セブンスマン
第9話:負けじ魂は生きている
 林を割って伸びる国道を、黒いハイヤーが静かに進んでいく。後部座席に座る壮年の男性は、車窓を流れる鮮やかな竹林をぼんやりと眺めていた。半分白髪の頭だが、身体つきはがっしりとして生気に満ちた佇まいだ。
「この辺りはいつ来ても景色が変わらんな。アサギとは大違いだよ」
 彼は隣に座る毛色の褪せた老ピクシーに皮肉っぽく呟いたつもりだったが、先に反応したのは運転手だ。
「田舎ですからねえ」
 ハイヤーの運転手はのんびりと答え、ピクシーもゆっくりと頷く。年老いたポケモンは一挙一動が遅れがちだ。それでも一キロ先で落ちた針の音を聞き分けられる聴覚は今も現役である。早速、何かに反応したピクシーが自分の車窓の先を凝視しながらガラス面をこんこんと叩いた。
「どうした。牧場はもう目と鼻の先だぞ」
 ピクシーのおやである男性が腰を浮かせる。それに合わせ、ハイヤーもハザードを出して路肩に停車した。
 ポケモンの視線の先にあるのは竹林の奥へと続く獣道で、薄暗い林の中に粗大ごみが散らばっているのが見える。
「あの辺は不法投棄が多くって。野良ポケモンの巣にもなってるから危ないですよ」
 運転手がそう説明している間に、客の男が後部座席のドアを開く。
「せがれが子供ン時に、あの辺で遊んでは傷を作って帰って来てたから知ってるよ」
 先にピクシーがハイヤーから飛び降りた。ポケモンは主の腕を引きながら、林の奥へと案内しようとする。すっかり動きも鈍っているはずなのに、この時ばかりはやけに切羽詰まった様子だった。

+++

 死んでなかった。
 半分になった視界に広がる病院の天井を眺めながら、ナギサは短く息を吐いた。野生のストライクに腕を斬られた時は死を覚悟したが、気を失っていたのはほんの三時間程度だったらしい。
「僕の父が会社へ来る途中で倒れているナギサさんを見つけて救急車を呼んだんだ」
 搬送に付き添ってくれた社長がベッドのそばで説明する。ストライクに切られた目の上と腕の傷は完治すれば残らない。業務上の事故だから治療費は全額会社負担、明日の朝には退院できるので、そこから二週間の療養をとってほしい――疲弊した社長の声が、左から右へ抜けていく。取引先との用事をキャンセルしてわざわざ駆けつけた彼はぐったりと青ざめており、整えた髪が散らかっている。
「すみません」
 ナギサはそちらに視線を向けながら、控えめに頭を下げた。
「大事にならなくて良かったよ。これからしばらく、ゆっくり休んでください」
 社長はこちらの顔色を窺うような、引きつり笑いを浮かべる。自分が辞めると言いださないか不安なのだろうか。あれほど仕事を辞めたかったはずなのに、今はその欲求が湧いてこなかった。胸の中に残るわだかまりがそれを食い止めている。
「ニビのご両親にも電話を入れたんだけど、緊急連絡先の番号は使われていないみたいで……記載ミス?」
 社長は困ったように首を傾げているが、入社時に緊急連絡先として書き入れた時から両親の携帯番号は繋がらないことは分かっていた。たとえ連絡が取れても、親は自分を心配しないだろう。大した傷でもないくせに、いちいち電話をよこすなと叱責されるかもしれない。
「すみません、後で確認しておきます」
 嘘をついて視線を逸らした。
 自分にはもうポケモンしかいないのだ。それなのに、自慢の手持ち達はモコを残して野生のストライクに全滅した。
 あの時、モコがいたら勝てた。セブンスマンがいれば守ってくれた。湧き上がる「たられば」が抑えきれない。これはポケモンリーグのように全てが終わる敗北ではない。
 私はまだ挑戦できる。
 目頭が熱を帯び、水色の天井がちかちかと瞬いていた。それを食い入るように見つめるナギサを不審に思ったミシマが声をかける。
「ナギサさん」
 ナギサはそちらに視線を動かす。
「ちゃんと休んでね?」
「はい」
 二度目の嘘に罪悪感はなかった。

