001 あたしとひみつきち
二の腕の神経が伝えた温かい感触で、サファイアは目を覚ました。
どうやら居眠りをしてしまったらしい。小さく声を漏らしながら、サファイア時計を見上げた。長い方は十二を、短い方は六を示す。
楽しみにしていたアニメはとうに終わってしまったようだ。相変わらず自分は夜更かしができないなと痛感する。昨日から二連続で見逃しているので、話の展開がどうなったかなど最早想像がつかない。
起こした体から毛布がずり落ちる。こんな寒いところで眠っていたのに寒気を感じないのは、明らかにこれのお陰だった。いったい誰が掛けてくれたのだろうか――。
なんて、考えるまでもなかった。
「おはよ、ほむら」
「おはようの前に、サフィなにか言うことないの?」
「……? あっ、ありがとね、毛布」
「ったく、アニメ見るなら見る、寝るなら寝るで、どっちかにしなさいよね」
「あたしもそうするつもりだったんだけど……寝ちゃったね」
ピョンピョンと飛び跳ねながらサファイアを叱りつける、それは♀のワカシャモ。生まれ落ちたときに主人――もといサファイアから受けた名を、ほむらという。
お互い幼少期からの付き合いであり、名目は主従でありながら実質は姉妹のような関係でもある。
「これはもう、ブラシ10分の刑ね」
「えー、またぁ?」
「ポケモンの主人なんて、ポケモンの毛並みを整えるためだけにいるんだから」
「そうかな? そうなのかな……」
「いやいやいや冗談よ。ごめんごめん」
「そう? ならよかった……」
「だから、ほらブラシ!」
「しょうがないなぁ……」
ミナモデパートで買った三段棚から、ほむらがブラシを取り出す。この『部屋』に飾られているグッズは、ほぼミナモデパートで購入したものだ。ただし、だいもんじマットに乗せられたお気に入りのアチャモドールだけは、キンセツシティのゲームコーナーで当てたものだった。
ワシャワシャとサファイアがブラッシングする。お世辞にも上手とは言い難いが、自分でやるよりかは幾分マシらしく、ほむらも時折喉を鳴らす。特に背中は大好物だった。
「あぁぁぁそこそこ。もうちょい上」
「文句多いなぁ」
「ちょっと左よ……そこ! 超気持ちいい……」
なんだかんだ言って30分ほど背中を掻き続け、長針と単身が重なる頃、ブラッシングは終わった。ポケナビで上がった毛艶を確認するのも忘れない。
「私の毛並みを整える前に、自分の毛並み整えなさいよね」
目だけはとろんとさせながらも、普段の調子でほむらは主人を見上げる。ほむらのこの表情は、サファイアが大好きなそれだった。
「ほむらが掻けって言ったんじゃん……!」
「それとこれとは話が別。私が正義よ」
「そんなのずるいよー」
「私のトレーナーなんだから、ちゃんとしなさいよね。はい櫛」
「……どーも」
自分の髪をすくのだけは器用だった。全体的に外向きに、そして先端は内向きにカールを掛ける。私に対してもこれくらいできればいいのに、とほむらがぼやく。
「んー? なんか言った?」
「なんでもないから、早くやっちゃいなさいよ」
「うーん、変な寝方したからかなぁ、うまくできないんだよね」
「ほら、アニメ見ながら寝るから」
「あ、違うよそれ。アニメ見れてないもん。アニメ見る前に、寝たんだよ」
「より悪いわよ……」
半ば呆れたようなほむらの表情も、サファイアは好きだった。胸の内側をくすぐられるような、不思議な気分になれる。
途中何度か櫛が引っ掛かりはしたものの、なんとか髪はとかし終わった。ちょっと早めの朝食を準備する。
「ほむら、火つけて。これ」
「ガスコンロあるんだから、それ使いなさいよ。煙もみんな木が吸ってくれる」
「うちで一番食費を圧迫してるのは誰かなー。ご飯減らしちゃおうかなー」
「喜んで着火させていただきます」
「うふふ、ほむら面白い」
髪をとかし終わったサファイアは、朝食の準備にかかる。冷蔵庫の中にあった卵とベーコンに目をつけ、今日のレシピを決定。サファイア先生の三分クッキングが始まった。
火を着け終えたほむらも、その場を離れる様子はない。一心不乱にフライパンの中を覗き込む目の輝きは、アチャモの頃と変わっていなかった。この目も好きだった。
「なんか、パチパチってなってるのに、木みたいにすぐに真っ黒にならないし、柔らかいし。ハムって不思議よね」
「ほむら、これはベーコンだよ」
「え……?」
「いつまで経ってもほむらはハムとベーコンの違いを覚えないよね」
「だって……似てるじゃない……」
「そうかなー。あたしは全然違うと思うけど」
「どのへんが?」
「味も違うし、食感も違うし、見た目も全然違うし」
「食べればわかるのに……」
話ながら、ベーコンの上に二つの目玉を作るサファイア。卵に火の通る小気味良い音と香りが、部屋中を支配した。
