーんと彼は唸っている。
「気にかかることでも?」
「どちらかと言えば気に染まないって感じかな」
「気に食わなかったのは何?」
「別に気を害したとかそういうわけじゃない」
「そう言われても気がかりなんだけど」
「気が向いたら言う」
いやいや、とタカさんが首を振った。気になるなら言おうよ、と。
「ジムリーダーやサブリーダーのランクがもう一つくらい上だったら、こういう事態もなくなるのかな、と」
ランクが一つ上なら、たとえ佐伯がA4級だったとしても、その時点でサブリーダーという以外の職業選択だって可能だった。サブリーダーになりたかったのは、就職に有利というのも理由の一つだったのだ。そこまでポケモンを追い込むことは無かったのかもしれない。
ジムリーダーの就任条件は、5つあるA級(プロフェッショナル。クラス)の内、下から2番目のA4級以上だ。各地域ごとにいるA級の上位代表者である四天王は、A1級またはA2級で、時にジムリーダーでも同じA2級保持者はいるが、これは少数派だ。多くはA3級またはA4級で、A3級の方が多い。ジムリーダーを補佐するサブリーダーはほとんどがA5級、ごくたまにA4級がいるくらいだ。そしてジムリーダーと同等以上、つまりA4級以上のトレーナーは絶対数としては少ないわけではない。
協会のトレーナー育成の基本は、ポケモンジムだ。でもそのポケモンジムで最もランクの高いジムリーダーより強い相手を指導する、ということはあまり考えられない。むしろA5級であっても、実力差こそあれ、A4級からA5級に対して教えられることがあまりあるとも思えない。A級トレーナーは、自分で自分を鍛えることが前提になっている、ということだ。協会が公式に用意しているのは、ランクを認める制度と、四天王やジムリーダーといった対戦相手だけだ。A級になったのだから自助努力で賄うのは当然かもしれないけれど、確かにタダヒコの言うようにジムリーダーやサブリーダーのランクを一つだけでもあげれば、少なくともA5級やA4級に対する指導の空白は、今より改善するはずだ。
「ねえタダヒコ君」
「はい」
「それ、分かって言っているでしょう」
そんなことはありませんよ、とタダヒコは返した。不勉強な私には彼女達が何を言っているのか分からなかったけれど、でもタカさんの指摘は正しいと思う。理解していることをあえて疑問として提示する、というのは彼の癖だ。同様にタカさんはある仮説を提示すると、その後すぐに対立する仮説を持ち出す、というパターンが多い。さっきは思ったことをメモに書いて、口には出さなかったようだけれど言いそうな場面でもあった。凡人の私には、時折面倒だと感じる二人組だ。
「ええ、まあ、そうですね。協会の抱える矛盾、というやつですよね」
彼らが面倒だと思う場面のもう一つは、こういう咄嗟には理解出来ないことを頻繁に口にするということだ。
四
あらかじめ断っておくと、私は勉強が嫌いだとかそういうわけではない。タダヒコが悩んでいた時はタダヒコがどういうことで悩んでいるのか、彼がどういうことを考えているのかを知るために必死に本を読んだりもしたし、大学を卒業後、会社員になってからも必要な勉強はたまにだけれどやっている。ここで問題なのは私の不勉強さというよりも、タダヒコやタカさんの言うことが私にとっては突飛で分かりにくいということだ。そしてその意味不明さは時折、
「そこだよねえ」
というようなもう一方の――この場合はタカさんだ――の応答でむしろ混乱という領域に突入する。協会の矛盾、それがどのような意味なのか、私には理解出来なかった。
「順に話しましょう」
困惑した様子に気付いたタカさんがそう言ってくれた。はじめからそうして下さいよ、というのは言い飽きたどころか思い飽きたので、ありがたく受け取る。
「まず今回の事件のキーワードとしてモンスターボールの支配≠チて言葉がある。この言葉は、どういう人達が言い出したか知っている?」
「それは、いわゆる自然保護団体というかポケモン保護団体というか、そういう人達じゃないんですか?」
「半分当たりだけれど、半分間違い。確かに始め言い出したのは、そういう人達なんだ。けれど、」
けれどそれを主張していたほとんどの人は、ごく普通の人達だった。