 一日帰らなかった自宅アパートは空気がからりと澄んでいて、他人の家のようだった。玄関からベランダまでわずか十数歩の狭いワンルームは殺風景で、目につく家具といえばローテーブル、壁際にカラーボックスが二つ並んでいるだけ。安っぽい棚には過去に大会などで得たメダルや楯などが飾られている。隅に畳んだ布団が置かれ、テレビはない。
 キッチン脇の冷蔵庫が稼働する音と、アパート外の国道を行きかう車のエンジン音が部屋の中で混ざり合う。ナギサはテーブルの上にモンスターボールを並べると、布団を敷いて寝転がった。今日一日は安静にするようにと医者から念を押されていたが、身体は落ち着かずあちこちがむず痒い。
 いつもと同じように休日を過ごしていればいいだけなのに。
 布団に寝転がってテーブルの上のモンスターボールや、たまにスマートフォンをぼんやりと眺めているだけで時間は風のように過ぎ去っていく。夕方には何も得られなかった焦燥でスーパーへ行き、おかずを買って満足するのがいつもの流れだ。今日に限ってはそれが正解だと、医者のお墨付きを貰っているはずなのに何かがじわじわと肌を蝕む。
 ふと、テーブルに置いたモンスターボールからこちらを見下ろすモコと目が合った。相棒は何か言いたげだ。先回りして反省した。
「モコを置いていったのは失敗だった」
 やっぱりね、とモコは頷く。
 回復を終え、意識が戻った他のポケモン達がボール越しにモコを仰いだ。
「それとセブンスマンもね」
 そうだね、とまたモコが頷く。
 人の感情を読み取れるほど、ポケモンは利口な生き物だ。それを知っているはずなのに、ストライクに舐めてかかり、返り討ちにされてしまった。またも思い上がりからの失敗だ。カラーボックスの中でひしめく過去の栄光たちが、上りかけた太陽の光に照らされながらナギサを叱責する。この表彰に関わるどのバトルでもモコが要だったのに、それを忘れるなんて傲慢も甚だしい。
 一昨日までの自分ならこの光に耐えきれず目を覆い、耳を塞いで布団を被り、鬱屈した休みを消費して終わっていた。だが、ケイコと出会ってから負けを実感することが続いている。それまで些細なことを人と比べて生きてきた自分にとって、この連敗は耐え難い。自分はポケモンバトルに限らず、負けるのが大嫌いなのだ。それに折り合いを付けられるほど器用ではないから、ずっと目を背けて挑戦の機会を待っていた。
 ふいに輝く楯が虹彩を刺激し、病院の天井を見た時と同じ感覚が蘇る。
 この敗北はポケモンリーグとは違う。
 ストライクへの挑戦は一度きりで絶たれた訳ではない。あいつと自分が生きている限り、何度でも戦える。視界は半分見えないし、包帯が巻かれた右腕は動かないがポケモンに指示は出せる。声が届けばモコは戦える。
 トレーナーとしての人生は終わったが、ポケモンブリーダーの自分はまだ完全に敗北した訳ではない。あいつを倒し、捕獲して、完璧なセブンスマンに育て上げる――それでずっと得たかった、勝利を実感できる。
 ナギサをむずむずとくすぐっていた執念はやがて身体を激しく揺さぶり、膝を持ち上げさせた。テーブルに並べていたモンスターボールをトートバッグに戻し、処方された鎮痛剤を飲み込んでアパートを飛び出した。

