ナナシマ数え歌
【4】氷の時間
 一匹のポケモンが迷い込んで、辺りの空気が冷えました。
 二匹のポケモンが探しにきて、水たまりに薄氷が張りました。
 三匹のポケモンが越してきて、天井から氷柱(つらら)ができました。

 沢山のポケモンが息づいて、今の姿になりました。

『四ノ島』の『凍滝(いてだき)の洞窟』は、そうして出来ていったのだと誰かから聞きました。


  ◇◇◇


 もう何年前のことになるでしょうか。私がまだ四ノ島に住んでいたころの話です。
 四ノ島は、温暖な気候と凍りついた洞窟という相反する環境を持った不思議な島です。
 その島に住んでいたころ、私には一人の幼馴染がいました。隣の島の悪戯っ子達から、からかわれることの多かった彼は――今思えば、かなり変わった子でした。 

 そんな彼の性格を表す言葉を一つ選ぶとしたら、それは『夢想家』でした。いつも取りとめのないことを考えていて、そしてそれを周りの人々――大抵の場合は私でしたが――に話しては混乱を巻き起こしていました。
 自分がこう、と信じたことは、周囲からの共感を得られようが得られまいが突き通す。そんな図太さも持ち合わせていました。

 ですが私は、彼のそんなところが嫌いではありませんでした。


 ある時、彼はこんなことを言い出しました。
「楽しい子供の時間を奪っていく悪いヤツがいるんだ」
「悪いヤツ? それって人間? それともポケモン?」
「姿は見たことはないよ。人間の目には見えないんだから当然さ。……でも、そんな不思議なヤツだから多分ポケモンなんじゃないのかな。『時間泥棒』は」 彼の言うことには、時間泥棒とやらは子供が夜寝ている間、特に楽しい夢を見ている間に現れて時間をそっと盗んでゆくのだそうです。
 そして子供は見ていた夢を忘れ、目が覚めた時には時間が盗まれたことにすら気がつかない……というのです。
 きっとまた、読んでいた絵本か童話か何かの影響でも受けたのでしょう。

 盗まれたことを覚えていないのなら時間泥棒がいることの証明ができないのではないかという主旨の質問をしてみたのですが、それでは『時間泥棒』がいない証明ができるのか、と返されました。
『存在する証明』と『存在しない証明』。科学的かつ公平に物事を考えるならば、立証する責任は存在すると主張する側にあるように、今では思います。 近代の科学と言うものは、例えるならば投網のようなもの。人類の英知によって編み込まれ、魚の形をした真実を掬いあげるためのものです。湖だか水たまりだかに網を投げて、引っ掛かった種類の魚だけを調べ、引っ掛からないものは存在しないと定義する――そういう類のものです。
「網の目が粗いから、魚がすり抜けて逃げてしまうのだ。湖の中にはまだ見たこともない種類の魚がいるはずだ」と主張する人もいるでしょう。確かに、網はまだ完全ではありません。
 ですが、時代が進むにつれて網の縫い方は巧妙になり、永遠に到達できるはずもない完全に、限りなく近くなってゆくのです。一マイクロメートル四方の網の目を、くぐりぬけて行く魚がいるのでしょうか? 「完全でないなら、何も無いのと同じ」という、一部の人々の好む論法は、私にはとても身勝手で、ほとんど何の中身も無い主張のように思うのです。

 けれども、当時幼かった私には順序立ててそれを説明できるはずもなく、屁理屈だとは思いながらも、反論ができずにもやもやとした違和感が残りました。
 

 私が黙っているのを了承ととったのか、彼はさらに言葉を続けます。
 時間を盗むポケモンがいるとしたら、きっとエスパータイプ、ゴーストタイプ、悪タイプ――そのどれか。
 ならば、こちらは悪タイプのポケモンを持っていれば、少なくとも互角に戦えるのではないか、と彼は楽しげに語るのでした。

