それでも前を向いて
「はあ、もう……やんなっちゃう」
リコリスは指先でつまんだ書類をピラピラと揺らして嘆息する。
人仕事を終えて風呂上がり、寝間着姿のリコリスは普段さらされることのない前髪をわけて瞳を細めている。
「きな臭いのよ、警察ども」
今回の案件では警察の動きが不審すぎる。ギフトの発見もだが異常に早かった。閉店後の店だというのに一人暮らしのギフトの異変にすぐ気づくなんて怪しいにも程がある。証言もほとんどない。これでよく警察も動いたものだ。
「リーグの意向はガン無視……信用したいけど、心象が悪すぎるのよ」
リコリスはこの地方の警察を信用していない。過去の事件でもそうだが無能を通り越して不自然すぎるのだ。
「国際警察への連絡はしたけれどあれが動いてくれるかは未知数……リーグ側がレグルス団を手元に置いておきたいし、対立するのは間違いないのよねぇ」
急ぎの確認で四天王たちへの意向を確認した時もリーグへの引き渡しという希望が出た。だが、警察側は有無を言わさず引き取ろうとしてきて増々不審さに拍車が掛かる。
「うーん……穿ちすぎかしらぁ……ぶっちゃけどこが信用できるかわからないのよねぇ。ああ、もうやだやだ」
一番信用できるのはリーグ。ただ、犯罪行為が大きすぎてリーグ預かりにするには時間がかかる。できることなら早めにこの地から引っ張り出したいのだが、リコリスは慎重に、何が最善かを考える。
「明日は忙しくなりそうねぇ……」
警察側とリーグ。上手い落とし所を見つけられるといいのだが。
「あー、もうっ! 負の遺産を押し付ける老害どもは死ぬ前に片付けなさいっての。汚職どころか乗っ取り疑惑なんて最悪よぉ」
パラパラと今回の事件の調書を見る。リジアの持っていた携帯端末はデータが破損していた。修復できるか確認してみたところ予め条件付きで全データが抹消されるようになっていたらしく、難しいとのこと。ここから手がかりは得られない。
そして、リジアから押収したポケモンは5匹。
「……警戒はさせているけど、今夜の内に動くかしらねぇ」
リジアの手持ちが8匹で、通常より多いのは把握していた。だが、内2匹はテレポートで他の面々と逃亡している。ので、本来は6匹いないとおかしい。押収したポケモンは別室にいるがここで厳重に管理できないのがリコリスにとっては腹立たしい。
ポケモン愛護団体が犯罪者の手持ちに対する扱いに抗議するのは昔から多々あること。ギリギリうるさくされないラインではあるが、今の管理方法だと下手したら隙をつかれる。
しかも少なくとも今夜の見張りは警察たちが担当している。
「もういっそ周りの声とか気にしないでやっちゃったほうがいいかしらぁ……」
立場や責任がある者は成功するのは当たり前。失敗すれば恐ろしいほど叩かれる。じゃあ失敗しないために無茶を通すとどうなるか。もちろんバッシングだ。
特にリコリスは過激なので少しきつめのことをするだけで恐怖支配だなんだと言われてしまう。
ポケモンは知能の高い生き物だ。人間の言葉を理解して動く、扱いを間違えれば危険な存在でもある。もちろん、大多数が正しく向き合えば彼らもまた善良で優しい生き物なのだが悪党が誤って扱うと犯罪者のいい道具でしかない。
特に、リジアの手持ちで押収されなかった1匹は。
「クレッフィなんて厄介なものを逃がすなんて最悪よぉ……」
けむりだまを使われたあの一瞬、逃げる下っ端に気を取られてクレッフィを見失ってしまったのは完全に失態だ。リジアはもうあの時点で自分は捕まることを想定していたのだろう。
――鍵を集める習性を持つクレッフィ。気性は穏やかだが盗みを平然と行うことでも有名だった。
――――――――
リジアは独房で平然と休んでいた。その姿はもはや慣れを感じさせる風格で、少し眠そうに欠伸をする。
見張りはいるもののこちらに一切関わってこようとしない警察官。
正直、ジムリーダーが直々に見張るとかされなくてよかったと少しだけ安堵していた。
