起(今里キネワ)
その日、僕がコガネシティにいたのはたまたまだった。協会ポケモン犯罪対策局の局付参事官というのが僕の正式な官職名で、階級は二等ポケモン保護監視官。ポケモントレーナーとしてのランクは、マスター2級。より正確には、マスター2級第3位。マスタークラスは第1級と第2級のみ定員があるため、順位が冠される。第1級は定員5名に対して、現時点で3名しかいないため、言い換えれば、僕は国内で第6位のポケモントレーナーということになる。
西暦二〇一五年も半ばを越そうという頃、僕はジョウト地区の各警察と連携強化を図るため、コガネ警察を訪れていた。長引いた会議を終え、僕は仲間と共にコガネの街に繰り出した。夕刻、街中は帰宅途中のサラリーマンや学生、子ども達で溢れかえっていた。悲鳴を聞いたのはコガネジムの近く、表通りから少し離れた歩行者専用道路だった。
「何かあったんでしょうか」
仲間が言う。街灯はまだついていないが、薄明かりの街中は、夜以上に遠くが見えにくい。音が聞こえた。何かが激しくぶつかる音、そして悲鳴が再び。音に集中する。何かがぶつかる音が間断的に聞こえる。その位置は、放物線のように曲がっていた。
「ジュンイチ、ポケモンを出せ。タカ、本部とコガネ警察に連絡しろ。ポケモンが暴れている」
「ポケモン、ですか?」
言いながらジュンイチとタカはポケモンを出した。バンギラスとブーバーン、彼らの手持ちの中で最もレベルの高いポケモンだ。僕はゴルダックを出した。
「そうだ。この音は転がる≠セ」
妻がよく使う技だ。知らないわけがない。人々に状況を訊く時間も勿体なかった。自分の直感が正しければ、この技を出しているポケモンのレベルはそれなりに高い。トレーナーは、A級――プロフェッショナル・クラスはあるのかもしれない。そんなポケモンが街中で暴れていたら、死人さえ出かねない。駆け寄ってみれば遠巻きに様子見をしているのだろう、人垣が出来ていた。逃げろ、と叫びたくなるのを抑える。逃げ惑う人々がいないということは、まだ転がった軌道以外にポケモンが被害を及ぼしていないことを意味する。下手に危機感を煽っては、押し合いや転倒が発生するし、ポケモンの気が動転でもしたら、どうなるか予測がつかない。どけて下さい、と人々をかき分けて人の輪の中に入った。
輪の中にはミルタンクがいた。ミルタンクが足を引きずる男に向かっている。男は、右足の足の甲が潰れているように見えた。ミルタンクの標準体重は、七五キロ。普通なら踏まれても潰れるほどまでにはならない。つまり相当に強力な転がるを受けたということだ。はじめの悲鳴が聞こえて三十秒は経過している。この技を三回は受け、立っていられるのだから幸運かもしれない。着ている上着は、モンスターボールを描いたジムトレーナー用のパーカーだ。コガネジムのジムトレーナーなのだろう。男の他にもう一人、少し身長の低い男がいた。旅装のトレーナー、と直感的に判断する。男は、こちらに気付いたようだった。フーディンが隣に立っている。遠目でよく分からなかったが、旅装のトレーナーは何か驚いているようにも見えた。
ミルタンクは、旅装の男のポケモンではないようだった。トレーナーは互いにその身を、心理的にポケモンを挟んだ対極に置く心理を有する。その方が比較的安全だからだ。つまりミルタンクが旅装の男のポケモンなら、ミルタンクの折り返し地点はこの男の目の前か、少しずれた位置ということになる。けれど男の立ち位置は、ミルタンクの軌道の真横で、むしろ事態の観賞に適した位置だった。加えて、一人を相手にするならポケモンを二体出すことはない。ジムトレーナーらしき男は、そのパーカーを着ている以上、ポケモンを持ち歩いていないわけがない。街中では違法な行為とはいえ、バトルならミルタンクに襲撃されているジムトレーナーの方もポケモンを出しているはずだ。そして、コガネジムは代々、ノーマルタイプのジムだ。ジムトレーナーならば強力なノーマル技を覚えさせることが多い。
(つまり、あのミルタンクはトレーナーを襲っているのか)
そんなことは通常、ありえない。モンスターボールがポケモンに及ぼす支配は、絶対的だ。あるとすれば、モンスターボールが破壊されること、それだけだ。瞬間、そんなことを思っている間にもミルタンクは男に迫ろうとしていた。僕は咄嗟に叫ぶ。
「サイコキネシス」
ゴルダックがサイコキネシスを放った。けれどその技は外れてしまった。ゴルダックが技を放つ直前、フーディンから攻撃を受けたようだった。技は同じく、サイコキネシスだろう。ダメージは小さかったが、ミルタンクを狙った念動は、ミルタンクがいた真横のアスファルトを割っただけだった。僕が事態を飲み込むまでの半秒、その間にミルタンクはジムトレーナーを真ん中に捉え、衝突していた。男の身体が飛ぶ。「ぐしゃ」とも「どん」とも言えないような音が聞こえた。僕はその間にもモンスターボールを掴んでいた。最も信頼するポケモンが姿を現した。。
「叩き潰せ! ブラストバーン! サイコキネシス!」
バクフーンがフーディンに向けてブラストバーンを撃つ。同時に、ゴルダックが再びサイコキネシスを発動した。ブラストバーンはフーディンの真横にいるトレーナーなど見向きもせず、一直線にフーディンめがけて突進した。フーディンは何か防御策を採ろうとしていたようだが、お構いなしに炎の塊はフーディンを焼き、コンクリートで出来たビルの壁へと叩き付けた。男を撥ね、壁間際で曲がろうとしていたミルタンクも、上からの強力な圧力を受けて速度を失い、アスファルトに窪みを作って沈黙した。
「確保ッ」
僕が言うが早いか、ジュンイチが男を後ろから組み伏せた。僕が輪の中に入ってからわずか十秒足らずだった。人々は騒然としたまま、この後も観客のままであった。
「モンスターボールの支配」事件
起(今里キネワ) 一
久々に呼ばれた局長室は、居心地が悪かった。局長の審美眼に適った絵しか飾られていない部屋は目の保養に出来るくらいなのだが、そういうふうに落ち着けるのは褒められる時くらいだ。けれどあいにく、そういう機会はめったにない。
「失態だったな、今里(イマザト)二監」
