ナナシマ数え歌
【3】木の実の鈴
『三ノ島』には『きずなまつり』というお祭りがある。もともとは違う名前だったが、『きずな橋』の建設とともに名前を改められたのだという。
 きずな橋は三ノ島を構成する大小二つの島――民家の多い親の島と、『木の実の森』のある子の島――をつなぐ橋。

 そんな橋の成り立ちに(ちな)み、きずなまつりは『親子の絆』『人とポケモンの絆』をコンセプトにした祭りらしい。
 祭りを象徴するイベントは、即席の野外ステージで行われる『木の実取りゲーム』だ。
 十二歳以下の子供が一人、保護者(多くの場合父か母)が一人、および籠を持つことができるポケモン(念力は不可)が一匹の、三者一組で参加して、それぞれが藤の蔓で出来た籠を持って木の実を模したボールが落ちてくるのを受け止めるのだ。

 くだらないと思う。本当に、くだらない。
 ……だから、今年そのゲームに参加出来なかったとしても、別に全然かまわないのだ。
 

  ◇◇◇


 夏の太陽に照らされた海を船の上から見つめていた。麦わら帽子をかぶっていても日差しの熱が地肌に伝わる。
 父と母に連れられて、三ノ島の祖父母の家に向かう途中。

「暑いか」と父が話しかけてくる。「そうでもないよ」と私は答える。風を切って進む船の上ならば暑さも不安も紛れるというものだ。
 これから四泊五日、私は父方の実家で過ごすことになっている。父と母は仕事の都合上、明日には本土に帰らないといけない。五日目には迎えに来てくれるという約束だった。

 ――あなたはもう大きいのだから、おばあちゃんの家でも大人しく過ごせるでしょう? 大丈夫よ、何も心配してないわ。
 母の言葉が甦る。
 大丈夫だよ、母さん――母の言う『可愛い笑顔』を浮かべて答えた二日前。
 本当の事をいうと、せっかくの夏休みなのだから本土の他の地方へ旅行に出かけたり、友達と遊園地に行ったりしたかったけれど仕方がない。


 祖父母の暮らす島での五日間の生活。ここには友達もいないし、映画館もショッピングモールもない。
 あるのはさびれた商店街と、森に覆われた離れ小島だけ。これでも周囲の島々の中では最も栄えた島だというのだから驚きだ。

 
 まあいいや、と私は思う。
 この島でできること、この島でしかできないことは沢山ある。
 しかも明日、明後日はお祭りだ。木の実取りゲームには参加できないけれど……そんなのはどうだっていいじゃないか。


 祖父母の家に着き、私たちは丁寧に出迎えられた。島で採れた魚が中心の素朴な夕食を皆で囲んで食べた後、私はなんだか妙に眠くなり、いつになく早めに床についた。
 祖母が私のために敷いてくれた布団は、どこか青くて懐かしい匂いがした。「よく帰ってきたね」と声なき声で語りかけられたような安心感に包まれた。
 寝室と廊下とを隔てる襖の隙間からは、筋状の光が伸びていた。快活な父の声が聞こえてくる。
 明日には本土に帰る父が、酒を飲みつつ祖父母と語り合っているのだろう。
 ……別れを惜しんでいるのだろう。



 島に来て二日目。
 両親を乗せて遠ざかってゆく船の軌跡を見送った。別れ際の会話を思い出す。
 ――本当は寂しくはないの?
 ――いいや、大丈夫。何ともないよ。大丈夫。私のことは気にしないで。

 早く仕事を終わらせてちゃんと迎えに来てよ――とは言わなかった。



 両親と別れた後、私は独り離れ小島にある森に木の実を拾いに行った。沢山拾えば祖母がお菓子を作ってくれる。硬い木の実はクッキーの中に練り込んで、甘い木の実はジャムにしてもおいしい。そのままで食べられる木の実もある。

 木の実を探すには、森の通り道から少し外れた所が狙い目だ。余り離れすぎると帰り道がわからなくなる危険もあるけれど。
 草をかき分け、落ち葉を持ち上げる。中々見つからない。ここらあたりはもう他の人が拾っていったあとなんだろうか……。

 しばらく辺りをごそごそと探していた私は、不意に背後から感じた人の気配に気が付いた。
 はっとして振り返り、足音のした方を見ると、木々の間に紛れるように男の子が立っていた。彼もまた、じっとこちらを見つめている。