「思想的対立、といえば胡散臭くもあり格好良くもあるんだけれどね。でもね、そういうものって本人の考え方よりは本人の置かれた立場、環境、社会的地位から発生するものなんだ」
第三世代のモンスターボールが使用されるようになった当初、つまり人がポケモンを強制的に扱えるようになった当初、各地の街々村々の間には使うか使わないか、使えるか使えないか、育てられるか育てられないかに違いがあった。道を一本渡って隣の街に行ったらそこはポケモンがいなくて、そのさらに隣に行けば全国でも有数のポケモンがいる村があるとか、そういう時代だった。その違いは、たとえばその土地の伝統や慣習や考え方に依存し、たとえば周囲にいるポケモンの多寡やレベルに依存し、たとえば高地であるとか僻地であるとか島であるとか平野のど真ん中であるとかの環境に依存し、たとえばその土地にポケモンに多大な関心を払っている人がいるかどうかに依存した。
「この科学と社会が発達した今でも、私達はシティやタウンと名付けられた都市と町を中心に生活をしている。
街や村の間には道路が整備されているけれど、道路のすぐ傍には野原があり、平野があり、森があり、山があり、谷があり、滝があり、海があり、砂漠がある。街と街の間に継続性は少なくて、むしろ道路でつながっているだけ、とも言える。だからこそ自動車といった文明の利器を使わない足で稼ぐポケモン修行の旅、というのが成立するわけだけれど、それは言い換えれば都市や町や村同士との違いが生じやすい、ということでもある。格差が生まれる、ということでもある」
たとえば伝統的に一部のポケモンを馴らす方法を知っていた街は、当初モンスターボールを不要なものだと考えた。当然、その街は元来、保有するポケモン軍団を背景として周囲の街や村への影響力を持っていた。ある時、モンスターボールを使う隣の街が多数の多種のポケモンを従えるようになって、元々馴らす方法を知っていた街を圧倒するようになった。これはまずい、と焦る。けれど生き方は、スタンスは、考え方は、伝統は、ライフスタイルは、そして自分自身は、中々に変えられない。変えられなければどうするか。相手の足を引っ張ることだ。
「それがモンスターボールの支配≠ニいう言葉」
言葉というだけではなくて、実際に闘争が起き、数え切れない程の流血を伴った。地域間闘争、今でも隣り合う街のジム同士で専門のタイプが一方に有利で一方に不利なのは偶然とばかりは言えないケースもある、ということ。
「これにはお上も手を焼いた。止めようと思っても下手に介入すれば両方の矛先が自分に向く。同時に、しばらくするとトレーナー達も自分のためだけとは言えない戦いに使われることには嫌気が差すようになっていた。トレーナーは力を持つ。力を持つのだから、自分は自分でありたいと強く思うようになる。そういう両者の思惑が合致して、ポケモンに関すること、トレーナーに関することの権限を一括して引き受ける組織を作ったわけ。それが、協会」
正式名称は、ポケモンリーグ協会という。リーグ制度を、トレーナーの育成を主目的とする、という建前だ。法律に従って団体を作るなら、社団法人だとか財団法人だとか、株式会社だとか独立行政法人だとか、そういう種別を表す言葉が通常はつく。けれど協会は、法律で認められた団体ながらもそれがつかない、ただの「ポケモンリーグ協会」。
「協会は、モンスターボールの支配≠ヨの戦いを受け流しつつ、同時に無理矢理にでも各地にジムを作ったりトレーナーを派遣したりしてトレーナー人口の拡大を図った」
その名残で、今でもジムやポケモンセンターが街の端っこにあったりする所がたまにある。はじめは受け入れられにくいものだったからだ。そういう苦労をしつつも、協会は争いの原因を根本からなくそうとして、実際に成功した。だから私達の世代にとってのモンスターボールの支配≠ヘ、逆説的にトレーナーを嗤うというくらいの意味しか持っていない。
「言い換えれば、協会の主目的であり主たる手段はやっぱり名前通り、トレーナーの育成、ということになる。でもしばらくすると、協会はある火種を抱えるようになってきた。それが高ランクトレーナーの犯罪」