局長が最初に告げられた一言はこれだった。この一言で僕は、その後に続く言葉を容易に予想しえた。ジムトレーナーの男が死んだのだろう。あの直後、僕は救急車が来るまでの間に男の救命措置をしていたが、その時点で死亡はほとんど確実だった。テレポート部隊でやってきた応援と共に僕がセキエイ高原の協会本部に戻り、局長に呼び出されるまでの間に続けられていた儚い命の闘争は、結局のところ花を咲かせなかったということだ。俯きこそしなかったが、じっと目を開けて局長が語る次の言葉を待つことは出来なかった。目の前に広がる暗闇に歯を噛みしめて耐える。こういう悔しさは本当に久しぶりのことだ。痛みを心に刻み、息を整える。僕が前を見てから、局長は続きを口にし始めた。
「とはいえ、十秒もかからず事態を収拾した手腕はさすがのものだ。街頭の監視カメラの映像を見たが、犯人の妨害があったための失敗だ。責めるのは酷だな。はじめからバクフーンを出していれば、というたらればを言うつもりはない。
むしろあれだけの事件で被害を一人に抑えられたのは幸いだろう」
局長がわずかに口角を上げた。責められた次に褒められて気分は悪くならないはずだが、心は晴れない。それもそのはずだ。死者を一人出したという事実は変わらないのだ。この仕事に就いてから数多くの死に関わってきた。今更、自分がああしていれば、こうしていればというような葛藤を抱えるにはいささか擦り切れていたが、それでも人が死んだ、という事実は軽くない。
休めの態勢のまま黙っている僕の顔を局長は数秒見つめていた。そして彼は紙を一枚、取り出した。
「あまり良い気がしないのは分かるが、そうも言っていられないぞ。君達が拘束した犯人を協会で取り調べることになった」
「は?」
思わず聞き返してしまった。犯人はジュンイチが拘束した後、コガネ警察に引き渡したはずだ。後々、警察から事情聴取を受けたり、裁判に呼ばれたりすることはあっても、自分や協会と事件との関係はそれだけのものになるのが普通だ。協会の職員たるポケモン保護監視官には警察権が与えられているが、個別の事件の捜査なんてものを担当することはほとんどない。僕が属しているポケモン犯罪対策局が、協会の部局の中でも最も警察寄りの組織だが、主たる職務は公安警察に近い。このような事件を担当する刑事警察とは趣旨が異なる。実際、今までもいくつかの例外を除いて、捕まえた犯人は警察に引き渡してきた。事件の捜査など、畑違いなのだ。
「もしかして犯人は、どこかのポケモン犯罪組織の構成員ですか?」
それならば可能性がある。今回の事件も、その組織の活動で、僕たちがマークしている組織であるならば、取り調べを担当することもありえないわけではない。
「そこはまだ分からない。A5級、髪結(カミユイ)リュウ。二五歳。リュウは、笠という字を書くそうだ。トレーナーズリーグ・ホウエン大会で四位入賞の経験がある……三年前だな」
局長は紙を見ながら言った。警察から犯人の情報が回されたのだろうか。髪結リュウ、と男の情報を脳内で復唱する。トレーナーランクはA5級。プロフェッショナル・クラスと称されるA級の最下位だ。職業トレーナーとしての仕事にありつけるぎりぎりのランクだ。トレーナーズリーグに四位入賞、ただし三年前。
「四位入賞なら、当時最低でもB1級はあったはずですね」
「入賞当時もA5級だったそうだ。つまりA5級から上がっていない」
「……壁にぶちあたったわけですか」
「そういうことだろうな」
アマチュア・クラスなどと称されるB級や、フィーダー(飼い主)・クラスなどと称されるC級とは異なり、ランクの保持や変動が就職にも影響するA級の競争は、B級までとは大きく異なる。一言で済ませば熾烈、まだA級の上位階級であるマスタークラスの方が実際的な影響が少ないだけ、感情的な対立を含みにくく、穏やかと言える。それだけ激しい競争であるため、ランクを一つ上げるだけでも相当な苦労が強いられる。このクラスになれば個々のポケモンの実力も天井に近付いており、トレーナー自身の腕前もそれでま以上に強く求められるようになる。足踏みしやすいクラスだ。特にA5級はその傾向が顕著で、A4級以上全てのトレーナー人口を合わせても、A5級の半分にも満たない。A5級の次がアマチュア・クラスであるB級(B1級)であることも相まって、口さがない者はA5級のみを指して、セミプロと呼ぶこともある。その真意は、才能がなくとも努力すればなれる、という蔑みだ。
「ちなみに被害者は? コガネジムトレーナーというふうに見受けましたが」
「佐伯(サエキ)テンペイ、A5級。コガネジムのジムトレーナーだ」
互いにA5級同士の争いだったと聞き、眉をひそめる。今回の事件も、ランクの上がらない者同士が足を引っ張り合ったり、あるいは何かしらの事情で憎悪しあった結果の事件なのだろうか。ジムを訪れるポケモントレーナーに、専門タイプの戦い方を教えたり対戦相手になったりするのがジムトレーナーの仕事といえど、一般のトレーナーに対して常に善意であることは出来ないのだ。それがたとえA級トレーナーであっても、だ。
ミルタンクの実力を見れば被害者、佐伯がA5級にふさわしい実力を有しているのは分かったし、あの咄嗟の状況でゴルダックに技を当てた犯人、髪結がA5級であると言われれば納得が出来る。これがB1級以下であれば、たとえ当たったとしてもゴルダックがサイコキネシスを外すようなことはなかったはずだ。そのあたりは納得出来る。けれど、一つだけおかしい点がある。
「A5級で平のジムトレーナーですか?」
「そうだ」
ジムトレーナーは通常、いわばパートタイマーだ。専業でないためトレーナー資格……言い換えれば、協会の会員たる資格さえ持っていれば、年齢、職業を問わず一定の実力を有する者なら誰でもなることが出来る。同時にこれは、彼らがB級のトレーナーであることを示している。けれど被害者、佐伯テンペイはA級トレーナー。ジムトレーナーの内、ジムリーダーとサブリーダーのみ専業、つまり正規に協会に雇われたポケモントレーナーで、A級トレーナーしかなれない。逆に言えば、A級トレーナーは全てジムリーダーやサブリーダーであるはずだ。サブリーダーは協会の許可さえあれば複数人置くことが出来るし、サブリーダーを数年経験すればもっと実入りの良い仕事の口がいくらでも出てくる。このためサブリーダーの席が一杯になることはない。つまりA級トレーナーでサブリーダーでないのは、イレギュラーとなる。