サファイアがフライパンを持ち上げる。唐突な彼女の行動に、ほむらは意味を掴めずにいた。自分の正面でフライパンを強く握り、じっと集中する。
フライパンを少し下げて、次に勢い良く浮かせたときにはもう手遅れだった。ベーコンエッグは大きく飛び上がり、そして重力にしたがって自由落下を開始する。最早芸術と言うべき美しい回転。場の空気が、一瞬スローモーションになった。
ベーコンエッグから目は離さない。綺麗な円運動を描いたそれは、サファイアの思惑通り彼女の手元に――。
は戻らず、ベーコンエッグを見上げたほむらの顔面に着地した。
「ぅあっつぅぅぅぅぅぅい!!」
ほむらの断末魔が、部屋中をこだました。
☆★☆
「ったく酷い目に会ったわね……」
「ご、ごめんね? 毛とか焦げてない?」
「それはほのおタイプの私に言うべき台詞じゃないわ」
「じゃあ大丈夫? よかった……」
幸いにもほむらは火傷しないが、まだ皮膚の感覚がちりちりと残っている。サファイアどたばたと濡れタオルを用意する。顔に適度な湿り気を取り戻し、ほむらにも反論の余裕が与えられた。
「食費云々言うなら、食べ物は大事にしなさいよね」
「うぅ、ごめんなさい」
「まあ今回は床には落ちなかったからいいけど。あんたはすぐ調子に乗るんだから」
「今度から気を付けます……」
「まあいいわ。食べよ」
少々形は崩れてしまったものの、食べれないレベルにはなっていない。黄身を固めに焼いたことと、下にベーコンを敷いていたことが功を奏した。フライ返しで仲良く半分に切り分け、軽く焼いた食パンに乗せる。ほむらは四枚切り、サファイアは六枚切り。トマトを洗い、パンにケチャップをむにゅむにゅすると、彩りだけは整った。
「……意外と変な味にはなってないわね」
「ほむらの味」
「絶対してないわ」
「でもちょっと黄身が固いかな」
「大分冷めちゃったからね。仕方ないわよ。私が温めてもいいけど」
「暖める前に燃やすでしょ」
「よくわかったわね」
「そりゃわかるよ」
だってほむらだもん。
ほむらは食べるのが速い。サファイアより大きいパンを食べていたはずなのに先に食べ終わるところなとを見れば、一目瞭然だった。
余った時間でテレビの前の青いクッションに体を預け、ぬくぬくしながらサファイアが食べ終わるのを待つ。それをぼんやり眺めながら食べるものだから、サファイアが食べ終わるのにも時間がかかった。
ほむらがくるくるとザッピングをする。この時間帯はろくなものがやっていないらしく、正直つまらない。適当に回したのち、結局ニュース番組に落ち着いた。
『現在カイナシティ沖を移動中の台風九号は、明日未明にも本土へと上陸し、強い暴風雨を起こす危険性があり――』
「……最近変な天気多いよね」
「私としては毎日猛暑日であってほしいわ」
「そんなことしたらあたしが干からびちゃうよ……」
「それもそれで面白そうだけど」
「で、でも現実は雨ざーざーになるわけだしっ」
「誰かにほんばれでもしてくれないかしら」
「ほむらがしなよ……」
「嫌よ、めんどくさい」
「じゃあ諦めるしかないね……。ごちそうさま」
「はいお粗末」
長い朝食さえ終えてしまえば、サファイアは速かった。一人と一匹分の食器を洗い、拭き、重ね、しまう。ほむらがアチャモだった頃から繰り返している作業だったため、頭より先に体が動いてしまう。昔こそ手伝ってくれたほむらも、今や戦力外だった。
「ねぇ、ほむら」
「ちょっと待って。このテレビ局が放送休止時間になるまで」
「何時間待てばいいの……!?」
「冗談冗談。で、何よ?」
「あのさ、今日ミナモまで行ってみない?」
「えー、雨降るのに?」
「そこはほら、室外ではボールに入ってるとかさ」
「そうねぇ……なんで?」
「特に理由とかないけど……。たまには一緒にお買い物とかしない? デパートでさ」
「うーん……まあいいわ。付き合ってあげる」
「ほんとに!? じゃあ早く準備しないと!」
途端にサファイアが慌てだした。コップを洗うカチャカチャが一層激しくなり、ガチャガチャに進化する。テーブルを拭くのもそこそこに、腰にポシェットを装着。財布と化粧品とほむらのボールが入っていることを確認し、テレビはソケットごと引っこ抜いて消した。
ほむらの手を強引に引っ張り、下駄箱からお気に入りを乱暴に掴みとる。その弾みで落ちたピンクのビーチサンダルには目もくれず、赤いポスターのアチャモに行ってきますのウインクをかまし――
――サファイアは、121番道路へと躍り出た。
「ほら見てよ、ほむら! 全然天気いいじゃん! まさに夏真っ盛りだね!」
「……ほんと。雨なんて降るのかしら」
秘密基地の入り口にもなるツタを木の中に隠し混み、爪先を軽くとんとん。紐をしっかり絞めて左向け左。ポシェットから赤いバンダナを取りだし、頭に巻いて髪を纏めた。
「さあ、行こうほむら!!」
乾いた土を、蹴る音が聞こえる。