 見た目では私よりも二つ、三つ年上。おそらく十四、五歳といったところだろうか。少年と呼ぶべきか青年と呼ぶべきか微妙だが、自分より年長であることを考慮して青年、としておこう。
 青年は、薄黄色の着物を着ていた。
 今時着物? と一瞬疑問に思ったが、そういえば今日はお祭りだったと納得した。

「お兄さんは誰? この島の人?」
 よくよく考えたら、変な質問だったと思う。島の人から見れば私の方が『他所者』だった。
 青年は、首を傾げるように曖昧に頷き、そして口元だけに笑みを浮かべた。不自然な笑い方だ。怒らせただろうか。
 青年が草むらの中からこちらに歩み寄ってくる。私は思わず距離をとった。
 それを見た彼は笑みを消し、二呼吸ほどこちらを見つめていた。やがて地面に何かを置いて背を向け、元の草むらの中に帰って行った。
 青年の姿が木々の間に見えなくなってから、地面に置かれた何かを確認した。深緑に映える赤い実――クラボの実だった。
 

 祖父母の家に帰り、祖母にクラボの実を見せると彼女は「まあ」と目を丸くした。
「綺麗なクラボの実ね。拾ったの?」
 私は頷く。
「それだったら明日ジャムにしてあげましょう。……そうそう、今夜のお祭りには浴衣を着てゆくのでしょう?」
 そう言って、祖母は押し入れの奥から探し出したと思われる水色の浴衣を得意げに掲げた。
 浴衣の海を涼しげに泳ぐ金魚達を見ながら、本物の金魚すくいのある祭りの一角の風景を想像した。
 年に一度のお祭りだ。楽しまなければつまらない。


 きずなまつりは昔はただの夜市だった、と祖母は語った。水路の便の悪かった時代、周囲の島々の中では一際大きな三ノ島に、本土からの品物が年に数回集まる市場。
 船が発達した現代では、屋台が集まり、人が集まり、次第に今のような形になった。きずな橋ができてからは名前が改められて、あたかも『祭り』のように扱われるようになった。実際、三ノ島の若い人々の多くは『祭り』だと思っている。
 けれど、『祭り』とは本来、神を祀り、祈りをささげる宗教的な儀式のことだ。
 だから、きずなまつりは、火の神様を祀る一ノ島の火祭りとは本来毛色が異なるのだ、と。

 難しくて良くわからなかったが、屋台が集まり、人が集まれば、それはもう『お祭り』ではないのかと私は思った。祖母の言う、『多くの若い人々』と同じように。
 それを訊ねると祖母は説明に困ったような顔をした。



 提灯の明かりと、街灯の明かりと、屋台のランプの明かりと……。ほのかに明るく照らされた夜のお祭りの中を私達は歩いていく。
 いいや、これは本物のお祭りではなく、祭りの形をしたマガイモノ――市場の原理と欲望渦巻く闇の中。そう思うと、夏なのに薄ら寒さが這い上がってくる気がした。

 メイン会場からは外れた場所に、少し変わった露店があった。お店の前に置いてある、木でできた大きなフクロウにまず目を奪われた。
 フクロウは私よりも背丈が高く、翼を閉じてガラスの目で夜市を見据えていた。隣には『夜を覗く目――非売品』と書かれた立て札がある。立札には小さく『反対側からのぞいてみてください』とも刻まれていた。顔だし看板のように、反対側から覗けるようになっているのだ。
 私はフクロウの背中に回って少し背伸びし、フクロウの目を通して祭りを見た。
 闇夜に浮かぶ赤、青、黄色、時々緑。道の向いのリンゴ飴の店、少女の浴衣、道を照らすランプの光……。視線を動かせば万華鏡のように色彩が移り変わる。幻想的な美しさに私はしばし夢中になった。


「気に入ってくれたのかい、お嬢さん」 
 店の主と思われる、ふくよかな中年の女性が話しかけてくれた。朗らかで人懐こい表情の中に光る知性をたたえた瞳は、どこかフクロウを思わせた。
「どうぞ。好きなだけ見ていってちょうだい」
 フクロウの看板に熱中していたことが、少し恥ずかしかった。