「君の失態だとか、そのあたりはさほど問題なわけではない。むしろ、A5級であるにも関わらずサブリーダーではない。これと、あと一つ問題がある」
「というと?」
「被害者、佐伯テンペイは、ポケモンの扱いが悪かった。ジムリーダーにも咎められていたようだ」
「あー」
つまり協会の首脳部――理事会は、警察と協会の合同捜査に持ち込んで、警察が発表する情報の制限を図りたいらしい。ポケモンの扱いの悪いトレーナーがジムトレーナーである、というのは非難の対象になりやすい。日を置かず分かる情報でも、出し方次第で協会を見る目は変わる。
「けれど、口実はどうするのですか?」
「犯人は、モンスターボールの支配≠ニ叫んでいたらしい」
「……えらく古い言葉を」
「私もそう思う。だが本当にこの男がモンスターボールの支配≠理由にモンスターボールを壊して一人のトレーナーを殺したのなら、それは面子だとかそういう問題以前に、協会の根幹をなす問題だ。これがもう一つの問題というわけだ」
局長は一枚の紙を僕に差し出した。書類の右下には見たことのある字で署名と押印があった。理事長署名の通達、しかもその原本だと一見して分かった。手に取って読む。内容は、僕がこの事件の捜査――協会が主に担当するのは犯人の取り調べ、という趣旨のことが直後に書いてある――を主任するよう記載されている。
「今やっている仕事は飯田君に任せて、こちらに専念して欲しい。部下に警察官経験者だとかを何人かつける。よろしく」
拒否する権利を持たない僕は「はい」と頷いて局長室を退室した。
二
犯人こと髪結リュウが協会に移送されて半日が経過していた。当初、相当に渋っていたコガネ警察も、協会が髪結の取り調べを担当するという要請に従わざるを得なかった。僕は局長からつけられた警察官経験者、特に刑事経験もある職員に取り調べを任せて、警察との情報交換や調整に当たった。一応は事件の当事者でもある僕が事件を主任することを批判する声も少しはあったし、僕も尤もな批判だと思ったのだが、僕達のやったことはポケモンを戦闘不能にし、犯人を逮捕したことだけで、その一部始終は複数の監視カメラに撮影されて目撃者も多い。このため、問題ないというのが理事会の説明だった。起こったことは単純だったし、警察側も髪結が佐伯のモンスターボールを破壊したことについて裁判に耐えうるだけの証拠を揃えてしまったらしい。社会の関心は早くも、どうして髪結がこんな事件を引き起こしたのかに移っていた。
髪結を逮捕してから既に二四時間以上が経過していた。警察と同一と見なされる協会は、あと二十時間少々の内に彼を検察に送致するか、留置を延長するか、釈放するか決めなければならない。協会や警察が聞き取っておきたいことは山ほどあったが、髪結は黙秘するか同じ言葉を繰り返しているだけだと聞いた。
僕は取調室に、そっと入った。取調担当者の後ろ、壁に背を預けて立つ。部屋の中は薄暗くしてあって、僕の顔は分からないはずだった。けれど、
「ワカバの新炎=v
と、髪結は僕に向かって、僕の二つ名を呼んだ。この数年はワカバタウンのキネワ、と通例通り呼ばれることが多かったのでやや戸惑った。三十を過ぎた人間に「新」というのもどうかと思っているので二つ名で呼ばれなくなってほっとしていたのが実のところだが、久しぶりに呼ばれてみれば、嬉しさ半分、こそばゆさ半分の妙な気持ちになった。この崩れた顔は向こうからは見えないはずなのが幸いだ。
「よく、分かりましたね」
髪結は取調官の肩越しに僕を見ている。やや不安になりつつも表情までは読めないだろう、と思うことにした。
「あんたには……いや何でもない」
「うん?」
「あんたのことはよく知っている、と言いたかった。
九九年のカントー・ジョウト地区大会で電光石火¥盤(ジョウバン)シンヤに負けて準優勝、今はマスター2級第3位だ」
「よくご存知だ」
そう言うのと同時に、意識が心の奥底に引き込まれるのを感じた。常盤シンヤという名前はここ数年、知人以外からは聞くことはなかった。かつてはその名前を聞く度に軽い喪失感を抱いていた。最近ではやっとその名前を聞いても動じていないように見せることが出来るようになっていた。けれど、目は正直だった。気付けば僕はほんのわずかの間、瞼を閉じていた。
目を開くと、髪結は僕を視線の中央に据えていた。僕と目が合ったことに気付いたのか、彼はわずかに瞳を泳がせる。何かを言いかけていたのか知らないが、口も開きかけていた。目とは違って、口はすぐに固められた。その姿は、まるで叱られた子どものようにさえ見えた。取調担当の職員がわずかにこちらを向いた。これまで髪結は、黙秘か主張さえしていなかったと聞いている。取調担当者が驚いているのは何となく察せられた。髪結は唇を結んだかと思うと、一転して僕を睨むように見て来る。怒気というべきか、殺気というべきか、憎悪というべきか。彼が寄越してくるそれは、同一人物が放っているものだとは思えなかった。取調担当の職員が肩で驚きを表している。つまり、こんな視線を彼には向けていなかったということだろう。
「それで、あんたみたいな恵まれたトレーナーが俺に何の用だ?」
たじろいでしまった。言葉の端々に明確な敵意がにじみ出ている。どう答えようかと迷ったが、嘘をついても見抜かれる気がした。素直に答える。
「いや、特に用事があるわけでは――」
「なら出て行ってくれ。俺たちの気持ちが、あんたなんかに分かるか!」
この一言が、頭から離れなかった。
相談事に訪れたわけではなかったが、もしかすれば「けんもほろろ」とはまさにこのことなのかと思った。わずか一分足らずで追い出されて仕方なく自分のデスクに戻ることにした。二十席近くが二列に並んだ内の、最も奥にある自席につく。通路を挟んで左側には、僕たちの席に向かい会う形で席が一つあった。その席には四十代半ばの男が座っている。男は顔を上げると、ずいぶんと早いな、と呟いた。僕はええ、と返す。席に座ったまま僕は彼におおまかな経緯を話した。男は腕組みをして空を見る。
