第8話:盾無き場合
朝起きたら、気分が一新していた。
この青空に似た晴れやかな心持ち。チャンピオンの夢も吹っ切れ、ブリーダーとしての再出発にはぴったりだ。今日から仕事を真面目に頑張ろう。
そう言い聞かせても未練の枷は外れない。自転車をこぎながら町を離れ、林道の傾斜に差し掛かると徐々にペダルが重くなる。仕事に向かう自分を引き留めているみたいだ。
このまま会社に背を向けて旅に出ちゃえばいいんじゃない?
そんな衝動に度々駆られる。成功する確信はないが、ブリーダーとしてそこそこやれているのだから今度こそチャンピオンになれるかもしれないと、ぼんやり信じ込んでいたのは昨日の朝までだ。
目標に向かってしっかりと準備を重ねるケイコちゃんと出会い、甘い夢は綿あめのように萎んで消えた。彼女に倣って人脈を築き、後ろ盾を作ってリーグに挑めば夢は現実になるかもしれないが、あんな風に振舞える自信はない。たった一度の食事だけで、実力の差を思い知らされたのだ。逃げ場はなくなり、自分には仕事しか残っていない。
厳しいヤマベと小うるさいサチエはさておき、そこそこの給料で残業はなく、理解がある社長。ブラック企業がはびこる世の中において、自分の職場は恵まれている。
水商売をしてまでたった一つの王座を狙うより、ブリーダー業に励んだ方が将来性はある。自分は未来のチャンピオンを支える脇役として、セブンスマンを育成しリーグを盛り立てていけばいいじゃないか。夢は終わってしまったけど、リーグには関係している。それでいいじゃないか。誰もが皆、そうやって折り合いを付けながら大人になっていくんだ。
「そんなの無理だよ」
すぐに割り切れず、否定が口を突く。
簡単に諦められる夢ではなかったはずなのに、自らの見通しの甘さに苛立ちを覚えた。
早朝の事務所のベランダにフワンテはいなかった。
社長はもう出てしまったらしい。かわりに自分を出迎えたのは、自席でスポーツ新聞を読むヤマベと久しぶりに見たあの爽やかな青年だ。
「ナギサさん、おはようございます! ご無沙汰ですね」
サチエの席にいたトマルが腰を浮かせてこちらに微笑む。
もう教えることもないはずなのに、早朝から何だろう。ナギサは小さな声で挨拶を返しながら、出入り口の脇に置かれたタイムカードを打刻した。レコーダーがカードを吐き出した直後に、ヤマベの視線が新聞からこちらへ移る。
「おう、朝の掃除が終わったら捕獲に行って来い。これから忙しくなるってのに、ウチはポケモンが足りてねえぞ」
セブンスマンの需要が増えるのは年度初めの四月だが、その時期はとうに過ぎている。理由が分からず顔をしかめるナギサに、ヤマベは呆れながら付け加えた。
「朝のニュース観てねえのか? チャンピオンが交代したんだよ」
すっと息が止まる。
真っ先に浮かんだのはケイコの顔だった。まだリーグには挑戦していないと言っていたが、ああいう女の子が嘘を吐くのは当たり前。あの余裕は王座を確かなものにしたからだったのか。ナギサの声が震える。
「まさか、名前は……」
「チェン。若いし、なかなか男前だよな」
ヤマベは読んでいたスポーツ紙を畳んで、「王座交代」の見出しが躍る一面をこちらに突き出した。ナギサもくぐったリーグの正門前で、記者に囲まれた若い男がメガニウムと並んで頬を綻ばせている写真に目を見張る。
昨日の今日で、ケイコちゃんがチャンピオンになれるはずがないし、嘘もついていない。どこか安堵する一方で困惑もあった。
「チェン? どこの国の人……」
「中国の方です。真面目で親しみやすい人ですよ!」
トマルが嬉しそうに口を挟んだ。