 看板から離れ、私はようやく店の商品を認識した。
 そこは、木彫りの置物や石細工などの民芸品を扱っているお店だった。

 机に並べられた商品の内の一つをじっと眺めていると、店主のおばさんがにっこり笑って教えてくれた。
「これは、トンボ玉よ」
トンボと言うと、例えばヤンマンマのことだろうか。図鑑で見たヤンヤンマの姿を思い浮かべたが、それとはあんまり似てないように思う。口に含んだら溶けそうな、色の入ったガラス玉だ。
「このトンボ玉は七ノ島のガラス工房で作っているの」
「……七ノ島には、ガラス工房があるの?」
「ええ、個人で経営してる本当に小さな工房だけどね。体験で七宝(しっぽう)焼きのキーホルダーなんかを作ってみることもできるわ。お嬢ちゃんも、お父さんかお母さんと一緒なら作れるわよ」
 何と返したらいいかわからず、私は曖昧に俯いた。
 陳列された商品をしばらく眺めたふりをして、何も買わずに立ち去った。

 メイン会場で行われるゲームの予選を見ることなく、その日は帰途についた。




 島に来て三日目。
 私はまた森に木の実を拾いに行った。本当のところ、祖母にお菓子を作ってもらうのは二の次で、拾うこと自体が私の趣味だった。あっちこっち見て回って、森の宝物のような木の実を草の陰から探し出した時には何とも言えない達成感があった。

 ガサガサと草の根をかき分ける音がする。気配を感じて振り返ると、少し離れた木立の間に昨日の青年が立っていた。
 青年が、ひらひらと手を振った。ただの挨拶だとも解釈できたが、私には『こちらにおいで』と言われているように思えた。
 青年が引き返した草むらの中へ、私は足を踏み入れた。木々の間で、彼の姿はすぐに見つかった。一定の距離を保ちつつ、彼の後についていった。

「あなたの名前は何と言うの?」私は彼に話しかけたが、それに対する返答はなかった。
 道中も、彼は何もしゃべらなかった。「ついて来い」とも「ついて来るな」とも言わなかったが、時折後ろを足を止めて振り返り、私がいるのを確認するような仕草をした。
 目が合った時には私もその場に立ち止まる。彼が前を向いて歩きだした後でついていく。何度か繰り返した。
 まるで『だるまさんが転んだ』で遊んでいるようだと思った。想像すると可笑しさがこみあげてきて、私はふっと笑った。
 青年はまた振り返り、不思議そうな顔をした。


 木々が開けた場所に出た。一面に生えた背の低い草の間に、所々鮮やかな色がのぞいている。
 近づいて見てみると、落ちていたのは色取り取りの木の実だった。
 モモンの実、ナナシの実、キーの実、チーゴの実、オレンの実……見たことのない珍しい木の実もある。
 こんな場所があるなんて。おそらく地元の人も知らない秘密の場所だ。

「ここの木の実は拾って帰ってもいいの?」嬉々として問いかけると、青年は満面の笑みで頷いた。
 彼に手伝ってもらいながら、鞄がいっぱいになるまで夢中で木の実を拾った。これを見たら、きっと祖母も喜ぶだろう。


 時間を忘れる楽しさの中、一つだけ気になることがあった。
 青年が何もしゃべらないのは、酷く恥ずかしがり屋だからだと最初は思っていた。だが、次第にそうではないような気がしてきたのだ。
 頷き、首を振り、指し示し……身ぶり手ぶりで、むしろ積極的にコミュニケーションを取ろうとしているように感じた。
 ああ、きっとしゃべらないのではなく、しゃべれないのだ――と思った。名前も知らない、年上の人間を初めて気の毒に思った。

 そんな私の思いを知ってか知らずか、青年は穏やかな微笑みを浮かべてこちらを見つめてくる。昨日感じた不気味さは、不思議と消え去っていた。






 下駄を鳴らして夜市を歩く。
 祖母の手を引き手を引かれ、歩いた過去が甦る。


 昨日と同じ場所に、その店はあった。木彫りのヨルノズクは今日も祭りを見つめている。
「あら、いらっしゃい」私の顔を覚えていてくれたのか、おばさんが笑顔で迎えてくれた。
 昨日とは微妙に違う商品が並んでいる。いや、気がつかなかっただけで、ホントは昨日もあったのかも……。
 森の木の実によく似たそれを何となく眺めていると、おばさんが目を細めて解説を始めてくれる。昨日と同じでほっとした。