「おかしいな」
「ええ、おかしいですね」
髪結は取調中、黙秘するか「モンスターボールの支配≠ゥらの脱却」という趣旨のことを述べるという、二つの選択肢しか採っていないはずだった。その髪結が、僕を指して「恵まれたトレーナー」と言った。つまり彼自身は、自己認識において「恵まれていない」トレーナーだということだ。その後に続く「俺の気持ち」というのも、ここに関わる話なのだろう。「モンスターボールの支配≠ゥらの脱却」が必ずしもトレーナーを否定するわけではないが、けれど少なくともポケモントレーナーという存在との相性は良くない。その点について髪結がどこまで理解しているのかは分からない。けれど、僕がその場にいたことに怒りを抱いていたことだけは分かる。
「つまり、彼自身はトレーナーたりえたかった、ということかな」
「おそらく」
それしか言えなかった。彼の心の裡を本当に知ることはどうやら出来なさそうだった。翌日の夕方には検察送致の準備をしなければならない。留置延長も可能だが、合同捜査となった時点で、警察側とはなるべく延長させない、ということで合意している。彼らからすれば領分を侵犯されたわけであるから、早めに検察に移して協会に手を引かせたい、と思うのは当然のことだ。
「その前提でいけば、髪結が君に対して抱いた怒りは、トレーナーとしての実力に対する怒りだったということかな」
そういうことなのだろう、と思う。しかし理解は出来ても納得出来るものではない。
髪結の言いたいことが分からないわけではない。今でこそマスター2級第3位などという地位を与えられているが、僕もかつては一介のA級のトレーナーでしかなかったし、その後でもマスター3級程度の、まだ上には多くのトレーナーがいるクラスで足踏みをしていた。ましてや、僕はどう足掻こうとも決して敵うことの出来ないトレーナーを知っている。かつてマスター1級第1位まで登り詰めていなくなったその男の名前は、常盤シンヤという。カントー・ジョウト地区大会で僕を破り、優勝した男だ。いま現在、僕は国内でトレーナーとして第六位に当たる地位にあるが、それでもフルバトルで戦えば、シンヤのポケモンを一体を潰せれば僥倖だと思っている。それほどに圧倒的な実力差を、僕はかつて見せられた。命を削ってでも――実際に彼がそうであったように――勝ちたい、そう思ったことも一度や二度ではなかった。髪結は僕のことを恵まれたトレーナーのだと言うが、自分ではそう思っていない。けれど、それを口にしたところで髪結の反発を買うだけであるのもまた、分かっていた。
A級は、俗にプロフェッショナル・クラスと称される。たとえばポケモン犯罪専門の警察官として、たとえばジムリーダーとして、たとえば狩人として、たとえばポケモン牧場の牧童として、たとえば発電所のポケモン管理員として、ポケモントレーナーとしての実力を以て雇用を受けるためには、マスター、A、B、Cとあるクラスの内のA級以上のランクを有していなければならない、とされる。髪結のランクはA級、より正確にはA5級。プロフェッショナルとしてぎりぎり認められるランクだ。
同時に彼の年齢は二五。どんなに努力してもトレーナーとして超えられない壁が見えてくる、そういう年齢だ。自分が才能でマスタークラスになれたとは思わない。それでもマスタークラスにまでなれたのは事実だし、比して彼はセミプロなどと揶揄される程度の実力で打ち止めとなっている。妬みや嫉みという形容では足りないばかりの憎悪を向けられるのも、かつて自分があの男に対して抱いた劣等感を思えば、理解出来ないわけではない。
「A4級であれば仕事の需要も十分な数があるが、A5級は供給過多だ。壁にぶち当たった上にトレーナーとしての職にも就きにくい。追い詰められていた心情は分かるね」
「だからといって事件を起こして良いわけでもないでしょう」
「それはさ、勝者あるいは事件を起こさずとも生きられた者の論理だよ。
彼は人並み以上に努力しながらも追い詰められ、そして何よりも彼を導く者はいなかった。その違いは決して小さくない」
「僕には、分かりかねます」
青臭いことを言うつもりはなかったが、ついつい言葉が口を突いていた。かつて自分はシンヤに敵わなかったが、彼に対して不正な手を使ってでも勝ちたいと思ったことはなかったし、超えられない壁に十年以上の年月が流れた今でも挑み続けている。自分と比べる行為が愚かなことであるのは分かっているが、けれどそれを言わずにはいられなかった。
「恵まれているね、君は」
髪結と同じ言葉を吐かれ、思わず振り向いた。そこで僕はぎょっとした。今まで平静な顔しか知らなかったが、この男がこんな顔をするのだと、初めて知った。
「私はさ、B2級止まりだった。ああ自分にトレーナー専業は向いていないのだな、と数年がかりで理解した。結局、ジムリーダーどころか、どこのジムのサブリーダーにも勝てなかったよ。
リーグ大会の方は、平均すれば毎年三回以上は予備大会に挑んで、本大会には二回だけ出場出来た。一回目は予選で落ち、二回目だけ本戦に出られた。それでも二回戦敗退だ。君は?」
「僕は、本大会は一回きりでした。準優勝だったのでトレーナーズリーグには以後、出られなくなりましたし」
「そうだろう? リーグで準優勝してカントー・ジョウト地区四天王への挑戦権も得られた。その後の未来は、約束されたようなものだ。
でも私は違う。自分にはトレーナー専業は無理だと分かってからは必死に勉強したよ。職業トレーナーとしてやっていけない以上、旅に出たトレーナーは相応の対価をもう一度払わされる。私の場合は必死に勉強すること、だったけどね」
「それはそうですが、」
「君は旅には出ていないから、感覚的に理解出来ないのかもしれない。でも、旅に出てまでトレーナー修業をして、それでいてA4級以上になれないポケモントレーナーの末路なんてそんなものだよ」
男の顔をじっと見る。年齢は確か四十代前半、役職はポケモン犯罪対策局審議官。職位は部長級。局長が就任に際して抜擢した内の一人だ。どの局の職員からであっても一定の敬意を受ける、協会官僚機構のトップ層だ。対する僕は局付で局長直属でこそあるものの、課長級参事官。トレーナーとしての実力とこれまでの功績で得た二等ポケモン保護監視官という階級に対応する形で与えられた職位に過ぎない。要するにおまけのようなものだ。四十になってもこのままの職位ということも十分に考えられる。審議官が得た結果は、職業トレーナーになれなかったことを差し引いてなお、万人には得られないものだ。