「修行留学に来られてそのまま殿堂入りした天才肌です。あちらはトレーナーの誘拐が多いから警護ポケモン制度を導入している地域もあって、チェンさんはそこのご出身なんですよ」
警護ポケモンは海外で誘拐対策として始まった制度だから、あの国でも採用される理由は分かる。しかしこの地方に比べると、あまりスムーズに運用できていないようだ。その理由を知るヤマベが苦笑する。
「ポケモンの盗難がこっちより遥かに多いとは聞くけどなあ」
「らしいですね。うちの盗難件数の低さに驚いていましたよ。そのノウハウを母国にも活かしたいと意気込んでます。僕はそのお手伝いを担当することになったので、早速その辺りのお話を伺おうと……」
ヤマベはメモを構えるトマルをさらりとかわす。
「そういうのはうちの社長に聞いてくれよ。おれは担当外」
振られたトマルはこちらにも視線を向けたが、ブリーダーは盗られにくいポケモンを育成することしかできず、それ以外の法的な対応は社長任せだ。その取り決めを同業とするためか、今日も朝から出てしまっている。会話から外れて厩舎へ向かおうとすると、ふいにヤマベが口を開いた。
「それにしても、外国人のチャンピオンなんてよく許したもんだ。内心、この田舎の連中はいい顔してないだろうなあ」
ヤマベは嫌悪しているが、ナギサも同じことを考えていた。このリーグは外国人に王座を明け渡すほどレベルが低いんだな、と内心軽蔑している。
この指摘に、トマルはしょんぼりと眉を下げた。
「実はそうなんですよ。外様どころか外国人に王座を譲り渡すSPリーグは角界になりたいのか、スポンサーを降りるって言いだした企業も少なくなくて……その上、チェンさんは草タイプをメインに扱う人だから、同じ草使いの四天王のヤエガシさんなんて口も利かないらしいですよ。新チャンピオン誕生から一日目にして、既にリーグはギスギスしてます」
あの中年太りの四天王は見た目通りのクズ野郎なんだな。ナギサは横柄だったヤエガシの容貌を思い出す。ねっちょりとして汗臭く、清潔感がなかった。四天王でなければ誰も近寄らないだろう。
「僕にはよく分からないんですよねえ。この地方でバッジを集め、ポケモンバトルが一番強いと認められたトレーナーならば誰だってチャンピオンになれるはずなのに……どうして外国人では不満なのでしょう。チェンさんは僕らみたいな下っ端リーグスタッフにも親切で、人柄を知ったら応援したくなるような方なのになあ」
そんなものはペイトレーナーの仕組みが存在する時点で建前に決まっている。キャバクラ嬢や中国人が狙えるリーグなんて質の低下にもほどがあり、保守的な人間ほど応援したくはないだろう。自分も軽蔑する。王座に届かなかったから余計にだ。
チェンのチャンピオン就任により、「あいつが居座れるレベルなら」とリーグを目指すトレーナーは増えるだろう。それに伴ってセブンスマンの需要は高まる。ナギサはヤマベの意図を理解した。
「おれがリーダーやってたアサギシティは大きな港町だったから、割と何でも受け入れていたんだがなあ。クチバも外国人をジムリーダーに据えるくらい懐が広い。だが、こっちじゃ厳しいよな」
いちいち過去の栄光を持ち出して、やはりヤマベは僻みっぽい男だ。
「ですかねえ。支援するアマトレーナーを何とかリーグに上げようと躍起になるスポンサーもいるくらいです。残念だなあ……」
首を傾げるトマルも、いい年なのに優等生っぽくて癇に障る。
二人とも、呆れるだけで何もしないのだ。
自分もそう。程度の低い人間にも狙える王座争いからあぶれ、指を咥えて空を仰いでいるだけ。また苛立ちが込み上げてくる。どうしてこれ程レベルの低いリーグで負けたんだ。どうしてこんなリーグに挑戦する初心者のためにポケモンを育てなければならないんだ。