 一日休んでから挑もうとは思わなかった。
 短絡的な行動は昔からだが、療養期間を守って再戦が長引くほど、敗北感に押しつぶされてしまうだろう。そうすればポケモンリーグへの再挑戦を躊躇ったように、自分は何もしなくなる。熱に煽られている間に、ストライクを捕獲しなければならない。
 ナギサはアパートの階段を駆け下りながら、モンスターボールを叩きつけるように放り投げた。現れたディーノが階段の下で背中を差し出している。左手をついてひらりと跨り、脇を蹴って駆け出した。
「行くよ」
 意識が勝負にのみ傾いているからか、負傷による目と腕の痛みは感じない。ナギサの痛ましい姿を見て時折こちらを振り返る通行人も景色に溶け込み、風と共に後ろへ流れていく。
 こんな心持ちになったのは、各地のポケモンジムに挑戦する時以来だ。リーグなら一度負ければ終わりだが、ジムは旅の期間内であれば何度も挑戦できる。あの時は一度負けたくらいで折れることはなく、通用できると思えばすぐにポケモンを鍛え直してジムの門を叩いていた。ようやく諦めたのはカントー最後のポケモンジムで九連敗した時だけ。黒星が二桁になるのが屈辱で、仕方なく身を引いた。その時、あのジムのリーダーは薄ら笑いを浮かべながら自分に尋ねた。
「明日もまた来るかい?」
 その余裕たっぷりの一言に、始めて彼らとの格差を実感した。
 息が詰まりそうになりながら、それでも何とか返事をする。
「鍛え直して、また来ます」
 まだ敗戦の弁をこぼすには早いと思ったし、素直に認めるのは虫唾が走る。するとジムリーダーは眉を開いてさらりと激励してくれた。
「待ってるよ」
 その笑顔が、それほど不快ではなかったことを思い出した。
「その執念が成功に結び付くといいね」
 リーダーはそう付け加え、ジムへ戻って行った。
 結局、そのジムへの再戦は叶わなかったが、今はあの頃と同じ熱が内側から湧いて肌をじんわりと湿らせる。会社、そしてあの竹林が近付くにつれ昨日の醜態が蘇る。失敗を繰り返さないためには強固な「盾」が必要だ。ナギサは身体を傾けながら、ディーノを会社へと続く脇道へ導いた。
 林道を抜け、視界が開ける。
 東西の放牧地にはセブンスマンが放され、社長やヤマベの姿はない。まだ昼前だから厩舎の掃除をしているのだろう。ナギサに気付いたふーすけが真っ先に柵へ駆け寄って吼えかかる。そちらを無視して、東の放牧地からきょとんとこちらを見つめるエアームドに手招きした。
「おいで」
 エアームドはがしゃりと音を立てて羽ばたいた。
 開け放した厩舎の出入り口から、社長のジュペッタが顔を出す。ジュペッタのヨギーは休んでいるはずのナギサを見て、目を丸くした。
「借りていくね」
 それだけ言って、ディーノを林道へ方向転換させる。社長に許可を得ている時間はない。これでまた怪我をしたら、今度は自分が治療費を負担すればいいのだ。林道へ身体を向ける際、ふーすけの鳴き声を聞いて西厩舎から出てきたヤマベと目が合った。彼はヨギーと同じ顔をしていたが、すぐに事情を飲み込んだのか、ナギサを送り出すように唇をきゅっと引き結んだ。
 ディーノが駆け出し、セブンブリッジの牧場が林の奥へと遠ざかっていく。国道へ合流し、行きかう車の間をすり抜けながら前を走った。ポケモンが車道を走るのは禁止されている区間だったので、車を横切るたびにクラクションを鳴らされたが、直後に鋼の翼が通り抜けていくとすぐに黙った。自動車の車体はどのはがねタイプよりも柔らかいから、強引に割り込んで自らスクラップになろうとする者はいない。
 流れの一番前に出てアスファルトを跳ねるように進んでいくと、視線の先にあの獣道への入り口が見えた。徐々に身体を傾けながら滑らかに左折し、竹林の中へ飛び込む。一瞬周りが暗くなった。後に続いていたエアームドがナギサの頭上を飛び越え、前に出たのだ。見通しの悪い場所ではセブンスマンは常に前を歩くよう躾けられている。竹の隙間から漏れる陽光が金属質の両翼に反射し、きらきらと眩しい。SPリーグの天井照明より暗く、再戦を誓ったポケモンジムのそれに近かった。
 もう一度挑戦できるんだ、とはっきり自覚した。
 身体を突き動かす熱がすっと下がって、獣道の先をはっきりと捉える。竹林がさざめく音や国道を走る車のエンジン音、落ち葉を踏みしめるディーノの足音が一斉に耳から離れていく。感覚は研ぎ澄まされ、この先に潜んでいるであろうストライクにのみ注がれる。
 その殺気じみた気配は分かりやすい。
 ポケモンとは愛らしくも恐ろしい生き物だ。人間を縄張り荒らしの外敵や、餌と見なせば途端に恐怖へと叩き落とす脅威になる。旅に出たばかりで相棒も心もとなく、右も左も分からない初心者トレーナーにはそこで終焉を悟るのだろう。その時、誰が彼らを守るのか?