 その逞しい想像力に半ば感嘆し、半ば呆れながらも、彼が悪タイプのポケモンを捕まえるのに協力することにしました。 彼は彼の兄からポケモンを一匹借りてきました。前歯の突き出たネズミポケモン、ラッタです。
 悪タイプのポケモンなんてこの島のどこにいるのかと疑問に思っていると、なんと彼は凍滝の洞窟に探しに行くと言い出しました。
 鋭い眼光と鍵爪をもった黒猫のようなポケモン――悪と氷の複合タイプを持つニューラを捕まえようとしていたのでした。
 
 相手は猫でこちらはネズミ。分が悪い気がしたのですが、彼は「兄のラッタはレベルが高いから大丈夫」の一点張りです。
 一度言い出すと話を聞かないのはわかっています。タイプ相性で不利でなかったのが救いでしょうか。
 私と彼はお小遣いを出し合って十個のモンスターボールを買い込み、凍滝の洞窟へ向かいました。 凍滝の洞窟は、そこに棲む氷ポケモン達の発する冷気により夏でも氷柱の溶けない不思議な洞窟です。
 冬ともなれば、洞窟中央の大滝が凍りつき、滝壺周辺は一面氷で覆われます。
 洞窟に棲みつくポケモン達の頂点に立っているのは、海の王者の異名で知られる希少なポケモン、ラプラスの一族でした。
 彼らは洞窟の奥深く、深海へとつながる海水の泉に集まり、互いの絆を確かめ合う歌を歌います。
 一族を率いている最も賢く力も強い個体を、私たちは『王サマ』と呼んでいました。
 私たちがラプラス達に会えるのは、滝の凍っていない季節だけでした。滝が凍ってしまえば、洞窟の奥底にある泉に辿り着けなくなるからです。
 冬の間、子供は凍滝の洞窟に近づくことさえ禁止されていましたから、私は洞窟が氷で閉ざされるたびに、いずれ訪れる次の春を待ち望んでいました。

 洞窟の奥に足を踏み入れると、いきなりひやりとした冷気が私たちを包み込みました。
 初夏でも吐く息は白く曇り、上着を着込んでいても腕からぷつぷつと鳥肌が上ってきます。
 私と彼の目当てはニューラ。悪と氷タイプの黒猫のようなポケモン。
 ラプラス達に会いに行く途中で、何度か見かけたことがありましたが、いざ探してみると中々見つかりません。
 ニューラは生来、とても獰猛な性質と聞いています。体力が尽きる前に何とか探し出したいところでした。

 氷で覆われた段差を降り、氷柱の伸びたトンネルをくぐった先の小部屋で、ついに小さな黒い影を見つけました。
 まだ若い、小柄な黒猫は、幼馴染の彼がモンスターボールからラッタを繰り出すと、指の間に隠していた爪をむき出しにし、低く唸ってこちらを威嚇してきます。 シャーッという叫びとともに黒猫の後肢は地面をけり、ラッタに飛び掛かりました。

 ニューラの爪がラッタの腹をかすめ、ラッタの前歯がニューラの肩に食い込み、息もつかせぬバトルが繰り広げられました。
 ラッタのレベルが高い、と彼が言っていたことは本当でした。体力を一方的に削られていったのは野生のニューラの方でした。
 後になって知ったことですが、彼がラッタに指示していたのは『いかりのまえば』という技で、相手の体力を半分まで削る、ポケモンを捕まえるのにはまさにうってつけの技でした。
 息が上がり、動きが鈍くなったニューラに向かって、彼はついにモンスターボールを投げました。
 赤い光がニューラを包み、モンスターボールの中に吸い込みます。大きな揺れが、一つ、二つ。そして、カチリという音とともに動きが止まりました。 彼と私は歓声をあげ、モンスターボールに駆け寄りました。
 新しい仲間に名前を与えるため、ああでもない、こうでもないと話し合い、結局見たまま『クロ』と呼ぶことになりました。
 ボールを内側からひっかく悪戯者に、私たちはそっと微笑みかけました。



 長かったようで短い夏休みが終わり、温暖なナナシマにも涼しい秋の風が吹き始めた頃、彼は凍滝の洞窟の前に私を呼び出しました。
 洞窟前に向かう道中、私が理由を尋ねても、「いいから。後で話す」としか答えてくれません。
 そして、洞窟前に到着すると、彼はうつむき気味だった顔を上げ、意を決したように、こう言い出しました。 