それなら地元に戻って、セキエイリーグ関連の仕事に就いた方がよほどまし。これ以上、質の悪いプロの誕生を見続けるくらいなら、更なるエリートのいる地へ引っ越そう。
唇を噛み締めながら立っていたナギサに、ヤマベが乱暴に告げる。
「そんな訳だから、もっとポケモンを捕まえてこい」
この横柄な一言で、何とか繋いでいた糸がぷつんと切れた。
「探してますよ」
強い口調ではっきりと言った。
世話話に緩んでいた朝の事務所がぴりっと張り詰める。ナギサは熱に煽られるまま、二の句をぶつけた。
「タイプの縛りがなければわざわざ山奥に入っていく必要もないんですけどね」
顔を引きつらせながら、精一杯の皮肉を吐いた。だがヤマベには少しも通用しない。彼は前かがみに座ったまま、眉を少しだけ動かした。
「ノーマルを捕まえたきゃそうすればいい」
ナギサは耳を疑った。
「この際だから言うが、お前ら、おれに気を遣いすぎなんだよ。ヤシキさんの入れ知恵だな?」
ヤシキはミシマの父親で、この会社の会長である。アサギシティで貿易会社を営んでいるため、ナギサも滅多に顔を合わせることはないから人と成りなど分からない。
ただ、「ノーマルタイプはヤマベの担当」という不文律は本人の口から語られたことがないのも事実である。入社時から何となく、そういう空気が存在していただけ。しかし、この期に及んでなかったことにするなんて卑怯だ。
今更、ノーマルタイプなんて育てられない。
それを言えば負けなのに、余裕がない頭は声を先に動かした。
「今更なんですけど」
文句だけ言いたい馬鹿の見本みたいな返事だ。
ナギサはそれを「失投」だと思い込んでいた。悪いのは全てヤマベ。言い直す前に、相手は芯で打ち返した。
「それでお前のやる気が出るんなら、いくらでも育てろ。ふて腐れた顔で仕事されるとこっちも気分が悪い。プリウスを育てていた頃のような熱意がなけきゃ辞めちまえ」
面と向かって、辞めろと言われたのはこれが初めてだ。
辞めてやるよ、こんな仕事。
そう言い返せないまま東厩舎の作業に入った。トマルが適当なフォローをしてくれた気もするけど聞こえない。マスクを付けて、獣たちの体臭でむせかえる舎内を見渡す。手前の馬房に入っていたエアームドやガマゲロゲ、ドラピオンらがこちらに首を伸ばした。
その場にモコを繰り出して、各部屋の出入り口である馬栓棒を上げていく。ポケモン達はモコに委縮しつつ、ぞろぞろと放牧地へ流れていった。最後に厩舎を出るのは下っ端のエアームドだ。捕獲したばかりの時は甘ったれていた鎧鳥の横顔は、半月の訓練を経てすっかり逞しくなった。
必殺技の「はがねのつばさ」を様々な状況下で繰り返した結果、安定性は向上し翼は研ぎ磨かれた。来月にはリーグに出せる。
何度も辞めたいと思った仕事だが、育成に手を抜いたことはない。ノーマルタイプだってヤマベ以上に育てられる。さっきはそれを言いたかったのだ。ナギサは壁に立てかけていたデッキブラシを握りしめる。
「ノーマルを育て上げたら、私はここを出ていくから」
厩舎の床に水を撒き、洗剤をかけて乱暴に擦り始める。
苛立ちを掃除にぶつけると汚れはみるみる取れていくが、失言は会社の関係性に染み付いたままだ。あんなに辞めたいと思っていたのに、他人からそれを言われるとすんなりと受け入れられない。だったら求められた結果を出して、評価を塗り替えるしかない。
狙うべきノーマルポケモンはすぐに思いついた。ザングース以外には考えられない。
そうすればふーすけを持て余すヤマベの鼻を折ることが出来る。ふーすけはいつまで経ってもリーグに出されることがなく、今も西厩舎のボスとして居座り、セブンブリッジへの来客を脅かし続けている。