「そう睨みなさんな。君の言いたいことは分かっているさ」
「別に睨んだわけではありませんが」
「ここにいる人間では彼が抱いたような劣等感、危機感、焦燥、絶望、自棄、そういった類のものを抱けないということだろう。
ここの人間は、どこかで劣っていてもそれを補うに足るだけの何かを持っている。地位、実力、仕事、家族、友人、運、あるいは努力出来る力。そして自信」
自信が一番大切なのだけどね、と小さく呟く声が聞こえた。
「共感は出来るだろうさ。人間、誰しも問題を抱えて生きている。それが彼と同じように、たとえば劣等感だということもある。君なんかのようにね。
でも君が抱いた劣等感が二ならば、君はその一を自信と努力で差し引いてしまった。でも彼の抱いた劣等感は十で、十のままだ。結果から見ればね。そして、十の劣等感を抱いた者から見る一の劣等感は、その共感は、傲慢でしかない」
本当にそうだとすれば、僕たちは彼とは永遠に分かり合えないということになる。それは正しいことなのだろうか――
三
事件の捜査は順調に進行していた。発生から一日と一夜を明けただけだが、自供がなくても有罪に出来るだけの証拠は大体揃っている、と警察側はさらに自信を膨らませていた。
もちろん、被害者がジムトレーナーで、ポケモンの扱いが悪く、虐待ではなかったかと批判する向きもあった。けれどコガネジムリーダーがそれを問題視して再三注意していたこと、サブリーダーへの昇格を認めなかったこともあり、さほど問題とはされなかった。やはり世間の関心は、髪結の人物や、街中でも叫んでいたあの言葉に対し注がれていた。
モンスターボールの支配≠ニいう言葉は、今でもなお使われている言葉でこそあるものの、その意味合いは五十年前と今とでは異なる。五十年前に持っていた意味合いは、闘争であり流血であった。
けれど現在において大多数の話者が与える意味は揶揄程度のものだ。モンスターボールがポケモンを支配し、モンスターボールがトレーナーとのポケモンの関係を支配し、そしてそれはトレーナーさえも支配しているのではないか、という皮肉だ。トレーナーの自治≠ネどという原則まで打ち立てて国家権力に対抗したトレーナーが、自由を旨とするはずのトレーナーが、たった一個の物体によって縛られている構図を嗤うための言葉だ。
もちろん、どこぞのポケモンの解放を訴える団体や、自然保護団体のようにいまなお支配≠批判する者達もいる。大事件も起こしている。冷静に考えれば、彼らと髪結とで変わることはないはずだ。にも関わらず彼が注目されているのは、大都市の街中でモンスターボールを破壊したからだ。
モンスターボールを、ポケモン解放を主目的とする自然保護団体は持っていない。プラズマ団は使うが、それを壊そうとはしない。けれど彼は、実際にそれを壊して見せた。それがたとえ他人のものだったとしても、支配の象徴かつ実体たるモンスターボールを壊すことは、昔を知る者にとってはかつての闘争を想起させ、知らない者にとっては価値観の危機を覚える行いだ。
「それで、髪結は何か動機を言いましたか」
取調を担当している局員は首を横に振る。
「ずっと同じことばかり。モンスターボールは全部壊すべきだ、と。エンドレステープを聴かされている気分です」
五十台半ば、三等ポケモン保護監視官で、今回の捜査のために部下としてつけられた内の一人だ。静かな物腰だが、元警察官で刑事も経験し、協会に転職した優秀な人物だと聞かされている。
「三監、それは最近では無限ループと言います」
「無限ループ?」
「コンピュータ用語ですよ」
「なるほど」
「エンドレステープなんて、僕は見たこともないですね。後輩にはカセットテープを触ったことがない者もいますよ」
寂しいものですな、と言いつつ彼はコーヒーを飲み干した。話を聞くためコーヒーを出して引き留めていたが、飲み干されてしまえば口実もなくなる。彼を取調室に送りだそうとしていたら、何かを考えていたようだった。カップを僕のデスクに置いて向かい合う格好となった。
「そういえばマスタークラスになると、モンスターボールがなくともポケモンに指示を出せるそうですね」
何を思ったのか、彼はそう切り出した。秘密というわけでもないが、安易に答えたい話でもなかった。けれど聞かれた以上は答えるべきなのだろうと思った。今回の事件では単にその言葉が使われているだけだが、いつかこの質問が意味を持つ時がくるかもしれない。そう思った。僕は考えを整理して、ゆっくりと話し出す。
「そういうわけではない、んですよ」
モンスターボールはポケモンを支配し、トレーナーの指示に従うように強制する。たとえ捕まえたポケモンが子持ちで、餌を住処に持ち帰る途中だったのだとしても、モンスターボールで捕まえさえすれば、ポケモンは泣く泣くトレーナーの指示に従い、トレーナーについていく。
一説には、モンスターボールの本質は、トレーナーに反抗しようとする精神の制御にあると言われる。反抗心を抑えることで、結果的にトレーナーに付き従わせる。別の説ではトレーナーを親と思い込ませる、という説もあるが、その違いはこの際、本質的ではない。肝心なのは、強制させる力を持つ、ということだ。
強制させる力を持つということは、ポケモンは様々な感情を抑え込むことが出来るということでもある。そして、それと同時に失われるものがあるということだ。
飼いポケは、野生のポケモンと比べて平均的に強い。トレーナーがついていることもあるし、飼われることで良質なトレーニングを受け、技の選別を受けることが要因だ。けれど、仮にトレーナーの指示ない飼いポケが、野生の同レベル・同ステータスで、同じ技構成のポケモンと戦った時、勝敗は逆転する。理由には様々な意見があるが、僕は闘争心が理由だと思っている。反抗の抑圧が、ポケモンバトルで重要となるはずの闘争心を抑圧している。上手いトレーナーは、ポケモンに勝利の味を教えることでこの闘争心を駆り立てることでこれを克服している。でもこれは、上位のトレーナーなら誰でも感覚的に理解していることだ。ポケモンに勝利の興奮を覚えさせなければ、ポケモンが強くならない。これはいわば常識だ。