「僕は、島を出るよ。島を出て、本土へ渡って……ポケモントレーナーを目指す。クロと一緒に」
 狭義のポケモントレーナー――ただポケモンを所持するだけでなく、戦わせ、頂点を目指す旅人――に、彼はなりたいと言ったのでした。

 彼は興奮気味に語ります。
「四ノ島の出身者で、すごく強い人がいるんだって。セキエイの四天王になるのも遠くないって言われてるくらい。ナナシマ出身でも、強いトレーナーになれるんだよ。氷タイプの使い手で、女の人なんだって聞いた。この島から旅立ったときにラプラスを連れていったんだって。なんか、すごく、かっこいいよな。僕もそんな風になりたい。強いトレーナーになって、旅をしてみたい」
 矢継ぎ早に紡がれる希望に満ちた言葉の数々に、私は「うん」とか「そうだね」とか曖昧な相槌で応えていました。 またいつもの夢想が始まったのか。最初はそう考えていた私でしたが、話を聞くうちに、彼が本気で夢を語っていることがわかってきました。
 

「……いつごろ島を出発するの?」
「次の冬が明けて春になったら……。そうだな。洞窟の滝が全部溶ける頃には出発するよ」
「そう……。それじゃあ、せめてそれまでにクロのトレーニングを積んでおかなきゃね」
「ああ、僕一人じゃ自信が無いから、君もつき合ってくれないか」
「いいわ。約束する。私もクロのトレーニングを手伝うよ」


 彼はクロに悪タイプの技と物理攻撃技を、私はクロに氷タイプの技を練習させました。人間である私たちがポケモンの技を受ける訳にはいきませんから、練習の相手といっても大したことはできません。彼は、新聞紙や段ボールを丸めたものを何本も用意して、「切ってみろ!」とやってました。
 私は、コップに入れた水を地面にこぼしつつクロに技を出させて氷の柱を作らせたり、たまに思いつきで氷中花を作らせてみたりもしました。
 いずれ訪れる旅立ちに備えて、万全の準備をしておくつもりでした。


 仄暗い冬がゆるりと溶けて、気高い凍滝が崩落した頃、とうとう別れの春が訪れました。
 私と彼は、最後にラプラスの王サマに挨拶に行きました。
 王サマはいつもと変わらぬ荘厳な眼差しで、静かに新しいトレーナーの誕生を祝福してくれているようでした。
 王サマの歌う歌を聴きながら、私はそっと目尻を手で拭いました。


 船に乗る彼を見送りに出て、お互いに手紙を交わす約束をした後の、彼の言葉は今でも忘れません。「それじゃあ、また。……ラプラスの王サマにもよろしく」


 旅に出た彼からの手紙は、私が進学のため四ノ島を離れたころに途切れるようになり。
 いつしか、ぱたりと届かなくなりました。
 彼の実家に問い合わせれば無事を確認することは可能でしょうが、私は当面それをするつもりはありません。
 彼が元気で旅を続けていることを信じているからです。
 いいえ、本当は――信じていたいからです。




 ……。
 見知らぬ娘の実らなかった初恋の話など聞かされて、おそらく『何だつまらない』と思われたでしょうね。
 ですが今、私が幼馴染の彼に抱いている感情は、思慕の念というより罪悪感の方が強いのです。
 ええ、そうです。私は、彼にとても酷いことをしてしまったのです。彼には到底打ち明けられないような残酷なことを。 それを語るには、私が今でも時々見る夢の話をした方が良いでしょう。
 その夢を見るのは大抵ひどく疲れた時。何もかも忘れて眠りの世界に逃げ込んでしまおうと思う時です。



 私が最初に見る物は、月明かりに照らされた大海原です。
 ゆらり、ゆらりと揺れながら、暗い海の上を移動していると思うと同時に、私は自分がラプラスの背に乗っていることに気が付きます。
 ラプラスは物悲しい歌を歌いながら、ゆっくりとこちらを振り返ります。そのラプラスの顔は、私と彼が王サマと呼んでいた、一族の主のものでした。
 言い表せない悲しみを湛えたラプラスの目に、私はたまらず問いかけます。

 ……どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの? 時に高く、時に低く、穏やかで澄み切った声で王サマは歌います。