一時間で清掃を終え、餌を補充して外へ出る。
セブンスマンを監視していたモコが気付いてこちらに飛んできた。
「捕獲に行って来るから、ポケモンの世話をよろしく」
モコは頷いていたが、捕獲に同行できないことを不思議に思っているようだった。モコに任せておかなければ、東厩舎の監視はヤマベの役割になってしまう。今はあの男にそれを頼める心持ちではない。分かって、と願いながら柵に跨り、反対側にディーノを繰り出す。
すると、それに気付いた西厩舎のふーすけがいち早くこちらに駆けて吼えかかる。
「いちいちうるさいんだよ、馬鹿ネコイタチ」
ふーすけはセブンスマンなので、この程度の暴言には怯むことがない。ぐるぐると喉を鳴らし、柵の向こう側からディーノを睨みつける。その様子を西厩舎で作業をしていたヤマベが見つけ、声をかけた。
「スピアー置いてどこ行くんだ」
「捕獲です」
「厩舎の面倒なら見てやるのに」
「結構です」
短く返事をして門戸へ向かう。
「威勢がいいのを捕まえてこいよ」
調子のいい激励が背中に届く。鬱陶しい、と小声で反発した。
ザングースの生息地はここからディーノの足で十分足らず、リーグ所在地の市へと続く国道沿いの竹林である。エアームドのいる峠には片道一時間もかけて移動していたのに、ノーマルタイプならこんなに近い。それを考えるだけで捕獲への執念が増した。
怒りに突き動かされているとはいえ、これほど仕事に意欲的になっているのは久しぶりだ。いつもは最初からターゲットが定まらない捕獲業務だが、今回はザングースという明確な目的があるので、いつになく気持ちを逸らせるのかもしれない。
「絶対に捕まえてやる」
火照る肌を撫でる風が心地良い。
あっという間に目的の場所に到着し、ディーノから降りて竹林の獣道へと踏み入った。落ち葉を踏みしめながら数十メートル進むと、比較的開けた林の中に不法投棄の粗大ごみが散らばっている。古びたソファや小型の洗濯機、ナギサが子供の頃に流行ったアニメキャラクターの絵がついた三輪車など。
ニビシティに住んでいた頃はこういう場所に秘密基地を作って、近所の子供達と遊んでいたことがある。そこにレジャーシートやお菓子を持ちこんで一日離れると、野生のポケモンに乗っ取られているのが常だった。今思うと、基地を乗っ取ろうとしたのは自分たちの方だったのだろう。
彼らは全体的に縄張り意識が強い。そして、この場所も。
後ろを歩くディーノが何かに反応する。
「ここかな」
ナギサは粗大ごみによって築かれたポケモンの根城を見渡した。
木々のさざめきばかりが響くその場所は、野生のポケモンがつい先ほどまで居た気配を残している。蓋が外れた洗濯機の表面に残る爪痕、毛まみれのソファ、食べかけのきのみ、乾いていない糞。ここがザングースの巣だと分かる。
ディーノの臭いを察して、林の奥へ引っ込んだのだろうか。臆病者なら捕獲する価値はない。
ナギサは足元に落ちていた太い木の棒を拾って、また周囲を見る。ポケモンが出てくる様子はない。来た道の方から国道を走る車の音がかすかに聞こえてきた。
「これで出てこないなら、別の場所を探そう」
ナギサは木の棒で洗濯機を叩き、ひっかき傷だらけの三輪車を蹴り倒す。
縄張りを荒らしてポケモンをおびき出すのはセブンスマンブリーダーの基本だ。悪意はないが、それで性格の荒っぽさを判断するので思い切り引っ掻き回す。今日はナギサの気が立っていることもあり、殊更力を入れて巣を破壊した。傍から見ればただの乱暴者だろう。
だが、ソファを蹴り倒してもザングースは現れない。
そもそも野生ポケモンの気配が戻ってこなかった。ディーノと一緒にこれだけ騒げば様子を見に来る種がいてもおかしくはないのに、何か奇妙だ。