高ランクのトレーナーは全能感に浸りやすい半面、向上出来なかったり負けが続いたり、あるいは就職出来なかったりすると自己否定を伴う苦悩を抱えやすい。言ってしまえば、精神状態が不安定になりやすい、ということだ。にも関わらず他者を否定するだけの力を持っていて、それは全能感という名の自己肯定によって使役されている。他者に向けることへのハードルが、他の人よりも若干低くなりやすい。故に、高ランクトレーナーの犯罪はランクが低い者と比べると多い。
「今は、A級のボリュームゾーンがA5級にあるから良い。A級トレーナーの犯罪の多くは職を得にくいA5級だからね。B級上位トレーナーが何人か束になれば勝てる。
でももし協会がジムリーダーの標準的なランクを一つ上げたら……つまり、A級トレーナー全体のレベル向上を図って結果そうなったらどうなるか。A4級が仕事に困るようなことになったらどうなるのか。A4級を止めるのに一人や二人のB級トレーナーじゃ足りない。同じA級トレーナーだって、相対的に数は少ない。その場に居合わせるとも限らない。事件が起きても止められないことが考えられる」
今回はA5級の犯罪現場であり、A5級のポケモンが暴れている現場に、マスター2級第3位のワカバの新炎≠ェいた。だからわずか十秒足らずで事態を収拾出来た。たまたまだ。マスタークラスが街中を歩いていてすれ違うことなんてまずないし、A級上位者だってそんなにはいない。今回の事件は、警察かジムトレーナーがやって来るか、あるいは勇気あるB級トレーナーが何人か現れるか、そのどれかがなければ被害がもっと大きくなっていたはずだ。私は、棚の上に飾ってあるサイン色紙を見た。その色紙を得たのは本当に偶然だったけれど、こういう偶然がまずないのと同じ話だ。
「だから協会は、トレーナーの育成を主目的とするはずの協会は、A級トレーナーの育成には無関心にならざるを得ない」
A5級が職に困っているからといって、A4級にしたところでA4級の絶対数が増えては意味がない。多少改善はされるのかもしれないが、仕事の数が増えるわけではない。
「八方塞がり、ですね」
少なくとも、悪循環に陥った時点で佐伯のような人物にはもう道が残されていないということだ。この状況が改善される見込みもない。その悪循環に陥らないようにするしか、方法がない。
「そういうこと。高野くんの言うことは既に尽くされた議論だよ。
確かにこの場合、佐伯にとってはサブリーダーにならなくてもA級トレーナー全体が向上するのだから良質なバトルに恵まれる機会も増えるんだろうけれど、弊害の方が大きいと思う」
終始、タカさんの話を聞いていたタダヒコは、腕にしているリストバンドをいじるようにして黙り込んでいた。分かっていることをあえて言って、にべもなく一蹴されたのは当然の結末であるけれど、ここまで言われるとは心外だったらしい。
五
一つの質問があるんだけれど、とタカさんは言った。
私達二人の顔が同時に彼女を向いた。彼女は私達の顔を交互に見る。お酒が入っているためなのか、顔が紅潮しているのが分かる。
「モンスターボールの支配≠ノ対する批判は、学術的にもかなり展開されていたという認識に誤りはない?」
「ない、と思いますよ。僕の知る限りでは」
「じゃあ、髪結リュウの言うモンスターボールの支配≠ニいうものは何物なのか」
そういえば支配≠考え直す機会なのだ、と最初にタカさんは言っていた。ここからが彼女にとっては本題なのだろう。
「言い訳、世迷い言。学術的な価値を見出すのは厳しいと思いますが」
タダヒコはそれを、一言で完結させてしまった。
「うん、それは分かっている。でもそれじゃあ話が成立しないじゃない」
どのような由来であれ、モンスターボールの支配≠批判する教義が存在したのタダヒコが認めるところだ。社会主義が労働者階級から支持を得たように、その支持者の社会的基盤や支持する理由が教義としての正当性を否定するものではない。
「つまりさ、学術の立場から見たときの髪結の主張はどういう類型なのかという話」
「報道の本質は、現実へのアプローチですけれど、学問の本質は理論の深化です。その質問は報道、ジャーナリストであるあなたが考えるべきことであっても、僕が答えられる質問ではないと思いますが」