 右側の竹林が風に逆らいながら小さく動いた。すかさずナギサは叫ぶ。
「てっぺき!」
 木々の隙間から巨大なカマキリポケモンが現れ、右腕の大太刀をナギサの頭上めがけて振り下ろす。エアームドが翼を畳み、鉄壁の盾となって彼らの間に割り込んだ。
 初心者を守るのはこの盾だ。
 ナギサはそれを噛み締めながらディーノと共に後ずさる。エアームドが敵の攻撃を強固な守りの態勢で持ちこたえると、膝がみしみしと軋む音がする。目の前の大きなストライクが、もう片方の腕を振り上げて追撃を仕掛けた。即座にエアームドは受け止めていた刃を払い、身体を翻しながら研ぎ澄ませた翼を振るう。火花が散って、勢いに押されたストライクが後退する。
 だが、カマキリは少しも躊躇することがない。竹の葉を舞い上がらせながら地面を踏みしめ、刃を返して再びエアームドへと飛びかかる。金属質の翼に鎌を振り下ろし、その勢いで鉄鎧の身体を踏み越えてナギサの頭上へ距離を詰めた。
 先に人を狙うつもりだ。
 昨日の襲撃から、トレーナーを先に仕留めれば勝負がつくことを覚えている。頭がいい。でも、同じむしポケモンなら間違いなくこちらが上だ――見せつけるようにボールを投げた。
「モコ、シザークロス!」
 そこから現れた相棒が、澄んだ羽音を響かせてストライクの懐へ潜り込み、空いたボディを一閃する。巨大ストライクは腹に十字の傷を抱えながら後方のゴミ溜めへと吹っ飛んだ。
 やはり、その技の威力はこちらが上だ。
 口元を緩ませるナギサの前にエアームドが滑り込む。隙を突かれて一瞬トレーナーを守り損ねたセブンスマンは、それをカバーしたボスポケモンに感謝するような鳴き声を上げた。それでもモコはポーカーフェイスを貫いたまま、この場に存在するポケモンの最上位を誇示するようにストライクを見下ろしている。
 それが気に入らないストライクがゴミ溜めから起き上った。双腕の鎌を構え、ストライクの身体が前に出る。一気に距離を詰めて右腕を振るい、モコの右手の針にかすり傷を負わせた。間髪入れずに左腕の刃を返し、また隙も与えず斬りつける。モコは咄嗟に防御の構えをとったが、威力が増した二太刀目による痛みが身体を震わせる。れんぞくぎりだ。早く指示を出さないと畳み掛けられる。ナギサは叫んだ。
「モコ、後ろへ逃げな! ミサイルばり!」
 モコがお尻から鋭い針を発射しながら、その反動でストライクから遠ざかる。それでもまだ敵の腕が届く距離だ。ストライクが羽根を一度上下する間にモコへ迫り、大きく鎌を振り上げる。先ほどより動作が大きい。ナギサは声を振り絞った。
「どくづき!」
 モコが攻撃を受け流しながらストライクの懐へ滑り込み、毒のしたたる槍で喉を突いた。脳天を引っ掻く絶叫が竹林に響き渡り、ストライクが激痛にのた打ち回る。滅茶苦茶に鎌を振り回し、若竹や粗大ごみを切り刻む姿にナギサは溜飲を下げたがこれでは接近が難しく、とどめが刺しづらい。
 ならば、と目の前にいるエアームドに視線を投げた。
「はがねの……」
 エアームドが両翼を広げ、地面を蹴った。
 ストライクは喉に張り付いていた毒を吐き捨て、同時に動く。長い残像を引きずりながらの接近――かげぶんしんだ。そうしてエアームドを翻弄しながら翼をかわし、素早く背後へ回り込んだ。
 ストライクの鋭い眼光がエアームドの後ろにいたナギサに向けられる。トレーナーを仕留め損ねて大怪我を負ったことへの悔恨が滲み出ていた。野生ながら、あちらも見上げた執念だ。もはや首でも落とさねば納得しないほど、相手は気が立っている。次にストライクが跳ねた瞬間、あの刃は自分の皮膚に届くだろう。
 