ナギサは野生のポケモンが去った別の理由を考えた。
「私の他に、外敵が?」
穏やかな竹林が揺れる。
ふいにナギサは洗濯機の裏に回り込む。平らな金属面はざっくりと斬られ、洗濯槽がむき出しになっていた。刀傷のような切断面は、ザングースの鉤爪ではない。これは他のポケモン。
その時、ディーノが鳴いた。
生温い風に痺れるような不穏な気配が混じる。ディーノが鼻先を向けた林の奥に、鎌の両手を携えたポケモンが立っていた。
「ストライク」
それも並みのストライクより一回り以上大きい。二メートルはあるだろう。
ポケモンは鋭い目つきでこちらを睨みつける。鎧武者が仁王立ちしているような風格を見て、背筋に心地良い電撃が走った。ザングースが巣から逃げ出した原因はきっとこいつだ。
「強そうじゃない」
ザングースを捕獲するのは保留にしておこう。
この巨大なカマキリを逃がすには惜しい。ナギサはディーノに視線をやりながら空のボールを構えた。
ほのおのキバで致命傷を与え、倒れたところを捕獲しよう。相性はこちらが圧倒的に有利。そんな傲慢が隙を作る。
「ディーノ、ほのおの……」
ディーノの喉が鳴る前にストライクが地面を蹴った。
枯れた笹の葉を撒き散らし、緑の鎧武者が飛びかかる。瞬きする間に洗濯機を一刀両断、そしてディーノの頬を切り裂いた。モコも得意とする辻斬りだが、それよりずっと速く威力もある。負傷して怯むディーノに、ストライクは刃を返して追撃を仕掛けようとする。ナギサはがむしゃらに叫んだ。
「かえんほうしゃ!」
ディーノがストライクめがけて炎を放つ。
ところがそれは残像で、宙へ火柱が上がるのみに終わった。ターゲットはかげぶんしんで攻撃を回避し、ディーノの背後へ回り込む。ストライクの速さはニンジャに形容されることがあるが、まさにそれだ。大袈裟に立ち回るアクション映画のニンジャを思わせる動きで身体を捻りながら宙返りし、ディーノの尾を削ぎ落とした。幸い肉までは達しておらず、体毛が飛散して落ち葉に混ざる。
ディーノは苦しげに呻きながらも、身を翻してストライクに体当たりする。それに受け身を取りながら、カマキリが両腕を振り上げた。
「ディーノ、かえんぐるま!」
その合図でディーノの身体が発火し、伝説ポケモンが炎を纏う。攻撃は最大の防御だ。これでストライクの腕を焼き、捨て身の突進を仕掛ければ状況は好転する――ナギサは公式戦で通用した経験を活かそうとしたが、野生のポケモンはそれをも突破しようと試みる。両腕が焦げ付くのも構わず炎を押し切り、辻斬りらしき技を仕掛けてディーノを薙ぎ払った。
力押しに負けたディーノが宙を舞い、落ち葉の上に倒れ込む。恐怖と興奮がナギサに這い寄り、身体を震わせる。
このストライク、かなりの強さだ。
そしてディーノの炎にも臆さず、正面切って戦う勇ましさ。両腕を焦がしても苦渋ひとつ顔に出さない。
「こいつ、セブンスマンにぴったりだ」
相棒のモコはいないしナンバーツーのディーノがやられたのは痛手だが、劣勢になった気はしなかった。自分はSPリーグの四天王二人目まで突破した、セブンスマンブリーダーなのだ。そこらの野生ポケモンに敵わぬはずがない。
「頼んだよ。ジェット、イオス!」
ディーノを戻し、入れ替わるようにドリュウズのジェットとエーフィのイオスを繰り出した。近場での短時間の捕獲を想定していたから、残りの手持ちは彼らだけ。でも、これで十分だ。自分のポケモンは強いから、二匹がかりで倒すことが出来る。
「イオス、リフレクター!」