肝心なのはその先だ。その常識の裏に隠れていることだ。
トレーナーには、ポケモンとの信頼関係という言葉を好んで使う者がいる。けれど、実のところ、モンスターボールを介した信頼はいわば恐喝の上に成り立っている信頼だ。ほとんど絶対的に従う相手との関係を指して「信頼」と述べること程白々しいこともないだろう。仮にこれをそう呼ぶのだとしても、信頼というよりは信用と言う方がニュアンスとしては正しい。従っている限り悪いことにはならないだろうし、勝てるかもしれない。多少の差異こそあれ、本質的にはポケモン側はそう思っているはずだ。全てがとは言わないが、多くはそう思っているはずだ。信頼ではなく信用、そこには若干の懐疑や不安が混じっていても不思議ではない。
もしこれがモンスターボールを介さない信頼であるならば、その名前の通りモンスターである彼らを従わせられるならば、脅迫でない、心と心の繋がりを以て築いた絆であるならば、心のどこかに不安を抱いているポケモンが繰り出す技とは異なる結果が見えてくる。ほんのわずかな差だが、マスタークラスともなれば、この差が全てを言うことも多い。コンマ零以下、あるいはそれよりさらに小さい単位のタイミングでの勝利や、重さに直せば1キロも違わない力の差での敗北、そのどちらも僕は経験がある。
だからこそ、僕はモンスターボールを捨てた。僕はそれまでモンスターボールで成り立っていたポケモンとの関係を、三年近くをかけて再構築した。僕が今使っているモンスターボールは、ガンテツ老人特注のものだ。昔ながらの手順と材料のみで作ったものだ。これをやっているのは、僕だけではない。けれどマスタークラスの全てではないし、それが出来る者はそう多くない。僕は彼にそう説明した。
「単なる噂話かと思っていましたが、本当の話だったんですね」
どうやら半分はカマをかけられたらしい。これは秘密ですよ、と言うと彼は分かりました、と答えた。信用はしていいのだろう。
「しかし皮肉ですね。トレーナーの頂点に立つマスタークラスの中には、支配≠捨てた者もいる」
マスタークラスとは、ごく一部のエリートにのみ認められるランクだ。国内に何百万、何千万といるポケモントレーナーの頂点に立つトレーナー達にのみ与えられている。五十名を越えたことは一度もない、人によっては、特にマスター1級者のみを指してポケモンマスターと呼んだりもするが、マスタークラスであることとポケモンマスターであることはほぼ同義だ。そのポケモンマスターの称号を与えるのは協会であり、協会はモンスターボールに支えられたトレーナー達の自治機関であり、そのシンボルはまさにモンスターボールだ。そのポケモンマスターが、協会のトレーナー自治の根幹である者が、モンスターボールによる支配を良しとしていない。皮肉といえば確かに皮肉だ。
「でも、モンスターボールがなくてもポケモンと今の関係を築けたか、と訊かれれば無理だとお答えします。僕たちがポケモンの信頼を勝ち得たのは、あくまで彼らが僕のことを知っていたからです。それがなければ無理だった」
脅迫で得た信用をベースとして信頼を獲得する。かつて詐欺に遭った被害者が、詐欺師を再び信頼するのと同じような構図がそこにある。もしこの手法が一般化したら、このやり方を批判する者は多く現れるだろう。
元々、モンスターボールの支配≠ニいう言葉を用いないだけで、モンスターボールの支配≠キる機能そのものへの批判は今でも根強いし、それが潮流となりつつあるのかもしれない。彼らは様々な手法や技術開発で支配≠ゥらの脱却を目指している。
たとえば、卵からポケモンを育てる場合がある。ポケモンのゲットは認めずに卵で育てたポケモンのみを用いるべきだ、と論ずる者もいる。一部には、この場合、モンスターボールに入れないまま育てるべきなのだ、という意見もある。
あるいは、第四世代目のモンスターボールの開発だ。たまたまボングリ由来の物体にポケモンが入っていたものを捕獲して手懐けたものを第一世代、手工業的に、ポケモンを格納するためのモンスターボールの原型を作っていたものを第二世代、工業的に大量生産し、そして支配≠ウせる機能を持たせたモンスターボールを第三世代と呼ぶ。第四世代とは、支配≠フ能力を抑えよう、という試みだ。もっとも研究は数十年にわたって続けられているが、完成には程遠いと聞く。
卵からの育成と第四世代のモンスターボール、そして第三世代のモンスターボール。詳細はともかくとして、どれもがそれぞれに問題や類似点を抱えているのだが、ヒトはもっとポケモンに寄り添おうとしているのも確かだ。もし第四世代のモンスターボールが完成したならば、支配≠ニそうでないものとの区別は曖昧になる。曖昧になった時、そこにあったはずの明確な区分や対立は消滅するはずだ。その先にどんな結末が待ち受けているのかまでは分からない。一つだけ言えるのは、それは間違いなく歴史的な転換となるだろう。
「難しいことは分かりかねますが、」
三等ポケモン保護監視官は言う。
「それでも第三世代のモンスターボールは必要なのだと思います。壊すべきものではない。人類が火が必要だったように。ポケモンに対して、人間はあまりに脆弱だ」
それは最低限の自衛のためにのみに言える言い訳ではないか。そう思ったが、その反論が正当かどうか分からず、僕は開きかけた口を閉じた。
四
髪結を検察に引き渡す手続きを警察官経験者の職員に任せ、僕は取調室に入った。取調担当者用の椅子に座り、向かい合う。数人の職員も同席していたが誰も喋らない。警察も諸々の取調は検察に投げるつもりでいるので、聴取することもなかった。柱時計の時を刻む音だけが響いていた。
髪結の姿形を観察する。年齢は二五と聞いていたが、嘘であろうと疑いたくなる。彫りは深く、黒くただれたような顔の奥底には死神の鎌さえ見て取れそうだ。始めて見た時は旅装としか思っていなかった服装も、近くで見てみれば破れやほつれが目立つ。彼が持っていた物のリストを見てもても、みすぼら、の一言で片付いてしまいそうだ。