 ――カナシイ、カナシイ、人間は、カナシイね――
 ――時間の流れを止めようとするばかりか、こうして巻き戻そうとするなんて――

 歌の意味を理解した時、視界がにわかに暗転し、世界が音を立てて崩れていくような気がしました。
 バランスを失い、ふらついた体は海の王者の背を離れ、そのまま暗い海の中に沈んでいきました。


 深海の暗さをそのまま映し取った冷たい空間。
 ここは凍滝の洞窟です。巨大な滝は、正に凍滝(いてだき)の名にふさわしく、堂々たる氷の彫刻としてそびえ立っています。
 ですがよく見ると、春の訪れを告げるように、小さな水の流れが幾筋もつたって落ちていきます。あちらこちらに崩落した跡も見られます。その形が完全に失われるまで、それほど時間はかからないのでしょう。 一人の少女と黒猫が、凍りついた滝の前に佇んでいます。

 ――別れを刻む水時計。再び流れ出した時、何かが終わって何かが始まる。終わってほしくない。始まってほしくない。
 ――このまま時間が止まってしまえばいいのに……。

「……クロ、氷の技の練習をしようか」少女はそう呟き、技を使うよう指示を出します。
 黒猫は訝しげに少女を振り返り、やがて滝に向かって冷気を放射しました。『こごえるかぜ』という技です。
 凍滝の表面を滴り落ちていた水の流れが止まります。


 幼き日の自分の幻影を、私はぼんやりと眺めていました。
 過去の記憶というものは、現在の自分の干渉できる領域にはないからです。幻影の少女から私は見えず、私の声も届きません。 ただひたすら、祈るような気持ちで呟きました。

 ――やめなさい。やめなさい。そんなことに意味は無い。小さな黒猫の吐息では、巨大な滝は凍らない。流れる時間は止められない。自分の心を凍らせるだけだ。

「凍っていた滝が全て溶けたころに出発する」と言った彼の言葉を、あまりにも額面通り受け取っていた愚かな自分――滝が溶けなければ彼がいなくならないのではと淡い期待を抱いたのです。
 忘れていた、忘れたかった事実を今になって思い出しました。私は、彼を引き留めたいばかりに、黒猫に技を使わせて滝が溶けるのを止めようとしたのです。
 なんて馬鹿なことを。どうして、旅立ちを素直に祝福してあげられなかったのか……。自責の念ばかりが心に浮かびましたが、どうすることもできません。 今、ここに見えているのはただの記憶の断片――過去を変えられないことは、よく判っています。

 滝に氷技を使うように指示した時の、黒猫の眼差しが脳裏に浮かびました。今も彼と旅を続ける黒猫が、もしも私の指示の本当の意味を理解していたら。それを彼に伝える術を持っていたなら……。
 そう思うと、背筋が冷えます。消えてしまいたい気持ちになります。

 
 この後の結末を私は知っています。凍滝は崩落し、清らかな水は再び動き出します。少女のささやかな抵抗など、まるで初めから無かったかのように。
 氷は水になり、冬は春になり、そして少年は新たな世界へと旅立っていくのです。

 ほら、今にも氷の割れる音がする。冷たい水が、流れる、溢れ出す―― 
 ……そこで、いつも目が覚めます。


 酷くみっともないと思われるでしょうが、私は時折どうしようもなく切なく哀しい気持ちになり、涙を流しながら目覚めることがあるのです。
 心の奥底に沈んでいた澱が舞い、思い出したくもない暗い記憶を写し出すのです。
 私は夢を見るのが恐ろしい。彼に真実を知られるのが恐ろしい。
 そして何より、何もかもを見通している海の賢者の視線に晒されるのが恐ろしいのです。

 
 彼の旅立ちを見送って以来、私は二度と凍滝の洞窟に入ることはありませんでした。
 ラプラスの王サマと会ったのも、結局あの時が最後になります。


 それでも。
 冬の曇天に耳をすませば、今でもどこからか歌が聞こえてくる気がするのです。
 ――(カナ)シイ、(カナ)シイ、人間は、カナシイね――


イサリ ( 2013/07/07(日) 01:30 )