エーフィのイオスがナギサの前に出てバリアを張り、後衛にいたドリュウズのジェットが地面に潜る。挟み撃ちにして弱ったところを捕獲する、とても簡単なことだ。ストライクは目の前のエーフィだけを狙い、リフレクター越しに一閃した。ディーノを戦闘不能に追いやったその鎌も、盾越しならダメージが軽減される。イオスは攻撃を軽く流しながら敵の注意を引きつけ、その背後から地中にいたジェットが姿を現した。
そちらを向こうとするストライクに、ジェットはドリル状の爪を振り上げる。ナギサはイオスにアシストを命じた。
「ジェットを“てだすけ”だよ」
舞い上がる落ち葉をくぐってイオスがエールの念を放ち、ジェットのドリルが鈍色に輝いた。
勝利の手ごたえを感じたナギサの胸が高鳴る。ジェットに殴り倒され、土を味わえ――二体のポケモンが互いの刃を振り上げた。火花が弾け、落ち葉を撒き散らしながらジェットが軽々と弾き飛ばされる。
「そんな」
技の威力を高めたはずなのに、あっさりと蹴散らされるなんて。予想外の展開に血の気が引いた。この寒さを味わったのは、ヤエガシに敗れた時以来だ。敗北が忍び寄ると冷静が保てなくなる。
「イオス」
指示を出す前にストライクが身体を翻し、鎌を交差させながらイオスを斬った。効果は抜群、愛くるしいエーフィは土と血にまみれて粗大ゴミの中へ転がっていく。相棒のモコが最も得意とする技、シザークロスだ。野生ながら技はそれなりに鍛えられているが、モコよりも勝っているとは思わない。
忘れない技を習得するために何百回と訓練を重ねるセブンスマンの手合わせをしてきたモコの技の精度には自信があった。モコならこのストライクと互角に渡り合える、と確信できる一方でそれ以外の手持ちの見立ての甘さを思い知る。彼らもセブンスマンの耐久テストに参加しているが、その頻度はモコよりずっと少なかった。モコを東厩舎のボスにする必要があったので、意図的に起用していなかったのだ。トレーナーを引退してからバトルが減って、四天王を二人突破した頃より腕は落ちている。
そんなことは少しチェックすれば分かるはずなのに、過去の栄光に焚きつけられて忘れていた。もう手持ちポケモンはいない。焼け焦げた両腕の先に血痕が付着した鎌を携えたストライクが静かにこちらを向く。手持ちという盾無き今、巨大なカマキリは殺人鬼か凶暴なモンスターにしか見えなくなった。
ポケモンって、こんなに恐ろしい存在なんだ。
ナギサの背筋が震え上がり、足が竦んで動かない。
「来るな!」
叫びながら、先ほど使った木の棒を拾い上げる。
テールナーが使えばそれも十分な武器になるが、自分には振り回すことしか出来なかった。その姿はストライクにとって尚も縄張りを荒す、たちの悪い侵入者にしか見えないだろう。
ポケモンが唸りながら地面を蹴った。
喚きながら振り被った木の棒が握りの上から切断され、切っ先が左瞼を裂く。視界が半分見えなくなった。その闇の向こうから、ストライクが鎌を振り下ろす。右腕をざっくりと切り裂かれ、激痛が走って目の前が大きく揺れた。ナギサはそのまま背中から倒れ、くるくると回っていた景色が竹林の木漏れ日ばかりになった。
竹の葉を透かした空は鮮やかなエメラルドグリーン色で、片方しか見えない目を刺激する。ちかちかと弾ける光の粒の中に、ストライクの頭が滲んでいた。まだ何とか生きているが、いよいよ命も危ないだろう。
意地を張らずヤマベに東厩舎の世話を頼んでいればこんな目には遭わなかった。そうすればモコで対抗することができた。自分にはポケモンしか取り柄がないのに、相棒と離れたまま死ぬのは屈辱だ。モコがいれば勝てたかもしれないし、あるいは自分が育てた盾であるセブンスマンがいれば助かったかもしれない。後悔がぐるぐると渦巻いて、意識と共に消えていく。