A級トレーナーともなれば賞金を賭けてのバトルを挑んでくる相手が少なくなる。国内最大規模の公式大会であるトレーナーズリーグは、準優勝または優勝すれば再出場出来なくなるというルールと、四位以上の入賞可能なランクまで上がった頃には多くのトレーナーが就業年齢に達している現実から、実質的にB級トレーナーとごく一部のA級トレーナー下級者の大会と化している。同時にこれは、修行中の専業トレーナーでA級者はわずかしかいないことを示している。
B級トレーナーにとってのA級トレーナーは、たとえ相手がA5級であっても常に強敵だ。A級トレーナー間の競争は熾烈であるが故、A5級の平均的な実力と、B1級の平均的な実力とには大きな差が生じてしまっていることが背景にはある。だから、B級トレーナーの大多数は、A級トレーナーとは賞金をかけて戦ってはくれない。
もちろん、小規模な大会はいくらかあるし、あるいはジムリーダーを破れば相応の賞金が貰える。さらにその地方のジムバッジを八つ集めればトレーナーズリーグ入賞者と同様、四天王に挑戦する権利が得られる。けれど小規模な大会は、そういう境遇のA級トレーナーが多くいるし、ジムリーダーは各地のポケモントレーナー育成の責任を負うだけに凄まじく強い。A4級以上が就任条件だが、時には四天王と同等のA2級保持者もいるくらいだ。A級下位者がそうそう勝てる相手ではない。
A級保持者はA級保持者同士の試合が中心になるし、下位者が上位者に勝つのはB級におけるそれより難しい。結果的に、トレーナーとして雇用を受けるのではない、純粋な意味でのトレーナー専業は、A級トレーナーであっても1級や2級程度の上級者でしか成り立たない。
(それでもアルバイトをしたりだとか、他のA級トレーナーに安定して勝てたり出来れば、ここまで困窮することもなかっただろうに)
髪結の経歴を見てみると、ホウエンでの四位入賞以来、アルバイトをした様子がない。次は優勝を、とトレーナー修行に専念したのだろう。結果的には、翌年出場したシンオウ地区大会では準々決勝で大敗を喫している。負けた相手は大会優勝者。優勝候補者はなるべくばらして配置されるのだが、この大会は全体的にレベルが高く、この他にも優勝候補同士が準々決勝で見えているようだった。本大会前のA級トレーナー同士のジム内対戦での成績も芳しくない。自分より強い相手に対しては全く歯の立たない、十両横綱のようなタイプということだ。仕方のない結果だが、運が悪いといえば運が悪い。その翌年、つまり去年に至っては、そもそもどの地区でも予備選にすら出ていない。その間に何かがあったのだろう。
一度好成績を残したからと、修行に専念するのはリスクが高い。その典型例だ。慢心したわけではないだろうが、引き留める者がいればこんなことにはならなかったのかもしれない。家族の反対を押し切って、親とは絶縁状態になってでもトレーナー専業を目指す者は多いが、少なくともその生き方を賢い生き方とは思わない。
傲慢に聞こえる考え方だとは分かっている。これは、力ある者の一方的な論理だ。僕は髪結と同じ二五の頃は、既にマスター3級だった。髪結とほとんど同い年代でありながら、十代の頃にマスター試験をパスした人間もポケモン犯罪対策局にはいる。逆に三十代になってマスター称号を得る者もいるし、二十代前半でマスター5級になりながらも、十年かけて4級にもなれず引退する者もいる。同じマスタークラスでさえも、こうも違う。違うのであるから、焦る必要はないのだと、そう思う。続けたければ続けられるし、たとえば家族が出来ればそっちが大切になったりもすることもある。ポケモントレーナーなんて、そんなものだ。生き方の一つでしかない。バトル中の事故死、なんて珍しくない危険な趣味や仕事でもある。劣等感を抱いてまで続ける必要は、それしか道がない者がやることだ。実際には、他に道があるはずの人間までこの茨の道へと足を踏み入れてくる。
安易にそれ以外に道がない、と言われればそれこそ僕はその人間を蹴り飛ばしたくなる。夢や希望ではなく、視野狭窄や面子のために他の選択肢がないと言われれば、僕はその相手にブラストバーンをぶっ放したくなる。その下らないすり硝子で出来た視界を叩き割り、焼き切ってしまいたくなる。これは傲慢かもしれないが、そう思う。
マスター2級第3位。僕はこの称号を得るために二十年以上を費やした。上にはあと五人しかいない。どれだけの時間をかけようとも、1級第1位に挑むつもりだ。もっと正確に言えば、1級第1位のその上、かつて僕が敗れた男に挑むつもりだ。追いかけているのはもはや幻影に過ぎないが、その幻影に一生をかけてでも勝ちたいと思っている。僕はその決意を抱いてこの道に足を踏み入れた。
もちろん同じような決意を抱け、とは思わない。でも熟慮すべきなのだとは思う。熟慮して、考え抜いて、他の選択肢も検討して、追従でない意見を聞いて、初めて決めるべきなのだ。ポケモントレーナーとは、そういう職業だ。
「そういえば、」
警察から回された資料を読む風をして僕はずっと黙っていた。長らく沈黙が続いていたのに耐えかねたのか、職員の一人が髪結に語りかけた。
「あんたのフーディン、回復しつつあるそうだ」
髪結が揺れた。まるで居眠りをしているように顔を俯けていたのだったが、頭を上げて言った職員の顔をしっかり見た。髪結のフーディンは、火傷を含む大怪我を負っていた。久しぶりに人の死ぬ場面に遭遇した僕が動揺を見せたため、バクフーンは危険を感じ取ってほとんど手加減をしなかった、それが原因だ。もしフーディンがA級トレーナーのポケモンでなければ、死んでいたかもしれない。フーディンはブラストバーン≠受ける直前、サイコキネシス≠ナ防壁を張り、どうにか生き延びた。紙一重だった、と報告を受けている。
「とはいえ、しばらく治療は必要だ」
職員は言わなかったが、たとえ治療が終わっても髪結にフーディンや他のポケモン達が返されることはないだろう。裁判で有罪が確定次第、トレーナー管理局は髪結のトレーナー登録抹消するし、ポケモン保護局は既に髪結のポケモン管理権停止を仮決定している。実質的に彼のポケモンは協会が没収してしまっているようなものだ。
