北風
故郷の村の奇妙な風習に、私は幼い頃、一度だけ立ち合ったことがあります。
当初祖母は呆れ、子供にとって面白いものではないよと説き伏せようとしましたが、ついには宿泊を許可してくれました。
都会で育った自分にとって、信じられなかったのです。
村の人々がそろって活動を止め、日中家に閉じこもるという風習が。
暦の上で冬が始まるその日、村に住む人間はほとんど家から出ることはありません。
冬の訪れを告げるかのように、村に北風がやって来るからです。
家にこもるのは強風から自分の身を守るためでもありましたし、何より北風の邪魔をしないため、北風の姿を見ないためでもありました。
北風は空から降りて来て、神獣の姿を借りてそこら中を走り回り、一年の内に降り積もった穢れを浄化してゆくと考えられていました。
人々は土に蒔かれた種のように、ただじっと家に閉じこもり、新しい季節の到来を感じるのです。
いずれ訪れる芽吹きの時を夢に見ながら。
締め切られた雨戸がカタカタと音を立て始めると、それが北風の訪れる合図でした。
薄暗い部屋の中、私はひんやり冷たい漆喰の壁にもたれて息をひそめ、隣に座る祖母の手を握っていました。
ふと気になって、祖母に北風の姿を見たことはあるか、と尋ねてみました。
彼女は一瞬表情を曇らせ、一度だけな、とそっと私に耳打ちしました。
あれは、わしがちょうどあんたくらいの娘だった時分。
薄暗い部屋で時間を持て余したわしは、好奇心から雨戸を開けて外の様子を見ようとした。
雨戸は細く、ほんの少しだけ開けるつもりだった。だが扉は人ならぬ力で一気に開け放たれ、風や枯葉や、細かい水滴が部屋に舞い込んできた。
咄嗟に顔を両腕で覆い、わずかな隙間からその姿を垣間見た。――風雨の中心で青いたてがみをなびかせ駆ける“北風”の姿を。
突然、ごうと鳴る音と共に風が強まり、わしは目を開けていられなくなった。
暗闇の中、荒れ狂う風と自分の鼓動を感じた。どれほどそうしていただろう。一瞬であった気もするし、半刻も時が流れたような気もした。
そして、再び目を開いたとき、そこに北風の姿は無かった。風は治まり、やがて雲は掻き消え、澄み切った空が現れた。
大気をも揺るがす神の力を目の当たりにし、わしはただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
その年は、いつもより早く北風が去ったと皆は不思議がっていたよ。
……あんた以外に話したことはないが、申し訳ないことをしたと今でも悔やんでおる。
祖母の話が終わると、私は静かに目をつむり、家の外で吹きすさぶ風の音に耳を傾けました。
かすかに感じた北風の気配は、泉よりも清らかで、瀧よりも荘厳でした。