(甘いんですよ。どうせポケモンにはろくな見張りも拘束もしてないんですから。こればっかりは愛護団体様様ですね)
刃物は凶器にもなるがだからといってその刃物を囚人より厳重に警戒することはしない。ポケモンもそうだ。使い方次第で凶器にもなる。
(どうせ警戒されているのはクレフだけ。まあさすがにわざとらしすぎましたから仕方ありませんが)
実力で勝てない以上、相手がどう考えるかを先読みして事前に手を打つ。あの場で手持ちを全員押収されたとしてもやることは変わらないだろうが念には念をだ。
(さて、時間はわかりませんがそろそろですかね)
二人いる警察官のうち一人をリジアは控えめな声で呼びつけた。
「ちょっと。寒いので毛布か何かいただけます? まさかなにもなしに寝ろと。刑務所でももっと扱いがマシでは?」
嫌味たっぷりに独房を示す。毛布はおろかベッドもない地べた。元々一時的な収容スペースなので設置されていないようだ。
警察官の一人は渋々だが毛布を取ってくるために一旦その場を離れる。
一人になった警察官が警戒するようにリジアに注視していると、肩に白い何かが付着して振り返る。
「キノガッ――」
警察の背後に立っていたキノガッサのキノコのほうしで崩れ落ちるように眠り、キノガッサと目を合わせると身を隠すようにキノガッサはもう一人が戻ってくるのを待つ。
「おい、今何か……」
音に気づいたのか毛布を片手に戻ってきた警察が声をかけるがそれもすぐにほうしによって眠ってしまう。
「キヌガ、よくやりました」
キノガッサは警察の懐をあさって鍵を見つけるとリジアの方へとよって鉄格子の鍵を開ける。
「いい子ですね。さて、逃げましょう」
独房のエリアから抜けるとすぐ近くにポケモンを押収していたであろう部屋が見つかる。そこの見張りと見張りの手持ちも意識を失っており、そのうち目覚めるだろうと足早にその場から離れる。
ほかの手持ちも見張りを潰すために先に動いていたのか逃げた先で合流し、クレッフィを除いて手持ちが揃った。
「はっ、いい気味です。ポケモンはボールに入れておけば大人しくなるわけでも、主人がそばにいなくても、自分で考えて動くんですよ」
建物から抜け出して人目につかない裏路地を進むとクレッフィが音を立てないように近づいてくる。
「クレフ、町から抜けるルートは確認してくれましたか?」
「ふぃー!」
「さすがです。案内お願いできますね?」
クレッフィそのものが警戒されるであろうことは察しがつく。その習性を知っていれば逃亡するために利用すると思われる。だが、クレッフィでなくともよく訓練してあるポケモンならその程度たやすく、厳重な管理もされないのは予想できた。
もちろん、杜撰な逃亡なのですぐに気づかれる。早く逃げて、森などに身を隠そうとプランを練る。
ふと、リボンがほどけかけていたのを結び直すと、そのリボンの送り主のことを思い出す。
「何をバカなことを……」
もやもやとあの告白が頭に焼き付く。
嬉しい嬉しくないという問題ではなく、単純に意味がわからない。
「嫌い……」
ぽつりと呟いた言葉は闇に溶けて消え、リジアは駆け出すも、背後にいた何者かに気づくことはなかった。
――――――――
薄ぼんやりとした空間に立っている。
明確に意識したのは視界に何か蠢くものが見えた瞬間。
なぜか夢だとはっきり感じて異常なことも受け入れるような気持ちと、ここから早く離れないといけないという焦燥感がせり上がってくる。
黒いもやが迫ってくる。それに近づいてはならないと本能でわかっているのに足がうまく動いてくれない。
【お前は何者だ?】
問いかけの意味を測りかねている。
「俺は……安島弘樹あじまひろき――」
自然と口から出た名前に違和感が生じた。あれ、自分のことなのになぜかよくわからない。
自分の手のひらを見つめる。何者かなんて、考えたこともない。俺は、誰だ?
