想像感応
あなたに想像できない世界はあるだろうか。
結論から言うと、あなたの想像した世界が、あなたの想像できる世界であり、他人の脳内を読むことはできない。
つまり他人の脳内をあなたが想像することはできない。
おそらく大半のプレイヤーの中に、これが前提として存在する。
あなたは経験から、既に発売されているゲームの内容を知ることができる。
それはあなたの中にある。しかし、あなたはそれを確信ではないと考えている。
これが確信に変わるのはいつだろうか。
体感というものがある。
自分の感覚、汗の噴きだしや、血流、体温の変化を起こすリアクションの発生だ。
これは本来、人が反射的に起こすものである筈なのだが、何度も同じ展開、同じシチュエーションを感じるごとに、人はこれに飽き始める。
すると、ここに偽証が生じる。
感動したフリをするのだ。
似たようなことは前にもあった。
この後はどうせ、こういう台詞を言う。
別の作品で見たことがある。
心ではそう思っている状況だが、おびただしい批評の中に生きている世の中は、イエスかノー、どちらかのリアクションを常に求めてくる。
つまらない、と口に出しては言えない状況も存在し、結果的に、無理に泣く技術を会得したり、歓声、雄叫びが必要以上に大きくなったりするが、感動のコミュニティ社会に生きている人間には、これは必要な事になってくる。
はた目に共感はしているが、心は飽き枯れてしまっている。
これは予想内の事態だろう。
しかし次第に、これを超える事象が発生する。
想像による感応である。
これから自分に起こるべき事態、待っている体感、感動を、起こる前に既に体感してしまえる事だ。
冒頭で説明したように、他人の脳内を想像できないことが、他人の作品に踏み入る一つの理由なのだが、そもそものこの理由が、感動を偽装した人間には、意味をなくしてしまっている。
偽装的に感動が可能であり、感動が想像できるのだから、そもそもゲームをプレイする必要が消えていくのだ。
ゲームによっては、ランダムメーターというものが設定されている。
テーブルゲームで言うところの、サイコロのシステムだ。
数値をランダム化し、決まった数値をこちらが設定できない状況を作り出すのである。
だがこのランダムシステム、実のところ、大半の人間がゲームに抵抗を示し出す最大の理由でもある。
元々、コンピューターゲームとは計算機であり、落下しない飛行機を作る為の複雑な角度計算、もとい予算の削減などに用いられるものであった。
シュミレーションであるのだから、予測できない自体は必要かと思われるが、例えばゴルフ。
ランダムメーターは風向きや天候に利用される。フルオート(全自動)で機械がやってくれる場合には、すかさず最適な角度でボールを飛ばしてくれるが、ここに人間の手が入ると、微妙な調整は手作業になってくる。
プレイヤーはマシーンほど精密ではない。何度も挑戦し続ける。
ゲームセンターに置けばみるみるうちに機体横にコインは積み上がり、財布の底も見えてくるだろう。
そのうちにプレイヤーは気付く。
なぜ自分はゴルフなどやっているんだ、と。
これは一昔前の光景かと思っていたのだが、どうも20世紀末まで続いていきそうだ。
今が単純なポンやアルカノイドの時代なら人も飽きを学習していった筈なのだが、カーレースやダンスゲームなんかになってくると、人は体感を偽装的に会得する前に、自分からその一歩を踏み出すだろう。
さて、人が自ら感動を想像し、それが感覚にまで及ぶ想像感応。
そしてこの、人間の土壇場を機械的に生み出す、ランダムの計算式。
この二つはどちらも、シュミレーションという舞台の上で生まれた、一方は感覚的な、一方は物理的なゲームであると、自分は考えている。
前者などは、あたかも、脳内にゲームをインストールし、自ら涙腺や心臓をコントロールするゲームを行なっているかのようにも見える。
皆さんはどうだろうか。貴方がやっているのは、誰の、何の為のゲームであるのか、今一度よく考えてみても損はないだろう。
忘れないで欲しいのが、ゲームはシュミレーションであるという事だ。
何かを忘れるために行うのではない。
何かを起こすために、取り組むべき実験であるのだ。