固いなあ、とタカさんは笑った。こういう融通が中々利かない、頑迷な答えは今に始まったことではないので慣れっこだ。
「これは大事なことだよ? 今後、同じような事件がないとも限らないし、現実にポケモンの解放を訴えるような強硬な団体が存在しているわけでしょう。その理論的な支柱を理解することは大事なことだと思うけれどね」
グラスを手に取り、彼はその中身を飲み干した。こういう時の彼は、悩んでいるというよりは考えていることが多い。そうですね、と声が漏れる。
「モンスターボールの支配#癆サの中心教義は、人間がポケモンを完全支配することの妥当性への疑問、ポケモンを操作することでの自然界への悪影響の懸念、人間がポケモンから受ける種々の影響への懸念、それと持つ者と持たざるものの格差と支配・被支配関係への懸念。主なところで大体この四つでしょうか」
「疑問とか懸念とか、そういうものばかりだね」
「世を席巻する考え方なんてそんなものだよ、ユウコ。感覚的に理解出来るか、共感出来るかが問題になる」
タダヒコの目が遠くを見るのを感じた。小難しい話が飛び出る予兆だ。
「一昔前まで、経済格差がなくなればみんな幸せになれるなんていう考え方が流行っていたけれど、それを言った人は実際のところ、みんなが幸せな社会には格差が存在しない、とは言っていてもその逆は言っていないらしいよ。僕は原典を読んでいないから伝聞だけどね」
グラスにお酒を注いであげる。タダヒコはそれをまた一杯で呷った。
「本当は、外車を持っている人はみんなお金持ちだ、というテーゼだったはずなのに、外車を持てばみんなお金持ちになるというふうに置き換わった。結果と過程の倒錯、必要条件と十分条件の取り違え、中学校で習う数学さえ分かっていれば犯すはずのない誤り。そして多分、その人が言うところの格差がない、というのは格差が問題にならない、という意味だったと思う。外車が高級車か新興国の財閥企業が近頃作ったような安い車かどうかは問題ではない」
タダヒコは言葉を続ける。その誤りが意識的なのか無意識なのかは分からないが、魅力的なそのテーゼは多数の支持を得て広がり、伝統と形式、抽象論と信念を旨とする学問によって理論が構築され、教義が確立され、経済や政治以外の分野の学問へも影響を及ぼし、国を覆し、世界を揺るがした。一旦は行き詰まりを見せたが、それでもその考え方そのものは今なお、多くの人達に信じられ、支持され、より良い形の模索が続いている。同様に、モンスターボールの支配#癆サも、それを理想的な結果があると信じる人達によって支持され、議論された。
「今回の件に当てはめれば、一番目のポケモンへの完全支配、というのを髪結は意識したと思います」
タカさんはメモを取っていた。四つの項目を書き出した後、彼女は口に手を当てて考えているようだった。お酒をこれだけ飲んで考えごとが出来る、というのは羨ましい才能だと思う。
「四つ目……支配と被支配の関係ということも背景にはあるよね。ここでは支配、というよりは社会参加出来るかどうか、ということだけど実質的にA4級以上のトレーナーが職業トレーナーとしての地位を占有しているわけだから、実質的には同じ問題」
「それは僕も思いましたけれど、それは筋違いが過ぎませんか? 社会参加出来なかったのは、髪結自身の問題もあるわけでしょう。職業トレーナーに必ずなれないというわけではないですし、そもそもその道を選んだのであれば、失敗したときの代償を払わなければならなくなる、というのは分かりきった話です」
耳が痛い。私は、その代償を払えないと思ったからこそ職業トレーナーを選ばなかった。トレーナー修業の旅もしたけれど、長期の休みを利用しての旅だった。どちらかといえば趣味という領域だ。本気で職業トレーナーになりたいとは思ってはいてもそこに人生を賭けることは出来なかった。良く言えば地に足がついている、悪く言えば勇気がなかった。B2級になってから、もし本当に修行に出ていたらA4級くらいにはなれていたのではないか、と今でも思う。新炎<Lネワは旅に出ずともマスターになったのだし、電光石火<Vンヤもほとんど旅を経験していないと聞いている。自分にも出来るのだという言い訳も出来た。だからタダヒコの言うことは分かる。分かるけれど、それは違うのではないか、とも思う。髪結のしたことは間違っていた。そのことに疑いの余地はない。疑いの余地はないが、同情の余地くらいは残されているはずだ。