 だが、昨日のような恐怖はなかった。
 そこにいるだけで安心できる、盾の存在はこんなにも大きい。
 攻撃をかわされたエアームドが鋼の翼を大きく上下させ、突風を巻き起こしながら背後のストライクを上空へ吹き飛ばした。臨機応変に技を切り替え、危険なポケモンから警護者を離すために何度も訓練を重ねてきた成果だ。隙も与えなかったストライクが風船みたいに無抵抗になった瞬間に、額が熱くなる。そこへ槍を構えたモコが滑り込んだ。
「シザークロス!」
 上空から叩きつけるような一閃がストライクを再びごみ溜めに弾き飛ばす。落下の瞬間に瓦礫が波打ち、土ぼこりや落ち葉が雨のように降り注いだ。ナギサは空のボールを構えると、持っていたバッグをディーノに放り投げて地面を蹴る。
 まだ勝負はついていない。ストライクが弱っていない可能性もある。それでも逸る心は抑えきれない。あと少し。あと少しで、私の勝ち。
 ボールを振りかぶりながら、瓦礫に埋もれるように倒れたストライクへ駆け寄った。あとはごみを払い、ボールの中に取り込むだけ――手を伸ばした途端、ストライクが勢い良く体を起こし、瓦礫が弾けて左瞼を掠め、ガーゼが吹き飛んだ。忘れていた激痛に頭が引き裂かれそうになり、霞む視界の中でストライクがこちらに鎌を向ける。身体はぼろぼろで口からまだ毒が垂れているくせに、往生際が悪いやつ。ナギサは握りしめたボールでストライクの頬をぶん殴った。首筋に鎌が届く前に、ストライクが悲鳴を上げながらボールの中へ取り込まれる。
 これで私の勝ちだ。
「捕まえた!」
 それを証明するように高らかと叫びを上げた。
 駆け寄るモコやエアームドに見せようと振り返った刹那、掴んでいたボールががたがたと激しく揺れ動いた。開閉スイッチに搭載された捕獲完了のランプは不安定に点灯しており、ストライクが必死に抵抗していることを見せつける。 
「やるじゃん……」
 野生の闘争心に肌が震えた。だがこちらも今更退くわけがない。
 咄嗟にボールを押さえつけて逃亡を阻もうとしたが、利き手を負傷した今、握力の弱い左手だけでそれを試みるのは困難だった。ボールはすぐにナギサの掌から離れ、高くバウンドして蓋が開く。
 ナギサの頭上に、再び大きなストライクが現れた。
 見慣れた脅威に恐れはない。そこへモコが飛びかかり、両腕の針を振るいながらダブルニードルでストライクを引き離す。ナギサは地面に落下し、遠くへ転がろうとする空のモンスターボールに飛びついた。負傷した利き腕の指先を無理やり動かし、土や落ち葉ごと掴み取りながら、身体を捻ってストライクへと振り返る。
 相手はふらつきながらもモコに対抗しようと鎌を持ち上げていた。
 今度こそ、捕獲してやる。
 右腕の感覚がないから肩を回し、強引に腕を振りかぶってボールを投げた。身体の右半分にひびが入るような激痛が指先に届く前にボールが離れ、山なりに弧を描きながらすっぽ抜ける。それを見たモコが瀕死のストライクに体当たりし、強引にボールの落下点へ突き飛ばした。ふらふらのボールでも、弱ったポケモンはその力には抗えない。ストライクはもう一度ボールに引きずり込まれ、今度は暴れることなくその中に収まった。
 捕獲成功のランプが点灯すると同時に、ナギサはボールに向かって飛び付いた。

+++

 ウインディに跨る背中を見送って三十分が過ぎた。
 三十分程度なら、セブンブリッジの敷地内に何も変化は起こらない。ミシマはまだ東厩舎の掃除をしているし、放牧されたセブンスマン達は思い思いにゆったりと過ごしている。放牧地西側の柵にもたれ掛って腕時計を眺めていたヤマベは顔を上げると、反対側の柵に腰を下ろしていたジュペッタのヨギーに声をかけた。
「そろそろ社長に話してあいつを迎えに行くか」
 それを待っていたヨギーがすっと立ち上がる。
 三十分だけチャンスをやろう、とヤマベから釘を刺されていたのだが、心配性の主を思えば一分長引かせるのも苦痛なくらいだ。ヨギーは柵から離れ、デッキブラシを擦る音が響く東厩舎の出入り口へ顔を向ける。
「おっ」
 背中越しにヤマベが吃驚の声を上げ、ふーすけが門戸に向かって威嚇する。それに反応して振り向いたヨギーはそこにいる来訪者の姿を見て目を見張った。
 ウインディに跨っているのは確かに三十分前にエアームドを連れて出て行ったナギサだったが、随分と風貌が異なっていた。衣服は落ち葉と土にまみれ、ガーゼの取れた左目は青紫に腫れ上がっており、包帯が巻かれた右腕には血が滲んでいる。そんな痛々しい姿に、よくぞふーすけは吼え続けていられると感心する。彼女の内面から滲み出る殺気じみた何かがそうさせるのだろうか。
 ナギサは満身創痍ながら、少しも痛がる様子を見せずにヤマベの前にモンスターボールを突きだした。
「ヤマベさん、こいつの進化を手伝ってください」
 指先からしたたる血でボールが濡れてもナギサは平気なまま、ヤマベをじっと睨み据えたままだ。
「おう。やっとくから、中で手当てしてもらえ」
 ナギサは軽く会釈して、ディーノを事務所へと向けさせる。自分が無傷であるかのような仕草だったので、ヤマベは呆れたように付け加えた。
「てめえの治療の方だよ。調教は再来週からだ」
「分かりました」
 ナギサは舌打ちしながらディーノを下り、渋々事務所へ入っていく。すぐにサチエの悲鳴が響いた。
「いい顔してんのに、相変わらず可愛げがねえなあ」
 ヤマベはヨギーに苦笑しながら受け取ったボールを見た。血と土で汚れているケースの中に、立派なストライクが横たわっている。


鈴志木 ( 2016/10/14(金) 17:56 )