【序】
『一つ、火の鳥舞い降りて
二つ、藤の葉 縄跳べば――』
私は、生まれ故郷へ向かう船に乗っています。
◇◇◇
物心ついたころ、私はその島にお母さんと暮らしていました。
近隣の島々の中でも一際小さなその島には、生活物資を買いそろえるためのお店も十分になく、私はお母さんとよく隣の大きな島に船で買い物に出かけていました。
小さな島の雑木林には、『長老』と呼ばれるフシギバナが住んでいました。
長老は、背中に咲かせた南国の花を揺らせ、木々を震わせて、のしのしと歩きます。
そして、昔大きな木が倒れた跡だという、陽の当たる林の広場でのんびりと日光浴をするのを好んでいました。
彼の前では、獰猛な鳥も食事ができません。彼の回りにはいつも小さな虫ポケモンや草ポケモンが集まってきました。
長老のくすんだ色の瞳には、ポケモンも人間の子供も同じように映ります。
島の子供たちは彼にもたれて昼寝をし、彼の
蔓で大縄跳びをして遊びました。
静かな雑木林の広場では午後の時間はゆったりと流れ、幼心にも満ち足りた日々でした。
やがて、お母さんと私は、本土にある街に引っ越すことになりました。
毎日船で通っていたお隣の島の学校から、都会の学校に転校しました。
そのかわりに、それまで月に数度しか会うことのできなかった、都会で働くお父さんと毎日一緒に暮らせるようになりました。
都会では、新しい学校では、驚くことばかりでした。
同じ制服を着た何百人もの生徒が、体育館できちんと整列しているのを初めて見た時には目眩がしそうになりました。
私の通っていた島の学校には、同じ年の子供は両手で数え切れるくらいしかいなかったのです。
困難はあったものの、転校から二ヶ月が経つころにはクラスの中になんとか溶け込むことができました。
運動会が近づき、クラスで縄跳びが流行ったことがありました。大縄跳びなら、私はとても得意でした。島ではいつも遊んでいましたから。
休憩時間、私は思いつきで、「次は数え歌に合わせて跳んでみない?」と提案してみました。
「数え歌って何?」友人の一人が訊ねてきます。
「一つ、火の鳥舞い降りて……」
少し恥ずかしかったのですが、数え歌の出だしを歌ってみました。
クラスメイト達は顔を見合わせ、そんな歌は知らないよ、といいました。
下校途中、友人たちと別れ、家の近くの公園に向いました。
自分一人だけでも、数え歌に合わせて跳んでみようとしたのです。
安っぽいビニールの縄を持ち、地面を蹴ります。
けれど、大縄跳び用に作られたその数え歌は、一人で跳ぶには遅すぎて、かといって倍速で跳ぶには速すぎます。
何度か試してみた後、諦めました。
「お母さん」
それでもどうしても納得できなかった私は、家に帰ってお母さんに訊ねてみました。
「なあに」
「どうして本土の子どもは、数え歌を知らないの」
お母さんは野菜を刻む手を止めて、こちらを振り返りました。
「そうねえ。あの数え歌は私たちの住んでいた島のわらべ歌だからね。
あなたが知っていて友達の知らないこと。逆にあなたが知らなくて友達が知っていること。色々あるけど、きっとそれでいいのよ」
それから、少し難しい表情で、「お友達を『本土の子』なんて呼んではだめよ」と付け加えました。
ある晩、私は夢を見ました。
夜の林の中、慣れ親しんだ歌に合わせて、誰も跳ばない縄を回している夢です。
『一つ、火の鳥舞い降りて
二つ、藤の葉 縄跳べば』
縄のもう一方を回しているのは誰なのか、雑木林の陰が深いのでこちらから伺うことができません。
『三つ、実のなる木の森と
四つ、夜降るいただきの』
『五つ、――』
縄が、空しく地面を打ちます。唇は、平たく開いた形のまま、わななきます。
この詩の続きが、どうしても思い出せないのです。
腕を振り上げた瞬間、右手から縄がすり抜けました。あっと思う間もなく、放られた縄は木々の間に消えていきます。
闇の中、大きな気配が遠ざかります。
――待って。
そう叫ぼうと歪めた口は、ごうと鳴る音に遮られました。
風が暴れる。
島が震える。
木の葉も草も、根こそぎ奪う。
私は独り、枯木立の中に取り残されました。
夢から醒めて、説明のできない悲しみに襲われました。気が動転して寝床を飛び出し、母の布団にもぐりこみ、しがみつきました。
嗚咽を漏らしながら自分の見た悪夢を語る私に、お母さんは、慰めるように優しく頭をなでてくれました。
「大丈夫、大丈夫。夢を見て、怖かったのね。大丈夫。恐ろしい怪物はもうどこにもいないのよ」
――もうどこにもいない。
その一言が胸を締め付け、次から次へと涙が頬を伝いました。
夢に深い意味や理由を求めるのは無意味だと、今ではわかっています。子供の見た夢ともなればなおさらです。
ですが、あの日に見た夢だけは、どうしてもただの夢だと思うことができませんでした。
私は林の中の怪物が怖かったから泣いたのではありません。
お前の属する場所は此処ではないと、きっぱりと拒絶されたような気がしたのです。
それまで確かに自分を構築していたはずの何かが、バラバラと剥がれて落ちてゆくような喪失感を覚えました。
月日は流れ、友人たちが『本土の子』ではなくなっていくのと同じように、私もまた『島の子』ではなくなっていきました。
心を苛んだあの日の夢も、いつしか薄れ、崩れて、記憶の中に紛れていきました。
あの夢を見てから数年後の、気だるい土曜日のお昼時。人懐こい子犬ポケモンが足元に纏わりついて来るのを避けながら、テーブルに食器を並べる手伝いをしていた時のことです。
何気なくつけっぱなしにしていたテレビから、ふと懐かしいメロディーが聞こえてきました。
まぎれもなく、幼い頃に歌った、あの島の数え歌でした。
私がテレビに駆け寄った時点で、歌は既に第三フレーズまで進んでいました。四、五、六……と流れてゆくのを夢見心地で聞きました。
言葉の一片一片が沁み込んで、胸に空いた隙間を埋めてゆくような不思議な感慨に包まれました。
私は数え歌の本当の歌詞と、歌い継がれた理由をようやく理解したのです。
――ああ、忘れていただけじゃなくて、間違えて覚えてたのか。
間違えていた部分は古い言葉であり、口伝えで覚ていたので無理はないかもしれませんが、子供の記憶とはいい加減なものだ、と思わず笑みがこぼれました。
◇◇◇
『一つ、火の鳥舞い降りて』
私は、生まれ故郷へ向かう船に乗っています。
『二つ、藤の葉 縄跳べば』
幼い頃に歌った数え歌を口ずさみながら。
『三つ、実のなる木の森と』
この歌は言わば道しるべ。島々の地形と成り立ちを覚えるための言葉遊び。
『四つ、夜
経る
凍滝の』
祖父母の家を訪ねた後は、歌の中に伝えられる情景を、順番に見て回ろうと思います。
『五つ、いつかの迷い路』
私は最早島の人間ではありませんが、一時の旅人ならば島はきっと受け入れてくれるでしょう。
『六つ、昔の文字残る』
水平線の彼方から、懐かしい島々が見えてきました。
『七つ、七日で出来た島』