「でもそれって、やっぱり言うのは酷なんじゃないかな」
タダヒコの言うことは正しい。でもそれはあまりに機械的な判断ではないか、と思う。
「……私も、同じ事件を起こさないためには、多分そういう正論にだけとらわれないことにあるんだと思う」
そういうものですか、とそれ以上はタダヒコも反論はしなかった。その日、私達は夜遅くまで話し続けた。支配≠フこと、事件のこと、社会のこと、学問のこと、ポケモンのこと、タカさんのこと、タカさんの知り合いだという人のこと、私達のこと。お酒が深くになるにつれ、話はだんだんととりとめのないことになったけれど、こういう現実を得るとやっぱり、無理をしなかったのは正解だったのかもしれないと、わずかばかり思う。
六
翌日の昼前、遅めに起きた私達は遅い朝食を採った。昨晩、久しぶりに遅くまで飲んでいたおかげで軽い二日酔いだった。昔はこんなことはなかったなあ、歳だなあとぼやいていると、二十代半ばが何を言う、と三十を迎えたタカさんに小突かれた。味噌汁たっぷりの朝食を終えて、椅子に座ったままテレビを見ていると、翌日には髪結の裁判の二回目が開かれるのだとキャスターがしゃべっていた。
髪結は、ジョウト地方の出身で元々佐伯とは面識があった。ワカバタウン出身の私達と同じようにワカバの新炎<Lネワに憧れていて、それでポケモントレーナーになった。そういうどうでも良いような情報だけは、こうやってニュースやワイドショー、新聞、ネットなんかのメディアを通じて無意識のうちにすり込まれている。そして時間が経てば忘れるのだろうと思う。
こういうトリビア的なことだけを知ったところで本質に近づけるとは限らないのだけれどね、とタカさんが呟いて、タダヒコが頷いていた。二人は立場も考え方も違うけれど、こういうことではやっぱり似ているのだと思う。自分もそうなりたい、と思うのだけれど、A級にもなれず、学者にもなれずジャーナリストにもなれず、ただの会社員として、ただのトレーナーとして生活している私にとっては遠い遠い話だ。それよりも昨日、丸田君から聞いた話やタカさんとタダヒコの話を聞いていて、髪結がちょっとだけ身近な人間だというように思えた。モンスターボールの支配≠セなんていう言葉に共感は出来ないけれど、髪結リュウという人間の悩みには、もしかすれば共感しているのかもしれない。直接話したこともない人間だし、得られる情報は全て伝聞でしかなくても、そこにいたのは私だったのかもしれない、と思う。
「二人は、ワカバタウンのキネワについてちょっとは詳しいんだよね。思い出したらで良いんだけど、キネワが支配≠ノついて何か言っていたか知らない?」
私とタダヒコは顔を見合わせた。憧れてはいても、詳しい、ファンである、とまでは言えないと思っている。長くリーグ入賞者やマスタークラスが出ていなかったワカバのトレーナーでもやれるのだ、ということを教えてはもらっただけだ。タダヒコは早々に諦めて、知りません、と答えた。タダヒコは特にそうだろう。憧れを抱いたことはあっても、そういう興味を持つタイプではない。私はインタビュー記事だとかを読んだりしているので、その線の記憶を辿った。
新炎″。里キネワは、何かについて語るタイプではない。協会のポケモン犯罪対策局で働き始めてからは特にそうだ。それでもマスタークラスであるし、公式戦を年に数回はかならず戦っている。そういう時にはインタビューがつきものなのでその時だけは必ず受け答えをしている。もしかすればここ十年近くの発言はかなりの割合を読んでいるのかもしれない。だから、そういうことを言っていたのを見た可能性だってある。しばらく考えてから私は、ああ、と声を漏らした。
「ありました」
タカさんが少し驚いた表情を見せた。試しに聞いただけなのだろうし、もしそういう発言があったとしても知っていたり覚えていたりする可能性も低いと思っていたのだろう。すかさず鉛筆とメモ用紙を用意していた。正確には覚えていませんけれど、と私は前置きをした。
「ポケモンがヒトに従っている状況を当然のことだと思わない方が良い、と」