「これはね、お隣の小島で採れた木の実で作った鈴なのよ」
 お守りでもあるんだよ、とおばさんはいった。
 並べてある鈴のうちの一つを手に取り、耳元で鳴らしてみた。
 からん、ころんと鈴らしくない音がした。硬い木の実の殻の中に小石でも入れてあるのだろうか。なぜだか心が落ち着く音だった。


「この鈴をください」
 鈴をおばさんに渡そうと差し出した瞬間に、背中に衝撃を感じた。誰かにぶつかられて、私は机の上に鈴を取り落とした。咄嗟に後ろを振り向く。


「オニさんこちら、手の鳴るほうへ」歌いながら、二人の少年達が駆けていく。
 自分に言ったのかと腹が立ったが、すぐにそうではないことに気がついた。二人の後を追って、もう一人駆けてくる。
「テッちゃん、ショウちゃん、待ってよお」後を追う少年は、先に走って行った二人よりも年下に見えた。
 当たり前だが、オニの役の子供は目隠しはしていなかった。人の集まる場所で視界を失ったまま走れる訳は無いのだ。
 そういえば、逃げていた二人も、実際には手拍子をしていなかった。ただふざけて囃し立てていただけなのだろう。


「あらあら、どこの子かしらねえ」
 困ったものね、とおばさんはひとりごちた。


 祭りから帰る途中、メイン会場に寄って木の実取りゲームの経過を覗きに行ってみた。
 ちょうど行われていた準決勝では、十歳くらいの少女と、優しげな眼鏡の男性と、ゼニガメのチームが落ちてくるボールと奮闘していた。
 二人と一匹の籠に入っているボールの数から判断すると――このゲームは参加者の年齢によるハンデや、ボールの種類による点数が細かく設定されているのであるので一概には言えないのだが――どうやら対抗に比べ劣勢のようだった。
 その親子の健闘を心の中で祈りつつ、家路についた。






 島に来て四日目。
 マガイモノの祭りとはいえ、終わってしまった後には吹き抜けるような寂しさが残る。
 お祭り会場は道路に戻り、お昼過ぎには車が行き交う。
 片づけ途中の祭りの跡を通り抜け、私は木の実の森に向かった。



 森の入り口で待っていたのは、物を言わぬ青年だ。手招き、頷き、細めた目――何を伝えようとしているのか、今ならもうわかる。
 青年が、昨日の秘密の場所に案内してくれた。今日も鞄がいっぱいになるまで木の実を集めた。

 楽しい時間は矢のように過ぎ、青年に別れを告げなければならない時が迫っていた。
「私、明日には帰らないといけないの」
 青年は少し驚いたように目を開き、おずおずと手を振った。誰でも知っている『お別れ』の挨拶。
「来年も、お祭りの時期にこの島来たら、また会うことができる?」
 青年は首を傾げる。また会える保証はないという意思表示。
 やっぱり、と私は落胆した。今年の祭りにあったお店が来年もその場所にあるとは限らないのと同じだ。今年この場所で彼と出会ったこともおそらく奇跡に近い確率だろう。
 そもそも、ちょうどお祭りの時期に島に来られるかどうかさえわからない。連絡の取りようもない。ここで別れれば、きっとそれで最後。再び出会うことはないだろう。
 ひんやりとした森の中で小鳥のさえずりを聞きながら、帰りたくないなあ、と考えていた。

 青年が、両手のひらをこちらに向けて『ちょっと待って』と動作で示した。私が頷くと彼は木々の間に消えて行った。
 一人残された私は、無意識に森の入り口のある方向を確認していた。
 もう連れてきてもらうこともないかもしれないから、一人でもこの場所に来ることはできるだろうかと算段していたのだ。普段人間が足を踏み入れることのないだろう、少し怖くて美しいこの場所に。
 ここに来れば、また彼と会えるのだろうか。来年になっても、大人になっても。
 取り留めのない思考が次々に浮かんでは消えていった。