両親は共働き。兄弟はいない。学校でも特別なことなんてない普通の――
「違う、それは前の俺だ」
今ここにいるのはそれじゃない。もう終わってしまったことだ。
「俺は……ヒロ……コマリタウンのヒロだ」
言い聞かせるように呟くと黒いもやは離れていく。
何がしたかったのだろう。忌避感は未だあるもののその行動に悪いものは感じない。
ただ、この夢を見ていると自分を見失ってしまいそうで不安は消えない。前の俺の記憶が今の俺を覆い隠してしまいそうだ。
のろのろと動く足を引きずって果ての見えない世界を彷徨う。
時折、自分のように彷徨うような人影が見えたが互いに声をかけることもせず過ぎ去っていく。世界に一人きりになったような錯覚に、この不可解な状況に対する思考が削がれていく。
ふと、後ろを向く。
そこは教室だった。授業が終わり、部活に向かう者もいればすぐに帰ろうとする者、そして、委員会の仕事をする者。
その様子を俺は幽霊にでもなったような視点で見ていた。
そう、そこには俺がいた。正確には俺ではない。前世の俺だ。
3DSの電源を入れ、すれちがい通信のためかそのまま閉じてカバンに放り込んでから教室を出る。偶然、廊下で知った顔を見つけて声をかけるために立ち止まった。
「あ、葉月はつきじゃん」
「げっ、安島あじま先輩……」
露骨に嫌そうな顔をした後輩に前世の俺はヘラヘラと話を続けた。
「なー、新しくPT構築したから付き合ってくんね?」
「俺ガチ勢じゃないんで」
学校内でゲームの話題をできる相手がこの後輩くらいだったのを思い出す。委員会つながりで知り合ったのだが、今思えばあまり好かれていなかったのかもしれないと、表情を見て思った。
「いやいや、全然ガチパじゃないから。サンムンポケモンオンリーで改めて組んでみた。」
「バンク解禁したばっかでよくやりますねあんた……。どーせカプかミミッキュ入れてるんでしょうが」
「カプは封印してみたからさー。やろうぜー」
「俺この後用事あるんで」
このやり取りをの後に起こることを、俺は知っている。
「んじゃまた今度なー」
当たり前のように次があると思っている前世の俺を追いかける。夢というより、記憶を見せつけられているのだと、背筋を這う悪寒に手が震えた。
学校を出て、帰りに本屋にでも寄ろうと駅前に向かう。その途中。小学生だろうか。男の子が母親にわがままを言って地団駄を踏んでいる姿が目に入る。
母親が先に行ってしまい、男のが泣きながらその場にとどまっている。よっぽど欲しいものでもあったのか、と呑気に見ていると母親を追いかけようとして赤信号を突っ切ろうとする。
妙に世界がゆっくりとなったあの時の感覚を思い出す。危ない、と体が勝手に動いていた。
やめろ、と今の俺が言っても無駄なのはわかっているのに、自分がこれからどうなるかを知っていると思わず自分を引き留めようと腕が伸びた。
しかし、前世の俺の腕は霞のようにすり抜けてしまい、その直後に起こるあの瞬間を第三者の視点で見ることとなった。
子供を庇って、車に轢かれる。
そんな物語にありがちなことをやって前の俺は死ぬ。
車と衝突した瞬間、俺自身の体が痛みを訴え、息が苦しくなる。まるで、死ぬ前の自分を追体験しているようで、その場にしゃがみこんだ。
この瞬間、まだ俺は生きていた。
周りの人間が交通事故ということでかざわついて救急車を呼んだり、通報したりする者や野次馬根性丸出しものまで様々だ。飛ばされたカバンから3DSが飛び出しており、子供は泣きわめく。
痛い、痛い、痛い――!
もう終わった記憶。もうすぐ死ぬ、前世の俺。
痛みも、死ぬ瞬間の後悔も、全部忘れていた。ただ漠然と死んだことしかわからなかったのは自分の身を守るためか。夢が現実を押し付けるようにかつて自分が死ぬ瞬間を見せつけてくる。
自分でやったこととはいえ、見ず知らずの子供を助けてまで死ぬ必要が本当にあったのか?
どうしようもないことなのにただただ後悔というドス黒い感情が湧いてくる。
蹲って襲ってくる過去の痛みに耐えているとぷつりとその痛みが消える。
楽になった呼吸を整えてあたりを見渡すと、そこは見覚えのある景色だった。
今の俺が、生まれ育ったコマリタウンの小さな公園。そこに立つ俺はさっきの記憶と同じように幽霊のように第三者視点で見ているのだろう。
横切ったのは青い髪をみつあみで束ねた少女。俺は何者にも見えない存在だから当たり前だが少女は真っ直ぐある場所へ向かう。
思い出した。埋もれていた今の俺の過去。
「ひーろーくーん」
少女が呼ぶのは幼い自分。そちらを見ると昔の俺は嬉しそうに手を振っていた。
少女の後ろ姿に手を伸ばすがその手は届かない。これは、もう終わったこと。再生される記憶でしかない。
忘れてはいけないことだった。
『ヒロくん』
自分を呼ぶ、大切な少女のことを。
『ヒロくん。大人になっても私を忘れないでね』
――そんな約束すら守れない俺への罰なのかもしれない。
『昔の記憶がないんです』
「シオン!」
彼女の本当の名を叫ぶも夢に溶けて消えるだけで現実の彼女リジアには届かない。
リジア――シオンがはにかむように笑う。
11年前のあの時、何があったのか。