どういう意図や経緯でそう言ったのかまでは覚えていない。でも確かにそういうことが書いてあった。マスタークラスにはモンスターボールを使わないでポケモンに指示を出せる秘策があるだなんて荒唐無稽な噂が流行った頃のインタビューだったと思う。もちろん、それは噂に過ぎないはずだ。大事なのは、噂の根っ子に似た何かがあるかもしれない、ということだ。つまりマスタークラスの中にもモンスターボールを不快なものと感じる人がいるということだ。支配≠ノ対する批判を勉強した今なら、そう理解出来る。
「それはいつ頃?」
「たぶん、十年くらい前だったと思います。公式戦のインタビュー記事です」
タカさんはありがとう、と答えた。彼女のことなので、これだけの情報で調べ上げてしまう。それがどういう受け答えだったかは、後で教えてもらう約束を取り付けた。彼女はメモを終えるとまたテレビを向く。ニュースは終わって、ドラマの時間になっていた。私もタダヒコもドラマをほとんど見ないし、タカさんも同じみたいだった。出発する夕方まで時間も空いた彼女は暇を持て余すように部屋の中のあちらこちらを観察していた。
「ねえ、あの色紙、誰の?」
気になったものに、椅子に座ったまま興味を向けている。
「ああ、干支の置物の隣のやつですか」
「そうそう」
テレビ横の棚の天板の上には、干支の小さな置物を置いている。その横、ちょうど年中日の当たらない場所には額に入れたサイン色紙を一枚置いていた。十代の頃、たまたま旅先のポケモンセンターで出会った彼に書いてもらった、ちょっとした思い出の品だ。
「ワカバの新炎≠フものですよ」
手に入れた経緯を簡単に話すとへえ、とタカさんは感嘆していた。前は気付かなかった、と言う。最近、実家で見つけて持って帰って飾ったものだと教える。彼女は席を立って色紙を見に行った。ひとしきり見終わって席に戻ってくると、彼女はまた私達へ順に視線を向けた。
「ワカバ出身者にはひどく無意味な質問かもしれないんだけれど、どうして新炎≠ネのかな? 電光石火≠ヘ新炎≠ノ勝ったし、五年後にはマスター1級第1位にもなっている。実際、当時のファン層というのは電光石火≠フ方が多かっただろうし」
タダヒコを見ると、私に任せるという視線を投げてきた。説明するのは難しいので私もタダヒコに視線を投げ返すキャッチボールを何回かやった。それでも答えを待つタカさんに悪いと思って先に口を開いたのは私だった。
「確かに電光石火<gキワシティのシンヤは強かったと思うんです。でも何ていえば良いのかな、ちょっと神がかっているというか、人間らしくないというか、そういう強さだと私もタダヒコも思うんですよ」
常盤(ジョウバン)シンヤは、トキワジムでサブリーダーを務めていたという。つまり彼はタイプ上の専門として地面系に詳しいということだ。実際、彼のポケモンで一番強いのはニドキングだと言われていたけれど、勝利の多くを地面系以外のポケモンで得ている。電光石火≠ニいう通り名は、ピジョットの電光石火で勝ち星を多く取ったことに由来している。九九年セキエイ大会でもそうだった。ゴッドバードの準備を整えたにも関わらず、電光石火を使ってバクフーンの足を止め、すかさず中断したはずのゴッドバードでワカバの新炎≠フ由来となっているバクフーンを沈めた。そういう普通は出来ないような戦い方を数多くやっている。それを見て、人間味がない、神がかっている、そういう気持ち悪さを私達は抱いた。昨日、その試合を録画したビデオを見ていた時でもそうだった。
「なるほど、ねえ」
タカさんはそれ以上聞いてこなかった。私達はその後の時間も雑談をして過ごした。夕方になると彼女は荷物をまとめて次なる目的地に向かう準備を終えた。送らなくても良いよ、という彼女の言葉に甘えて暑さに弱い私達は二人とも玄関先で暇申し上げることにする。
「二日間、お邪魔したね。教えてもらったことはたった一つの記事にしかならないかもしれないけれど、二人の意見を取り入れてなるべく良いものを書きたいと思う」
今度はもっとゆっくり遊んで遊びましょう、とタダヒコが言うと彼女は笑って答えてくれた。どういう記事になるのか私には分からなかったけれど、その記事を待ちつつ、私は平日である翌日の準備に取りかかった。
承(平坂ユウコ) おわり