 しばらくして、彼が戻ってきた。右手の中に何かを大事そうに持っていた。
 まっすぐに差し出され、私の両手のひらにぽとりと落とされたそれは、木漏れ日を反射してきらきら輝いた。
 森の中で取れたとは思えない、大粒の真珠だった。驚いて、私は問いかけた。
「……いいの? これを私がもらってもいいの? きっと大事なものなんでしょう?」
 青年は目を細めて頷き、手をひらひらと振った。
「……ありがとう。大切にするね……忘れない……ずっと忘れない。この真珠を見て思い出す」
 言いたいことは胸の中に溢れてくるのに、声に出そうとすると言葉の網をすり抜けてこぼれ落ちていく。伝えたいことの半分も伝わらないようでもどかしい。
 思いというものは無理に言葉にせずとも目と目で見詰め合ったほうが、かえって伝わるものではないのだろうか。元に青年は、一言も話すことができなくても、意思の疎通をする術を知っているかのようだ。
 沈黙の中、時間だけが流れた。

 一つ、二つ、大きく息をすると少し気持ちが落ち着いた。ありがとうともう一度呟き、手持ち鞄の中に真珠をしまおうとした。
 真珠を包むためのハンカチを探そうと鞄に手を入れた拍子に、何か青い物が地面に落ちた。からから音をたてて転がる。
 ああ、何をやっているんだろう。鞄に物を入れすぎだ。
 地面に落ちたそれを拾い上げ、照れ隠しの笑みを浮かべて彼の表情を見た瞬間、私は凍りつくことになる。
 

 見開いた目、引き結んだ口元。恐ろしいものを見るような、怯えきった表情だ。
 緊迫した彼の視線の先にあるのは、何の変哲もない木の実の鈴だ。彼が何を怖がっているのか、さっぱり分からず不安を覚えた。

「……どう、したの? 何か、あった?」

 青年は答えない。目をそらしたくてもそらせないのか、眉間に刻まれた皺が深くなった。
 なぜ、そんなに鈴を恐れるのだろう。

 ふとある思考が脳裏を過ぎった。
 今になって思えば。その鈴の材料となった、青く硬い木の実だけは、青年のくれた色取り取りの木の実の中にはなかった。
 これだけ木の実の豊富な森ならば、混ざっていても決しておかしくはなかっただろうに。そう言えば、この森で取れた木の実で作ったと、ヨルノズクの店のおばさんも語っていたではないか。
 ごくありふれた木の実――眠りを醒ます『カゴの実』の鈴は。

 鈴につながった紐を手首にかけたまま、鈴本体から手を離した。
 空中に放り出され重力に従って落下を始めたカゴの実の鈴は、しかし、赤い紐に繋ぎとめられる。
 からんからん、と音が響いた。


 ぐにゃり、と空気が歪んだ。瞬きの後、捩れた空間の向こうに見えた姿は、首周りに白いたてがみを生やした金色の獣人だった。
 ――幻術が解けた。
 幻を見ていた。見せられていた。

 瞬間、怖い、と思った。自分に術をかけていたこともそうだが、術をかける能力を持つことそのものが怖かった。
 得体の知れない、『知性の有りそうな生き物』は理屈抜きに恐ろしい。

 私の持つ鈴が揺れて、獣人の持つ振り子も揺れる。一瞬の沈黙。
 空気がもう一度捩れ、薄黄色の着物を着た青年の姿が現れた。今にも泣きだしそうな悲痛な表情だった。

 ……見てはいけない。これ以上目を合わせていてはいけないんだ……!
 薄っぺらい本能が悲鳴をあげる。

 叫び出したい気持ちを抑え、青年の皮を被った獣人に背を向けると森の入り口に向かって全力で走りだした。


 追いかけてきたらどうしよう。捕まったらどうしよう。
 そんな心配をよそに、獣人が追ってくる気配はなかった。
 ただ叫びだけが、いつまでもいつまでも纏わりついてきた。

 巧みに幻術を操る獣人も、人語だけは操れなかったのだろうか。彼の喉から発せられる咆哮は、まるっきり獣のそれだった。


『正体を明かすつもりは無かったが、危害を加えるつもりも無かった。一緒に遊びたかっただけなんだ。どうか、信じて』と人間の言葉で叫ばれたなら、私はそれを信じただろうか。
 ……いや、きっと信じられない。何も信じたくない。


 森の奥に反響する獣の慟哭を聞きたくなくて、私は両手で耳を塞いだ。
 ばくばく打ちつける心臓と、からから笑う鈴の音が、頭蓋を伝って響いた。


 いっそのこと、目も瞑ったまま走れたらいいのに、と思った。



イサリ ( 2013/07/07(日) 01:29 )