「ちなみにミルタンクも快方に向かっている」
同様に、ミルタンクも朝方まで危険な状態にあった。このミルタンクも含め、コガネジムは被害者、佐伯テンペイのポケモンを全てを引き取ることを申し出ている。けれど、ミルタンクの扱いについては微妙なところだった。モンスターボールが破壊されたとはいえ、人を、主人を襲ったのは事実だ。ジムリーダーやサブリーダーといったしっかりしたトレーナーにつけば、同じことにはならないと思うが、保証はどこにもない。保護局は判断に苦慮しているはずだ。好きで殺したいはずがないが相応の処分が普通だ。
「…………」
髪結は黙ったままだったが、この二日間見せ続けた怒りや無表情ではない、別の顔が見て取れた。重く、眉を寄せて口を固く結んでいる。その表情は、まるで助けを求めているかのようにさえ見えた。ミルタンクが殺処分となるであろうことは、ポケモントレーナーなら誰でも予想しえる結果だ。
(ここで初めて気付いた、そういう顔だな)
警察から回された資料に目を落とす。髪結にはとあるポケモン保護団体との接触があった、とする報告書だ。その団体は、近年活発に活動するようになっているようで、ポケモン犯罪対策局の監視対象にはまだなっていないが、保護団体とは名ばかり、実際には過激な活動もしているという。報告書には、過去数回の接触があった、とだけ書かれている。おそらくその通りなのだろう。共感をしたか、逃げ込んだかは知らないが、団体の唱える字面に興味を持って話しを聞いた、その程度だと思う。過激な思想を心の奥底から信じ行動したとは到底考えられない。
髪結はうつむき始めていた。心の揺れ動く今が、語りかける最後のチャンスなのかもしれないと分かった。ポケモントレーナーとして、一人の人間として、どう考え何を感じたのか、聞くことは無理でも伝えることは出来るのではないかと思った。けれど語りかけるべき言葉が見つからなかった。何かを言いたくてここに座っているはずなのだが、言葉が出てこない。伝えたいことはしっかりとあるのに、それを伝達する術を僕は持たなかった。僕が持っているのは、僕なりのちっぽけな論理だけだ。だったら、たとえ伝わらなくてもその論理を口にするしか僕には出来なかった。
「あなたは、蟷螂の斧、という言葉を知っていますか」
「蟷螂の斧……?」
隣に座っていた職員が驚いているのが分かった。まともに質問に反応したのはこれが初めてなのだろう。
「弱者が自分の力量など省みず、強敵に立ち向かう、そういうことを示します」
「それが……?」
「大した意味はありません。でも僕はこの言葉が好きです」
これは受け売りですけどね、と前置きする。
「抗わなければ敵はいつまでも強敵のまま。蟷螂の斧で結構。千丈の堤も蟻の穴より崩れる」
「あんたは、自分がその蟷螂の斧だとでも言うつもりか?」
「もちろん、言うつもりですよ。それは自分が一番よく知っている」
ポケモントレーナーとして国内一位だろうが百位だろうが百万位だろうが、たった一人の実力が物の数にもならないことを、僕はよく知っている。傲慢であろうと何であろうと、それは否定しようのない事実だ。
ポケモントレーナーとしての実力だけを追い求める人間は、ランクが一つ上がる度に自分が有能で、世界を変えられる力を手にするのだと勘違いしやすい。全能感、と言えば分かりやすいだろうか。だからこそポケモントレーナーの犯罪は少なくないし、偏った思想のトレーナー集団は過激化しやすい。確かに物理的な意味では、一個人には手に入れられないような力を自由に操ることが出来る。でも仮にそれを行使したのだとしても、たとえば人の感情を自分が思うように変えることが出来るわけではない。それにはもっと別の力が必要になる。
何かを言いかけた髪結を、僕は手で制した。彼は彼なりの反論を試みるのだろう。まさに声を吐こうとしていたところだった。顔色は相変わらずだったが、表情からその気配が読み取れた。その反論が、彼の存在証明だ。僕にとってはちっぽけとしか思えない論理が彼にとっては唯一の拠り所なのだ。でもその反論を聞きたいわけではない。その反論は、モンスターボールの支配≠非難する声は、彼の真意ではないはずだ。これは独り言です、と言う。
「けれど、焦燥で人とポケモンを殺しても構わないとする法はどこにもない」
もしそんな法があったならば、僕はとっくにその法を壊しにかかっている。髪結が何かを言おうとして、やめた。俯き、再び沈黙する。人を殺してはならない。ポケモンを殺してはならない。むやみに命を奪ってはならない。基本的なごく当たり前のことだ。そのごく当たり前のことが、色々な理由で当たり前でなくなることだってある。
僕がマスタークラスであるとか、髪結がA5級であるとか、そういうことは問題ではない。モンスターボールが第三世代だとか第四世代だとか、そういうことが問題ではない。被害者が佐伯テンペイで、加害者が髪結リュウであるとか、そういうことも問題ではない。
結果的に一人の人間が死に、一匹のポケモンが失われようとしている。それが問題だ。そのことに二日もの間、気付かなかったことも問題だ。それを止められなかったことは、疑いようもなく問題だ。
あと一時間もすれば髪結はテレポート部隊に連れられ、コガネ地方検察庁に送致される。沈黙からは、彼が僕の言葉をどう理解したかは分からない。言葉だけでは、伝えられないことがあまりに多い。代わりと言わんばかりに、急にこみ上げてくるものがあった。ふつふつと浮かび上がってくる激情を僕は必死に抑え込んだ。振り出したくなる右腕を左手で掴み、離せずにいた。ここで殴り倒しても自分の不甲斐なさへの八つ当たりでしかない。それよりも髪結から言い訳以外の言葉を聞くためにはどうすれば良いか考えようとした。でも考えても分からなかった。分からなくて当然だった。僕は、この男のことを何も知らない。この男から聞いた言葉は全て言い訳で、この男の行動は全て僕を拒絶するものだ。分かろうはずがない。分かりたいとは思う。でも時間がない。
「あなたの本当の声を、僕は聞きたかった」
それだけを伝え、僕は席を立った。一時間後、髪結リュウは検察へと移送された。髪結は最後まで何も言わなかったそうだ。
起(今里キネワ) おわり